驕れる者
ここ二か月の間、ヴェントはひどく苛立っていた。
本来であれば、先日の夜会でヴェントが跡継ぎとなる事が正式に発表され、今頃は多方面からの祝いの言葉を受け取っている筈だった。
けれどヴェントの意に反し、話は未だに膠着したままだ。
邪魔だったエリーゼがようやく死んでくれて、三年弱となる。
死んだと報せを受け取った時はこれでやっとアンテルノ家を継ぐ事ができると小躍りしたヴェントだったが、子を失った悲しみにその日から義母が寝付いてしまい、そんな妻を気遣ってか、父は一切、後継の話をしなくなった。
本当にあの女は、私の足を引っ張る事しかできない能無しだと、ヴェントはひとしきり心の中で悪態をつく。
どうせまともな子などできはしないのに、子を生んでヴェントの人生に影を落とし、子が死ねば死んだでやたら大げさに騒ぎ立てて当主である父を振り回した。
先日ようやくアンテルノ主催の夜会が催されて、今度こそ継嗣についての発表があると喜んでいたのに、またあの義母が途中で体調を崩して発表がお流れになってしまった。
あの女が寝付こうがどうなろうがヴェントには全く関心がなかったが、膠着した話の続きは気になっていて、翌日、見舞いと称してアンテルノの本邸を訪れた。
が、この自分がわざわざ足を運んでやったと言うのに、家令は奥様には会えませんと慇懃に断ってきて、ならば父に取り次ぐようにと言っても、多忙を理由に面会を断られる始末だ。
日を改めてもそれは一緒だった。
何度本邸を訪れても無駄足となり、これでは埒が明かないとヴェントは義父のイル卿を頼ったが、イル卿が訪れても対応は一緒だった。
訪れても理由をつけて断られるばかりで、何が起こっているのかわからぬまま悶々と日々を過ごしていたのだが、そんなある日、妻が茶会で面妖な噂を拾ってきた。
異母弟のユリフォスがクアトルノの騎士団を退団し、いつの間にか公都の本邸に帰ってきているのだという。
バリュエ卿繋がりで様々な社交の場にも顔を出し始め、それで茶会の話題にも上ったものらしい。
自分が入れてもらう事のできない本邸にユリフォスが我が物顔で入り込んでいると知り、それまで抑えてきたヴェントの怒りが爆発した。
ヴェントは翌朝、本邸に乗り込み、ユリフォスに会わせろと居丈高に怒鳴り散らした。
そのまま上がり込もうとするのを数人がかりで押しとどめられ、ホールから先に入れてもらえない。
弟の分際で居留守を使う気か! と、押さえつけられたまま怒号を撒き散らせば、このままでは収拾がつかないと感じたらしい家令が、「少々お待ちを」とヴェントに断って奥に引っ込んだ。
いずれ自分のものとなる邸宅に足を踏み入れるのに、何故ここまで不愉快な扱いを受けなければならないのかと、ヴェントは憤懣が収まらない。
ここの使用人はみんなクズだ。
代替わりすれば皆まとめて首にしてやるとヴェントは心に決め、腹立ちまぎれに自分を邪魔した従僕の一人を強く足蹴にして、取り敢えずの鬱憤を晴らした。
ややあって戻ってきた家令は、「だんなさまがお会いになられます」と告げてきて、ヴェントは仏頂面のまま家令の後をついていく事となった。
そうして通されたのは父の私室で、二か月ぶりに見る父は、笑み一つ見せずにヴェントを部屋に迎え入れた。
「玄関ホールで相当騒いでいたようだな。
ここに一体何の用だ」
久しぶりに会う息子にかける言葉とは思えない冷めた物言いに、ヴェントは内心鼻白む。
が、取り敢えずこれ以上父の機嫌を損ねる訳にはいかないと、ヴェントは強張った顔に無理やりに笑みを貼り付けた。
「父上と義母上の住まわれている館を訪ねるのに、別に理由は必要ないと思いますが」
するとロベルトは片頬を歪めるように笑った。
「ご機嫌伺いとは珍しいな。
エリーゼが生きている時には、お前はこの館に寄り付きもしなかった筈だが」
思わぬところを突かれて、ヴェントの顔が僅かに引きつった。
もう少し上手に立ち回るべきだったかと、微かな後悔が沸き上がる。
「騎士学校に在籍している間は、交友関係を広げるのに忙しかったのです。
卒業してからはジュベルの名を頂きましたから、領地経営が始まりましたし」
「なるほどな」
なおざりにロベルトは応じ、「そう言えば、お前に伝えておきたい事があった」と表情を改めてヴェントに向き直った。
いよいよ爵位の話かとヴェントは期待に胸を膨らませたが、父が口にしてきたのはまったく別の事だった。
「お前にはどうやら余計な係累がいるようだ」
唐突に言われたその言葉の意味がわからず、ヴェントは眉間に深く皺を寄せた。
「余計な係累?まさかイル卿の事をおっしゃっているのでしょうか?
いくら父上でもお言葉が過ぎると思いますが」
「ああ、言い方が紛らわしかったか。今、私が言ったのはバンベッセの方だ」
いきなり母の生家の名前を持ち出されて、ヴェントは戸惑った。
「バンベッセ家がどうかしましたか?」
「どうしたも何も、お前はとうに耳にしているのではないか?」
ロベルトは呆れたようにそう言った。
「バンベッセは、私がお前の母を見初めて愛人にしたと、そんなほら話を周囲に吹聴しているようだ。
おまけに、その愛人の館から私の足が遠のいたのは、正妻がお前の母を疎んだからだという。
そもバンベッセとは、元々接点が一切ない上、とうに縁の切れた家だ。
わざわざどう過ごしているかまでは確かめてこなかったが、改めて調べてみれば、聞くに堪えがたい事実が次から次へとわかってくる。
借財を肩代わりしてやった時、子が生まれてもバンベッセ家に一切の権利はなく、アンテルノ家の縁戚になる訳でもないと念書まで取り交わしたというのに、その事は都合よく忘れているらしい。
今やバンベッセは、事ある毎に自分の孫がアンテルノ家の当主になるのだと触れ回り、不愉快なこと極まりない。
ヴェント。
私はお前が幼い頃より、あの者たちと関わりを持つなと繰り返しお前に注意してきた筈だ。
にも拘わらず、お前は一向にそれを聞き入れようとせず、更にバンベッセを増長させた。
この責任をお前はどう取るつもりだ」
思わぬ叱責に、ヴェントは笑みを浮かべていた口元を強張らせた。
そこまで父が怒っているとは考えた事もなかったからだ。
「お待ち下さい。そのような噂が本当に出回っているのですか?」
冷や汗をかきながらも、ここはとぼけるしかないとヴェントは腹を括った。
「知っていれば、勿論止めていました。
バンベッセとは、私がブレノスを訪れた時に何度か顔は合わせていますが、大した話もしていないのです。
まさか、そのような事になっているとは……」
「この期に及んで言い逃れるか」
ロベルトは不快げに遮った。
ヴェントがこの噂を耳にしながら否定していなかった事は、すでに確認がとれている。嘘に塗れた言葉など聞きたくもなかった。
「大体、私がバンベッセの娘を見初めたなど、どこからそのような事を思いついたのか。
お前が生まれた時、確かにねぎらいの言葉は掛けてやったが、昼間に顔を合わせたのはそれが最初で最後だ。
余計な勘違いを起こさせぬよう距離を置き、新しい縁を繋げと本人にも伝えた。
家に帰りたくないと言ってきたから館で暮らす事は許したが、ただそれだけの事だ。あの女は使用人の一人で、館の女主人でも何でもない。
それをまさか、親子揃って愛人気取りでいたとはな」
苛立ちを抑えるようにロベルトは小さく息を吐き、苛烈な目でヴェントを見据えた。
「バンベッセへ伝えてやれ。
これ以上不快な噂をばらまくようなら、家ごと潰してやると」
「え」
「心配せずとも、元々二十数年前には潰れていた筈の家だ。
元に戻るだけだと思えば大した違いはないだろう」
父の目は本気だった。
日頃温厚な父親だが、このような目もできるのだと、滲み出る威圧にヴェントは肝が冷える思いがした。
「……バンベッセにはよくよく伝えておきます。
二度と……私が関わる事も致しません」
バンベッセ家がここまで父の不興を買っていたとは知らず、ヴェントは動揺していた。
正妻が母を疎んだという噂話にしても、そもそもは母が作ったものだった。
父の愛人となり、跡継ぎとなる男児を見事生み落としたというのに、その実母である自分がそのまま捨ておかれた事が、母は口惜しくてならなかったのだ。
公都の広々とした本邸で夫に愛され、満ち足りた生活を送る正妻は、母親としての権利までも母から奪い去った。
子も満足に産めぬ女なのにと、母親はよく本家の正妻を罵っていた。
跡取りを残す事が貴族の本分である以上、母の言い分はあながち間違っているとは言えないだろう。
それに多少の作り話をしたところで、どうせ父の耳には入るまいと思っていた。
父の言うように、アンテルノ家とバンベッセ家とでは住んでいる世界が違う。
だからこそ、ヴェントは母の生家との付き合いを切らずにいた訳だが、こうして父に目をつけられてしまった以上、当面はバンベッセに関わらない方が無難だとヴェントは賢しく考えた。
これ以上機嫌を損ねれば、アンテルノの貴族位が自分から遠ざかるのは目に見えている。
「それよりも、父上」
これ以上バンベッセについて踏み込まれたくなかったヴェントは、別の話題を父に振る事にした。
「騎士団を辞めてユリフォスがこちらに帰ってきていると聞いたのです。
耳にした時は驚きました。
辺境の騎士団で何かあいつがやらかしたのですか?」
ロベルトは感情を読み取らせない目でヴェントを見た。
「ユリフォスに問題は一切ない。
ただそろそろ将来を決めてやろうと思っただけだ」
「将来を……」
先日の夜会でバリュエ卿と見事なボードゲームを展開し、夜会の話題をさらったユリフォスだった。
父がその事をどう受け取ったのかが、今更ながらにその事が気にかかってくる。
ヴェントに言わせれば、平民の血筋を受け継いだユリフォスは、存在自体がアンテルノ家の恥さらしだ。
人の口の端に上らぬようひっそりと下層で生きてくれればまだしも、下手に社交の場でも出て来られればヴェントの名にも傷がつく。
それもわからず、わざわざユリフォスを公都に呼び戻して余計な衆目を集めるなど、父は旧家の当主としての自覚が足りないなと、ヴェントはうんざりと心に呟いた。
「ユリフォスの事をどのようになさるおつもりですか?」
改めてそう尋ねると、ロベルトは軽く肩を竦めた。
「ユリフォスはガランティアの王立修学院に進む事を希望している。
半月先には、ガランティアに向かうようになるだろう」
「留学、ですか」
寝耳に水の話にヴェントは絶句した。
修学院など、所詮は貴族の道楽だった。
どれほどの金がかかるのか思いもつかない。
いずれ自分が受け継ぐ筈の財をユリフォスが道楽で食い潰すのかと思うと、ヴェントは忌々しさで腹の奥が熱くなる気がした。
行かせる必要はないのではと思わず口走りそうになったが、危ういところでヴェントは押し留まった。
バンベッセの件で機嫌を損ねている父に、今、逆らうのは危険だった。
次期当主に選ばれるまでは、とにかく大人しくしておいた方がいい。
「そう言えば、ユリフォスはボードゲームが得意でしたね」
ヴェントは如才なくそう言葉を続けた。
「なるほど。数術に興味があったのか」
「一種の道楽だが、通わせる意味はある。
ちょうどガランティアの第三王子が同学年となる。向こうで人脈を築いて帰ってくる事だろう」
「留学から帰ったら、いずれユリフォスにもいい縁組を整えてやらなければなりませんね」
いかにも弟の事を心配しているような口調で、ヴェントは言った。
「以前から、イル家の父と相談はしていたんです。
今のところ、なかなか思うような縁は見つかっていないのですが」
耳障りの良い言葉をつらつらと並べてみせたヴェントに、さしものロベルトも眉を潜めた。
陰で散々弟の事をいたぶっておきながら、よくもここまで白々しい事が言えるものだと、その厚顔さにいっそ感心する。
舅のイル卿も同様だ。
ユリフォスを見下し、陰でこそこそと悪評を撒き散らしている事を、この二か月ほどでロベルトはようやく把握した。
馬鹿にされたものだとロベルトは、苦い思いを噛み殺す。
「お前たちが心配をせずとも、ユリフォスの縁組はもう決まっている」
「は?」
驚いたような間抜け面でこちらの顔を見てくるヴェントに、ロベルトは正面から視線を合わせた。
「正式な発表は五日後だが、ユリフォスには申し分ない縁を用意してやった。
ユリフォスはその相手を妻に迎え、アンテルノの名を継いでいく事になるだろう」