52
年が明けて一ヶ月以上経ったが、寒さは和らぐ気配を見せない。
重い雲の下、深い雪道を馬で駆けるひとりの若者の姿があった。
マチアスである。
山賊討伐のためにベルリオーズ邸へ赴くその当日、主人から一通の手紙を届けるよう命じられたのだ。向かう先は、デュノア邸。
手紙の内容は知らされていないが、主人がどのような思いでこれを書いたのかと思うと、マチアスは気持ちが沈んだ。
デュノア伯爵ではなく、カミーユに宛てた手紙。
けっして軽々しい思いでは書かれていないはずだ。
今までに幾度も足を運んでいるデュノア邸の門に到着する。
マチアスの顔を覚えている二人の門番のうち、ひとりは一礼して正門を開き、いまひとりはマチアスの来訪を主人に報告しに走った。
玄関先で彼を出迎えたのは、この館の執事である。マチアスひとりが来訪したことを、怪訝に思っている様子であった。
カミーユに会わせてもらえないかと尋ねると、執事は表情を曇らせ、「お待ちください」と言い置いて、奥へ下がっていった。
しばらくして彼は戻ってきたが、
「大変申しわけございませんが、カミーユ様はご気分がすぐれず、だれともお会いできぬとおっしゃっています」
と告げられる。
マチアスは、うなずいた。こうなることは予想していた。
「では、主人からの手紙とこの木箱を、カミーユ様にお渡しいただけませんでしょうか」
「……かしこまりました」
マチアスが手紙とともに携えていたのは、唐草模様の形に白蝶貝が埋め込まれた、美しい木箱だった。
執事はゆっくりとした動作でそれらを受けとる。
「では私は、これで失礼いたします」
「さようでございますか。せっかく来ていただいたにもかかわらず、ご案内できずに申し訳ございませんでした」
執事も、マチアスが長居することを望んでいないようだった。
マチアスが微笑して踵を返すと、執事は無言で頭を下げる。使用人が開けた扉を通って、玄関を出ようとしたときだった。
「マチアス」
聞き慣れた声に呼びとめられてマチアスが振り返ると、そこにいたのは案の定、カミーユだった。
「カミーユ様」
一度は会うことを拒否した彼が姿を見せたということは、主人とこの少年のあいだの関係を修復できる希望が、まだ残されているということだった。
目の前の少年は、二週間ほど前に会ったときよりも、少し痩せただろうか。
よく眠れていないのか、目の下がかすかに青紫色になっているのが痛ましい。
マチアスは心を決める。これが、二人を救うための最後の機会かもしれない。
「……ひとり、なのか?」
「はい」
「…………」
カミーユの聞きたいことがなんなのか、マチアスにはわかった。
「本日は、主人からの手紙を届けに参りました」
その言葉を受けて、執事がマチアスから預かっていた手紙をカミーユに渡す。
カミーユはなにかを探るようにマチアスの顔を見てから、手紙に視線を落とすと、ためらうような手つきでそれを開き、文字を追いはじめる。
中庭に続く広間から現れた若者が、マチアスと若い主人の姿をみとめ、足を止めた。トゥーサンである。
十三歳の少年は、沈痛な面持ちで手紙を読みおえると、続いて執事が手渡してきた木箱を不思議そうに受け取る。
「これは?」
「これも、主人から貴方にお渡しするよう言いつかったものです」
カミーユは、そっと木箱の蓋を開けた。
なかから出てきたのは、ディルクが大切にしていた水色のハンカチ、スミレの押し花、そしてシャンティからの手紙である。
カミーユは、一番上にあった手紙に目を通すと、青みがかった灰色の瞳を大きく見開いた。
「姉さん――」
その下にあった、水色のハンカチとスミレの押し花におそるおそる触れる。
カミーユの手は震えていた。
「どうして」
かすれた声で、少年はつぶやく。
「これは、姉さんが、ディルクに――。……山賊討伐? マチアス、どういうことだ?」
ディルクからの手紙には、山賊討伐に関するなにかしらのことが触れてあったようだ。しかし、カミーユの質問の意図は、それだけではわからなかった。
「私は、その手紙の内容を存じません」
そう答えると、カミーユはディルクからの手紙を黙ってマチアスに手渡した。
「よろしいのですか」
マチアスが問うと、カミーユはうなずく。
手紙を開くと、見慣れた主人の文字が連なっていた。
『親愛なるカミーユ殿
直接会いにいかず、手紙という形で伝えることを許してほしい。
今回、きみに手紙を書いたのは、私自身を弁護するためでも、私の罪をきみに赦してもらうためでもない。……だが、私の勝手であることは確かだ。
だから、きみにとって、この手紙はとても不快なものかもしれない。もしそうだったら、これを暖炉の火にくべてほしい。
この手紙は、私の懺悔だ。
山賊討伐に赴く前に、きみにどうしても書いておきたかった。
二年前、私のせいできみの愛する姉君を死なせてから、私は、自分のとった行動のすべてを後悔した。
婚約を解消したのは、王弟派の私のもとに、国王派の彼女が嫁ぐことを憂慮したからだった。けれど、その直後にシャンティ嬢の身に起こったことを知ったとき、初めて彼女のためにと思ってやったことは、実はすべて自分のためだったことに私は気がついた。
彼女を守りたいと思っていたはずが、その実、自分を守るためだった。
彼女の傷つく顔が見たくないと思っていたのは、苦しむ彼女を間近で見ることを恐れた自分の弱さだった。
どんなことがあっても、シャンティ嬢を守ってあげればよかったのに、私ははじめから自分のできることを放棄し、努力することもせず、彼女との婚約を解消することで、そこから逃げたのだ。
彼女を愛するすべての人に、私はどのように謝ればいいかわからない。
シャンティ嬢が亡くなったときから、どうやって罪を償えばよいのか、悩み続けている。
百万回、花を手向けても赦されないだろう。
私はきみをはじめ、デュノア家の方々を苦しませ続けている。
その償いきれない罪を、私は、今後の人生を懸けて償いたい。償うことを、許してほしい。
そして、シャンティ嬢の死を悼み続けることを、どうか許してほしい。
ディルク・アベラール』
「……マチアス、どうしてディルクはこれをおれに?」
カミーユは、姉が婚約者のディルクに贈った手紙とハンカチが入った小箱を、強く握りしめた。その目は不安に揺れている。
マチアスは、しばしためらってから口を開く。
「ディルク様は、もしものときのことを考えて、貴方にこの手紙と木箱をお渡ししておこう思ったのではないでしょうか。山賊討伐は、けっして容易なことではありません。万が一にでも命を落としたときに、貴方になにも告げずに別れたくなかったのかもしれません」
「……ディルクが……死ぬ?」
「可能性があるというだけです」
「…………」
――その償いきれない罪を、私は、今後の人生を懸けて償いたい。償うことを、許してくれないか。
手紙には、そう書かれていた。
カミーユは呼吸が苦しくなるのを感じた。
「ディルクは……死ぬつもりなのか?」
「いえ――けっして、そのようなことはありませんが」
マチアスの言い淀む様子に、カミーユが唾を飲む。
「マチアス、ディルクは――」
「私ごときが主人の考えを推し量ることはできません。ただ、そういう〝質〟なので明るく振る舞っていますが、だれよりも自分を責めているのは、ディルク様ご自身ではないかと思います」
マチアスは瞼を伏せた。
「そんな……」
カミーユの声から、激しい動揺が伝わってくる。
「姉さんからの贈りものをおれに届けたのは……」
「討伐に行くまえに、シャンティ様の弟君である貴方に、お返ししておこうと思ったのでしょう」
「……まるで、もう二度と会えないみたいじゃないか――」
「それは、貴方が望まれたことではありませんか?」
マチアスの声がわずかに冷たさを帯びた。
カミーユは思い出す。
自分が、ディルクに向けた言葉を。
――人殺しのくせに。
――二度と、おれのまえに現れるな。
そのときの、ディルクの瞳……。
再び呼吸が苦しくなる。
そう思ったことは、事実だ。
それを口にしたことも、後悔していない……はずだった。
しかし。
この言葉を浴びせられたディルクは、どんな思いだっただろうと、今更ながら想像する。
ディルクはこの手紙を、どのような気持ちで書いたのだろう。
従兄弟のフィデールが言ったことは、本当かどうかわからない。
しかし、ディルクの目にたたえられていた哀しみは、けっして虚構ではなかった。それを一番知っていたのは、自分だったはず。
「ディルク」
カミーユは、木箱を胸に強く抱きしめた。
「――いやだ」
少年のつぶやきに、マチアスとトゥーサンは、ただその顔を見つめた。
「ディルクが死んだらいやだ。おれは、これを受けとらない。これは姉さんがディルクに贈ったものだ」
「カミーユ様」
「マチアスは今からディルクのもとへ行くのか?」
「ディルク様はすでにベルリオーズ邸に向かわれました。私はそのあとを追います」
「おれも行く」
「…………」
「これを返しにいく。おれの手で、ディルクに返すんだ」
その言葉に驚いたのは、トゥーサンと執事だった。
「カミーユ様、ベルリオーズ邸は、休まず馬をかけても一日以上かかります。そのようなところへ自ら赴かれるなど――」
「おれは行く。ディルクに会いに行く。もう二度と会えないなんて、絶対にいやだ」
トゥーサンが慌てたのは、距離や時間だけの問題ではない。王弟派の本拠地であるベルリオーズ邸に足を踏み入れるとなると、伯爵夫婦の許可を得なければならない。
しかし、カミーユは老執事に向けて言い放った。
「おれがディルクに会うためにベルリオーズ邸へ向かったと、父上と母上には伝えておいてくれ」
「い、いえ、カミーユ様、そのようなことを急におっしゃられましても。ああ、お待ちください……っ。カミーユ様!」
カミーユは慌てる周囲をよそに、玄関の扉へ歩きだす。慌てて追いかけるトゥーサンのあとに、マチアスは落ちついた足取りで続く。
カミーユを止めることが不可能だと判断したのか、トゥーサンは外套を二枚、使用人からひったくるようにして受けとり、マチアスを睨んだ。
「マチアス殿の、ご計画通りですか?」
「…………」
マチアスは、なにも答えなかった。
たしかに、カミーユをこのような行動を取るきっかけを作ったのは自分である。
カミーユが恐れているように、ディルクが今回の討伐にかこつけて、自ら死を選ぶことはないだろう。
ディルクは、そのような罪の償い方はしない。苦境に立たされている無二の親友をひとり、この世に残して逝くことなど、彼にはできないはずだ。
けれど、はじめから計画していたわけではないものの、想像以上に良いほうへ事態が展開したのは事実である。
このままでは二人とも苦しみ続ける。
カミーユは、けっしてディルクを恨みたくはないはずだ。
むしろ慕っていたいのだと思う――愛する姉が、想いつづけた相手だからこそ。
マチアスはそれをよく理解していた。
船ごと沈みかけている主人と、この少年を救うためには、多少、計略的な方法をとるのも、しかたのないことだった。
……しかし、ふと暗い思いがよぎる。
デュノア邸からの帰りの馬車のなか、どこか遠くを見つめるディルクの瞳と、シャンティの名をつぶやくその様子。
あながちカミーユの懸念は、真実からまったくかけ離れたことではなかったのかもしれない。
償うことを許してほしいという、その言葉に秘められた思いとは。
ならばなおさら、主人を救うためにも、この少年の助けが必要だった。
執事が止める間もなく三人は馬に跨り、深い雪のなかを走りだす。
――彼らが目指す先は、ベルリオーズ邸。