新たな家族の形
リリアセレナの寝所を出て、二人は別室で向き合った。
最初に口を開いたのはフォール医師だった。
「確証があると言う訳ではないのです」
躊躇いがちにフォールは口を開いた。
「けれどおそらく、あの方は母親に虐待されていたのではないかと」
ヴィヴィアは小さく頷いた。
母親が実の子どもを痛めつけるなどヴィヴィアには今でも理解できないが、もしリリアセレナに暴力を振るっていた人間がいるとすれば、それは母親しか考えられない。
曲がりなりにも、リリアセレナは皇帝の娘なのだ。
付き人風情が簡単に手を出せる相手ではない。
フォールはやや厳しい視線を床に落とした。
「こちらに来られてから、リリアセレナ様は一切笑顔をお見せになりません。
体つきも、同年代のお子と比べると随分小さいのです。
余りに様子がおかしかったので、湯あみをさせた侍女に身体に傷はないかを確かめさせましたが、それらしき傷はありませんでした。
それで、どうご報告申し上げるか迷っていたところでした」
「……ぶたないでと泣いていたわ。
体に傷が残らないよう、手加減をしながら日常的に暴力を振るっていたのね」
フォールは頷いた。
「体への暴力だけではありません。
リリアセレナさまは、おそらく食事も満足に与えられていなかったのではないかと思われます」
「この子はアンシェーゼの皇女よ。満足にものが食べられないなんてある訳がないわ」
驚いたように言葉を返したヴィヴィアに、フォールは沈痛な面持ちで首を振った。
「食事は用意されていても、母親がもし食べるなと言ったら、幼い子は逆らう事ができません。
挨拶が上手にできなかった、テーブルマナーが悪かった、勉強がはかどらなかった、理由は何でもいいのです。
平気で我が子を叩くような母親です。
体に傷がつけられないなら、ご飯を抜くくらいの嫌がらせはすぐに思いつきます。
おそらくそれ以上に言葉の暴力はひどかったのではないでしょうか」
「そんな……。お腹を痛めて産んだ我が子にどうしてそんな事を……」
顔を歪めるヴィヴィアに、フォールは重いため息をついた。
「おそらくリリアセレナ様が皇女であられたからだと思います」
「皇女……?」
「アンシェーゼでは、愛妾となった女性がもし男児を生めば、その女性は出自に関わりなく側妃の称号を頂くそうです。
今、現皇帝が寵愛しているツィティー側妃がいい例です。
あの方は元々しがない踊り子でしたが、皇子殿下をもうけられたため、側妃に立后されました。
リリアセレナさまのお母上は、おそらくあまり幸せではなかったのでしょう。
皇帝のお手付きとなりましたが、多分その寵愛は長く続きませんでした。
生まれたお子も女児であったため側妃への立后も叶わず、その鬱憤がすべて生まれたばかりの我が子に向かったのではないかと思われます」
女の子に生まれてごめんなさい……と必死に謝っていたリリアセレナの言葉が蘇り、ヴィヴィアはきつく唇を引き結んだ。
そんな言いがかりのような言葉をぶつけられて、幼いリリアセレナにどう反論する事ができたというのだろう。
努力しても変われるものではなく、ただ傷つけて鬱憤を晴らすためだけに、あの子の母親は幼い我が子を痛め続けたのだ。
ヴィヴィアはふと、自分の半生を思った。
生さぬ子との距離をつかめぬまま月日を過ごし、エリーゼが生まれてからはただあの子を生かそうと必死だった。
そしてその我が子すら天に召され、気付けば長男は幼い妹の死を願うほどに歪んでいて、その兄に苛められていた次男は何とかまともに育って今は遠い国にいる。
夫が外に作った子に対しては何もできなかった。けれど今、ヴィヴィアの手元には傷付き、怯えきった小さな子どもが残された。
子どもらしい肉づきがほとんどない、笑顔を見せぬ小さな女の子。
見も知らぬ国へ怯えながら嫁いできた幼い子は今、確かに、母の愛を欲していた。
その晩、ヴィヴィアはリリアセレナの寝所に向かい、眠り続ける子どもの顔を飽く事もなく見つめていた。
布団から出た小さな手をヴィヴィアはそっと掌に包み込む。
この子の母親がこの子を要らないというのなら、わたくしの子にしようとヴィヴィアは心に呟いた。
この先、エリーゼにかけてやる筈だった愛情を全てこの子に与えよう。
この子が二度と寂しさに泣く事のないように、この子を取り巻く世界が明るく笑いに満ち満ちたものになるように、わたくしが全力でこの子を守ってやるのだ。
ただ守られて、自身の不幸を嘆くばかりだった己自身をヴィヴィアは初めて反省した。
他人から与えられる優しさをただ待っているだけでは、人は幸せになどなれないのだ。
身の内にある強さを、自分はどうして信じてやれなかったのだろう。
その後、領地エトワースにいるロベルトから、帰るのが二、三日先になるという報せが届いた。
以前のヴィヴィアなら、ロベルトがいない事をこれ幸いと聖堂で嘆きに浸っているところだが、今のヴィヴィアには世話をしなければならない愛おしい子どもがいた。
翌日から、ヴィヴィアはリリアセレナにつきっきりで世話を焼く事となった。
リリアセレナはまだ完全にヴィヴィアに心を許している訳ではなかったが、ヴィヴィアが近付いても怖がる事はなくなった。
ただ、急に手を伸ばすと怯えるのがわかっていたから、リリアセレナに触りたい時は、ヴィヴィアは最初に問いかける。
「貴方の額に触ってもいい?」
頷くリリアセレナの額に優しく手を当て、「もうほとんど熱は下がったわね」とヴィヴィアは安堵したように微笑んだ。
「私が触るのは嫌?」
試しにそう聞いてみると、リリアセレナはちょっと首を傾げた。
「多分、嫌じゃない、です。
……手が気持ちいいです」
「じゃあ、お母さまの手が気持ちいいですと言ってみて」
リリアセレナは、お母さま……と口に中で小さく呟き、それからおそるおそる言葉に出した。
「……お母さまの手が気持ちいいです」
「よくできました」
ヴィヴィアはゆっくりとその手を伸ばし、小さなリリアセレナの頭を撫でてやった。
まだ微熱があるリリアセレナは、今日一日はベッドで大人しくしていなければならない。
ただ寝転んでいても退屈だと思われたので、ヴィヴィアはリリアセレナの傍で時間を過ごす事にした。
侍女に頼んで刺繍道具を持ってきてもらい、一針一針布に模様を刺していく。
エリーゼが生きている時は、母の姿を恋しがるエリーゼのために、やはり同じような事をしてやっていたものだ。
刺繍が施されていくハンカチを、リリアセレナは興味深そうにじっと目で追っていた。
「とってもきれい……」
ぽつんと呟いたリリアセレナに、ヴィヴィアは優しく微笑みかけた。
「これは貴女のハンカチよ」
「え」
「アンテルノ家の家紋と貴女の名前を縫い取っているの。
名前は貴女の好きな色で刺繍しましょうね」
「わたくしも……刺繍をしてみたいです」
「いいわ。元気になったら一緒にしましょうか」
傍らに寄り添い、思い出したように時折、会話を交わす。
急速に距離を縮めなくとも、これからいくらでも時間はあるのだ。
焦らずに静かな時を積み重ねていけたらいいと、刺繍糸に目を落としながらヴィヴィアはそう思った。
翌々日、領地から帰ってきたロベルトを、ヴィヴィアはリリアセレナと共に出迎えた。
大人の男性が怖いのか、無意識にヴィヴィアの背に隠れるリリアセレナを見て、ロベルトが僅かに瞠目した。
幼いリリアセレナは明らかにヴィヴィアになついていて、ヴィヴィアの表情もまたここ数年見た事がないほどに穏やかに笑んでいたからだ。
緊張しながらも一生懸命挨拶してくるリリアセレナに、ロベルトは優しく声を掛けてやった。
夕食の後、寝かしつけにリリアセレナの部屋に入っていくヴィヴィアを黙って見送り、ロベルトはその間に留守中の報告を受ける事にした。
知らされた事実はロベルトの想像を遥かに超えたもので、リリアセレナが実母から虐待を受けていたと聞かされたロベルトは、しばらく返す言葉を失った。
随分人見知りの激しい子だと感じていたが、七つの子ならこのようなものかと気にも留めていなかったのだ。
医師のフォールは、ようやくリリアセレナ自身から聞き出した母国での様子や今後の注意点について、事細かに当主に伝えた。
離宮には一応、リリアセレナを庇う母代わりの乳姥がいたらしく、愛情をまるで知らずに育ったわけではない事、身長や体重が同じ年頃の子どもに比べて極端に少なく、この後は食生活に特に気をつけてやらなければならない事、そして感情の揺り返しで激しい赤ちゃん返りが来る事も想定される事。
「リリアセレナさまに必要なのは、ご両親の愛情です。
実母から受けた傷を癒すために、この先わがままを言ってお二人を困らせる事があると思いますが、一過性のものだとどうぞご理解下さい」
「わかった。そのように心に留めておこう。」
こちらの都合で、無理やり運命を捻じ曲げてしまった子だ。その子を愛おしんでやる事に異存はなかった。
「もう一つ、奥方さまの事についてお話をさせて下さい」
フォールは更に言葉を続けた。
「リリアセレナさまを腕に抱かれてから、奥方さまの感情が随分落ち着かれました。
このままではいつ精神を病まれるかわからないと、以前そう申し上げた事は覚えていらっしゃると思います。
表面上は明るく振舞っておられてもどこか感情が不安定で、いつ自傷に走られてもおかしくないと案じておりました。
けれど守るべき子どもを持たれてからは心も落ち着き、この二日間は眠剤も服用されておりません」
フォールは言葉を切り、真っ直ぐにロベルトの顔を見た。
「リリアセレナさまをお守り下さい。
奥方さまはリリアセレナさまの感情に引きずられますから、どっしりとした愛情で二人を包み込む御当主さまの存在がどうしても必要なのです。
奥方さまの病状が今後良くなるかどうかは、リリアセレナさまが屈託なく笑えるようになるかどうかに掛かっているとご理解下さい。
ですから、その意味でもリリアセレナさまをどうぞ守っていただきたく……」
頭を下げるフォールに、ロベルトは苦笑混じりの笑みを向けた。
「ヴィヴィアの表情が明るくなった事には私も気付いている。
今までどう守ろうとしても少しずつ壊れていくヴィヴィアを、ただ黙って傍で見ているしかなかった。
その手立てがようやく見つかったのだ。
心配せずとも、私はこの先、全力で二人を守るだろう」
その晩、リリアセレナを寝かしつけて寝所に戻ってきたヴィヴィアを、ロベルトは腕に抱きしめた。
ヴィヴィアは幸せそうに頬を埋めてきて、翳りのないその笑みを見ているだけで、ロベルトの胸に温かいものが広がった。
夫の胸に頬を寄せ、ヴィヴィアはぽつりぽつりと自分の思いを語り始めた。
「エリーゼが死んでから、わたくしは毎日が辛くて堪りませんでしたの。
でもリリアセレナを見て、ようやく気が付いた事があって……」
ヴィヴィアは考えをまとめようとするように口を閉ざし、ロベルトは静かにその続きを待った。
「……わたくし、精一杯エリーゼを愛しましたわ。
これ以上ないほどに、愛情の全てをかけてあの子を心から愛しました。
あの子は幸せな子どもだったと、わたくしはようやく自分に納得させる事ができましたの。
天に召されたのは本当に寂しい事ですが、あの子はわたくしに母としての悦びを教えてくれました。
一緒に過ごせた時間はかけがえのないもので、あの子が生まれてくれて良かったと、今は心からそう思えるのです」
ロベルトは頷いた。
エリーゼは僅か六つで死んでしまったが、今もあの子はロベルトの心の中で生きている。
あの子もまた、どうせ思い出してもらえるなら、優しく温かな思い出として、大好きな母の中に留まりたいのではないだろうか。
「ですから今度は、この幸せをリリアセレナに分けてやりたいのです」
ヴィヴィアは穏やかな眼差しでロベルトを見上げた。
「ロベルト。
しばらくはあの子中心の生活になってしまうと思いますが、どうぞお許し下さいませ。
わたくしはあの子の母になりたいのです。
そしてできる事ならば、貴方もあの子に愛情をかけてやってはいただけませんか」
懇願してくるヴィヴィアの指に、ロベルトはそっと口づけた。
「勿論、そのつもりだ。
あの子は縁あって私たちの許に来てくれたんだ」
「ロベルト……」
「もしかすると、泣いてばかりいる君を心配して、エリーゼが寄越してくれた子なのかもしれないね」
ロベルトの言葉にヴィヴィアは涙ぐんで頷いた。
片恋だと思っていた頃、ロベルトと共に歩める未来をヴィヴィアは想像した事もなかった。
ロベルトは想う事も許されない相手であり、禁じられた恋の果てに何が待っているのかわからぬまま、ヴィヴィアはただ、断ち難い想いに引き摺られてここまでやってきたのだ。
全ての運命が動き出したあの夜会、そして蜜月の後の流産。
愛人が待つ領地へと出向いていくロベルトの馬車を見送る朝の、身の置き場のない苦しみ。
我が子を腕に抱く幸せを得て、そして僅か六年で絶望の淵に突き落とされた。
この恋が正しかったかどうか、ヴィヴィアにはわからない。
ただ、この生き方しかヴィヴィアにはできなかった。
そしてそれはロベルトにとっても、おそらく同じ事だったのではないだろうか。
「愛しているわ、ロベルト」
想いのすべてを込めて、ヴィヴィアはそうロベルトに囁いた。
この温もりに包まれて、いつの日もヴィヴィアは生きてきた。
この先もロベルトさえ自分の傍らにあれば、どんな困難にもきっと立ち向かっていけるだろう。
「ヴィヴィア」
ロベルトがそっと身を起こし、優しくヴィヴィアに口づけてくる。
ヴィヴィアは微笑みながら、その頭に両の腕を伸ばした。
唯一と慕う人の温もりに包まれて、ヴィヴィアは柔らかな至福に酔いしれる。
流れゆくこの先の未来に思いを馳せ、貴方の妻になれて幸せだとヴィヴィアは心にそう呟いた。
これで、本編は終了となります。
この後は、外伝を二つ続ける予定です。




