生さぬ子ども
エリーゼが死んで一年が過ぎ、二年目の夏が来る頃、ようやくヴィヴィアは館内を歩けるまでに回復した。
セルダントの家族だけでなく、クラウディアやリテーヌが折に触れて館を訪れ、励ましてくれた事も大きかったのだろう。
少しずつ前を向く事を覚え始めたようだ。
館内の采配もできるようになり、秋の初めには少人数を招いての茶話会も開けるようになった。
そろそろアンテルノ家の跡継ぎについて決めていかなければならないとロベルトは思った。
家の存続は、何にも増して優先されるべきものだ。
ジュベルの名を与えていたヴェントを家に戻し、正式にアンテルノ家の後継に指名しなくてはならない。
エリーゼが死んで以来、華やかな会を催す事はなくなっていたが、十二月に入れば親族や主だった貴族らを招いて大掛かりな夜会を執り行おうとロベルトは考えた。
その席でまず、ユリフォスのお披露目を行う。
本来ならば正騎士となってすぐしてやる筈が、エリーゼの死と重なって後回しになってしまっていた。
そのせいでユリフォスを見下す連中も出てきており、変な噂を払拭するためにも、ヴェントの時以上に盛大な会に開いてやろうとロベルトは思った。
その時に跡目についての発表もできればいいが、それは夜会でのヴィヴィアの様子を見て決めればいいだろう。
まだ夜会を仕切れるほど回復していないヴィヴィアのために、クラウディアとリテーヌが度々本邸を訪れて、準備を手伝ってくれる事になった。
元々、この家で育った二人であれば、家令を含めた使用人らとも顔馴染みであり、采配も手慣れたものだ。
久々の夜会を前に本邸の中もだんだんと華やいできて、ヴィヴィが少しずつ笑みを浮かべるようになってくれた事にロベルトはほっとした。
まだ笑顔に無理はあるが、笑えるようになっただけでも今は十分だ。
夜会の三日前には、クアトルノの騎士団からユリフォスも呼び戻した。
懇意にしている仕立て屋をクアトルノまで遣わせ、夜会用の服を十数着用意させていたが、その中からユリフォスが選んだのは一番シンプルな濃紺のジャケットだった。
一見、地味に見えるものの、ジャケットの襟や前部分には金糸による刺繍が大胆かつ細やかに施されていて、上背があるユリフォスに殊の外よく似合っている。
満足そうにその様子を眺めていれば、脇でリテーヌ姉が、「若い頃の貴方にそっくりね」と言ってきて、確かに似ているなと胸の内が温かくなった。
そうして迎えた夜会は、ロベルトにとって忘れられない一日となった。
まだ体調が万全でないヴィヴィアに代わって姉二人が仕切った夜会は、アンテルノ家の家の権威を内外に示すかのように大層きらびやかなものとなっていて、当日、目にしたロベルト自身も呆気にとられるほどだった。
ヴィヴィアは公都で流行のデザインドレスを優美に着こなして、訪れる招待客を女主人として玄関口で出迎えた。
招待客らはヴィヴィア夫人が子を失っている事を知っており、子の話題には触れないように注意しながらにこやかに挨拶を交わし、会場へと入っていった。
いよいよ夜会が始まれば、ロベルト自身は主催者として会場全体の流れを把握していかねばならず、今回はヴィヴィアが無理できないため、クラウディアに補佐を頼んだ。
ヴィヴィアの体調については、リテーヌに気を配ってもらう事にした。目を離さないよう頼んでおいたから、後はリテーヌが何とかしてくれるだろう。
今回はユリフォスのお披露目が目的であったから、夜会が始まって間もなく、ロベルトはユリフォスを連れて招待客の一人一人に紹介していった。
ユリフォスはやや緊張している様子だが、回数を重ねればこうした場にもだんだん慣れていく筈だ。
今まで父らしい事を何もしてやれなかった分、少しでもいい縁をユリフォスに繋いでやりたいとロベルトは考えていた。
やがて夜会も中盤に差し掛かり、招待客同士で楽しそうに話がはずんでいるのを確認して、ヴィヴィアは目立たぬようにそっと会場から離れた。
久しぶりの社交はヴィヴィアの精神を疲弊させ、一息つく時間が欲しかったからだ。
リテーヌも一緒についてきてくれ、どちらが誘うともなく二人は庭園の方へと足を向けた。
まだ笑えると、ヴィヴィアは自分に言い聞かせる。
楽し気な笑い声はヴィヴィアにはまだ負担であったけれども、これはユリフォスにとって必要な会だ。
小さなエリーゼだって、ユリフォスの事はとても慕っていた。だから後もう少し、笑ってこの会を過ごさなければ……。
けれど、そんな風にエリーゼの事を思い出してしまったら、もう駄目だった。
華やかな宴は行われているのに、エリーゼだけがここにはいない。
疲れて不安定だったヴィヴィアの心にその寂しさが一気に突き上げてきて、気付けばはらはらと涙がこぼれていた。
「ヴィヴィア……」
「ごめんなさい……」
ヴィヴィアは拳で口元を抑え、必死に泣くのを抑えようとした。
女主人である自分が、目を泣き腫らしている訳にはいかない。
せっかくここまで順調に夜会も進んでいたのに、どうして自分はこんなにも弱いのだろう。
必死に感情を呑み込もうとするヴィヴィアの頭に、リテーヌがそっと手を伸ばしてきた。
髪型を壊さないよう注意をしながら、優しくヴィヴィアの体を腕に抱きしめる。
「よく頑張ったわ。招待客もきちんともてなしていたし、久しぶりの社交だからきっと疲れたのね。
少しだけこちらで休みましょう」
エリーゼの事は一言も口にしない。
失った子の事を口にしてしまえば、ヴィヴィアがもう踏ん張れない事をリテーヌは知っているのだ。
一段下がった小道のベンチに二人は腰を掛けた。
ベンチの下は石畳が敷かれていて、ドレスが汚れる心配もない。
「昔、ここによく隠れてたのよ。
ほら、ちょうど木立に隠れて庭園からは見えないし、絶妙な場所にベンチがあるでしょう?」
明るい口調につられたように、ヴィヴィアは泣き濡れた顔をそっと上げた。
「……誰から隠れてたの?」
「家庭教師から。
マナーの講義が厳しくて、その時はつい逃げ出しちゃったのよね」
いたずらっぽくリテーヌが言うので、涙を零しながらもヴィヴィアはつい笑ってしまった。
「お姉さまが講義から逃げ出したの?何だか信じられないわ」
笑った事で少し胸のつかえがとれ、ヴィヴィアはようやく涙を止めた。
そのまま二人は無言になった。
薄暗い闇の中で二人で過ごす時間は思いの外ヴィヴィアの気持ちを鎮めてくれ、重い筈の沈黙もヴィヴィアには全く気にならなかった。
そのうちヴィヴィアはふと手を伸ばして、リテーヌの手を握ってみた。子どもの頃のように、リテーヌの温もりに触れたいと思ったからだ。
リテーヌは黙ってヴィヴィアの好きにさせてくれた。
その優しさが嬉しくて、ヴィヴィアは安堵したようにゆっくりと瞳を閉じた。
薄闇に包まれた庭園に人の声が入り込んだのは、それからしばらく経ってからの事だった。
ヴィヴィアが怯えたようにリテーヌを見上げれば、大丈夫というようにリテーヌが握り締めた手に力を入れてくれた。
近付いてくるのは男性二人のようだ。
声がだんだんと近くなり、それが義理の息子のヴェントとその舅にあたるイル卿であると、ヴィヴィアはやっと気が付いた。
「先ほど、アルマディーノ夫人と話をしましたよ」
ヴェントがイル卿に話しかけている。
「アンテルノ家の家督についてそろそろはっきりさせなければならないと、夫人がおっしゃって下さいました」
ヴィヴィアは身を固くした。
アルマディーノ夫人とはクラウディア姉さまの事だ。
ヴェントに向かって、家督をはっきりさせるとクラウディア姉さまが明言したのなら、それはロベルトともある程度話がついているという事だろう。
「ようやくか」
イル卿の声には呆れ果てたような響きがあった。
「まったく、君の父上は決断が遅すぎるな。
子が死んだ時点で次の継嗣を決めるのは貴族の常識だろうに」
「おっしゃる通りで、面目もありません」
ヴェントは苦笑の滲む声で追随した。
「アンテルノ家の事を考えれば、エリーゼが死んだ時点ではっきりさせるべきでした」
まるで実の父親を貶めるかのような言葉にリテーヌは体を硬くし、一方のヴィヴィアは胸の中で上滑りする二人の言葉を理解しようと必死だった。
衝撃的な言葉が落とされたのは次の瞬間だった。
「そもそも近親婚の果てに生まれた子だ。
まともに育つ筈がないのに、跡継ぎに据える事自体、当主としての判断能力に欠けていると言わざるを得ないだろうな」
イル卿の残酷な言葉にヴィヴィアは喘ぐように息をつき、リテーヌの手を必死に握り込んだ。
何故このように貶めなければならないのかわからぬまま、血が滲むほどに唇を噛みしめていると、更に信じられないような言葉が義理の息子の口から放たれた。
「そのうち死ぬだろうと思っていましたが、思ったより時間がかかりました。
ようやく死んでくれたと思ったら、今度は父がなかなか決断しない。
これには全く弱り切りましたよ。
本当に待たされたものです」
いつの間に彼らがいなくなったのか、ヴィヴィにはわからなかった。
気付けばリテーヌに必死に肩を揺さぶられていて、暗い夢の中をぼんやりと漂っていたヴィヴィアは、壊れた人形のようにリテーヌの顔を見つめるしかできなかった。
「ヴェントはエリーゼが邪魔だったのね……」
虚ろな声でヴィヴィアは呟いた。
「ようやく死んでくれたなど……! 病の果てに逝った、年端もいかぬ子に何て惨い事を……!」
ヴェントは生さぬ子であったが、辛く当たった覚えは一度もない。
実母と引き離すのはかわいそうだと考えて手元には引き取らなかったが、来た時には十分に言葉を掛け、何不自由なく過ごさせてやった筈だ。
それを、遅くに生まれたエリーゼを逆恨みし、あまつさえその死を願うなど、とても許せる事ではなかった。
「エリーゼの死を望んだような男を、わたくしはアンテルノ家に迎えなければならないの!」
身には耐えがたいほどの怒りと口惜しさに、ヴィヴィアは泣き崩れた。
両手に顔を埋めてしゃくり上げながら、これは自分に下された罰なのだろうかとヴィヴィアは頭の片隅でぼんやりとそう思った。
ロベルトに恋をしてはいけないと何度も言われていたのに、諦めきれずにその姿ばかりを追っていた。
挙句に、未来の見えない恋にロベルトを引きずり込んで、罪と哀しみを共に背負わせた。
ロベルトが愛人に生ませた子は、二人とも健康に育っている。
ヴィヴィアが生んだ子であったから、エリーゼは死ななくてはならなかったのだ。
外を自由に走る事もできず、窓から外ばかりを見つめていたエリーゼ。
腕の中で笑ってくれた日もあった筈なのに、今はもう笑顔さえ思い出せなかった。
「エリーゼ……」
僅か六つで命を散らした我が子に向けられていた卑劣な悪意にヴィヴィアの心は押し潰される。
だんだんと呼吸が荒く早くなっていき、息苦しさに耐えかねて、ヴィヴィアは喉元に指を食い込ませた。
苦しみながら崩れ込むヴィヴィアをリテーヌが慌てて抱き止める。
意識が朦朧とする中、必死に自分を呼び続けるリテーヌの声をどこか遠くで聞いた気がした。