53
夕方から再び降りだした雪は、すでに積もった雪の上に音もなく降り重なる。
壮麗な館のなかでは山賊討伐をまえに、緊張感と慌ただしさが漂っていたが、雪の舞い落ちる速さはいつもと変わりなく、ベルリオーズ邸を包む景色は静かで美しかった。
ディルクとレオン、そしてアベラール家の一部の兵士がベルリーズ邸に到着したのは、夕餉の時間もとうに過ぎた遅い時刻のこと。
実際に出兵する日程よりもやや早い到着であったが、準備が整えば、リオネルと共に兵を率いてラ・セルネ山脈の所領へ向かうことになるだろう。
アベラール侯爵は、自領を空にするわけにはいかないのでアベラール領に留まり、残りの兵士たちとともに領地を守らねばならなかった。
どこか張りつめた空気が漂っていたところに、ディルクとレオンが到着すると、ベルリオーズ邸の騎士たちは喜びをあらわにし、活気づいた。
彼らにとっては、両の翼がそろうようにリオネルとディルクがともにいること、そして、二人の従騎士仲間であるレオンが加わることは嬉しいようである。
しかし、一ヶ月ぶりに親友と再会したリオネルは、ディルクが心になにかを抱えていることにすぐに気がついた。多くの者の目には、うっすらと残る頬の傷跡以外、いつもと変わりなく映るだろう。
けれど長年つきあってきたリオネルやベルトランは違った。
居間では、広い室内の中央に置かれた低い円卓の周りを、肘掛椅子が囲っている。
扉の近くには使用人が控えており、暖炉の火によって室内は充分に暖められていた。
「なにかあったのか」
外套を脱ぎ、レオンとともに居間でくつろいだディルクに、リオネルは尋ねた。
顔に傷があることのほかに、ディルクのそばにマチアスがいないこともまた、とても珍しいことである。
「まあね……」
ディルクは曖昧に笑うと、疲れたように肘掛に片肘をつき、そこへ頭をもたせかけた。
なにがあったのか説明せず、
「アベルは?」
と、ひと言だけ尋ねる。
アベルがどこにいるのかという意味なのだろうが、彼が真に知りたいのは自分が負わせた傷の具合だろう。
「ついさっき休ませた。二人が来るのを待つと言っていたけど、何時になるかわからなかったから」
「あいかわらず過保護だね」
「アベルは朝が弱い。あまり遅くまで起こしておくと、朝食をとり損ねることになる」
ディルクは微笑した。
「それは、よくないね。アベルは細いから、ちゃんと食べたほうがいい。……傷のほうは?」
「順調だよ」
「そうか、よかった」
ディルクは小さく息を吐く。安堵したようだった。
リオネルは、親友の頬についた傷に目をやったが、本人は視線に気づいているのかいないのか、両手に持った葡萄酒を黙ってただ眺めていた。
卓の上に用意された、乾燥した杏や葡萄、胡桃やアーモンドには、まったく手を伸ばさない。
レオンはそんな彼の様子をじっと見つめる。
ディルクは、デュノア邸から戻ってきた日以降も、普段と変わりなく明るく振る舞っていた。けれど目のまえの彼はそうではない。
リオネルのまえでは、無理をしないのだろう。
ディルクの疲れた心が、今は手に取るように伝わってくる。
相手が話したくなるまでは問い正さない姿勢のリオネル、そして、肩の力を抜き、あえてなにも話しださないディルクを見かねて、レオンは口を開いた。
「ディルクのその傷は、デュノア家の嫡男につけられたものだそうだ」
リオネルとベルトランが、レオンに視線を向けた。
ディルクはレオンを咎める様子もなく、あいかわらず葡萄酒の入った銀杯を握りしめているだけである。
「デュノア家……」
デュノア家といえば、ディルクの元婚約者の家である。その嫡男とは、婚約者の弟の少年ことであろう。
リオネルとベルトランは、二年前の冬にディルクが語っていたことを思い出す。
当時十一歳だった婚約者の弟は、姉の死の原因は婚約の解消だと信じ、殺したいと願うほどディルクを憎んでいた。しかし、最終的にはディルクの謝罪を受け入れたはずだ。
その後もディルクは領地に戻るたびにデュノア邸を訪れていたし、話を聞くかぎり、二人は仲が良さそうだったが……いまさら、二人のあいだになにがあったというのか。
その疑問の答えは、すぐにレオンが教えてくれた。
「ディルクは先日デュノア邸を訪れた折、その嫡男……カミーユに、持っていった弔花を顔に叩きつけられたそうだ。人殺しのくせに哀しむ権利はない、二度と自分のまえに現れるな、と」
「――――」
「……刃のような言葉だな」
黙っているリオネルの代わりに、ベルトランがつぶやく。
「だが、なぜ今ごろになって」
「彼はブレーズ家に行ってから様子がおかしくなったらしい」
「ブレーズ家……デュノア伯爵夫人の実家か。そこでなにかあったのか」
「たとえデュノア家の者がカミーユとディルクとの親交を認めていても、ブレーズ家がそれを歓迎していない可能性は充分にあるな。あの公爵家にとってアベラール家は、宿敵の一族のようなものだから」
ベルトランは、苦い表情をつくる。
国王派の有力貴族であるブレーズ公爵家と、正統な王家の血が流れるベルリオーズ公爵家は、きわめて不仲である。
カミーユがアベラール家のディルクと親交があることが、ブレーズ家の者にとって気に入らなかったとも考えられる。
「カミーユが会ったのは、ブレーズ公爵の一人息子フィデールらしい。なにを話したのかはわからないが……」
黙って話を聞いていただけだったディルクが、初めて口を開いた。
「……けど、そんなことは大きな問題じゃない。カミーユが言っていたことは真実だ。こうなったのも当然のことだよ」
「しかし、いまさら蒸し返す必要はないだろう。せっかくカミーユはあんなにおまえに懐いていたというのに」
レオンが表情を曇らせると、ベルトランが低い声で言った。
「単に政派の違いから二人を引き離そうとしたのか、もしくは、姪の死をディルクのせいと盲目的に決めつけて恨んでいるのか、やつらの本心ははっきりしない。だが、ディルク、どんな理由にせよ、おまえが気落ちしていたら、ますます向こうの思うつぼだ。無理に明るく振る舞えとはけっして言わないが、ブレーズ家の卑劣な計略が裏にあることも忘れないほうがいい」
長年つきあっている友人であるベルトランの言葉に、ディルクはわずかに口角を上げる。
どんな言葉も慰めにならないことを知っていながら、自分が憂えていることを心配するベルトランの気持ちが伝わってくる。
「こんなときに、マチアスはどこへ」
「彼は、ディルクの書いた手紙を、カミーユに届けに行った」
「手紙?」
ベルトランが聞き返すと、レオンはディルクへと視線を向ける。
「なんだかよく知らないが、こいつは手紙を書いたらしい……大切にしていたものまで手放してな」
「手放したわけじゃない――安全な場所に移したんだ」
「……へえ」
ディルクは空になった銀杯を円卓に置いた。
「もう飲んだのか」
さきほどまで眺めているだけで口をつけていなかったはずなのに、いつのまに飲んだのだろう。レオンの葡萄酒は、まだ三口ほどしか減っていない。
「ああ、本当だね」
「……気づいていなかったのか」
「新しいものを持ってこさせよう」
ベルトランが扉の脇に控えていた使用人に手で合図をすると、ディルクはそれを制した。
「いや、自分で持ってくる」
一日馬で移動し疲れているはずなのに自分で行くと言うディルクに、ベルトランはもの問いたげな視線を向けた。ディルクは少し肩をすくめる。
「調理場にでも行けば、少しは頭がすっきりして、考えがまとまるかと思ってね」
デュノア邸へ行ってからというもの、カミーユの声と眼差しが頭から離れない。
なにをどうすればよいかなどという答えは、けっして出ないことはわかっているのに、思考はいつも同じところを行ったり来たりしていた。
ディルクが立ち上がり扉口へ向かうと、ずっと黙っていたリオネルがつぶやくように言った。
「ディルクを追いこんだのは、おれの立場だ。ディルクが人殺しなら、おれも同じ罪を背負っている。ひとりで抱え込むな」
ディルクはゆっくり親友に顔を向ける。リオネルの深い紫色の瞳が、ひたとディルクを見つめていた。
どこか苦しげでありつつも、穏やかで包みこむようなリオネルの強く優しい眼差し。
ディルクは、胸のつかえがほんの少し和らぐのを感じた。
リオネルの言葉や瞳には不思議な力がある。
自分は独りではない――そう思わせる、なにかがあるのだ。
それは、彼が言うことなら信じられるからかもしれない。
いや、リオネルが言うことは、すべて真実になっていくような気さえする。
かすかに口角を上げてリオネルへ目だけでうなずくと、ディルクは再び扉へ向かった。
そして扉を開け、目を見開く。
目前にいた人物もまた、右手の甲をディルクに向けたまま固まり、瞳を大きくした。ちょうど扉を叩こうとしたところだったようだ。
「アベル?」
「……ディルク様」
座っていた若者らは、視線を扉へ向ける。
「寝たんじゃなかったのか?」
「いえ……主人やお客様より先に休むわけにはまいりませんので、ご挨拶だけでもと思い、伺いました」
「真面目だなあ、アベルは。そのわりに朝は起きられないみたいだけど」
ディルクがからかったので、アベルは顔を赤くした。
「……す、すみません」
朝が弱いのは、自分の努力ではどうにもならないものだった。貴族の令嬢であったアベルは、だれかに起こしてもらわないと早朝に目覚めることができない。
「朝寝坊のアベルも、かわいらしくていいと思うけど」
ディルクが笑顔でそんなことを言うので、アベルはますます頬を染めてうつむいた。
「……ディルク、アベルをからかわないでやってくれ」
いつのまにやらそばに来ていたリオネルが、不機嫌な口調で言う。
「アベルと話すと心が和むよ。リオネル、おまえが大事にする気持ちがわかるような気がする」
「…………」
リオネルは複雑な表情で、ディルクのほっとしたような茶色の瞳からアベルへ視線を移した。
「アベル、休んでいるように言ったはずだけど」
「申しわけございません、リオネル様。ですが、お客様の無事の到着を確認せず、そのうえ主人より先に休むのはどうしても落ちつかなかったので」
いかにもアベルらしい理由である。
リオネルは小さく溜息をついた。
「無事の到着を確認できたから、もう休んでくれるか?」
リオネルにしてみれば、愛しい娘を深夜に部屋の外でうろうろさせたくない。このような時間帯には、彼女を男たちの目から遠ざけておきたいのだ。
しかし、そんな理由があるとは思いも寄らないアベルは、自分を早々に休ませようとするリオネルの態度に腑に落ちないものを感じていた。
「休みますが……」
アベルはちらとディルクを見上げる。
その頬の傷が、さきほどから気になってしかたがない。
ディルクの端正な顔に残る傷跡はさほど目立ちはしないが、馬から落ちたり転んだりするようには到底思えないこの若者の顔に、どのようにして傷がついたのかが不思議だった。
視線を受けてディルクは苦笑した。
「そんなに目立つかな?」
「申し訳ございません」
ぶしつけに見ていたことを反省して、アベルは頭を下げる。
「女の子にふられて、花束で叩かれたんだ」
「……え……」
「というのは冗談で」
呆気にとられたアベルに、ディルクは笑った。
「雪道で転んだんだよ。おれのほうこそ、つまらない冗談を言ってすまなかったね」
とても雪道で転んだふうには思えない。アベルは心配に表情を曇らせる。
なにかを言おうとしたアベルより先に、ディルクはすまなそうに口を開いた。
「おれの傷は自業自得だ。それより、きみの怪我は?」
アベルは問われて初めて、自分でもしばし忘れかけていた怪我のことを思い出す。
「まったく痛まなくなりました。ご心配をおかけして、申しわけございませんでした」
彼女の肩に、ディルクの手が軽く触れた。
「――本当によかった。きみになにかあったら、いろんな意味で立ち直れなかったよ。リオネルからも絶交されただろうしね」
アベルは口を引き結び、首を横に振る。
……もったいないほどの言葉だった。
しかしリオネルは、ディルクの手がアベルの肩に触れていることが許せないようで、
「それ以上、アベルの肩に触れていたら、絶交するかもしれないぞ」
と、冗談ともつかぬ声で言う。
ディルクは楽しそうに笑った。
「本当に、リオネルとアベルがいっしょにいると飽きないなあ」
どこまで本気で話しているのか判じかねる二人のやりとりに居心地の悪さを感じて、アベルは話題を変えようとした。
「ディ、ディルク様は、どちらへ?」
「ああ、葡萄酒をもらいに行こうと思って」
「そのようなことは、わたしがやります。ディルク様はこちらの部屋でお寛ぎになっていてください」
「アベルは、そんなことをしなくていい」
即座に眉をひそめたのはリオネルだった。
親友の様子がおかしくてたまらないらしいディルクは、
「じゃあ、アベル。いっしょに行こうか」
と笑顔で言った。
「え? いっしょに……?」
共に行く意味がまったくわからないアベルは、目を丸くする。
「ディルク」
リオネルから不機嫌に名を呼ばれたが、ディルクはかまわずアベルを促して廊下へと歩みだす。
「あ、あの……」
戸惑うアベルを連れて、ディルクはリオネルに手を振った。
リオネルは二人についていくわけにもいかず、片手で頭を押さえる。ディルクらの来訪によって、ここしばらく続いていた平穏な日々が、色々な意味で確実に終わりを告げたことを、あらためて悟ったのだった。
さらに、思いもよらない客人までもがここベルリオーズ邸を訪れたのは、あくる日の夕方のことだった。