アンテルノ家の継嗣
夜会から二か月が過ぎたある日、ユリフォスは父からの呼び出しを受け、再び公都の本邸へと戻っていた。
「お前をアンテルノの跡継ぎにしたい」
ユリフォスを私室に迎えた父は、開口一番、そう告げてきた。
ユリフォスは呆気にとられ、次に何の冗談かと思わず眉宇を寄せた。
「あー……、家を継ぐのは兄上の筈ですが」
「ヴェントにアンテルノの名を名乗らせるつもりはない」
ロベルトはユリフォスを真っ直ぐに見つめ、静かな口調で言い切った。
「この事はヴィヴィアも承知している。
主だった親族、アルマディーノ家、ロビン家、シオン家、セルダント家の当主らも賛同した」
アルマディーノ、ロビン家は伯母の嫁ぎ先で、シオン家には叔父が婿入りしている。そしてセルダント家はヴィヴィア義母の生家だった。
この四家が揃ってヴェントを後継から外すと決めたからには、何かとんでもない事をヴェントがしでかしたのだと、ようやくユリフォスにもわかってきた。
「……何があったのですか」
「ヴェントは、アンテルノの爵位を掠め取ったエリーゼが余程憎かったらしい。
イル卿と二人、ようやく死んでくれたとエリーゼの死を喜んでいたそうだ」
「そんな……」
ユリフォスは言葉を失った。
平民を母に持つ自分を散々馬鹿にしていたヴェントだが、エリーゼに比べれば、所詮、愛人の子に過ぎない。
正妻の認知があってこそアンテルノの名を名乗れているというだけであって、その義母が生んだ子を邪魔に思うなど許される事ではなかった。
屈託のない笑みを浮かべ、「兄ちゃま、兄ちゃま」と自分を慕ってくれていた幼いエリーゼの姿が思い起こされ、ユリフォスは喉元に込み上げてきた熱い塊を何とか飲み下した。
大事な妹で、かけがえのない家族だった。
その可愛いエリーゼに向かってようやく死んでくれたなど、どの口がそのようにあさましい言葉を言ったのか。
そこまで考えたところでユリフォスはふとある可能性に思い当り、ぞっと顔を強張らせた。
「まさか義母上もこの事をご存じなのですか?」
ユリフォスの問いに、ロベルトの瞳が険しさを増した。
「あの夜会の日、ヴェントとイル卿がそう話しているのを、たまたま庭に出ていて耳にしたのがヴィヴィアだ。
だからあの日、ヴィヴィアは晩餐の席を欠席したんだ。
衝撃を受け、とても会に出席できるような精神状態ではなくなったからな」
惨い事だとユリフォスは唇を噛みしめた。
エリーゼの死に打ちのめされ、枕から頭も上げられないほどに憔悴していた義母だった。
その最愛の娘の死を義理の息子が喜んでいたと知り、どれほど衝撃を受けられたか想像に難くない。
「欲に駆られて妹の死を望むような輩をこの家に迎える訳にはいかない。
ユリフォス。私はお前をアンテルノ家の後継に据える。
騎士団を即刻退団して、こちらに戻ってくるように」
ユリフォスはどう考えて良いかわからぬまま、あてどもなく視線を彷徨わせた。
名を継ぐなど今まで考えた事もなく、戸惑い以上に無理だという思いの方が強かった。
「ヴェントがアンテルノ家を継ぐ事は、社交界では暗黙の了解となっています。
今更それを覆すのは難しいのではありませんか」
ヴェントが何か途轍もない失策を犯したと言うならともかく、陰で妹の死を喜んでいたというだけでは、対外的に継嗣から外す理由にはならないだろう。
「それに私の母は平民です。周囲が納得するとは到底思えません」
いくら父や親族が認めてくれたとしても、貴族社会がユリフォスを弾こうとする筈だ。
それほどに血筋の壁は重い。
「その事については心配ない。
お前の立場を安定させるために、飛び切り毛並みのいい妻を用意した。
まだ幼いが、父親の血筋に文句をつけられる公国の貴族はいないだろう」
「公国の誰も文句をつけられないほどの血筋……?」
ユリフォスは鸚鵡返しに呟き、すぐに首を振った。
「それでは大公家に繋がる姫君になってしまいますが」
ユリフォスは自分の分というものを良く弁えている。
あり得ないと否定すれば、「似たようなものだ」とロベルトは薄く笑った。
「お前の婚姻相手はアンシェーゼの第二皇女殿下だ。
因みに御年七つになられる」
ユリフォスはぽかんと口を開けた。
「アンシェーゼの皇女殿下……? 皇女? え、七つ?」
落とされた言葉が頭に入って来ない。
「母親は平民で、皇帝の愛妾でしかない。
ただ、公国とは違い、庶子であっても正式な皇女として認知されている。
この婚姻を結ぶにあたり、アンシェーゼ側はお前がアンテルノ家の嫡男であるかを確認してきて、私は間違いないとそれに答えた。
勿論この事は、大公殿下も了承済みだ。
つまり、お前がアンテルノの名を継ぐ事はすでに定まった未来であるという事だ」
今度こそユリフォスは言葉を失い、ただ茫然と父親の顔を見つめる事しかできなかった。
この縁組みを大公殿下も承知されているというのであれば、ユリフォスに従う以外の道はない。
その事だけは理解したが、余りにも目まぐるしく自分の運命が動いたため、置かれた状況を理解するだけで精いっぱいだ。
「意に染まぬ婚姻をお前に強いるんだ。
何か望みがあるのなら一つだけ聞いてやろう。
アンテルノの次期当主にふさわしくない望みならば、流石に叶えてやる訳にはいかないが」
「望み……ですか」
いきなり問われたユリフォスは、惑うように視線を彷徨わせた。
自分の知らぬうちに人生が決められていて、今まで放っておかれた事への寂しさや恨めしさ、いきなり婚姻を押し付けられた事への反発などが心の中でせめぎ合い、感情がうまくまとまらない。
ただ、父が自分をようやく見てくれた事については純粋な喜びがあった。
可愛がってくれていた祖父を失い、つい三年前には幼い妹を失って、家族と呼べる存在はもういないのかもしれないと諦めていただけに、こうして気にかけてもらえた事はそれだけで嬉しかった。
そして思いを巡らせるうちに、ユリフォスは幼い頃から温めてきた小さな夢を唐突に思い出した。
「ならば、父上。
ガランティアの王立修学院に進学するという事は可能でしょうか」
「ガランティアの……?」
思わぬ言葉にロベルトは目を眇めた。
そして思い出したように、ああ……と頷く。
「そう言えばお前は数術が得意だったな」
「はい」
先日、バリュエ卿に修学院について詳しい話を聞く事ができ、進学してみたいという思いがユリフォスの中で更に膨れ上がっていた。
『信仰のシーズ、教育のガランティア』と並び称されるだけあって、ガランティアの王立修学院の水準の高さは公国の比ではなく、数術のみならず、医、法、農学の分野においてもそれは顕著だった。
そしてもう一つ、修学院にはユリフォスの知らなかったある制度が取り入れられている事を先日知った。
「数術を存分に学びたいというのが一番の理由ですが、修学院は三学年までの修学課程を終えると、他の学部への学内留学も許されるそうです。
叶うならば、私は修学院で更に農学を二年間勉強したい。
農学に進めば、育種学や土壌学だけでなく、農地の開拓、灌漑や排水についても学べると聞きました。
この留学を道楽で済ませるつもりはありません。
得た知識をエトワースに還元できるよう、必ず知識を身に着けて帰るとお約束致します。
ですからどうか、私に留学をお許し下さい」
ロベルトは押し黙った。
何か物でもねだってくるかと思っていたら、ユリフォスが希望したのはまさかの進学だった。
ガランティアの修学院は四年制だから、二年の学内留学を合わせれば計、六年の留学となる。
もしユリフォスが六年をガランティアで過ごしたとしても、皇女はまだ十三、四歳だ。
ユリフォスが公国にいても、どうせままごとのような結婚生活を送るだけだし、その間、箔づけにガランティアの修学院に進ませるのは悪い話ではないだろう。
そう言えば……とロベルトは思い出した。
確かガランティアの王族がこの三月で騎士学校を卒業し、修学院に進むと聞いたのではなかったか。
他国の王族とのパイプを持つ事ができるならば、ユリフォスにとってこれ以上ない強みとなる。
「ならば、留学するならこの四月からだ」
ロベルトの決断は早かった。
貴族としての体裁を整えながらの留学となれば莫大に金はかかるが、爵位を継ぐ息子への投資と思えば安いものだ。
「修学院は入学自体は易しいが、進級が難しい事で有名だ。
進級ごとに学生の一割が篩い落とされると聞いているし、行くとなればかなり本気で精進しなければならいだろう。
その覚悟があるならば行って来い。
入学受付の期限は過ぎている筈だが、推薦状でお前を押し込んでやろう」
展開の速さに、ユリフォスは頭がついて行かない。
進学を願ったのは自分だが、こうもトントン拍子に話が進むとは思ってもいなかったのだ。
「ええと、この四月から入学となると、結婚はどうなるのでしょう。
水面下で婚約が調ったばかりでは、留学前に結婚する事は無理だと思いますが」
「そうだな。
お前には結婚式の時だけ休学して帰国してもらうようになる。
顔合わせと式が済んだら、すぐに修学院に戻ればいい。
皇女はこちらで預かるから」
「……わかりました」
父の提案に否やはない。
嫁いでくる皇女には申し訳ないが、邸宅には父と義母がいる。きっと皇女を大事に扱ってくれる事だろう。
「ただし、留学は六年間だけでそれ以上は認めない。
それはわかっているな」
父の言葉にユリフォスは、「はい」と頷いた。
修学院で学位を取れる者はほんの一握りの者だけだ。学位が取れなければ卒業は不可となり、ほとんどの者は留年か退学となる。
平民でどうしても学位が欲しい者ならば留年してでも学位習得に拘るだろうが、ユリフォスは学ぶ事が目的であって、学位習得はどちらでも良い。
というか、まず取れないだろう。
「好きな数術を学び、農学の知識を身に着ける事が目的です。
留学を許して下さった事、心から感謝致します」
「勉学に励むのもいいが、向こうで人脈を作って来い」
ロベルトはちょっと笑った。
「今期は、ガランティアのアルルノルド王子が進学される。
側妃が生んだ第三王子だ。
王子の側近となる貴族の子弟も入学する筈だし、おそらくは国内外の高位の貴族らも息子をねじ込んでくるだろう。
お前には願ってもいない環境となる」
ユリフォスは驚いて父を見た。
二つ返事で留学を許可し、来年度の入学に拘ったのはそのためだったのかと、父の思惑をようやく理解したからだ。
父らしいなとユリフォスはふと思った。
妻に関しては理性よりも感情が優先される父だが、それ以外では冷徹で有能な当主だ。
それは常々、父の姉である伯母たちも口にしていた。
「そのように致します」
ロベルトは軽く頷き、話は終わりとばかりにユリフォスを退室させようとしたが、最後に思い出したようにユリフォスを呼び止めた。
「一つだけ聞いておきたい。お前はヴィヴィアについてどう思っている」
ユリフォスは困惑したように足を止めた。
義母上の事を何と表現すればいいのだろう。
アンテルノ家の奥方で、それ以前にヴィヴィア義母上は父の女だった。
唯一父を狂わせることのできる女性で、父を制御できる女性でもある。
「……小さい頃、私は毎年夏場にふた月ほどこちらの本邸に泊まっていました。
私はそれが苦痛でした。ヴェントは私を見下していて、人目のないところで散々に私を苛め抜いていたからです」
ロベルトは驚いて息子を見た。
騎士団の件はクラウディア姉から聞いていたが、それより以前から同じような事が行われていたとは夢にも思わなかったからだ。
「何故、私に言わなかった」
「……言っても何も変わらないからです」
ユリフォスは自嘲するように唇の端を僅かに歪めた。
「少々弟を苛めたくらいで、ヴェントが嫡子から下ろされる事はあり得ません。
この事を少しでも人に話せば、自分が貴族位を継いだ時にお前の人生を滅茶苦茶にしてやると、繰り返しヴェントに脅されたんです。
だから、誰にも助けを求められなかった。
けれどある年から急に、ヴェントと二人きりになる事がなくなったんです。
私がアンテルノの本邸に行っている間は常に人が傍にいて、ヴェントが耳打ちできるほど私に近付こうとすれば、必ず邪魔するように誰かがヴェントに話しかけ、その間に私は遠ざけられました。
どうしてそのようになったのかずっと不思議で、騎士学校に進学した時に家令のデュランに聞いてみたんです。
そうしたら義母上がお命じになったと。
窓辺から私たちの様子を眺めていた時、ヴェントが近付く度に畏縮している私を見て、義母上は何かあると思われたそうです。
だから決してヴェントと私を二人きりにさせないよう、きつく命じて下さったと聞きました」
「ヴィヴィアが……?」
そのような事をロベルトは一切耳にした事がなかった。
おそらくヴィヴィアは、確信がない事を夫に吹き込むのを恐れたのだろうとロベルトは思った。
ヴェントもユリフォスも等しくロベルトの子どもであり、一方に加担するような真似はヴィヴィアは決してしなかった。
ロベルトが愛人に生ませた子どもの成長を共に喜んでくれ、常に寛容で公平な母親であろうと努力してくれていたのだ。
「私は義母上に恩があります」
そのロベルトの目を真っ直ぐに見つめ、ユリフォスは静かにそう答えた。
「ですから私は、義母上がいつも笑っていて下さる事を望みます。
これが先ほどの質問の答えになるでしょうか」
ロベルトは頷いた。
ヴェントがここまで愚かな事をしていたとは想定外で、気付いて配慮してくれていたヴィヴィアに感謝すべきなのか、一切気付く事のなかった自分の迂闊さを責めるべきか、よくわからない。
ただ、ユリフォスを跡継ぎに据える事は正しい事なのだと、ようやくロベルトは自分に納得する事ができた。
ヴィヴィアを傷つけられた事で、自分の視野が狭くなっている事は十分に自覚している。
個としての自分と、アンテルノ家の当主と言う公の立場の間にあって、真実正しい決断ができているかロベルトには迷いがあったが、血筋の劣る弟は馬鹿にしていたぶり、血筋の勝る妹には死を願っていたというのであれば、もはや救いようがない。
もし父が生きていたとしても、このようなヴェントを跡継ぎに据える事は反対しただろう。
一礼して部屋を出ようとしていたユリフォスが、あっと思い出したようにロベルトを振り返った。
「ところで、私の結婚相手は何という名前なのでしょうか」
それすらも伝えていなかった事に気付き、ロベルトは思わず自分に苦笑した。
「リリアセレナさまと言われるそうだ」
リリアセレナ……とユリフォスが小さく口の中で呟くのを眺めながら、ロベルトは穏やかに言葉を足した。
「まだ幼いため離宮から出て来られた事はないが、アンシェーゼの皇帝は美男で、母親はその皇帝に見初められた女だ。
おそらくお可愛らしい方なのではないか」