外伝 栄華を夢見た女
リリアセレナの母、カーラの物語です。少し暗いお話となります。
もし皇位継承者を産んだら、お前は側妃だ。その時は然るべき貴族の養女にしてやろう。
その言葉がどこまで本気であったのかはわからない。
けれど皇帝の子を身籠ったカーラは、皇帝のその言葉が真であると信じた。
世界はいつもカーラに優しかった。
家は小さな商家だが、金に不自由した事はなく、幼い頃から両親と二人の兄に可愛がられて育った。
カーラは大層愛らしい顔立ちの子どもだった。
象牙のように艶やかな肌はほんのりとピンクがかっていて、ぱっちりとした大きな瞳は吸い込まれるように美しい藍緑色をしている。
顔を縁取る金髪はけぶるような光沢を放ちながら背に流れ、商家を訪れた大人達は、これほど美しい子は見た事がないと口を揃えて言ったものだ。
容姿に優れただけでなく、人を思いやれる優しい子だとよく褒められたが、それは取り巻く環境がカーラをそうさせていただけの事だ。
長い睫毛をぱちぱちとさせて頼み事をすれば、大抵のカーラの願いは聞き届けられた。
現状に不満がないから人にきつく当たる必要もない。
ただそれだけの事だった。
カーラは小利口な子で、よく機転も効いた。
自分の愛らしさが武器になる事を五つ、六つの頃から知っており、人に媚びる時はその加減を誤らぬように注意した。
十になった時、行儀見習いのためにある貴族家に仕える事となったが、そこでもカーラは運命に愛された。
見目の良さとその賢しさがすぐに奥方の目に留まり、カーラは一年もしない内に奥方様の侍女見習いに取り立てられたのだ。
屋根裏で同僚と相部屋をしていたカーラは、狭いながらも個室を与えられ、単調で地味なお仕着せからも解放された。
身嗜みを整えて女主人の傍に侍る日々が続き、やがて十五になった時、皇宮の下級侍女に推挙されて絢爛たる宮殿に足を踏み入れる事となった。
下級侍女の主たる仕事は、貴人の生活空間の整頓と清潔の保持だ。
早朝から各部屋の掃除に回り、冬ならば暖炉に火を熾す。
寝所や洗面所に湯を運ぶのも下級侍女の仕事だし、主が朝餐に向かえば寝所の掃除にとりかかった。
天蓋から吊るされたカーテンはゆすって埃を落とし、運べる調度品は動かして塵一つなく床を掃除し、柱や壁、窓ガラスまでも丁寧に拭いていく。
虫が湧かぬようマットレスや部屋の隅々に風通しをして、洗面所のタオルや石鹸といった備品も補充し、金の燭台はピカピカになるまで磨き上げた。
貴人の生活に直接関わるため仕事には神経を使ったが、同じ皇宮勤めとはいえ、厨房の下働きや洗濯係の下女などとは使用人としての格が違う。
何より、今まで見た事もないような煌びやかな世界で働ける事に、カーラは大きな誇りと満足を覚えていた。
さて、十七、八が適齢期とされている貴族令嬢と違い、平民女性の適齢期は二十歳から二十代半ばだ。
ひとり身である間にできるだけ働いて、得た金を実家に仕送りする者もいれば、将来を見据えて堅実に金を貯めておく者もいる。
カーラの場合は後者であり、二十歳になったらこの仕事を辞める心積もりでいた。
下級侍女は最低でも五年は勤めなくてはならないとされていて、カーラのように五年を区切りに辞める者は少なくない。
更に多いのが勤続十年で辞める者だ。
これは十年間働けばかなりまとまった退職金が手渡されるためで、こうした理由から下級侍女のほとんどは未婚の若い女性で占められていた。
カーラはそこまで金を必要としていないし、実を言えばすでにいくつか縁談話も来ている。
実家には数か月に一度まとまった休みがもらえた時に帰省していたが、カーラの美貌はいつの間にか近隣の噂となっていて、カーラの帰省に合わせて多くの若い男性客が店を訪れた。
大店の息子や豪農の跡取りからも縁組の打診があったと聞いているし、縁談については仕事を辞めてからゆっくり考えればいいだろう。
カーラの前に未来は大きく広がっていて、恐れるものは何もなかった。
十七になった時、皇后の父親である宰相閣下が急逝された。
下級侍女であるカーラにとって、それは遠い世界の話でしかなかったが、それからほどなくして同じ下級侍女の一人が皇帝に見初められた事で、カーラを取り巻く日常は一変した。
「名をセルデフィアというのですって」
それを教えてくれた同僚の侍女は、興奮冷めやらぬ口調でカーラにそう告げてきた。
「大層美しい子らしいわ。
たっぷりのお湯で体を磨きたてられた後、絹のドレスを身に纏って皇帝陛下の寝所を訪れたそうよ」
カーラ達下級侍女は清潔である事を求められるため、偶数日と奇数日に分かれて半数ずつ湯場を使わせてもらえるが、ふんだんに湯がもらえる訳ではない。
そして絹の衣装ともなれば、その高価さからカーラ達にはとても手の届かないものだった。
「……その子は今どうしているの?」
そう尋ねたカーラに、同僚の侍女は軽く肩を竦めた。
「今は皇帝宮の一室に隔離されているみたい。
ほら、万が一、子を宿していたら大変でしょ?
次の生理が来るまでそこで待機しているらしいんだけど、三日を置かず、皇帝陛下からのお呼びがかかっているようだから、そのうち懐妊するんじゃないかしら」
「懐妊したら、離宮に部屋を賜るようになるわね」
羨望が顔に出ないよう、カーラは意識してきれいな笑みを口元に浮かべた。
「うん。侍女もついて、まるで貴族のお姫様のような生活になる筈よ。
想像するだけで溜め息が出ちゃう」
這い蹲って床の拭き掃除をしていた同僚は、だるくなった腰を伸ばしてとんとんと手で叩く。
「私の器量じゃ、愛妾なんてとても無理ね。
あ、でもカーラなら大丈夫なんじゃない?」
「あら。そんなに褒めたって何も出ないわよ」
「別にお上手を言っているんじゃないわ。
カーラはすごくきれいよ。
私が皇帝だったら、そのセルデフィアとかいう侍女より間違いなくカーラを選ぶんだけどなあ」
その侍女が放った軽口は、甘い棘となってカーラの心に突き刺さった。
ただの夢物語だと笑い飛ばそうとしたが、その小さな棘はカーラが取ろうとすればするほど胸の奥へと入り込んでいく。
完全に沈んでしまえば、カーラにはもう引き抜く事は不可能だった。
四、五日が過ぎ、ひと月が経とうとする頃になっても、棘は変わらずそこにあった。
表面の刺し口はきれいに癒えているのに、内部で吸収される事なく留まり続け、時折思い出したようにじくじくと疼いてカーラを困らせる。
セルデフィアが懐妊したという噂を聞いた時もそうだった。
忘れかけていた棘の周囲が俄かに熱を帯び始め、それは瞬く間に全身へと広がり、強い渇きをカーラに覚えさせた。
一方、皇帝の子を身籠ったセルデフィアは、慣例に従って離宮の一室を賜った。
皇帝パレシスは皇后を迎え入れてから身ぎれいな生活を送っており、庶子はこれが初めてとなる。
万が一皇位継承者が生まれれば、皇帝の寵愛を後ろ盾にその子が皇位を継ぐ可能性もない訳ではなく、セルデフィアの許には早くも多くの貴族が日参しているようだ。
どこに行ってもセルデフィアの話題でもちきりで、特にセルデフィアと同じ階級にいた下級侍女達の盛り上がりはすごかった。
皇帝の目に留まり、一度でも夜伽を命じられれば、周囲の自分を見る目も変わってくる。
運よく懐妊すれば離宮に迎え入れられ、侍女達に傅かれて左団扇の生活が送れるだろう。
容姿に自信のある同僚は一様に色めき立ち、それを見ていれば尚の事、カーラの渇きは耐え難いものとなる。
このまま朽ちたくないという思いばかりが膨れ上がり、居ても立っても居られなくなった。
両親からは娘を気遣う文が度々届いていたが、今のカーラには皇宮勤めを終えた後の生活などどうでも良かった。
大店や豪農の妻となれたとして、それが何だというのだ。
皇帝の愛妾という華やかな地位の前では、裕福な平民の妻という座はすっかり色褪せて見えた。
やがて腹の大きくなったセルデフィアは皇帝の寵愛を失っていき、月満ちて生まれた子も皇位継承権のない女児だった。
過熱していた熱は一気に引いていき、ひと時の平穏が皇宮を訪れた。
その後も数人の下級侍女が皇帝のお手付きとなったが、いずれも長続きはしていない。
皇帝のお声掛けはよくある事として人々に認識されるようになり、そんな最中、カーラはついに皇帝の寝所に呼ばれる事となった。
その一夜にカーラは己が運命を賭けた。
もっちりと掌に吸い付くような瑞々しい肌と、ほっそりとして出るところは出た豊満な体はカーラの自慢だが、それだけでは皇帝の気を引く事はできないだろう。
カーラは幼い頃、近所の商家のおかみらがあけすけに閨事情を語っていたのを覚えていた。
石で地面に絵を描いて遊んでいる子どもにはどうせ意味など分からぬだろうと、女達はカーラの傍できわどい話を平気でしていたのだ。
お上品なお貴族様と違って、慎みを重視されない庶民の女はある意味奔放だ。
それに、夜の時間も長かった。燭台の火を惜しんで早く床に就くから、他に楽しみのない夫婦は交接に耽る事になる。
当時は意味が分からなかった行為も、今ならば理解できた。
皇帝の褥に呼ばれたカーラは、どう振舞えば皇帝が悦ぶかその反応を見ながら上手に乱れ、耳で聞き知っていただけの性技を披露した。
当時、皇帝の年齢は二十九歳。
結婚前は多くの女性と浮名を流していたが、閨に積極的な女性を知らずにいたのはカーラにとって幸いだった。
カーラは様々な奉仕で皇帝を翻弄し、型通りの交接しか知らなかった皇帝はすっかりカーラの虜となった。
やがて三月後、カーラは見事懐妊を果たした。
子を身籠ったと知った時、カーラは賭けに勝ったと思った。
今まで自分が望んでその通りにならなかった事などない。
いずれ自分は男児を産み、その子どもはアンシェーゼの皇位継承者に名を連ねるだろう。
腹が膨らんで寵を失ったセルデフィアの二の舞はご免だった。
カーラは皇帝に飽きられないよう上手に男の欲を満たしてやり、時には甘え、時にはたわいもない我儘を言って皇帝を困らせ、皇帝の心を引き続けた。
逆らう者には容赦しない冷酷な皇帝であったが、色に溺れた男は扱いやすい。
腹が膨らみ始めてからも、皇帝は頻繁にカーラを寝所に呼び出した。
「きっと男の子ですわ」
ふっくらとしてきた腹を撫でながら、カーラは何度となく皇帝にそう言った。
「そうか、皇子か」
それを聞いた皇帝はまんざらでもなさそうだった。
「ならば男児を産んでみよ。
もし皇位継承者を産んだら、お前は側妃だ。その時は然るべき貴族の養女にしてやろう」
「本当ですか?」
カーラは顔を輝かせ、丸く突き出た自慢の白い乳房に男の顔を抱き寄せた。
堪らずにむしゃぶりついてくる皇帝を可愛いとさえ思ってしまう。
平民出の自分が大国アンシェーゼの側妃となる。
何より後見となる貴族が自分につくのはありがたかった。
生家は金に困る事がないと言うだけの卑しい商家で、側妃となった自分の役に立つべくもない。
これを機に、いっそ縁を切った方が良いとさえ思っていた。
カーラの見る限り、皇帝は妻である皇后を疎んでいた。
皇帝に次ぐ権力を持ち、家柄もよく、相応の政治基盤を宮廷内に持つトーラ皇后。
三年前は第一皇子を産み上げており、いずれこの皇子が皇太子となるのは時間の問題だと耳にした事があった。
皇帝はどうやらそれが不満であるらしい。
権力は自分一人に集中されるべきもので、その権威を脅かすような存在は皇帝にとって害でしかなかった。
カーラがもし男児を産めば、その子どもは宮廷に不調和をもたらし、皇后と皇后派の貴族の野心を打ち砕く、これ以上ない駒となるだろう。
だからであろうか。
子が生まれる前々日、皇帝はわざわざ離宮まで足を運び、身重のカーラを見舞ってくれた。
平民出の愛妾に対し、それは破格の待遇だった。
「あと数日後には皇子殿下が生まれますわ」
カーラは大きくなったお腹に手を添え、満面の笑みで皇帝にそう告げた。
翌日の晩、陣痛が始まり、夜明けとともに生まれ落ちたのはカーラが望まぬ女の子だった。
皇帝からは「大儀であった」という労いの一言が、侍従を介して伝えられた。
一仕事を終えたカーラは皇帝の訪れを待ち詫びたが、皇帝はついにカーラの枕辺を訪う事はなかった。
大言壮語しておきながら、カーラは皇帝の期待に応える事ができなかった。
それがよほど不快であったらしい。
産後の身を押して、カーラは幾度となく皇帝に手紙を送った。
女児を産んでしまった事を詫び、もう一度機会を与えられるなら絶対に間違わないと伝えたが、その文を手に取ってもらえたかどうかも怪しいものだ。
皇帝の興味は新しい侍女に移り、カーラの事などすでに眼中になかった。
寵愛が去ったと知った貴族達の変わり身の早さはカーラの予想以上だった。
離宮を訪れる貴族の一人とてなくなり、産後ふた月以上が経つ頃、カーラはようやく実家から何の祝いも届いていない事に気が付いた。
確かに自分は皇子を産めなかったが、だからと言って平民である両親までが自分を粗略に扱っていい訳ではない。
怒りのまま文を書き殴り、届けるようにと侍女に託して数日が経った頃、その文は誰にも読まれる事のなくカーラの手元に戻された。
「これはどういう事?」
眦をつり上げるカーラに、侍女は嗤った。
その瞳には悪意と哀れみが透けて見え、カーラは小さく息を吞んだ。
使用人だと馬鹿にしていた馴染みの侍女が、まるで見知らぬ人間のように見える。
従容と自分に仕えているように見せて、この女はいつから自分に二心を抱いていたのだろう。
それともカーラを取り巻く世界は、初めからこのように歪であったのだろうか。
「そちらの商家は潰れたそうですわよ」
思わぬ言葉に、カーラは瞠目する。
「どうやら尊いお方を怒らせたようですわねぇ。
取引先から次々と手を引かれ、商売は立ち行かなくなり、夜逃げしたらしいと聞いております」
ねっとりとした物言いには暗い歓びが透けてみえた。
「嘘よ……」
カーラは喘ぐように呟き、首を振った。
家は小規模ながらも栄えていた筈だ。狭い店は人で溢れ、すべてが順調にいっていた。
「家が困っているなんて一度も聞いた事がないわ!
どうして……! どうして教えてくれなかったの?
潰れる前に私に助けを求めてきた筈よ。文がきちんと届いていたでしょう!」
悲鳴のように叫んだカーラに侍女は呆れたように肩を竦め、
「文は来ませんでしたよ」と、淡々と答えた。
「店を潰す元凶となった方に、文をしたためる気にならなかったのでしょう」
「元凶? 私が一体何をしたというの?」
「ああ。いえ。どうやら口が過ぎてしまったようです。お許し下さいませ」
侍女は慇懃に頭を下げ、ついでのように言葉を足した。
「そう言えば、カーラ様はご存じではありませんでしたわね。
実はわたくし、皇后トーラ様の遠い縁戚に当たりますのよ」
この流れで皇后陛下の名を出すという事は、実家の没落に皇后が大きく関わっているという事だ。
カーラはよろめくように後退り、よろよろとソファーに崩れ込んだ。
皇帝の寵愛が深かった頃、皇后はカーラにもカーラの実家にも一切手を出さなかった。
皇帝との間に余計な軋轢を生まぬよう、素知らぬ顔で日々を送り、その陰で自分の意を酌む侍女を密かに離宮に配していた。
身の程を弁えぬ平民にいつの日か地獄を見せられるよう、耽々とその機会を窺っていたのだろう。
侍女はいつの間にか下がり、気付けばカーラは一人きりで部屋にいた。
自分はどこから間違ってしまったのだろうかと、カーラはぼんやりと膝に置いた自分の掌を見つめる。
今まで何もかもがうまくいっていた。
美しい容姿に恵まれ、苦労と言えるほどの苦労もせず、皇帝の寵愛を受けて離宮まで与えられた。
そうだ……とカーラは思う。
産んだ子が女児であった時から、すべての歯車は狂い始めたのだ。
側妃になり損ねたのも、皇帝がカーラを見限ったのも、親兄弟から恨まれるようになったのも、女に生まれ落ちたあの子どもが悪い。
あの子が男児でさえあれば……!
カーラはふらふらと部屋を出て、赤子が暮らす部屋に向かった。
日が柔らかく差し込む明るい部屋で、乳母が子に乳を含ませていた。
母の苦しみも知らず、子は無心に乳を啜っている。
お前さえ……!
お前さえ男児に生まれてくれば、わたくしの世界は完結していたのに……!
憎しみが淀み、目の奥が赤く染まるほどの怒りがカーラの身を押し包んだ。
カーラにはもう、何も残されていなかった。
この先延々と続くのは虚しいだけの人生で、悍ましく纏わりつく虚無の闇にカーラは喉元までどっぷりと漬かっていた。
その現実とまともに向き合えば、心が壊れるとカーラは本能で知っていた。
だからただ、鬼のような形相で我が子を睨みつける。
子を憎む事でしか、カーラはもう生きる事ができなかった。
お読み下さり、ありがとうございました。
こちらは少し暗い物語ですが、明日からはマリアージェ視点での里帰りのお話を、「夫イエルの独り言」の方に投稿して参りたいと思います。
また、先日は「禁じられた恋の果てに」のレビューをいただき、ありがとうございました。とても嬉しかったです。この場を借りてお礼申し上げます。




