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褪せぬ嘆きの中で


 ステンドグラスから柔らかな光が差し零れる小聖堂の中で、ヴィヴィアは一人敬虔な祈りを捧げていた。

 思い出すのは小さなエリーゼの事で、今もその姿を脳裏に思い浮かべるだけで、涙がとめどなく頬を伝い落ちる。


 ユリフォスは今朝方、ガランティアに旅立っていき、ロベルトは先ほど領地エトワースで橋の崩落があったと報せが来て、慌ただしく邸宅を後にしていた。



 一昨日嫁いできたリリアセレナは、年の離れたユリフォスにとうとう馴染む事ができなかった。

 嫌っている訳ではないとヴィヴィアは思う。

 どちらかと言うと嫌われる事を恐れていて、一生懸命ユリフォスの顔色を窺っていていた。


 ユリフォスを乗せた馬車が見えなくなると、リリアセレナは明らかにほっとしていて、「少しお部屋で休むといいわ」と声を掛けると、大人しく頷いて自分の部屋に入っていった。

 どこか気だるそうなのは気になるが、アンテルノ家付きの医師に様子を見させている。

 何かあれば、報告が来るだろう。



 このところ慌ただしい日々が続いていたから、こうして一人の時間を持ち、聖堂に籠るのは久しぶりだ。


 ロベルトが邸宅にいる時は、ヴィヴィアは朝の祈り以外では聖堂を訪れない。

 エリーゼを恋しがって泣いていると、ロベルトを心配させてしまうからだ。


 エリーゼが死んだ当時は慟哭が余りにも激し過ぎて、日にちの感覚さえずっと失われていた。

 感情が常に不安定で気づけば壊れた人形のように涙をこぼしていたり、過呼吸になってそのまま意識を失ったり、そんな自分を案じてロベルトは自分から離れる事も出来なかった。


 あの頃の自分は、ロベルトによってようやく生かされているという感じだった。

 一日中ただ天井を見てぼうっと毎日を過ごし、何かの拍子に急に感情が乱れて泣き叫ぶ事もあり、そんな時はすぐ、ロベルトが駆けつけて腕にしっかりと抱きしめてくれた。


 食事もそうだった。

 ロベルトに懇願され、時には手ずから食事を口に運んでもらい、一生懸命にそれを飲み込んだ。


 あれ程に手間のかかる妻をよく見捨てなかったものだと、ヴィヴィアはつくづくそう思う。

 このままではいけないとようやくヴィヴィアが気付いたのは、エリーゼを失って一年近くが過ぎた頃で、寝付いていた足はすっかり弱り、室内を数歩歩くのがやっとという感じになっていた。

 

 自分の意志で歩く練習を始めた妻を見て、ロベルトは良かったと声を詰まらせて喜んでくれた。

 私のために生きてくれと抱きしめられ、ヴィヴィアはその首に両手を回して、申し訳なさにただ泣くしかできなかった。


 考えれば子を喪ったのは、自分だけではなかったのだ。

 我が子を喪った悲しみを一切口にせず、ヴィヴィアを支える事に専心してくれたロベルトの愛情の深さに思いを馳せた時、石にしがみついてでも生きなければとヴィヴィアは思った。


 痩せ細った体に以前の柔らかさが戻ってきて、日常の動作が普通にできるようになるまで、更に数か月の時間を要した。

 男盛りのロベルトは、その間愛人を作る事もなくヴィヴィアの回復を待ってくれ、ようやく妻としての務めを果たせるようになった時は、体の悦びよりも安堵に涙が零れ落ちた。


 ここまで夫に愛されて、これ以上望むべくもないと思うのに、それでもヴィヴィアの心から我が子をなくした喪失感が消える事はない。

 胸の中には常に大きな悲しみが凝っていて、心から笑う事もなく、眠っていてもいつも重い石が胸の上に乗っているような、そんな毎日だった。



 気が付けば、心の中でエリーゼに謝っていた。

 

 小さな体に苦しみを負わせてごめんなさい。

 丈夫な子どもに生んであげられなくてごめんなさい。


 零れ落ちる言葉は悔恨を含み、けれどもう二度と愛おしい子どもに届く事はない。


 子ができにくい上、できたとしても健やかに育たないだろうという事は、母から何度も言われていた。

 それでも、自分はどうしてもロベルトと共に歩みたくて、周囲の反対を押し切ってロベルトにしがみついた。

 そして生まれたのがエリーゼだった。


 弱い体に生んでしまったエリーゼへの申し訳なさと、子を喪わせる苦しみを夫に負わせてしまった罪深さが、日々ヴィヴィアを苛んでいる。

 突き詰めて考えれば考えるほどおのれへの嫌悪が増していき、自分がいなくなれば……と死を願った事も一度や二度ではない。


 勿論、こんな風に考えるのは愚かな事だとヴィヴィアにはきちんとわかっていた。

 けれど、どうすれば前を向いて生きられるようになるのか、ヴィヴィアにはもうわからないのだ。


 笑おうと思っても、いびつな作り笑いしかできていない。

 ヴィヴィアの腕の中は空っぽで、その虚しさを埋めるために救いをひたすらカナの神に求め、そうしてようやく呼吸ができている状態だ。


 そして、こんな自分にロベルトが気付かない筈がなかった。


 ヴィヴィアが強張った笑みしか見せないから、ロベルトも最近はあまり笑わなくなってしまった。


 こんな救いのない暗い世界にロベルトを引きずり込みたいとは微塵も思わないのに、この苦しみの連鎖から逃れ出る道がわからない。


 このままこの状態が続けば、いつか自分は破綻して狂気を呼び寄せてしまうだろう。

 どうすれば光のさし零れる方角に歩いて行けるのか……。




 還らぬ子の名を虚しく呼んで涙を零し続け、どのくらいの時間が過ぎたのか。

 気付けば日が傾きかけていて、聖堂の扉を誰かが躊躇いがちにノックしてきた。


 泣き濡れた顔を上げ、ヴィヴィアはそっと扉の方へ体を向けた。

 

「お入りなさい」 

 小さく声を掛けると、ニアと共にリリアセレナ付きの侍女が静かに入ってきた。


 ヴィヴィアは僅かに眉宇を寄せた。

 リリアセレナに何かあったのだろうか。


「リリアセレナの具合は?」


 そう尋ねかければ、侍女は躊躇いがちに口を開いた。


「夕刻になって熱が少し高くなりました。

 フォール医師より、奥様に来ていただけないかと伝言を承っております」


 ヴィヴィアはドレスの裾を払い、静かに立ち上がった。


「すぐに行くわ」 


 腫れぼったい瞼をしたヴィヴィアに、ニアは何か言いたげな顔をしたが、ヴィヴィアの行動を止めようとはしなかった。

 リリアセレナはアンテルノ家の嫁と言うだけでなく、アンシェーゼの皇女でもある。

 何かあれば、かの国にも申し訳が立たない。





 部屋を訪れると、病人特有のむうっとした熱気がヴィヴィアを包み込んだ。


「奥様」


 枕辺に屈み込んでいた女医のフォールがすぐに立ち上がり、ヴィヴィアのために場所を譲る。


 天蓋付きの大きなベッドの中で、小さなリリアセレナは額に大汗を浮かべて苦しそうに息をしていた。


「今、熱さましを差し上げたところです。

 半刻もすれば下がってくると思いますが」


 ヴィヴィアは唇を噛みしめた。

 子どもが苦しそうにしている姿を見ると、胸が引き絞られそうな気がする。


「早く薬が効けばいいけど」


 枕辺の椅子にヴィヴィアは腰かけた。

 そうして上体を傾けるように顔を覗き込めば、気配を感じたのかリリアセレナがぼんやりと瞳を開けた。

 まだ半分夢の中にいるのか、その焦点は合っていない。


「ひどい汗……」

 

 ヴィヴィアは枕辺にあった手巾を手に取り、その汗を拭ってやろうと顔の方へ手を伸ばした。


 異変が起こったのはその瞬間だった。 

 ぼうっと天蓋を見つめていたリリアセレナの瞳が恐怖に大きく見開かれ、まるで顔を庇うように両腕を交差させたのだ。


「いやぁ……!ぶたないで……!」


 追い詰められた獣のような叫び声が小さな喉から迸り出た。






 何が起こったのかヴィヴィアにはわからなかった。

 ヴィヴィアの目の前で小さなリリアセレナは必死に頭を庇い、体を丸めて泣き叫んでいる。


 切れ切れに漏れる言葉は恐怖に彩られ、泣き叫びながらリリアセレナは必死に懇願していた。


 

 ごめんなさい。ごめんなさい。すぐに元気になります。ですからぶたないで。リリアセレナはできの悪い子です。女の子に生まれてしまってごめんなさい。役立たずでごめんなさい。だからどうかぶたないで。リリアセレナはいい子になります。ちゃんとお約束します。だから許して……。


 ヴィヴィアは呆然と目の前の子どもを見つめた。

 この子は一体、何を言っているのだろう。


 言っている意味は半分も理解できなかったが、自分が何をするべきかはヴィヴィアには分かった。

 

 半狂乱になって謝り続ける子をヴィヴィアはしっかりと胸に抱き寄せた。

 リリアセレナは怯え、腕から抜け出そうと抗ったが、ヴィヴィアはそれを許さなかった。

 母としての本能が、今この子を絶対に腕から離してはいけないと告げていた。


 エリーゼを抱いてやっていた時のように、泣きじゃくるリリアセレナの頭に頬を寄せ、宥めるように何度も何度も優しく背中を撫でてやる。


「大丈夫よ、リリアセレナ。どうか怖がらないで」


 怯えて泣く子どもの心にその言葉が浸透していくまで、粘り強くヴィヴィアは囁き続ける。


「貴女をぶつような人はここにはいないわ。だから怖がらないで。大丈夫よ。怖い事は何もないの」


 腕の中でもがく幼い子の体の温もりがヴィヴィアにはいっそ愛おしい。

 しっかりと頬を寄せ、リリアセレナの涙を肌に感じ、宥めるようにその額に口づけた。


 子を守りたいという本能的な母性が、空虚だったヴィヴィアの心から母としての強さを引き出していく。

 抱き寄せられた胸の中でリリアセレナもまたようやく温もりに気付いたように、熱に火照る顔を僅かにもたげ、しゃくりあげながらヴィヴィアの顔を見上げた。


 その眼差しに敵意がない事を確かめて、リリアセレナは恐る恐るヴィヴィアの服を掴んだ。

 ひくついていた喉がだんだんと落ち着いていき、今度は確かめるようにヴィヴィアの胸に顔を埋めてくる。


「いい子ね」


 ヴィヴィアが頭をなでてやると、リリアセレナはだんだんと体から力を抜いていき、やがて疲れ果てたように目を閉じた。


 この腕は自分を傷つけない手だと、リリアセレナにもようやくわかったのだろう。

 思い出したように何度か瞬きをするうちに、ふわりと小さなあくびが口から漏れ、もう一度、ヴィヴィアの顔を確かめるように目を上げた。


 ヴィヴィアは微笑み、もう一度汗に濡れた額に口づけた。

 それからそっとリリアセレナの体を寝台に寝かせ、温もりが失われる事を恐れる子の頬に、自分の頬をゆっくりと近寄せる。

 右手で優しくリリアセレナの髪を梳いてやり、寝かしつけるように柔らかく肩の辺りをゆっくりと指で叩いた。


「眠るまでここにいてあげる。

 怖いものは何もないわ。だからゆっくりおやすみなさい」


 リリアセレナは眠りかかっては目を開け、ヴィヴィアの姿を確かめて、またまぶたを閉じた。

 それを何度か繰り返し、やがて引きずり込まれるように眠りの世界へと落ちていった。


 

 リリアセレナが完全に寝入ったのを確かめて、ヴィヴィアはそっと上体を起こした。

 布団を首のところまでかけてやり、リリアセレナから目を離さないようにと侍女に声を掛ける。


 そしてヴィヴィアはリリアセレナをずっと診させていたフォール医師へ真っ直ぐに視線を向けた。


「この子の事を知りたいの。

 貴方の見立てを聞かせて下さい」






次話で、本編は終了となります。

長い間お付き合い下さり、ありがとうございました。

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