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3 母の殺意


 アンシェーゼ皇国に大きな慶事がもたらされたのは、その翌年の事だった。


 その報せが宮殿にもたらされた日の事を、リリアセレナは鮮明に覚えている。

 凍えるような寒さがようやく薄らぎ、窓辺から差し込む日差しに春の訪れを覚えるようになったある日、母カーラが扉を壊す勢いでリリアセレナの勉強部屋に押し入ってきたのだ。


 家庭教師に勉強を教わっていたリリアセレナは呆気に取られて母を見上げたが、そのカーラの目つきは最初からおかしかった。

 血の気の引いた顔に目ばかりがぎらついて、いつもは美しく整えられている髪もところどころがほつれている。


「なんであんな踊り子上がりの女が……! 生娘どころか、平民の妻であった女のくせに!」


 唸るように吐き捨てられたが、リリアセレナにはさっぱり意味が分からなかった。

 恐ろしくさに声も出せずに固まっていると、カーラはいきなり部屋の入口に飾ってあった花瓶を両手でつかみ、思いっきり床に叩きつけた。

 ガシャンという耳障りな音が響き、水と陶器の破片がそこら中に飛び散っていく。

 家庭教師が悲鳴を上げた。


「カーラ様、お止め下さい!」


 追いかけてきた侍女三人が慌ててカーラを止めようとしたが、カーラは乱暴にその手を振り払った。


「連れ子もいるような女のくせに……! そんな女に負けたと嘲笑ったのは、お前達ではないかッ!」


 押さえつけようとした侍女の頬を、カーラは激しく打ち据えた。

 いつもは女主人としての威厳を辛うじて取り繕っているのに、今はもうそんな余裕もないらしい。


 取り押さえようとした別の侍女と揉み合いになり、髪を無理やり引き千切られた侍女が頭を押さえて蹲った。


「離宮長を呼んで来て!」

「早く! ぐずぐずしないで!」


 下位の使用人を怒鳴りつける侍女達の声と、切れ切れに侍女を罵るカーラの声が錯綜する。


 そのカーラは二人目の侍女を大きく突き飛ばすと、小さなリリアセレナに向かって両手を伸ばしてきた。

 怯えた顔で後ずさるリリアセレナの二の腕をものすごい力で掴み、がくがくと揺さぶってくる。


「いやあ……!」


 逃げようと暴れるリリアセレナを、カーラは悪鬼のような形相で睨みつけた。


「お前のせいだ! 

 何でお前は男の子に生まれなかったんだ! お前のせいで私は何もかも失った。こんな出来損ないを産んだせいで、私は……!」


「カーラ様、それ以上はなりませんッ!」


 目の前で皇女を傷つけられては堪らないと思ったのだろう。

 立ち竦んでいた五十過ぎの家庭教師が、必死になってカーラとリリアセレナの間に体を割り込ませた。


「どうぞお気をお鎮め下さいませ! 殿下に暴力を振るってはなりません!」


 侍女達も総出でカーラを取り押さえ、ようやく母の腕から逃れたリリアセレナはソファーの陰に逃げ込んだ。

 喚き散らす母の怒号から逃れようと、両手で固く耳を塞ぐ。


 目を瞑り、ソファーの陰に蹲って、どれくらい時間が経っただろうか。


 従僕らを連れて駆け付けた離宮長がカーラを力づくで連れ出してくれたらしく、部屋には以前の静寂が戻っていた。


 とはいえ、部屋の中は惨憺たる状態だ。

 まるで暴風が荒れ狂ったように家具が倒れ、床には陶器の破片が散乱していた。


「殿下、お怪我はありませんか?」


 疲れた声でそう尋ねてきたのは先ほどリリアセレナを庇った家庭教師だった。

 結い上げている髪はすっかり崩れ、頬も赤くなっている。どうやらカーラにひっぱたかれたようだ。


「……わたくしは平気。それよりも一体何があったの?」

 家庭教師の手を借りて立ち上がり、リリアセレナはよろよろとソファに座り込んだ。


「詳しい事は存じませんが、殿下に弟君が生まれたのだと思います」


「わたくしに……弟?」


「はい。先ほど、男児誕生を知らせる鐘の音が鳴り響いておりました。殿下はお気付きになられませんでしたか?」


 そう言えば、いつもは鳴らない時間に鐘がしつこく鳴り響いていた事を、リリアセレナはようやく思い出した。


「このところ皇帝陛下は、離宮で見初めたという異国の踊り子を殊の外寵愛しておいででした。

 産み月に入ったという噂も耳にしておりますから、その方が皇子殿下をご出産なさったのでしょう」


「……皇子誕生ってそんなにすごい事なの?」


 生まれ落ちてからずっと、リリアセレナは女に生まれついた事を母から責められてきた。

 どうして男の子でなかったのか、お前さえ男に生まれていていれば、私は全てを手に入れられたのに……と。


 問われた家庭教師は、ちょっと小馬鹿にしたような目でリリアセレナをちらりと見た。


「アンシェーゼでは、皇位を継げる者は男児だけです。

 皇位継承権を持つ皇子をアンシェーゼ皇国にもたらせた訳ですから、その生母は重く扱われます。

 この度皇子をご出産されたツィティー様は側妃に立妃され、新しい宮殿を賜るようになるでしょう。

 国中がお祭り騒ぎになるかと存じます」




 家庭教師の言葉通り、ツィティー妃は六玉宮の一つ、紫玉宮を与えられた。

 噂によると、多くの貴族が紫玉宮に馳せ参じ、ツィティー妃に目通りを願っているらしい。

 

 九年ぶりの男児誕生に皇帝は狂喜し、その功績としてツィティーが前夫との間にもうけていた四つの女の子を己の養女として皇家に迎え入れたとも聞いた。


 皇帝にとって、皇女はこれで四人目となる。

 第一皇女マリアージェ、第二皇女リリアセレナ、第三皇女セディア、そして養女となった第四皇女ヴィアトーラだ。


 生まれた皇子殿下はセルティスと名付けられた。

 アンシェーゼでは長子が皇位を継ぐとは定められておらず、今後の動き次第では、皇后腹のアレク第一皇子を差し置いて、寵妃が生んだ第二皇子が皇太子となる可能性も皆無ではなかった。


 宮廷人達は皇冠の行く末を面白おかしく噂しているようだが、離宮に忘れ去られているリリアセレナにとっては、誰が皇太子になろうと関係のない話だった。


 ただあの日以来、母カーラが妙におとなしい事だけは気にかかっていた。

 リリアセレナに暴力を振るおうとした事を離宮長や侍女達から厳しく窘められたのは事実だが、素直にそれを受け入れるような母ではない筈だ。

 恐々と母の顔を窺いながら暮らしていたが、そんなある日、母が珍しく晩餐の席でリリアセレナの所作を褒めた。


 その日はたまたま母の機嫌が良かった。

 色の異なる二層を持つ瑪瑙メノウに浮彫りを施した見事なカメオ細工のペンダントが手に入り、大層喜んでいたのだ。

 いつものように毒を吐く事はなく、満足そうに手入れの済んだ自分の爪を見ていた。


「立ち居振る舞いが随分しっかりしてきたようね」


 カーラはただ、その少し前に家庭教師から報告されたままを口にしただけだったのだろう。

 けれどもリリアセレナはその言葉に舞い上がってしまった。

 母から優しい言葉をかけられたのはそれが初めてであったから、思わず満面の笑みで母を仰いでしまったのだ。


「これからも母様に認めていただけるように精進致します」


 その時に現れた母の表情の変化を、リリアセレナは生涯忘れる事ができないだろう。

 口元は変わらずに弧を描いていたが、まるで鋭い一撃によって美しいガラス細工に細やかなひびが入っていくように、カーラの眼差しからすっと表情が消え去った。


 カーラにとってリリアセレナは自分に不幸を運んだ元凶で、その恨めしい子が何の屈託もなく自分の前で笑っている。

 ただでさえ、カーラは第二皇子誕生以来、かなり鬱屈を溜めていた。

 これ以上騒ぎを起こすようなら待遇についても考えると離宮長から脅されていたから何とか自分を抑え込んできたが、満面の笑みを自分に向けてきた我が子を見た途端、カーラの中で最後の自制が吹き飛んだ。


 侍女のいない隙を見計らってリリアセレナが首を絞められたのは、その日の夜の事だった。




 その晩リリアセレナは、なかなか眠れずにベッドの中で寝返りを繰り返していた。


 あの後、食べ方が不快だと料理を下げられてしまい、ずっと壁際に立たされていた。

 空腹で鳴るお腹を撫でながら、夢とも現ともわからぬ中でうとうとと微睡んでいたら、扉が静かに開いて誰かが部屋に入って来た。


 侍女が様子を見に入って来たのかと思ったが、思わぬ香りが鼻腔をくすぐり、リリアセレナはびくりと体を強張らせた。

 母が好んで身に着けている甘やかな麝香じゃこうの香だった。

 一体母は何をしにここに来たのだろうか。


 眠気は完全に吹き飛んだ。

 眠ったふりをしているリリアセレナの顔を、カーラがじっと窺っている。


 母の息遣いを間近に感じ、リリアセレナはシーツの下で拳を握り締めた。

 冷や汗が背中から噴き出て、心臓がバクバクと音を立てた。


 恐ろしさに頭が真っ白になり、これ以上はもう狸寝入りはできないとリリアセレナが思った時、何か柔らかな布のようなものが首の辺りにかけられた。

 母が寝衣の上に纏っていた厚手のショールだと気付いた次の瞬間、カーラは渾身の力を込めてリリアセレナの首を絞め上げてきた。


 後で思えば、リリアセレナの首に指の形が残ってしまうのをカーラは恐れたのだろう。

 その時は何が起こっているのか半分理解できぬまま、リリアセレナは首に食い込む母の手をどけようと、じたばたと手足を振り回した。


 締め付けられた喉が痛い。

 何より息ができない事に恐怖を覚えた。

 あらがいながらうっすらと目を開ければ、悪鬼のような形相で自分を睨みつける母の顔が見えた。


 目の奥が赤く染まり、だんだんと頭がぼうっとしてくる。

 最後の力を振り絞るように母の腕に爪を立て、リリアセレナはそのまま意識を手放した。



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