縁談への横やり
ロベルトが大公殿下の従兄弟に当たるサミュエ・エクゼス卿の訪問を受けたのは、その四日後の事だった。
「突然こちらにお邪魔して申し訳ない」
慇懃に頭を下げてくるエクゼス卿に、ロベルトは穏やかに笑んで椅子を勧めた。
「邪魔などと。
卿を歓迎しない貴族など、この公国にはおらぬでしょう」
大公殿下の信頼も厚く、国務卿として政治の中枢にもいる男だ。
貴族としても一派閥を持ち、大きな発言権を持つエクゼス卿と懇意になりたくない貴族など、この公国のどこを探してもいないだろう。
とはいえ、今の状況を鑑みれば、この度の訪問はロベルトにとって諸手を上げて歓迎したいものではなかった。
特別親しくもないエクゼス卿がわざわざロベルトを訪れるからには相応の用件を引っ提げている筈であり、そうなれば思い当たるのはアンテルノ家の継嗣問題以外に考えられない。
とはいえ、ロベルトの方はわざわざこちらから話を振ってやるほど親切な人間ではなかったので、何食わぬ顔で当たり障りのない世間話に興じた。
やがてひとしきり狩猟や政治の話を楽しんだ後、エクゼス卿は徐に話を切り出してきた。
「いや、実は二日前にイル卿が急に我が家にやって来たのです。
聞けば、アンテルノ家のご当主と何やら行き違いがあったとか。
イル卿は相当にしょげておりました。
どうやら義理の息子共々、アンテルノ卿に取り返しのつかぬ不義理を働いたようですな」
ロベルトは肯定も否定もせず、続きを促すように軽く頷いた。
「ジュベル卿は幼い時分より、アンテルノ家の長男として家を守っていくようにと育てられたそうです。
ですからアンテルノ家に対する思い入れもかなり強い。
義理の父親であるイル卿はそんなジュベル卿の思いを知っていますから、何とか願いを叶えてやりたいと必死になっておったようです。
気持ちばかりが先走り、つい要らぬ言葉を言ってしまったと言っておりました」
「要らぬ言葉、ですか。
そんなかわいいものではなかった筈ですが」
ロベルトはやや辛辣に言葉を返したが、エクゼス卿は気にせずに話を続けてきた。
「イル卿は深く反省しております。
どうしてもアンテルノ卿ご夫妻に直に会って謝罪がしたい、そのために力添えをいただきたいと何度も私に頭を下げてきました。
アンテルノ卿。
思う事は色々おありでしょうが、二人は決して悪気があった訳ではないのです。
ここはどうか私の顔に免じて、イル卿の謝罪を受けてやっていただきたい」
そう言って、エクゼス卿は慇懃に頭を下げた。
やや薄くなったその後頭部を見ながら、ロベルトはため息を噛み殺す。
いかにも下手に出ているように見えるが、ロベルトに言わせればこれは紛れもない脅しだった。
エクゼス卿は自身の影響力を知り抜いている。
公国内でも相応の力を持っていれば、その顔を潰すような真似をすればどうなるかは想像に難くなかった。
「どうぞ頭をお上げ下さい」
苦笑を呑み込み、ロベルトは穏やかに言葉を掛けた。
こうなるであろう事は大体予想していた。
イル卿は莫大な財力を有する貴族であり、高位の貴族に知り合いも多い。
まさか公国の中枢にいるエクゼス卿を引っ張り出して来るとは思わなかったが、こちらがヴェントを外そうとすれば必ず横やりを入れてくる事はわかっていた。
「エクゼス卿のお気持ちはよくわかりました。
ところで卿は、あの二人が何をしたか詳しいいきさつはお聞きになりましたか?」
返事は保留にしてそう問いかければ、エクゼス卿は僅かな苛立ちを瞳に浮かべた。
自分が頭を下げたにも拘らず、ロベルトが二つ返事で了承しなかった事に不快を覚えたのだろう。
「いや、詳しい事は何も。
ただ、アンテルノ卿夫人をひどく傷つけ、怒らせたと聞いています」
「我が家にとっても不快な話です。
余り他家に話すような事ではないが、私にも譲れない一線がある。
ですから簡単にご説明させて下さい」
ロベルトはそう前置きし、居住まいを正した。
「私が二年前、跡取り娘を失っている事はエクゼス卿もよくご存じかと思います。
イル卿とジュベル卿は、先日夜会で我が家を訪れた時、人気のない庭園でその事を喜び合っていたのです。
どうせ、まともに育つ筈がなかった。ようやく死んでくれて喜ばしいと。
そしてそれをたまたま聞いてしまったのが、ロビン卿夫人と私の妻でした」
エクゼス卿は僅かに瞠目した。
大体予測はついていたが、そこまでひどい言葉を吐いていたとは思わなかったのだ。
「……子を亡くすという事は、母親に耐えがたい喪失の苦しみを与えるものです。
私の妻も当時は生きる気力を削がれ、このまま娘の後を追うのではないかと私は生きた心地もしませんでした。
長い間寝付き、ようやく回復して開いたあの夜会の日に、二人はその子どもの死を喜ぶような言葉を母親の前で吐いたのです。
イル卿が謝罪したいと言うならば、私は構いません。
貴方が仲介に立って下さったのです。我が家に来たいと言われるなら、時間も取りましょう。
ただ、妻に会わせる事だけはできません。
これだけはイル卿にお伝えいただきたい」
言い分はもっともだった。
事情を聞いたエクゼス卿は、あの二人は何と愚かな事をしたのかと頭を抱えたくなった。
ジュベル卿やその舅が心中で跡取り娘の死を願ってしまったとしても、それは仕方のない事だとエクゼス卿は思っていた。
誰しも自分が可愛いから、あさましい事を考えてしまう事はあるだろう。
だが、心で思ってしまうのと、ようやく死んだと言葉に出して喜び合うのとでは、天と地ほどの違いがあった。
言ってみれば人としての最低限の礼節であり、ましてや誰が聞いているかわからないような場所でそのような会話をしたなど、貴族としても軽率過ぎる。
道理で、あれだけの袖の下を渡してくる訳だとエクゼス卿は苦々しさを顎で噛み殺した。
子を失った母親に、これほど惨い仕打ちはないだろう。
そのような長男に貴族位を譲りたくないと思う夫妻の気持ちはエクゼス卿には痛いほどわかり、けれど同時に、それは感情論に過ぎないと冷静に断じている自分もいた。
アンテルノ家が公国屈指の名家である以上、その当主は俯瞰的な視点から貴族としての判断をなすべきだ。
ジュベル卿は貪欲で傲慢だが、そのような貴族は公国中にいくらでもいる。
母親が平民である次男よりは名を継ぐにふさわしく、そして妻の父親は潤沢な資産を持ったイル卿だった。
そしてジュベル卿自身も、貴族社会に幅広い人脈を持っている。
どちらが跡継ぎにふさわしいかと問われれば、エクゼス卿は今でも迷わずジュベル卿だと答えるだろう。
「奥方の件はイル卿に伝えておきましょう。
確かに今の今、奥方を謝罪の場に引っ張り出すのは余りに酷だと私も思う。
ただ後継ぎの件に関しては、もう一度機会を与えてやってはいただけませんかな」
エクゼス卿は言葉を切り、ああそうだ、とたった今思い出したかのように言葉を続けた。
「実はこの件に関しては、ジュベル卿の周辺の御仁らも大層心配しておりましてね。
イル卿が帰られた後に、レイド、コレット、サマス、フィアーノといった名立たる貴族の嫡男たちが我が家を訪れ、口添えをして欲しいと私に願い出て参りました。
あの一件でジュベル卿をアンテルノ家から切り捨てたと聞きましたが、私に言わせれば若気の至りです。
それで一生を台無しにしては、流石にやり過ぎかと」
レイド、コレット、サマス、フィアーノらは、ヴェントが特に親しく付き合っていた貴族だった。
いずれも名家と言われる家の嫡男で、彼ら自身も次期大公の覚えがめでたく、将来有望だと思われている。
ただ、直接アンテルノ家にねじ込んでくるほどの力はまだ持っておらず、イル卿がエクゼス卿に話をつけたとヴェントから伝え聞き、それならばと安易に尻馬に乗る事にしたのだろう。
軽率な貴族もいたものだと、ロベルトは僅かに口の端を歪めた。
ヴェントが無事アンテルノ家の継嗣におさまった暁には相応の見返りが得られると計算しての事だろうが、旧家の後継問題に迂闊に口を挟む恐ろしさを、彼らはどこまでわかっているのだろうか。
徒党を組んで無責任に煽り立ててくるなど、ロベルトの最も嫌うところだ。
おそらくユリフォスの事も陰で貶めている筈で、こうした悪意の芽は早めに潰しておいた方がいい。
きちんと名前を教えてくれて助かったと、ロベルトは秘かにエクゼス卿に感謝した。
そのエクゼス卿はロベルトの返事を待っており、いかにも困った風にロベルトは笑みを浮かべて見せた。
「ご意見はありがたく承りますが、実を言えば、ユリフォスが後を継ぐ事はすでに決定事項なのです。
縁組の相手も決まり、今更引き返す訳には参りません」
「……その婚姻の相手と言うのは?」
エクゼス卿は表情を変えぬまま、慎重に問いかけた。
ここに来るに当たり、エクゼス卿はおそらく十分すぎるほどの謝礼をイル卿から受け取っている筈だった。
言われるまま、はい、そうですかと引き下がる訳にはいかないのだろう。
「何故そのような事を?」
「いや何、私はジュベル卿こそがアンテルノ家の継嗣になると思い込んでいたのです。
大方の貴族も皆、そうでしょう。
そうした中で敢えてご次男と婚姻を結べば、相手方にとっても大層居心地の悪いものとなるのではと思いましてな」
「なるほど」
ようやくわかりやすい脅しをかけて来たなとロベルトは思った。
そのエクゼス卿は、不自然なほどにこやかな笑みをロベルトに向けてきた。
「アンテルノ家から断りにくいのであれば、私が仲介に立ちましょう。
正直な事を申せば、もしその縁談が破談となった場合、イル卿は持参金の三倍の賠償金を相手方に支払うと言っております。
無理やり話に割り込むのですから、アンテルノ家に対しても勿論、同額の金が支払われるでしょう。
……如何でしょうか。
互いにとって悪い話ではないと思いますが」
ここまでエクゼス卿に言わせるのに、イル卿はどのくらい袖の下を渡したのだろうかとロベルトはふと興味を覚えた。
公国の要職にいる貴族をここまで動かしたのだ。
途轍もない金が動いたのは間違いなかった。
潤沢な財があるとはいえ、エクゼス卿への付け届けや賠償を含めた一連の出費を計上すれば、かなりイル家の財政を圧迫するのだろうなとロベルトはぼんやりそう思った。
ただ、金を惜しむ事は考えていないようだ。
義理の息子がアンテルノの名を継ぐか継がないかは、今後のイル家の命運を左右する。
とはいえ、エクゼス卿が何をどう言おうと、これに対するロベルトの答えは決まっていた。
「残念ながら、今更断れるような話ではないのです」
ロベルトは申し訳なさそうに、けれどきっぱりとエクゼス卿にそう告げた。
「婚姻に関する細かい取決めもすべて取り交わしました。
親族らを集めた明日の晩餐の席で、私はこの縁組を発表する予定でいます」
「明日?」
エクゼス卿は驚いたようにロベルトを見た。
「イル卿はその事を知らぬようだが」
「あの二人は呼んでおりませんので」
つまりあの二人は、すでに親族の会合から弾かれているという事だ。
エクゼス卿はそれまでの笑みを消し、やや険しい瞳でロベルトを見つめた。
「それでお相手の名前は?
わざわざこちらに足を運んだのだ。そのくらいは教えていただいていいと思いますが、如何ですかな」
アンテルノ家が屈しないなら、相手側にねじ込むのも一つの手だとエクゼス卿は思った。
大公家の縁戚である自分に圧力を掛けられて、平然としていられる貴族はまずいない。
「困りましたね」とロベルトは柔らかく吐息をついた。
「大公殿下には、この縁組の発表は明日だとお伝えしていたのですが」
「大公殿下……?」
驚いたように瞠目するエクゼス卿に、ロベルトは「ええ」と頷いた。
「今日、明かすつもりはありませんでしたが、他ならぬエクゼス卿の頼みです。おそらく殿下もお許し下さるでしょう。
ただ明日までは、お相手の名は誰にも漏らさないとどうぞ約束していただきたい」
もったいぶるような言葉に、エクゼス卿は渋々と頷いた。
「了解した。それで一体誰が……」
ロベルトはエクゼス卿を真っ直ぐに見つめ、ゆったりと口を開いた。
「アンシェーゼのパレシス皇帝陛下の第二皇女殿下です。
この度、次男のユリフォスと婚姻を結ぶ事が相成りました」