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6 出立


 離宮を発ったのは、婚姻話が浮上して僅か半年後の事だった。


 いよいよ離宮を発つその日、空は青く澄み渡り、浩々たる天に刷毛で一撫でしたような白い雲が広がっていた。


 木々を照らす陽光は日一日と力強さを増しており、それに比例するように石畳に落ちる影も深く濃い。

 汗ばむような陽気は夏がすぐそばまで近づいている事をリリアセレナに告げていて、こんな日は特に、柔らかく枝葉を揺らす風が恋しくなった。

 そう言えば六月は別名、風待ち月と言うのだと、家庭教師から教わった事を思い出した。


 馬車に乗り込むために離宮の玄関を出たリリアセレナは、眩い陽射しに思わず目を細める。


 今日を限りに、自分はもうこの離宮に足を踏み入れる事はないだろう。

 それについては何の感慨も覚えなかった。

 リリアセレナを取り巻く世界はいつも灰色に霞んでいて、おそらくこの先も変わる事はない。


 この世に自分を産み落とした母からはその存在を疎まれ、父は自分という存在に関心がない。

 血を分けた親ですら見向きもしない自分を誰かが愛してくれるなど、そんな幻想はとうの昔に捨ててしまった。


 できれば、嫁いだ先で暴力を振るわれなければいいと思う。

 叩かれると痛いし、食事を抜かれてひもじさに泣くのはもっと嫌だ。


 出立の馬車を待つリリアセレナの隣には、いつも以上に着飾ったカーラの姿があった。


 ここ数か月、リリアセレナを甚振らなければ一日が終わらないとばかりに、恨みつらみを散々ぶつけてきたカーラであったが、今日だけは朝からおとなしかった。

 騒ぎ立てるようなら場を外してもらうと、侍女の一人からきつく言われたせいかもしれない。

 宝玉で飾り立てられていくリリアセレナを暗い眼差しでじっと追い、時折苛々と爪を噛んでいた。


 今日のこの日のためにリリアセレナに用意された衣装は、フリル付きスタンドカラーの愛らしいドレスだった。

 色は柔らかなコーラルピンクで、襟の上段からウエストまでを小さな釦で留めるようになっている。


「よくお似合いですわ」と珍しく侍女に褒められたが、頷くだけで言葉は返さなかった。


 こういう態度が陰気だと悪口を叩かれているのは知っていたが、下手に嬉しそうな素振りを見せると、母の感情に火をつけてしまう恐れがあった。

 暴力から身を守るために、リリアセレナはなるべく感情の起伏を面に出さない必要があったのだ。


 いよいよ出立の時間となり、リリアセレナは恐々と顔を上げ、カーラの顔を仰いだ。

「これよりマティス公国へと参ります。母様もお体にはご自愛下さい」


 カーラがすっと顔を近寄せてきて、リリアセレナは体を強張らせた。

「いい気にならない事ね」


 耳元に囁かれた言葉はリリアセレナの未来を呪うかのようだった。

「お前みたいな子どもが向こうで愛される訳がない。お前は醜い出来損ないよ」


 最後の最後でこのような毒を吐かれると思っていなかったリリアセレナはその場に凍り付き、そんな娘の様子に満足したか、カーラは嗤いを口元に刻んで一歩下がった。


「殿下。馬車へどうぞ」

 離宮長に声をかけられ、リリアセレナは夢から覚めたように馬車の方へ体を向けた。


 それからどんな風に馬車に乗り込んだのか、リリアセレナは覚えていない。

 気付けば馬車は走り出していて、ふと正面に目を向ければ、進行方向と反対向きに座している侍女のジェインと目が合った。


「……そう言えば、ジェインが旅の供をしてくれるのだったわね」


 今、気付いたようにリリアセレナはそう声をかけた。

 ジェインは三人の中で序列が一番下であるため、この役目を無理やり押し付けられたのかもしれない。


「国境までお仕え致します」

 ジェインは静かに頭を下げた。


「そう。よろしくお願いするわ」


 国境の手前で婚姻の調印を済ませ、リリアセレナは単身でマティスに向かうようになると聞いていた。


 窓から外を見ると、馬車はちょうど橋を渡るところで、石でできた欄干の上部に飾られた聖人像がゆっくりと後ろに流れていった。


「アンシェーゼで五泊するのだったわね」


「はい。街道沿いに領地を持つ貴族家に宿を借りるようになります」

 ジェインの言葉にリリアセレナは頷いた。


 橋を渡り終えた馬車は大きく左折し、今は南東に進路を取っている。


 別れ際に母から囁かれた捨て台詞が、今更ながらにリリアセレナの脳裏に蘇った。

 窓から見える皇都の街並みを見るともなしに眺めながら、いい気になんかなっていないとリリアセレナは心に呟いた。


 リリアセレナは醜い出来損ないで、向こうに行っても愛される筈がない。

 そんな事はとうに知っているのだ。


「わざわざ言わなくって大丈夫なのに……」

 口の中でそう呟いたリリアセレナに、ジェインが「何か?」と尋ねてくる。


「何でもないわ」

 リリアセレナは気分を鎮めようと大きく息を吐き出した。


 リリアセレナを傷つけるためだけに、母はその言葉を口にした。

 それほどリリアセレナが憎いのだろう。


 幾度となく耐え難い言葉をぶつけられたけれど、別れの間際には優しい言葉をもらえるのではないかと、リリアセレナは心のどこかで期待していた。


 もしも母がリリアセレナとの別れを少しでも惜しんでくれたなら、これまで与えられた暴言も暴力も、自分はすべて水に流していた。

 どれほどひどい事をされても、愛情を期待する事を止める事はできなかった。

 血を分けた母というのは、それほどリリセレナにとって大切な存在だった。


 けれど、もういい。

 結局自分は愛されていなかった。この先もきっと、誰かに愛される事はないだろう。


 リリアセレナはジェインに気付かれないように顔を背けた。

 堪えきれない涙がひとしずく、頬を伝って落ちた。




 晴天のせいか、皇宮を発って四半時も経たぬうちに馬車の中の気温はぐんと高まった。

 額にじわりと汗が滲み、それに気付いたジェインが、「窓をお開けしましょうか」とリリアセレナに聞いてくる。


「ええ。お願い」

 首の上部まで釦があるため、余計体に熱が籠ったようだ。


 窓から涼やかな風が吹き込んできて、リリアセレナはほうっと息を吐く。

「これ以上暑くならないといいのだけれど」


 リリアセレナは不安そうに空を仰いだ。晴れ渡った青空が、今は少し恨めしかった。


 手配されていた餐館で昼食を済ませた後、再び馬車に揺られる事となったが、正午を過ぎて暑さはいよいよ厳しさを増したようだ。

 移動のために用意されていたのは振動の少ない六頭立ての広々とした馬車だったが、揺れを完全に抑える事はできず、リリアセレナはだんだんと気分が悪くなってきた。


 何より蒸し暑さが体に堪えていた。

 スタンドカラーの襟は首元を締め付けたし、髪をきつめに編み込まれていたせいで、頭痛も覚えるようになっていた。


 それでなくても、体の小さいリリアセレナは体力がなかった。

 暑さと頭痛は耐え難いものとなっていき、リリアセレナは青白い顔でぐったりと馬車の背凭れに身を預けた。


 頭ががんがんと痛み、心なしか吐き気がする。

 脂汗を流し始めたリリアセレナを見て、このままでは体が持たないと思ったのだろう。


 ジェインは、「今は人目もありませんので」と断って、きつく編み込まれていたリリアセレナの髪を解き、襟元の釦を上から五つほど外してくれた。


「もう少し雲が出てくれたら、暑さも和らぐのですけれど」


 窓から吹き込む風だけでは足りないと思ったのか、ジェインは更に扇でリリアセレナの顔を扇いでくれる。

 汗ばんだ肌に風が心地よく、リリアセレナはようやく人心地ひとごこちがついた気がした。


「……気を紛らわしたいの。少し話し相手になってもらえる?」

 おそるおそるそう話し掛ければ、ジェインは一瞬瞠目した後に「ええ」と頷いた。


「わたくしが嫁いだ後、母様の生活はどうなるのかしら」


「これまでと変わりありません。わたくしどもは変わらず、離宮でカーラ様にお仕えします」


「では、わたくしが嫁いだ後も母様は離宮で暮らされるのね」


「皇帝の子を産んだ女性は皇宮から出る事は叶いません。

 カーラ様はこのまま一生離宮で過ごされるでしょう」


「そう……」


 では、あの狭い離宮で母様は一生を過ごすのだとリリアセレナはぼんやりと心に呟いた。

 そんなリリアセレナを見て、「カーラ様にとっては、あながち悪い事ではないと思いますよ」とジェインが言葉を足した。


「あの方は贅沢と怠惰を覚えてしまわれました。

 離宮を出され、労働階級に戻されるなど耐え難いと思っておられる筈ですから」


 思いがけない言葉に、リリアセレナは目をしばたたいた。確かにジェインの言う通りかもしれない。

 そしてちょっと躊躇いがちに尋ねてみる。


「じゃあ……、ジェインはどうなの。

 ジェインはあの生活が続く事が嫌ではないの? ジェインは母様の事が嫌いでしょう?」


「好き嫌いは関係ございません」

 ジェインは淡々とそう答えた。


「わたくしは貴族の出ですが、生家も婚家も金に不自由しております。

 男児をもうけぬまま夫が他界してしまったので、跡を継いだ義弟夫婦はわたくしの扱いに困っておりました。

 娘を不自由なく育ててもらう代わりに、わたくしは婚家にお金を入れておりますの。

 働ける場があるだけで幸せだと思っておりますわ」


「どうして離宮で働くようになったの?

 皇后陛下から、母様に嫌がらせをするように言われていたっていうのは本当なの?

 皇后陛下は……」


「殿下」

 ジェインはそれ以上言わせまいとするように鋭く言葉を差し挟んだ。 


「わたくしを含めた三人の侍女はいずれも家格が高くございません。

 皇后陛下と直接面識があるような者はいないと思いますわ」


「でも……」

 リリアセレナが思わず反論しようとするのへ、


「それ以上口にしてはなりません。

 尊い方の意向を忖度そんたくして動いた者は確かにおります。

 けれどそれは、決して公にしてはならない事なのです」


「忖度……」

 意味が分からず押し黙るリリアセレナに、ジェインは小さな溜め息を零した。


「気持ちを推し量るという意味ですわ。

 尊い方のお気持ちを勝手に想像して下の者が動く。

 貴族社会ではよくある事で、それができない者は家ごと落ちぶれていくだけです」


 そしてジェインは真っ直ぐにリリアセレナを見た。


「殿下はこれから他国の旧家に嫁がれるお方です。

 ご自分のためにも滅多な事を口にされてはなりません。

 その事だけはどうぞお心にお留め置き下さいませ」


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