5 初めて会う父帝
そんなリリアセレナの様子が気に障ったのだろう。
「皇帝陛下がお決めになったこの婚姻に何か不満でも?」
ヴェルモ卿は不快そうに声を尖らせ、リリアセレナは慌てて否定した。
「滅相もございません。
この上ないご縁をいただきました事を、皇帝陛下に深く感謝申し上げます。
謹んで婚姻をお受け致します」
皇帝への感謝が遅いとばかりに、ヴェルモ卿は露骨な溜め息をついてきた。
そしてふと、皇女の教育がどこまで進んでいるのかが俄に気になったのだろう。
値踏みするように目を眇め、リリアセレナに問い掛けてきた。
「マティスがセクルト連邦の公国の一つである事はご存じですね」
リリアセレナは慌てて家庭教師に教わっていた知識を頭の中から引っ張り出した。
「はい。セクルト連邦はアンシェーゼの南に位置し、マティスを含む十二の公国の集まりです。
公国全体を統治する王の代わりに筆頭大公を定め、公国間の結束を図っています」
「アンシェーゼ皇国と大きく違う点は何かわかりますか?」
「一番異なる点は宗教が違う事でしょうか。
アンシェーゼ皇国は聖教を国教としていますが、セクルト連邦は女性崇拝色の強いカナ神を信仰しています」
「……最低限の教育は受けられているようで安心しました」
馬鹿にしきった物言いだったが、リリアセレナは黙ってそれに頷いただけだった。
ここで逆らってもいい事はないとわかっていた。
母のカーラでさえ、この男の気分を害させない方がいいと言っていたくらいなのだ。
下手に機嫌を損ねて、怒鳴られるのが恐ろしかった。
「皇女殿下には近い内に改宗していただくようになりますが、聖教の司祭様からいただいた洗礼名については、このまま使っていただいて構わないそうです。
尚、お相手であるトラモント卿はアンテルノ卿の嫡出子ではありません。
母君は平民ですが、殿下ならお気になさらないものと思っております」
あからさまな当てこすりに、母カーラが屈辱に身を震わせるのが目の端に映った。
母の怒りを逸らそうと、リリアセレナは慌てて口を開いた。
「トラモント卿のお年はいくつでいらっしゃいますか?」
「十九歳になられます」
「十九……」
随分年上の方なんだと、リリアセレナは思った。
同じ年頃の子と遊んだ事がないリリアセレナは、婚約者が遊び相手になってくれるなら嬉しいと思っていた。
けれど十九では、向こうの方がリリアセレナを相手にしようとは思わないだろう。
それでも構わないとリリアセレナは思った。
リリアセレナの願いは、一日が平穏に過ぎる事だ。
暴力を振るわれたり、ご飯を抜かれたりしないならばそれでいい。
「アンテルノ卿は、できるだけ早い時期での婚姻を望んでおられます。
日時については調整中ですが、おそらくこの五月か六月になるでしょう」
「……畏まりました」
そんなに早いんだとリリアセレナはびっくりしたが、従順に頭を下げた。
リリアセレナが望もうと望むまいと、道はすでに決まっている。
何を言っても無駄だと知っていた。
ヴェルモ卿が退室するや否や、カーラは持っていた扇を力まかせに床に叩きつけた。
リリアセレナはびくりと体を震わせ、母の注意を引かないように気をつけながらそろそろと後退る。
「人の事を馬鹿にして……!
数年前は陛下から一言でもお声をいただこうと、薄っぺらい愛想笑いを貼り付けてへこへこと頭を下げていたくせに。
砂糖菓子に群がる蟻の一匹に過ぎなかったあんたを、離宮に呼んでもてなしてあげたのは誰だと思ってるのよ!」
母様とヴェルモ卿は知り合いだったんだとリリアセレナは内心驚いたが、それを暴露したカーラの方は、収まり切らない苛立ちを今度はリリアセレナの方に向け始めた。
「全部お前のせいよ!
生まれたのが皇女だとわかった途端、あんな蟻にさえ馬鹿にされるようになっって……!
何で役立たずの皇女なんかに生まれついたのよ!
お前のせいで私の人生はめちゃくちゃだわ!
お前……、お前が皇子でさえあれば……!」
がくがくと体を揺さぶられ、リリアセレナは小さな悲鳴を上げた。
カーラの眼差しはまともではなかった。
毒々しいほど赤く塗られた唇からは、耳を覆いたくなるような呪詛と罵倒が迸り出る。
さすがにこれは放っておけないと思ったのか、侍女達が間に割って入ってきた。
カーラの腕からリリアセレナを引き剥がし、口汚く喚きながら暴れるカーラを数人がかりで押さえつけて、別の部屋へと引き摺っていく。
その後も声は切れ切れに聞こえていたが、やがてその声はだんだんと静まっていき、後にはしんとした静寂が残された。
その日を境に、リリアセレナに対する母カーラの執着は目に見える形で強くなった。
婚姻が決まったリリアセレナには新しい家庭教師が用意され、その勉強に日々追われる事になったのだが、空いた時間には必ずカーラがリリアセレナの部屋に居座るようになったのだ。
傍目には最愛の娘との別れを惜しんでいるかのように見えるが、母のそれは愛情ではない。
鬱憤のすべてをこの娘にぶつけておかなければ気が済まないとばかりに、ありとあらゆる罵詈雑言を小さなリリアセレナに浴びせかけた。
カーラはすでに精神のバランスを崩してかけていて、リリアセレナを甚振る事でようやく正気を留めているかのようだった。
――何と醜い子なの!
――お前のような貧相な子を、旧家の跡取り息子が気に入る筈がない。
――お前のように価値がない子どもを押し付けられて、お相手も気の毒だこと。
――お前を産んだせいで、私は不幸になったんだ。
――疫病神め……! さっさと死んでしまえばいいのに……!
母の暴言には慣れているつもりだった。
けれど慣れているからと言って、心が傷付かない訳ではない。
唇を引き結び、青ざめた顔で貝のように押し黙れば、その態度が気に食わないと更に激しく責め立てられた。
侍女の目を盗んでは暴力を振るわれ、リリアセレナは泣きながら母に謝った。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
何が正しいのか、どう振舞えばいいのかわからない。ただ必死に謝って、母の怒りが少しでもおさまるのを待つしかなかった。
目を吊り上げて自分を罵る母の顔を醜いと初めて思った。
表面は美しくとも悪意と恨みが溢れ出し、まるで物語に出てくる魔女のようだった。
そうしたある日、リリアセレナは皇帝宮に呼び出された。
どうやら父帝は、娘を嫁がせる前に一度顔を見ておこうと気まぐれに思いついたようである。
母親である自分を差し置いてリリアセレナだけが招かれた事にカーラは怒り狂ったが、それが皇帝の意であれば受け入れるしか他はない。
リリアセレナは離宮の玄関に回された馬車に一人乗り込み、父の住まうベーゼ宮を初めて訪れる事となった。
その日の空を、リリアセレナは後になってよく思い出した。
空は柔らかな水色をしていて、ひんやりと空気が澄み渡っていた。
おそらく初めて父親に会えるという喜びが、いよいよ空を美しく見せたのかもしれない。
母から愛される事はなかったが、もしかすると父帝は優しく自分を迎え入れてくれるかもしれない。
期待がリリアセレナの胸を甘くくすぐって、けれどそんな淡い願いは会った瞬間に打ち砕かれた。
「何と貧相な娘だ。これが本当に私の子か?」
哀れなリリアセレナを迎えたのは、あからさまな失望の一言だった。
最後の救いが、リリアセレナの指の間からほろほろと零れ落ちていった。
どっしりとした玉座に座った父帝は退屈そうに肘掛けに肘をつき、まるでそこらの虫でも見るような目でリリアセレナを眺めていた。
侍女達から噂に聞いていた通り、堂々たる美丈夫であったように思う。
髪色もリリアセレナと同じ金髪だった。
けれど、親子を思わせるところはそれだけで、リリアセレナを見つめる父帝の眼差しには何の熱量もなく、嫌悪という感情すら存在しなかった。
リリアセレナは感情を向ける価値すらない存在で、娘の事を恨み、罵る母の方が、まだ幾ばくかの愛情に溢れていた。
「嫁ぐまでに、少しはまともになるよう磨き立てておけ」
最後にそう言葉を落とされた。
それが父との今生の別れとなった。
活動報告へのコメントや感想をありがとうございました。とても励みになります。誤字報告もありがとうございました。気を付けているつもりが、見落としが多いようです(汗)。気を付けて参りたいと思います。
「アンシェーゼ皇家物語4巻 禁じられた恋の果てに」の書影を、一迅社様から告知用にいただきましたが、パソコン操作に不慣れでこちらのサイトでお見せできません。ただ、Amazonさんの方で、四巻の書影が確認できました。よろしければそちらの方で、Ciel先生が描かれたロベルトとヴィヴィアの画を楽しんでいただけたらと思います。とても素敵な仕上がりになっています。




