ロベルトの決意
これほど心浮き立つ思いをしたのは久しぶりだった。
バリュエ卿らを見送り、まだ夢見気分でユリフォスがゆっくりと晩餐会場へと向かっていると、背後から誰かが近付いてくる気配がした。
知り合いだろうかと後ろを振り返ったユリフォスは、不愉快そうに自分をねめつけるヴェントの姿を認めて、冷水を浴びせられたような気分になる。
ヴェントのすぐ斜め後ろにいるのは、その義父に当たるイル卿だった。
父が傍にいた時はにこにこと如才ない笑みを浮かべて挨拶してきたのに、今は何か汚いものでも見るような目で小馬鹿にしたようにユリフォスを見つめていた。
「卑しい血のくせに、先ほどは随分注目を集めていたようだな」
無視してやりたいのはやまやまだが、そのような事をすれば後で面倒な事になるのは目に見えている。
仕方なくユリフォスは、「私たちのゲームを楽しんで下さった方が多かったようです」と当たり障りなく答えておいた。
ヴェントは、ちっと舌打ちした。
ユリフォスが社交場で衆目を集めた事がよほど気に食わなかったらしい。
「少しばかりボードゲームができるくらいで図に乗るなよ。
父上はお前を売り込もうと必死だが、どうせ碌な縁が来る筈がないんだ。
目立たないよう、大人しくしてろ」
そのままイル卿と肩を並べ、去って行くヴェントの後姿を見つめ、ユリフォスは一人唇を噛みしめた。
楽しい時間を過ごしたからと言って、現実の何が変わった訳でもないと改めてと気付かされ、先程までの高揚した気分が見る間にしぼんでいく。
義母上の体調も良くなられた事だし、今日あたり、アンテルノ家の継嗣についての話が父からあるのかもしれないと、ユリフォスはようやく思い当たった。
もしヴェントが正式にアンテルノの跡継ぎと決まり、足繁くこの本邸に出入りするようになれば、ここに自分の居場所はなくなるだろう。
アンテルノ家の息子としてここで過ごすのも、今回が最後となるのかもしれない。
その後の晩餐会に、ヴィヴィア義母上は出席されなかった。
クラウディア伯母が女主人の役割を果たし、そのまま会は滞りなく進んでいく。
晩餐会では、はす向かいに座ったヴェントが時折、物言いたげな視線を父に送っていたが、正妻を欠いた状況下で重大な発表をする気にはなれなかったのか、父は最後までアンテルノ家の跡目について口を開く事はなかった。
翌朝もヴィヴィア義母上は自室に籠られたままだった。
面会も断られたため、よほど体調がすぐれないのだろうかと気にはかかったが、ユリフォス自身はバリュエ卿との約束の時間が迫っている。
父に断り、そのまま外出する事にした。
門を出るところで、クラウディア伯母の馬車とすれ違った。
窓越しに軽く会釈すれば、こちらに気付いた伯母が一瞬、瞠目し、ゆったりと笑みを浮かべて頷いてきた。
父の長姉であり、自身も旧家に嫁いだクラウディア伯母は、アンテルノ家の筆頭親族としてかなりの発言力を持つ。
ヴィヴィア義母上を妹のように可愛がっておられるのでその見舞いに訪れられたか、あるいはアンテルノ家の後継問題について話し合いに来られたのかもしれないと、ユリフォスは遠ざかる馬車をぼんやりと目で追った。
そのクラウディアは、たった今すれ違ったばかりの馬車の紋章に目を留めていた。
「あの家紋は、確かバリュエ家だった筈……」
そう言えば昨日、ユリフォスが見事なボードゲームをしていたと話題となっていた事をクラウディアは思い出した。
バリュエ卿は相当な手練れで、対等に勝負できる者はそう多くない。
こうして迎えの馬車が来たという事は、昨日の勝負でユリフォスはバリュエ卿に相当気に入られたという事だ。
いい縁を繋いだようだこと……とクラウディアは満足そうに唇の端を持ち上げた。
幅広い人脈を持つバリュエ卿と繋がりを持てた事は、この先のユリフォスの人生に大きな意味を持っていく事だろう。
それにしてもと、クラウディアは心に呟いた。
気がきいて抜かりがないと思っていた甥のヴェントが、あそこまでくさった性根をしているとは夢にも思わなかった。
昨日、リテーヌからあの話を聞かされた時は、一瞬耳を疑った。
まさか……と思ったが、実際ヴィヴィアは激しい衝撃を受けており、晩餐会にも出られない状態になっていた。
リテーヌに耳打ちされたロベルトも顔を強張らせており、すぐにでもヴィヴィアの様子を見に行きたい風だったが、招待主であればそうもいかない。
クラウディアにしても、昨晩はヴィヴィアを見舞う時間の余裕はなく、後ろ髪を引かれる思いで自邸に戻っていた。
館を入ると、すぐにヴィヴィアの寝室に通された。
昨晩はかなり取り乱していたため、薬を飲まされて無理やり寝かされたようだが、今日のヴィヴィアはしっかりとしていた。
目元はまだ腫れぼったいが、確かな光が瞳に戻っている。
傍にはロベルトもいて、ずっと二人で何かを話していたようだった。
「具合はどう?」
クラウディアが尋ねると、ヴィヴィアは口元に形ばかりの笑みを浮かべてきた。
「もう、大丈夫です。
お姉さま、昨日はご迷惑をかけてしまってごめんなさい」
「構わないわ。
それよりも、昨日の事をリテーヌから聞いたわ……。辛かったわね」
一瞬ヴィヴィアの顔が泣き出しそうに歪んだが、ヴィヴィアは何とか感情を呑み下した。
「今、ロベルトとも話していましたの。
わたくしは今後、ヴェントの顔を二度と見たくありません。
イル卿についても同様です。
ヴェントがこの館に移ってくるのであれば、わたくしはこの邸宅を出ようと思います」
クラウディアは目を瞠った。
弱いこの子がここまで意思を鮮明にしたのは初めての事だったからだ。
無理もない……とクラウディアは思う。
子を失うという耐え難い不幸に襲われた母親の前で、あの男たちはその死を喜ぶような言葉を吐いたのだ。
到底許せる筈がない。
「貴女の気持ちはわかったわ」
クラウディアは重く頷いた。
「どうすればいいか、少しロベルトと話をしてみます。
貴女は休んでいて」
ロベルトとクラウディアは応接間へと移動して、向かい合うように腰かけた。
侍女が用意した紅茶をゆったりと口に含み、「それで?」とクラウディアは弟に問いかけた。
「アンテルノ家の後継について貴方はどう思っているの?
これ以上先延ばしはできないわ」
本来ならば、ヴェントが後継になる事が昨日発表される予定だった。
ヴェントはアンテルノ家の嫡子が代々受け継いできたジュベルの名を冠しており、その妻も裕福なイル卿の娘であれば片翼として立つのに何の遜色もない。
妻が持参した潤沢な財力を背景に、今後益々アンテルノ家を発展させていくだろうと思われた。
けれど、アンテルノの当主夫人であるヴィヴィアがはっきりと意思を表示した。
二度と、ヴェントの顔を見たくないと。
その意志は、何にも増して優先されるべきだろう。
それにクラウディアには別の懸念もあった。
ヴェントは実母の生家であるバンベッセ家と、今も懇意にしている。
ロベルトが何度か注意したようだが、実母が絡んでいるためヴェントはいつまでも繫がりを断とうとせず、そのせいでバンベッセ家はすっかり付け上がってしまっていた。
聞くところによると、バンベッセ家は娘がロベルトの愛人として館を与えられていると、勝手な作り話をしてそれを社交の場で吹聴しているようだ。
そのような親族を未だに切り捨てていないというヴェントの立ち位置が、今更ながらにクラウディアの気に掛かった。
このようなヴェントをアンテルノ家に迎えれば、もしロベルトに何かあった時、ヴィヴィアはどうなってしまうのだろう。
実母だけを厚遇し、ロベルトの正妻であったヴィヴィアを蔑ろにする行為はいよいよ激しくなるのではないだろうか。
我知らず険しい顔をしていたクラウディアに、「後継……か」とロベルトがふと小さく嗤った。
その眼差しには、温厚なロベルトらしからぬ激しい嫌悪が垣間見えていた。
「エリーゼは私にとっても可愛い子だった。
そのエリーゼの死を待ち望んでいた奴に、アンテルノの爵位を譲るとでも?」
吐き捨てるような口調に、クラウディアは小さく頷いた。
「……ヴェントに継がせないとなると、家督を継ぐのはユリフォスね」
「ああ」
「わたくしもそれがいいと思う。
ただ、今の状況を考えると少し難しいかもしれないわね」
ロベルトは何も答えず、厳しい視線をテーブルへと落とした。
クラウディアの言うとおりだと分かっていたからだろう。
「エリーゼの死の時期と重なってしまったから、ユリフォスはお披露目もできぬまま騎士団に所属してしまった。
それも、公都から遠く離れたクアトルノ騎士団に。
何故、近衛ではなく、わざわざ辺境の騎士団を希望したのかずっと不思議に思っていたのだけど、どうやらこの件にはヴェントが絡んでいたみたいよ」
「ヴェントが……?」
ロベルトは訝しげに眉宇を寄せた。
「ええ。
エリーゼが死んだ頃、ヴェントは何度かこちらの館を訪れていたでしょう?
その時、卒業をしたら公都から離れろと、居丈高にユリフォスに命じていたヴェントの姿を見た侍女がいるの」
「まさか……」
ロベルトは息を呑んだ。
「何のためにそんな……」
「おそらく人脈を作らせたくなかったのでしょうね。それか、単に目障りだったのか。
当時はヴィヴィアの体調が思わしくなかったから、その侍女もどこに言えばいいのかわからなかったみたい。
今回、夜会の準備で古参の侍女たちと話をする機会があったから、わたくしもたまたま知っただけ」
クラウディアは苦い笑みを片頬に刻んだ。
「お陰でユリフォスは、人脈らしい人脈をほとんど作れていないわ。
昨日ようやくお披露目ができてバリュエ卿とは親しくなれたようだけれど、それだけではとても足りないもの。
ヴェントはジュベルの名を継いでいる上、財力が桁違いのイル卿を後ろ盾に持っている。
いずれ自分がアンテルノ家を継ぐつもりで、交友関係もかなり広げているから、跡目から外すというのが難しいでしょうね。
はっきり言って、今のユリフォスでは太刀打ちできないわ」
「生母が平民であるという事も問題になるだろうな」
ロベルトは唇を噛んだ。
「手っ取り早いのは、イル卿の娘が太刀打ちできないくらいいい縁をユリフォスに用意してやる事だけど」
「確かにそれが一番だろうが……」
家格の高い家の娘は、幼い頃からの婚約者がいる場合が多い。
今残っている中でユリフォスの相手を探すしかないが、相応の貴族に打診したとしても、ユリフォスの母親が平民という事で向こうから断ってくる可能性もある。
そうなれば、ユリフォスに傷がつくだけだ。
「本当に困ったこと。
どこかにいないかしら。
婚約者がまだいなくて、血筋がとびきり良くて、夫の生母が平民でも全く気にしないような女性……」
そんな都合のいい女性がそうそういる訳がないとロベルトは口元を苦く歪めたが、クラウディアの方はふとある事に思い当たったのか、あ……と小さな声を上げた。
「まさか、思い当たる人間がいるのか?」
ロベルトの問いに、クラウディアは考え淀むように瞳を伏せた。
ややあって、案外いいかもしれない……と口の中で小さく呟く。
「ほら、リテーヌの夫の妹の夫になられた方の妹君が嫁いだ先のお義母さまの御実家、そこの娘婿がスラン公国のアルンスト卿なんだけど、その方の甥子さんが先日ご結婚されて」
「リテーヌ姉上の夫の妹の、その義妹の嫁ぎ先の、義母の実家の、娘婿……?」
一応、親戚になるのかと首を傾げながら一つ一つ家系図を辿っていったロベルトは、「ああ、確かレイマス家の二男だな」とようやく思い当って頷いた。
「そう、そのアルンスト卿。
その甥に当たる方、名前は忘れたんだけれど父親に廃嫡されかかっていて、母方のお祖父さま、つまりレイマス卿が用意したのが、アンシェーゼの第一皇女なの」
そう言えば聞いた事があるなとロベルトは独りごちた。
確か、イエル・プランツォとかいう名前であった筈だ。
「母親が平民の皇女はアンシェーゼには三人いた筈だな。
第一皇女の結婚が決まったばかりという事は、まだ二番目と三番目が残っている可能性があるな……」
「ええ」
クラウディアは大きく頷き、それから思わせぶりにロベルトの方を見た。
「そう言えば、面白い噂を聞いた覚えがあるの。
アンシェーゼは第一皇女をスラン公国に嫁がせるに当たり、その相手が爵位を継ぐ人間である事を最低条件にしたそうよ」
「爵位を継ぐ人間……」
いけるかもしれないとロベルトは思った。
庶出とはいえ、大国アンシェーゼの皇帝の娘だ。
クス大公家の血筋を引くアンテルノ家とは釣り合いもとれるし、相手も平民を母に持つならば、ユリフォスの出自に苦情を言う事もないだろう。
「余計な外野に知られないうちに、話をまとめないといけないな」
瞬時に心を定めたロベルトは、改めてクラウディアに向き直った。
「アンシェーゼの皇室への働きかけはこちらで何とかする。
ただこの件は、大公殿下のお耳にも入れておかないとまずいだろう。
ヴェントは次期大公にも相当取り入っているようだから、下手に動けば話自体を潰される。
姉上から根回ししてもらえないか?」
ロベルトがそう頼んだのは、クラウディアが生んだ嫡男が大公殿下の第三公女を妻に迎え入れていたからだ。
大公は子煩悩であり、嫁いだ娘の言葉にはきっと耳を傾けようとするだろう。
「いいわ。そちらの方は任せてちょうだい」
クラウディアは貫禄たっぷりに頷いた。
名家に嫁いで嫡男をあげ、その嫁に大公家の姫君を迎えてから、クラウディアは一層の重みが増した感じがある。
ついでに言えば、横幅的にも。
そんな事を考えてると知られれば激怒される事は目に見えているので、ロベルトは賢明に口を閉ざしていた。
だが、ともかく姉は頼もしい。
「そうとなったら、する事は山積みだな」
進むべき方向を見つけたロベルトは、この困難な状況を面白がるように口の端を僅かに持ち上げた。
「下手な人間がこの後継問題に口を挟んでこない内に、ユリフォスとアンシェーゼの皇女との結婚話を喫緊にとりまとめよう」
ようやく「寵妃……」シリーズに繋げる事ができました。アレクの弟妹たちの中で唯一登場していなかった第二皇女リリアセレナがいずれ出てくるようになります。
この作品を「寵妃」シリーズに入れてみたところ、シリーズ外の作品が入っている事に気付き、削除しました。以前、指摘して下さった方がいて、外したつもりでいたのですが、変なところをクリックしてたみたいです。申し訳ありませんでした。