7 婚姻前夜
その晩は、宿泊予定の貴族家で相応のもてなしを受ける事になった。
家人総出で出迎えられ、広々としたエントランスホールで当主夫妻やその親族らと挨拶を交わしたが、慣れぬ馬車旅で疲弊しているリリアセレナの負担を考え、晩餐の席はもうけられなかった。
護衛として花嫁行列に従っていた三大騎士団の騎士達には酒や料理が振舞われ、そちらは随分と賑やかしい。
華やいだ喧騒を他所に、リリアセレナは一人静かに夕食を終え、早々に湯あみも済ませて床に就いた。
翌日には当主夫妻らの見送りを受けて出立し、再び馬車で移動した。
二日目からは曇天で、さほど暑さが厳しくなかった事が唯一の救いと言えるかもしれない。
窓の外の景色を楽しむような余裕はなかった。
食事と休憩以外はずっと馬車で揺られる毎日で、皇都から離れるに従って道も悪くなった。
でこぼことした地面の振動が座席から伝わってきて、お尻が痛い。時々もぞもぞと座り直して、痛みをやり過ごす事になった。
ジェインとはぽつぽつと話しはしたが、余り会話は弾まなかった。一日目に窘められた事で、何を話していいかわからなくなってしまったというのもある。
狭い馬車の中で二人は気まずく黙り込み、ようやく国境に着いた時はほっとした。
アンシェーゼの騎士団が国境を超える訳には行かないため、騎士団はここで引き返し、ジェインや他の使用人らともこれでお別れとなる。
結婚契約書に署名し、そのまま国境を超えた。
皇女との別れを惜しむ者などいないし、呆気ないものだった。
こんなに簡単に母国と縁が切れるのだと、リリアセレナはむしろその事に感心した。
国境を越えた晩は教会に宿泊した。
アンシェーゼでは貴族の家を渡り歩いたが、こちらでは教会を旅舎とするようだ。
物語の中では旅人が宿屋に泊るという場面が良く描かれていたため、どうして宿屋に泊まらないのかとリリアセレナは不思議に思ったが、名の知れた高級宿であればともかく、そこらにある宿屋では安全や衛生が十分に担保されないらしい。
教会に寄進をして泊めてもらうのが最も堅実なやり方だと説明を受けた。
そうして初めて教会に宿を借りる事となったリリアセレナだが、カナ神を祀るセクルト連邦では、朝の祈りというものがある事にまず驚いた。
朝起きて身支度を整え、すぐに通されたのが教会の聖堂だ。
こちらで祈りを捧げた後、改めて朝餐の席に案内されるようになる。
国境を越えて三日目の昼過ぎに、リリアセレナはようやく公都の迎賓施設に到着した。
旅の疲れは極限まで達していて、午餐を終えると後はずっとうとうとと微睡んで時間を過ごした。
用意された晩餐もほとんど喉を通らず、早々に湯あみをお願いして寝所に案内してもらった。
寝台に横になったらすぐにでも眠りに落ちるだろうと思っていたが、生憎そうではなかった。
何故か目が冴えていて、眠りは一向にリリアセレナを訪れない。
日付が変わる頃になって、リリアセレナはようやく自分が緊張しているのだと気が付いた。
明日は身支度を整えた後、少し早めの午餐を取り、そのままアンテルノ家に向かうと聞いている。
結婚相手となるユリフォス様、そして義父母となるアンテルノ卿夫妻は一体どのような方なのだろうか。
リリアセレナはこれまで、結婚相手について余り思いを巡らせた事はなかった。
離宮にいた時はひたすら母の暴力や暴言に怯えていたし、旅の最中は早く馬車旅が終わる事ばかりを考えていたからだ。
アンテルノ家について、リリアセレナはほとんど情報を持っていない。
旧大公家の流れを引く由緒正しい貴族家で、当主であるアンテルノ卿はロベルトといい、妻のヴィヴィア夫人とは従兄妹の関係になると聞いていた。
ご夫妻には三人子どもがいたが、長男はすでに家を出ていて、次男のユリフォスが継嗣に指名されている。
リリアセレナはそのユリフォスに嫁ぐために、ここマティスにやってきた。
長男も次男も嫡出ではなく、本来ならヴィヴィア夫人が生んだエリーゼという長女が家を継ぐ予定であったが、二年前に病没しており、この方の話は絶対にご夫妻にしてはいけないと伝えられていた。
ユリフォスの経歴は、七つのリリアセレナから見てもやや不自然なところがあった。
普通は騎士の叙勲を受けた後に華やかなお祝いをしてもらうものだが、ちょうど妹君の死去と時期が重なったため、お披露目もないまま騎士団に入隊している。
しかもこの時ユリフォスが選んだのは、大公殿下直属の近衛ではなく、辺境のクアトルノ騎士団だ。
クアトルノは公都からは遠く離れていて、この地の騎士団に所属していたユリフォスは、貴族としての社交が全くできなかったのではないだろうか。
お披露目がなされたのは、ユリフォスが騎士の叙任を受けた翌年の十二月だ。
主だった公国内の貴族を集めて華やかな夜会が催され、翌一月の下旬にはアンシェーゼの第二皇女、つまり自分との婚姻が内々でほぼ整っていた。
それと時期を同じくして、ユリフォスはクアトルノ騎士団を退団した。
その後アンテルノ家の嫡男として披露され、四月にはガランティア国の王立修学院の数学部に入学した。
この修学院は大陸屈指の学び舎で、旧家の継嗣となったユリフォスが進学を希望しても別段不思議はなかったが、それはリリアセレナとの婚姻話が浮上していなければの話である。
修学院は四年制である上、夫となるユリフォスは更に、農学部への学内留学を希望していた。
つまりリリアセレナは嫁いだ早々、別居生活を強いられる上、最低六年間は顔を見る事もなく過ごすようになる予定なのだ。
その話を初めて聞かされた時、リリアセレナは驚きや失望を通り越して思わず笑ってしまった。
夫となるユリフォスという人は、妻に対してそれだけ関心がないという事なのだろう。
「夫がいない中での婚家での生活ってどんな風になるのかしら」
薄暗い天井を眺めながら、リリアセレナはぽつんと小さく呟く。
婚家となるアンテルノ家の親族関係はとても華やかなものだった。
ユリフォスの父方の伯母二人はそれぞれ別の旧家に嫁いでいて、叔父が婿養子に入ったシオン家と、ヴィヴィア夫人の生家のセルダント家は、公国で相応の歴史を誇る家柄だ。
血筋を重んじ、格式と伝統を守る事を第一義とする旧家が、継嗣の妻として何故リリアセレナを選んだのだろうか。
リリアセレナには、半分平民の血が流れている。ヴェルモ卿が当てこすっていたように、庶子のユリフォスには庶出の皇女がお似合いだという理由でリリアセレナが選ばれたのなら、結婚生活は針の筵になるだろう。
そもそも十九歳のユリフォスに対し、妻である自分はたった七つなのだ。
誰がどう見ても歪な婚姻だった。
『いい気にならない事ね』
不意に、母の声が脳裏に蘇る。
『お前みたいな子どもが向こうで愛される訳がない。お前は醜い出来損ないよ』
「わかってる……」とリリアセレナは薄闇の中で呟いた。
「愛される事なんて望んでない。
わたくしの夫となる人はわたくしに興味がないし、正しい血筋を持つ旧家の人達がわたくしを受け入れてくれる筈がない」
それでもこの婚姻は決定事項だから、リリアセレナは言われるままに嫁ぐしかない。
アンテルノ家の人達の不興を買わないように気をつけようとリリアセレナは思った。
リリアセレナは役立たずだけれども、アンシェーゼ皇家の血は引いている。
生かしておく事にきっと意味はある筈だ。




