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2 孤独な日々


 ネリーがいなくなっても、当たり前のように日々の営みは続いた。

 夜が明ければ侍女がリリアセレナを起こしに来て、淡々と身の回りの世話を焼いていく。


 ネリーについて尋ねても、「今はどこにいるかわかりません」とそっけなく繰り返されるばかりで、リリアセレナはついにネリーについて尋ねる事を諦めてしまった。


 四つの誕生日を迎え、淑女教育の時間は以前よりも長くなった。

 教養やマナーを中心に楽器の演奏なども学ぶようになり、空いた時間は一人で本を読んだり、玩具で遊んだりして一日を過ごす。


 母カーラの目に留まらないようできるだけおとなしく過ごしていたが、カーラの方からリリアセレナの部屋にやってくるので、避けきる事はできなかった。

 理由もなく甚振いたぶられ、その度に泣きながら謝るという日々が続き、そのうちリリアセレナは侍女の誰かが傍にいれば、母は激しい折檻を加えないという事を学習した。


 ネリーがいなくなった日は床に叩きつけられる勢いでたれたけれど、侍女はカーラがリリアセレナに暴力を振るう事を認めている訳ではない。

 カーラがあからさまな体罰を加えようとすると苦言を呈し、カーラよりもむしろリリアセレナの方が大事な存在なのだと、カーラに見せつけているようなところもあった。


 そう言えば侍女達はカーラを名前呼びするが、リリアセレナに対しては殿下と呼ぶ。

 殿下というのは偉い人に対して付ける敬称だと、確かずっと前に家庭教師が言っていなかっただろうか。


 だからある日、リリアセレナは侍女の一人に尋ねてみた。


「殿下ってどういう意味? どうして皆はわたくしの事を殿下と呼ぶの?」


 リリアセレナの髪をいていた侍女は、ちょっとびっくりしたように鏡の中のリリアセレナを見つめてきた。


 この侍女はジェインという名で、おとなしい目鼻立ちをした三十代半ばの女性だ。

 普段から感情を余り表に出さないため、陰気な人間だと他の二人から陰口を叩かれていたが、本人にはそれを気にしている様子はない。

 彼女らのようにリリアセレナをあからさまに馬鹿にして嗤うような事はなく、いつも淡々と自分の仕事をこなしていた。


「殿下はこのアンシェーゼ皇国の第二皇女であられるからです」


「皇女? わたくしが……?」


 ジェインの言葉にリリアセレナは半信半疑で呟いた。

 物語の中の皇女様は、皆にかしずかれていつも幸せそうに笑っている。

 今の自分の姿とは余りにかけ離れていて、俄かにはその言葉が信じられなかった。


「はい。殿下はまだ、この国やご自身のお立場について学んではおられませんか?」


 リリアセレナが頷くと、ジェインは小さな吐息を零した。


「そうだったのですか。家庭教師からとうに学ばれているものだと……」


 ジェインはしばらく迷っていたが、やがて櫛を鏡台の上に置き、静かな眼差しでリリアセレナを見た。


「殿下ももう四つになられましたし、そろそろご自身の事をお知りになっておくべきでしょう」


 リリアセレナは丸椅子に座ったまま体の向きを変えた。


「アンシェーゼ皇国の皇帝陛下はパレシス帝と言われ、お子様が四人おいでになります。

 皇后陛下を母君に持つ皇子殿下が一人と、妾腹しょうふくの皇女殿下が三人です。

 そのうちのお一人がリリアセレナ殿下となります」


 自分に兄妹がいるんだ……とリリアセレナは驚いたが、ジェインの言った言葉は難しすぎてよく理解できなかった。


「しょうふく……? ええと、しょうふくってどういう意味?」


「皇帝陛下の妻は皇后陛下ただお一人です。

 そして、皇后陛下以外の女性が子を産んだ場合、その子どもは妾腹と言われます」


「え。母様は父様と結婚されている訳じゃなかったの……?」


 初めて知らされた真実に、リリアセレナは呆然とした。


 リリアセレナは父親と会った事がない。

 ネリーに聞いた事もあったのだが、「姫様のお父様はずっと遠くにいらっしゃいます」と言われ、他所の国におられるのだろうと漠然と思っていた。


 どうして遠くに住んでいるのか、どうしてリリアセレナのいる家に帰って来られないのか、本当は詳しく聞きたかったけれど、ネリーはそれ以上を話してくれなかった。

 だから誰にも聞けずにここまできたのだけれども、まさか父様と母様が結婚していないなんて、思った事もなかった。


「父様にとっての家族は皇后様と皇子様だけで、リリアセレナはそうじゃないからずっと放っておかれたんだ」


 リリアセレナはぽつんと呟く。


「父様はリリアセレナの事を思い出す事もないのかな」


 きっとそうなのだろう。

 もしリリアセレナの事が大事なら、一度くらいは会おうとしてくれていた筈だ。


 父様の妻であるという皇后陛下は、自分達の事をどう思っているのだろうとぼんやり考えていたリリアセレナは、ある事に気が付いて、「あ」と小さく声を上げた。


「もしかして、母様の言っていたあの女って……」


 カーラはよく憎々しげに『あの女』について話していた。


『ここにいる侍女達は皆、あの女の手先よ。だからよくよく気をつける事ね。

 あの女は私とお前が憎いの。

 私達が不幸になるためなら何だってするわ』


 母様が誰の事を言っているのか、リリアセレナにはさっぱりわからなかった。

 けれど今のジェインの説明で、すべての疑問がほどけた気がした。


 妻でもないのに皇帝陛下の子を身籠った母は、きっと皇后から憎まれている。

 そしてリリアセレナ達の傍にいる侍女達がすべてその皇后の味方であるというのなら、彼女らもリリアセレナ達の事を嫌っているのだ。


「だからみんなリリアセレナによそよそしいんだ」


 リリアセレナは口の中でそう呟いた後、力なくジェインを見上げた。


「……皇帝陛下はどこに住んでいるの?」


「ベーゼ宮というわれるところです」


「それはここから近いの?」


「……そうですわね。歩いて行こうと思えば、歩けない距離ではないでしょう」


「そっか」


 涙が滲みそうになったリリアセレナは、慌てて目をしばたたいた。


「ねえ、ジェイン。

 わたくしはこの国の皇女なんだよね。じゃあ、体に傷がつくとまずいのかな」


「それは……」


 僅かに言い淀んだジェインに、リリアセレナは吐息のような笑いを零した。


「今の質問は忘れて。ジェインはもう下がっていいわ」




 ジェインが部屋を辞した後、リリアセレナはおぼつかない足取りでソファーのところに行き、くたりとそこに横になった。


 リリアセレナは聡い子だった。

 自分を折檻せっかんする時に母が何故わざわざ侍女達を遠ざけるのか、今の説明だけで答えがすとんと胸の中に落ちてきた。


 物語では、皇女に暴力を振るった者や体に傷をつけた者は厳しく罰せられている。

 だから母は、自分が娘に暴力を振るっているところをなるべく侍女達に見られまいとしたのだ。


 今思えば、リリアセレナを甚振いたぶる時、母は上手に力を加減していた。

 手の跡が残らない程度に平手で頬を張られ、それでも物足りなければ、頭を鷲掴みにして引き摺られた。


 証拠は何も残らない。抜け落ちた髪が絨毯にくっついていても、誰も気に掛ける事はなかった。


 侍女の前でリリアセレナを痛めつけたい時は、様々な理由をひねり出した。

 食べ方に品がない。マナーが悪い。勉強のはかどりが遅い。


 理由は何でも良かった。

 皇女のしつけだと言えば、侍女達もそれ以上口は挟まない。

 リリアセレナも勿論逆らう事はできなかった。


 母カーラはリリアセレナの目から見ても美しい女性だったが、感情にひどくムラのある女性だった。

 姿勢が悪いという理由で一刻半も立ちっぱなしにさせられた事もあるし、カトラリーをうっかり落とした時はそのまま食事を下げられ、次の食事も許されなかった。


 どうでもいいような理由で度々食事を抜かれ、来る日も来る日もひもじくて堪らなかった。

 空腹に耐えかね、こっそり庭に出て草を毟って食べた事もある。

 草を食んでもお腹は満たされず、翌日には腹を壊して食事の席を途中退席し、鬼のような形相で怒られた。


 それでもリリアセレナは、母カーラを完全に嫌う事はできなかった。

 どれほど暴力を振るわれ、どれほど厳しい言葉を浴びせられても、ネリーのいない世界で唯一、小さなリリアセレナに関心を寄せてくれるのはカーラだけだったからだ。


 家庭教師はそれが仕事だからリリアセレナに教育を施しているだけで、そこに愛情はない。

 侍女達もリリアセレナを嫌っていて、必要以上にリリアセレナに近付く事はなかった。


 リリアセレナは一人ぼっちだった。


 実母から傷つけられる度、リリアセレナはネリーとの優しい記憶に逃げ込んだ。

 ネリーはよく肉厚の大きな手でリリアセレナの頭を撫でてくれ、抱きついたその体からは太陽と土が入り混じったような温かな匂いがした。


 顔はもう思い出せない。

 愛されていた記憶はきちんとあるのに、思い出は日一日と薄らいで、ネリーが語り聞かせてくれたお伽噺さえ、その続きを忘れてしまった。


 魔女に虐められていた子どもは、あれからどうなったのだろう。

 詳しい内容はよく覚えていなかったけれど、妖精が出てきてその子を幸せにした事だけはぼんやりと覚えていた。


 閉じた瞼の裏でリリアセレナはお伽噺の続きを追い掛ける。

 優しい思い出は仄かな温もりをリリアセレナの胸に与えてくれたが、染み入るような孤独と寂しさがそれだけで癒される訳ではない。

 小さなリリアセレナは、餓えるほどに愛情を欲していた。


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