思わぬ悪意
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翌日からヴィヴィアには多くの縁談が舞い込んだ。
その中にはヴィヴィアにはもったいないほど縁も混じっていたが、ヴィヴィアはまだ結婚などとても考えられず、両親もまたヴィヴィアの婚約を今すぐ決める事には消極的だった。
一つには、ヴィヴィアの体がそう強くないという理由もあったのだろう。
ヴィヴィアは、季節の変わり目などに体調を崩す事がよくあり、そうした事情を知った上で迎え入れてくれる相手でないと、嫁いでから苦労をするだろうと二親は案じていた。
結婚を急かせるつもりは両親にはなかった。セルダント家は旧家ではないものの、そこそこの家格を持ち、財政的にも問題ない。
高望みをしなければ、ヴィヴィアにはいくらでも縁談があり、ゆっくり選んでいけばいいと考えたのだろう。
その後は体に無理のない範囲でヴィヴィアは社交の場に顔を出していき、貴族の娘としての人脈を少しずつ築いていった。
ロベルトとは、あの後も何度か顔を合わす事はあった。
ただ、遠目に会釈する程度で、お互い親しく言葉を交わす事もない。
ロベルトはヴィヴィアに近づく事を避けていたし、第一、ロベルトの周囲には、いつも多くの令嬢たちの姿があった。
アンテルノ家は公国に数少ない旧家の一つであり、ロベルト自身もすらりとした精悍な容姿をしている。
降るように縁談が申し込まれていて、伯父はその話を一つ一つ吟味しているようだった。
いっそロベルトが誰かと婚約してしまえばいいと、ヴィヴィアは思った。
そうすれば、この行き場のない恋に完全に区切りをつける事ができるからだ。
ヴィヴィアからは無理だった。
どうしても心が引き摺られて、狂ったようにロベルトだけを欲してしまう。
誰にも祝福されない恋だとヴィヴィアは苦く自嘲する。
未来はなく、ただ周囲を傷つけるだけだとわかっているのに、心だけがままならなかった。
やがていくつもの季節がヴィヴィアの上を通りすぎ、また新しい年が訪れて、気付けばヴィヴィアは十七になっていた。
貴族の娘ならば十八、九には嫁ぐのが一般的で、悠長に構えていた両親もそろそろ本気でヴィヴィアの相手を探そうと動き始めた。
婚約が決まれば、半年近い婚約期間の後にすぐ結婚となるだろう。
両親が選んでくれた婚約者候補は、いずれも申し分ない相手ばかりで、足りないのはヴィヴィアの覚悟だけだった。
一方のロベルトも、婚約が現実味を帯び始めていた。
最有力候補は公国の北部に鉱山を有するノルディアム家の令嬢で、この婚姻が成立すれば莫大な持参金と共にアンテルノ家に輿入れしてくる事となる。
ノルディアム家のアイラ嬢は、ヴィヴィアも舞踏会などでよく目にしていた。
ヴィヴィアより一つ年下で、括れた腰と豊満な胸を持つ妖艶な美少女だ。健康的な若さに溢れていて、病気一つした事がないとも聞いていた。
跡継ぎをもうけなければならない貴族らにとって、妻が健康である事は重要な意味合いを持つ。
家格はやや低いとはいえ、健康で女性としての魅力に溢れ、更に莫大な持参金を持つとなれば妻にと望む貴公子は多く、アイラは大勢の崇拝者を従えていた。
崇拝者の中からは誰か一人を選ぶ事ができなかったアイラも、アンテルノ家との縁組となれば話は別だ。
他にも、家柄の優れた令嬢らがロベルトの妻の座を望んでいる事を知るアイラは、自慢の美貌と多額の持参金を武器に積極的にロベルトに近付き、その関心を得ようとしていた。
最近では、ロベルトが出席している夜会には必ずアイラの姿があり、取り巻きも交えて楽しそうに談笑している様子がよく確認されている。
その二人は、今もホールで仲睦まじそうにダンスを披露していた。
ダンスで疲れた体を壁際で休めながら、お似合いの二人だわとヴィヴィアはひっそりと心に呟いた。
ロベルトに健やかな子を与える事のできない自分と違い、アイラならいくらでもロベルトを満たせるだろう。
経済的にも、ノルディアム家以上にアンテルノ家を潤せる家はなかった。
この恋を失って果たして自分は生きていけるのだろうかと、ヴィヴィアは寂しく自分に問いかけた。
ロベルトがアイラと楽しそうに談笑する姿を見るだけで、ヴィヴィアの胸にはどす黒い感情が沸き起こり、嫉妬と羨望に息をするのも苦しくなる。
それとも誰かと結婚して体を繋げば、この恋心も薄らいでいくのだろうか。
結婚すれば愛情は後から伴われると、ヴィヴィアにそう告げたのは従姉のクラウディアだ。
ならば、二度とロベルトの姿を見る事が叶わないように、公都から離れた領地に自分を閉じ込めてしまうような相手がいいとヴィヴィアは思った。
そうすれば、いつの日かロベルトの事を忘れられるだろう。
とりとめもなく想いを彷徨わせるうち、二人のダンスはいつの間にか終わっていて、ホールの隅へと移動していた。
すぐにアイラの取り巻きたちが近寄って行き、皆で楽しそうに歓談を始める。
と、ちらりとこちらを窺ったアイラがロベルトに何かを話しかけ、そのまま真っ直ぐにヴィヴィアに視線を当ててきた。
その眼差しの強さにヴィヴィアがたじろいだ時、アイラの視線を追うようにロベルトやアイラの崇拝者たちまでがヴィヴィアの方へと体を向ける。
ヴィヴィアの姿を認めたロベルトの目が大きく見開かれ、同時にアイラの崇拝者たちが面白がるように唇の端を上げるのがわかった。
ヴィヴィアの顔から血の気が引いた。
あさましくロベルトを見つめていたヴィヴィアにアイラが気付き、笑いものにされたのだとわかったからだ。
身の置き所のない恥ずかしさと惨めさに、ヴィヴィアは堪え切れずに身を翻した。
何より恋しい相手にこのような姿を知られた事が耐え難い。
きっとロベルトは呆れ果てた事だろう。
人の口の端に上るほど未練がましい行動をとり、身分の劣る者たちにまで嘲られるなど、貴族の娘としてあってはならぬ事だった。
夢中でホールを抜け、人目のない庭園へ駆け込んだ。
堪え切れない涙が、幾筋も頬を伝っている。
庭園の所々には明りが灯されているが、木陰に身を隠せば、泣き濡れたこの惨めな姿を誰かに見られる事はないだろう。
葉の茂る木の奥で足を止め、頬を濡らす涙を手の甲でそっと拭った時だった。
不意に横から手が伸びてきて、ヴィヴィアは小さな悲鳴を上げた。
庭園に逃げ込むヴィヴィアの姿を見かけ、追いかけてきた男がいたのだと、ヴィヴィアはようやく気付いた。
華奢なヴィヴィアにからすれば、暗がりからいきなり現れた男はそれだけで十分恐怖の対象になる。
その上、男は躊躇いもなくヴィヴィアの手首を掴んできてヴィヴィアはパニックになった。
「放して!」
きちんとした身なりをしているから、夜会に招待された貴族の一人だという事はわかったが、それで恐怖がおさまる筈もない。
闇雲に手を振り解こうとしたが、男の力に敵う筈もなく、反対に力づくで引き寄せられた。
酒臭い男の息が間近にかかり、ヴィヴィアの体に鳥肌が立つ。
「ああ。暴れないで」
男は下卑た笑いを漏らした。
顔を見る余裕はなかったが、その声には聞き覚えがあった。
以前、ヴィヴィアに縁組の申し込みをしてきた貴族だ。確か、アルカウト卿とか言ったか…。
出自自体は悪くなかったが、素行が余り良くないと父が断っていたのを覚えている。
「どうやら感情を乱されているようだ。
これ以上人目を引きたくないならば、大人しくされてはどうか」
あんな風に庭園に駆け込んだのだから、泣いていた事はおおよそ予想がつくのだろう。
貴族令嬢が感情を露にするのははしたない行為で、まして人の集う夜会で涙を見せたなど、恥以外の何ものでもなかった。
ヴィヴィアはぐっと奥歯を噛みしめ、それでもありったけの勇気を振り絞ってアルカウトと対峙した。
「手をお放し下さいませ!」
人の口の端に上りたくないなら抵抗をするなと言いたいのだろうが、そのような事を許せる訳がない。
このような男に好きなようにされるくらいなら、人目を引いて評判を落とし、修道院にでも行った方がヴィヴィアには遥かにましだった。
人気のない庭園に入り込んだ自分の浅慮を、この時ほどヴィヴィアは呪った事はなかった。
今日の夜会はそれほど格式の高いものではない。
薄暗い場所では人目を忍ぶ恋人たちが逢瀬を楽しむ事があると従姉たちから聞いていたのに、何と迂闊な事を自分はしてしまったのだろう。
別の手で抱きしめようとしてくるのを、ヴィヴィアは渾身の力で振り払った。
必死に抗おうとするが、手首を掴む男の手は強く、闇雲に暴れるうちに結い上げた髪が乱れていくのがわかった。
アルカウトは更にヴィヴィアのドレスの端をわざと踏んできて、逃げようと体を捻った拍子に薄いドレスが無残に引き裂かれた。
「いやぁ…ッ!誰か…!」
悲鳴を上げた時、不意にアルカウトの手が緩んだ。
手を急に放されたヴィヴィアはバランスを保てずにそのまま地面に倒れ込む。
恐怖に駈られるまま顔を上げれば、自分を襲おうとしていたアルカウトが地面に叩きつけられるところで、ヴィヴィアは呆然と自分を助けてくれた人物へと目を向けた。
「あ………」
自分に都合の良い夢を見ている心地がした。
ヴィヴィアからアルカウトを遠ざけるように更にその体を蹴り上げるその広い背中を見間違えよう筈がない。
先ほどまでアイラの隣で歓談していたロベルトだった。