9
階段を下り、玄関で外套を羽織った二人は、広間を抜けて、庭に出た。ディルクの少し前をカミーユが歩く。二人とも無言だった。
庭園を囲む木立の枝には、葉はもう一枚もない。芝生のうえに、茶色い枯葉が何枚か落ちているだけだ。
花壇に咲く花はなく、溶けのこった雪と、黒い土がむき出しになっており、寒々しい印象を与えた。
砂利道を踏みしめる音と、二人の吐く白い息だけが、存在感を放っていた。
二人は庭の奥へ進み、館から離れていく。
木立のなかに入ると、屋敷からその姿は見えなくなった。そして、初めはまばらだった木立も、そのうち鬱蒼とした森のようになり、足場が悪くなる。それでもカミーユとディルクの歩む速度は落ちなかった。
池にたどり着く。
シャンティが落ちたはずの池。
大きくはないこの池の周りには木が多く、あたりは昼間だというのに暗かった。
ディルクは畔に膝をついて、水面に指の先を浸す。
冬の池は冷たかった。
――シャンティは、まだこの水のなかにいる。
締め付けられるような思いが込み上げてきたときだった。
背中に人の手を感じて振り返る。
カミーユの両手がディルクの背にあった。
そして、カミーユはまっすぐにディルクを見ていた。
けれどその目は、先ほどの憎しみに満ちた目ではなく、ぼろぼろと涙をこぼしている。
「カミーユ殿……」
カミーユは、ディルクの背中に置いた両手を強く握りしめた。
「おまえを……っ」
堅くつむった目から落ちた雫が、枯葉の上に茶色い染みを作る。
「おまえなんか、殺してやりたかった……!」
再び開いた青灰色の目には、一瞬憎しみの炎が燃え、そして消えた。
「この池に落としてやろうと思った……」
「――――」
ディルクは、心が凍っていくような思いで、目を細める。
シャンティの死に、自分が関わっている。そのことを、カミーユの態度は、はっきり示していた。
自分が、シャンティをこの池に沈めた。
そして、目の前の少年はこれほどまでに苦しんでいる。
ディルクはやりきれない思いだった。
「……すまなかった……本当に――――」
ディルクは、にぎった拳を土の上に置いて、カミーユに頭を下げた。
「でも……! 姉さんは、おまえなんかのことが好きだったんだ。ずっと、ずっと会ったこともないおまえのことを想っていたんだ……」
カミーユの涙は、止めどなくあふれる。
「ディルク様は、強くて、優しい人だって……おまえと結婚するのを夢見ていたんだ……!」
カミーユはもはや冷静さを取り戻すことができなかった。
自分より背の高いディルクの襟首をつかんで、力任せに揺さぶった。
「なんでもっと早く会いに来てくれなかったんだよ! どうして姉さんを助けてくれなかったんだよ! どうして婚約を解消したりしたんだよ! なんで……なんで……!」
ディルクのやわらかい茶色の瞳が揺れた。振りほどくことは容易かったが、カミーユにされるがままでいた。こうしていることでしか、ディルクは自分の罪を償えなかった。
そのうちカミーユの動きが止まり、かすれた声で呟く。
「……姉さんを救うことができなかった……」
「…………」
自責の念に囚われているのは、ディルクだけではなかった。だれよりも心に十字架を背負っていたのは、この少年だ。
ディルクは、カミーユの肩を強く抱きしめた。
「……すまなかった。本当に、すまなかった……」
弁解するつもりはなかった。シャンティの幸せを思ってやったことだったが、そんなことには、今やなんの意味もなかった。
ディルクの腕のなかで、カミーユは大声で泣いた。
だれかの腕のなかで、声を出して泣いたのは、シャンティがいなくなってから初めてのこと。いつまでも、いつまでも、声がかれるまで、ディルクの外套の胸元が涙でびしょ濡れになるまで、泣いた。
それは、カミーユにとって、ある意味では、解放された瞬間だった。
家族でも、友達でもない、その腕のなかは、カミーユにとっては意外なことに、あたたかくて、居心地が良かった。
いっそのこと、シャンティがこの池で死んでいないこと、デュノア領から追放されたこと、その全てをディルクに告げられれば、カミーユはどんなにらくになれたかわからない。
けれどそれができなかったのは、巧妙に話を作り上げた父に対して、遠慮したわけではない。
シャンティが、婚約者以外の男の子供を身ごもっていること――、それをこの人の耳には入れたくなかったのだ。
シャンティは、ディルクの前では綺麗なままでいたいはずだった。
――なにもなかった――。
そう言い続け、震えていたシャンティの気持ちと自尊心を、これ以上に傷つけたくなかった。
カミーユは、ディルクの腕のなかに身体を預けたまま、顔を見ずに言う。
「ここで、この池の周りで……姉さんとよく遊んだ」
「……そうか」
「ディルク」
「…………?」
「……ありがとう」
カミーユの頬に、再び涙がこぼれた。
――これが最後の涙。
カミーユは、そう思った。
――姉さんは、生きているかもしれない。
声の限りに泣き叫び、ディルクと一緒にいたら、そんな気持ちがわいてきた。
以前は、前向きに思いこもうとしても、悪いほうにしか考えられなかったのに、今はこんなふうに思えることが、不思議だった。
――強くなろう。強くなって、今度こそ姉さんを守りたい。
ディルクが池の畔に弔花をそっと置くと、カミーユはそれを拾い上げ、勢いよく池の上空に放り投げた。束ねていた紐がほどけ、花が鮮やかに舞う。
色のない真冬の池が、散らばった花弁で彩られた。
驚くディルクに、カミーユは笑顔を見せる。
「綺麗でしょ?」
その何かがふっきれたような顔に、ディルクは、参った、と笑った。
池から館に戻る途中で、二人は様々な話をした。
「いまいくつなんだ?」
「十一」
「シャンティ殿とは仲がよかったの?」
「仲がいいってもんじゃないよ。いつもいっしょだった」
「……そうか」
「姉さんは、とても綺麗な人だったよ。ディルクはもったいないことしたな」
「それは、残念だな」
先ほどとは打って変わって元気になった少年を見て、ディルクは少しばかり安堵した。
一方で、もうひとり心を痛めているであろう人物のことも思い起こす。
「奥方様にもご挨拶できたらよかったのだけど」
「母上に?」
「さぞお嘆きだろうな……」
「……うん。泣いていたよ」
その日、ディルクは、寝室に閉じ籠ったきりの伯爵夫人に会うことはなかった。
館に続く階段の前までたどり着くと、カミーユは立ち止まってディルクに言った。
「ねえ、また来てよ」
「いいのか」
「……きっと、きっといつか姉さんに会える日が来るから――」
最後の言葉は、冬の冷たい風に乗って、木立のほうへ消えていく。耳が良いとレオンに言われるディルクにさえ聞こえないほど、小さな声だった。