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「やっぱりアベルは朝食に現れなかったね」
翌朝のことである。朝餉が終わり、食堂から部屋へ戻る途中に、ディルクは言った。
「おまえが、遅くまで起こしておくからだろう」
大階段を登りながら呆れ顔をするリオネルに、親友の青年はおかしそうに笑った。
「笑いごとじゃない。あんなにアベルに酒をつきあわせて……」
レオンとベルトランも、少し遅れながら、二人のあとに続いて階段を登っていく。
「ああ、おれも少し酔っていたんだ。アベルといっしょに飲んでいたら久しぶりに楽しくて、つい勧めてしまってね。悪かったと思っているよ」
「そんなことを言いつつ、また同じことをやるのだろう。おまえの謝罪は、本当に悪いと思っていないことが、最近わかったからな」
すかさず口を挟んだのは、レオンである。
「アベルは案外酒に強いから、楽しく飲むぶんにはいいじゃないか」
「やはり、悪いなどと思っていないではないか」
「いや、思ってる。遅くまでつきあわせたことは、悪いと思っているよ」
「そこだけか」
「おまえもいっしょに飲んでいたじゃないか」
「つきあってやったのだ」
二人が言い合っていると、リオネルがわずかに心配をふくんだ声で言う。
「アベルは、飲んだそのときはいいが、翌日にくることがある」
「そうなのか?」
若者らが大階段を登り終え、最上階の廊下を進んでいると、ちょうど寝室から噂の当人が出てきた。
「あ、アベル。おはよう」
まず声をかけたのはディルクだった。
しかし。
「…………」
アベルは額を右手にうずめて、壁にもたれかかっただけだった。
ゆるやかに波打つ金糸の髪が白い指の間にからまる。
「アベル?」
普段はシャンと背筋をのばし、愛らしい笑顔をたたえて挨拶をするアベルが、今日はどこか様子がおかしい。
「アベル、大丈夫か」
すかさず歩み寄り、壁にもたれかかるアベルの腕を支えたのはリオネルである。
「あ……リオネル様。おはようございます……」
アベルは笑顔を作ろうとして口角を上げたが、顔色は悪く、辛そうである。
「すみません……こんな時間まで寝ていて……」
リオネルは眉を寄せる。
「二日酔いか」
「い……いえ」
二日酔いなど、従騎士としてあるまじきことである。アベルは自分のだらしなさに恥じ入って即座に否定した。
「……少し眠いだけです。動いていれば、すぐに治ります」
少し離れたところで、レオンがディルクにつぶやく。
「それみたことか。おまえのせいで、またアベルがかわいそうな目に遭っているぞ」
「…………」
ディルクは珍しく反論できなかった。
「アベル、しばらく休んでいたほうがいい」
「いいえ、リオネル様。こんな忙しい時に、寝ているわけにはいきません」
「そんな状態で働かせるわけにはいかない」
「わたしは元気です」
いつもの強情さでアベルが食い下がっていると、ディルクがアベルに近づき、その金糸の髪に手を置いた。
アベルは、はっとして視線を上げる。
「すまない、アベル。昨日、おれが飲ませすぎたせいだね。空けた葡萄酒の樽の、半分近くはきみが飲んだと思う。今、こんな状態のきみを目にして、心からすまなかったと思う。せめて午前中だけでも休んでいてくれないか」
アベルが返答に迷っていると、リオネルが渋い顔でつぶやく。
「……やけに勧めているとは思ったが、それほど飲ませていたとは」
「いえ、わたしは自ら進んで飲んでいたのです」
「アベル、休んでいてくれないか?」
ディルクの柔らかな茶色の瞳が、懇願するようにアベルの顔をのぞきこむ。
ああ、とアベルは思った。
元婚約者の彼は、王宮の美女たちと華やかな噂があるようだが、その理由がわかったような気がした。このような目で見られたら、どんな女性でも心動かされるだろう。
「……はい」
アベルは小さくうなずき、うつむいた。
「ありがとう」
ディルクは明るい笑みを見せる。これで落ちない女はいないのではないかと、アベルは思った。
もしこの若者と結婚していたら、毎日、やきもきして過ごしていたかもしれない。
アベルは微妙な心境で、ディルクの笑顔から逃れるように、視線を伏せていた。
一方、ディルクの頼みをあっさり受け入れたアベルを見て、リオネルの胸の奥は、鈍く痛む。
アベルは、ディルクに弱いところがある。
それは以前から薄々気がついていたことだった。
こうして寝室で休むことになったアベルが、頭痛のなかで重たい眠りにつき、そして再び目覚めたのは昼もとうに過ぎたころであった。
しまったと思っても、今更遅い。時間はどうやっても元には戻せない。
まだかすかに残る頭痛に顔をしかめながら、アベルは寝台を出た。
窓の外に広がる景色には、雪が舞っている。
騎士館では、昨夜到着したアベラール家の兵士と、山賊討伐に赴くベルリオーズ邸の兵士らが遠征の準備をしているだろう。
アベルは慌てて部屋を出て、騎士館のほうへ向かおうとした。しかし、目覚めたことを先にリオネルに報告しておいたほうが無難であると思い返し、まずは、彼の書斎を訪れた。
そこにいる確率はさほど高くないと思っていたが、扉を叩いてみると、当の本人が顔を出す。
「アベル」
わずかに驚いた顔をしたリオネルに、アベルは深々と頭を下げた。
「申しわけございません。昼までのつもりが、これほど長く休んでしまい――」
しかしリオネルは、咎めも怒りもせず、優しくほほえむ。
「大丈夫だよ、アベル。きみがゆっくり休めてよかった。それで、体調はどう?」
「……万全です」
アベルは、主人の優しさに恐縮して再び頭を下げた。
「そう」
リオネルはうなずいたが、その目は納得しているようには見えない。
「では、わたしは騎士館へ行って参りますので」
「待って」
一礼して部屋を出ていこうとしたアベルを、リオネルは引きとめた。
「なにか?」
「アベルにしてほしい仕事があるんだ」
「はい。なんでしょうか」
「え……っと、この部屋の本の整理だ」
「…………」
アベルは室内に視線を向ける。
本棚に並んだ書籍は、先日整理されたばかりで、美しく並んでいる。そして、入り口で話していたため気がつかなかったが、ディルクとレオンが肘掛椅子に腰かけ、くつろいだ雰囲気で本を読んでいた。
整理といっても、今更なにをどのように整理する必要があるのか。
「おれとベルトランは今から、厩舎へ馬の様子を確認しにいくから、アベルはここでディルクたちと一緒にいてくれ」
「あの……」
「気になった本があれば、読んでいていいから」
「ですが、本はすでに整理されて――」
「では行ってくる。すぐに戻るから」
「リ、リオネル様」
呼び止める間もなく、リオネルは部屋を去っていった。
そのあとに続いたベルトランが、アベルに笑顔を向ける。
「休んでいろってことだ。甘えればいい」
「え……」
二人が出ていき、扉が閉まるとアベルは呆然と立ち尽くした。
その後ろ姿に、ディルクが声をかける。
「気分が良くなったようでよかった」
アベルが振り返ると、ディルクはいつものように屈託なく笑う。
「アベル、この本おもしろいから読んでみたら?」
「これもなかなかいい」
ディルクが持っていたのは、以前アベルが手にとったことのある、『アンセルミ王国の興亡』である。一方レオンは、難しそうな哲学書を読んでいる。
遠征前だというのに、山賊討伐とはまったく関係のない本をのんびり読んでいる、この緊張感の感じられない雰囲気に、アベルはなんだか身体から力が抜けていくような気がした。
+++
リオネルとベルトランは、正面玄関を出て中庭を過ぎ、さらに館の門をくぐり前庭へ出た。
重たい空から、絶え間なく雪が降っている。二人の吐く息も白く染まって大気へ溶け、白一色に支配されたこの世界からは、すべての色が消えてしまったようだった。
前庭の中央に据えられた騎馬像が、厚い雪化粧をしている。
そのような前庭を厩舎へ向かって歩んでいる途中のことだった。
白くかすんだ景色のなかに、正門のほうからゆるやかな坂を登り、こちらへ向かってくる三騎の黒い影が見える。
リオネルとベルトランは、ちょうど騎馬像のまえで足を止めた。
来客の予定など聞いていない。
ラ・セルネ山脈沿いの諸侯、もしくは王宮からの使者であろうか。それ以外に、このような頃合いに突然ベルリオーズ邸を訪れる者に心当たりはなかった。
しかし、互いの顔が見える位置まで来訪者が近づくと、そのどちらでもないことがわかった。三人のうちのひとりが、ディルクの従者マチアスだったからだ。
あとの二人は面識がなかったが、そのうちのひとりはマチアスと同年代と思われる若者、そしていまひとりは年端のいかぬ少年である。
「リオネル様、ベルトラン殿」
マチアスは馬から降り、目深にかぶった外套のフードを外し、リオネルとベルトランに対して丁寧に一礼した。
見知らぬ若者と少年も、同じように雪の上に降り立つと、軽く頭を下げる。
三人の外套には、少なくない量の雪が付着している。長いあいだ、馬を駆けてきたのだろう。
「マチアス、そちらの二人は?」
リオネルが三人のほうへ歩み寄ると、ベルトランが剣の柄に手を添える。
それを目の端に捉えたマチアスは、警戒する赤毛の若者に軽く目配せしながら言った。
「こちらの方は、デュノア家のご嫡男カミーユ様と、そのご家臣トゥーサン殿です」
思いもよらぬ名に、二人は意外な顔で金髪の少年へ視線を向けた。ベルトランはいったん剣の柄から手を離す。
軽く癖のある暗めの金糸の髪がふちどる、白く整った顔立ちはまだ幼さを残し、美男というよりはかわいらしい。夕陽が沈みきるまえの東の空ように澄んだ青灰色の瞳は、意思の強そうな光をたたえていた。
「カミーユ様、トゥーサン殿、こちらはベルリオーズ家のご嫡男リオネル様と、ルブロー家のベルトラン様です」
二人はその名を聞き、深々と頭を下げる。
公爵家の嫡男であり、王家の血を引くリオネルは、伯爵家のカミーユよりもはるかに高貴な身分である。
しかし少年は、あらためて「カミーユ・デュノアです」と名乗っただけで、それ以上はなにも言わなかった。ベルリオーズ家が、母の実家であるブレーズ家の、引いてはデュノア家の政敵であることは、トゥーサンから事前にさんざん聞かされていたことだった。
けっして目の前の青年に対して隔意があるわけではないが、カミーユなりに自らの家の事情も考慮したのだ。
カミーユが頑なな態度である一方で、リオネルは来訪の目的も問わず、少年に穏やかな笑顔を向ける。
「カミーユ殿、会うのは初めてだね。デュノア領から馬を駆けてきたのなら、さぞ疲れたことだろう。館のなかで休んで、身体を温めるといい」
ディルクと同い年ほどの、優しげで端麗な顔立ちの青年に話しかけられ、カミーユはやや戸惑いつつ首を横に振った。
「いえ。私はここでけっこうです。ディルクに会いに来たんです」
リオネルが視線を少年からマチアスに移すと、彼は深くうなずく。
「ディルク様は、今どちらにいらっしゃいますか」
「彼は館のなかにいる。こんなところでは寒いから、なかに入って話さないか?」
いま一度、館内へ入るよう促すが、カミーユは再び首を横に振っただけだった。
目の前の少年の頑固さは、身近なだれかを思い起こさせる。
仕方がないので、リオネルはディルクを呼んでくるようベルトランに目で合図をするが、赤毛の若者は警戒心の抜けきらぬ瞳を、デュノア家の二人に向けたまま動かない。
「こちらは大丈夫だ。マチアスもいる」
リオネルが小声でつぶやくと、ベルトランは小さく溜息をつき、牽制するように二人を睨んでから館へ向かって歩きだした。
年端のいかぬ少年とはいえ、ディルクを殺したいほど憎み、彼の頬に傷をつけた者である。その勢いで、リオネルになにかしらの危害を加えてこないとも言い切れない。ベルトランが警戒するのも当然のことだった。
その忠実な用心棒が、堀を渡り、館の門をくぐるのを見届けると、リオネルは再びデュノア家の少年に目を向ける。
これが、亡くなったディルクの婚約者の、弟――。
警戒心を露わにしてリオネルを見据えるその態度は、出会ったばかりのころのアベルの様子によく似ているような気がして、どこか憎めなかった。
ベルトランは館内に戻ると、リオネルの書斎へ向かった。
彼が慌ただしく引き返してきたため書斎にいた三人は顔を上げ、次いで、彼の傍らにリオネルがいないことに気がつくと蒼白になった。
「リオネル様に、なにか――」
真っ先にベルトランに詰め寄ったのはアベルである。
「いや、大丈夫だ。心配いらない」
そう言ってベルトランはほんの一瞬だけアベルに笑いかけてから、ディルクに向きなおりその名を呼ぶ。
不思議そうに首を傾げた青年に、
「デュノア家のカミーユ殿が、おまえに会いに来ている」
と、ベルトランは淡々と告げた。
その言葉に耳を疑ったのは、ディルクとレオンだけではない。
アベルは、水色の瞳を大きく見開き、凍りついたようにベルトランを見つめた。
今、ベルトランはなんと言ったか。
カミーユが――。
カミーユが、ベルリオーズ邸に来ている?
たしかにそう聞こえた。
しかも彼はディルクに会いに来たという。
世界でたったひとりの大切な弟。デュノア邸を追い出されてから、一度だって忘れたことはない。
最後に見たのは、父親に引きずられて館の外へ出される自分に、必死に手を伸ばす姿。
絶望と、悔しさと、哀しみにあふれた、胸をしめつけられるような泣き顔。
「カミーユ……」
アベルは声にならない声で、その名をつぶやく。
ディルクとカミーユとのあいだに、交流があったとは。
デュノア領から、このベルリオーズ邸まではけっして近いわけではない。いったいどのような目的があってディルクに会いに来たのだろうか。
会いたい――――。
二年前、別れの言葉も交わせないままに離れ離れになった。
自分は無事だと、生きて……必死に生き抜いていると、伝えたい。
どんなに離れていても、いつだって彼のことを思っていると伝えたい。
「カミーユ殿は前庭で待っている」
「わかった、すぐに行く」
ディルクが本を机に置き、すばやく扉を出た。
彼が目前を過ぎていくその速さで、アベルの髪が揺れる。だれにとっても思い掛けない事態となったため、呆然とするアベルの様子に気がつく者はなかった。
ディルクに続いて、ベルトランとレオンも部屋を出ていくが、アベルはひとり立ちつくしている。
カミーユに会いにいきたい。けれど……。
どれほど会いたくても、会うわけにはいない。
シャンティ・デュノアは死んだ。
二度とシャンティとして家族のまえに……カミーユのまえに現れることはできない。そんなことをすれば、ほかのだれでもなくカミーユに迷惑がかかるのだ。
でも、それでも――――。
遠くからでもいい。カミーユの姿を、ひと目でもいいから見たい。
十三歳になった弟の、成長した、元気な姿が見たい。
別れのときの、哀しみに染まった泣き顔ではなくて、明るい笑顔をこの目に焼きつけたい。
それくらいなら、神様は許してくれるのではないか。
眩暈さえ覚えながら、アベルはおぼつかない足取りで部屋を出た。