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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第一部 ~婚約破棄された伯爵令嬢は、男装して旅に出る~
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 階段を下り、玄関で外套を羽織った二人は、広間を抜けて、庭に出た。ディルクの少し前をカミーユが歩く。二人とも無言だった。


 庭園を囲む木立の枝には、葉はもう一枚もない。芝生のうえに、茶色い枯葉が何枚か落ちているだけだ。

 花壇に咲く花はなく、溶けのこった雪と、黒い土がむき出しになっており、寒々しい印象を与えた。


 砂利道を踏みしめる音と、二人の吐く白い息だけが、存在感を放っていた。

 二人は庭の奥へ進み、館から離れていく。

 木立のなかに入ると、屋敷からその姿は見えなくなった。そして、初めはまばらだった木立も、そのうち鬱蒼とした森のようになり、足場が悪くなる。それでもカミーユとディルクの歩む速度は落ちなかった。


 池にたどり着く。


 シャンティが落ちたはずの池。

 大きくはないこの池の周りには木が多く、あたりは昼間だというのに暗かった。

 ディルクは畔に膝をついて、水面に指の先を浸す。

 冬の池は冷たかった。


 ――シャンティは、まだこの水のなかにいる。


 締め付けられるような思いが込み上げてきたときだった。

 背中に人の手を感じて振り返る。

 カミーユの両手がディルクの背にあった。

 そして、カミーユはまっすぐにディルクを見ていた。


 けれどその目は、先ほどの憎しみに満ちた目ではなく、ぼろぼろと涙をこぼしている。


「カミーユ殿……」


 カミーユは、ディルクの背中に置いた両手を強く握りしめた。


「おまえを……っ」


 堅くつむった目から落ちた雫が、枯葉の上に茶色い染みを作る。


「おまえなんか、殺してやりたかった……!」


 再び開いた青灰色の目には、一瞬憎しみの炎が燃え、そして消えた。


「この池に落としてやろうと思った……」

「――――」


 ディルクは、心が凍っていくような思いで、目を細める。

 シャンティの死に、自分が関わっている。そのことを、カミーユの態度は、はっきり示していた。

 自分が、シャンティをこの池に沈めた。

 そして、目の前の少年はこれほどまでに苦しんでいる。

 ディルクはやりきれない思いだった。


「……すまなかった……本当に――――」


 ディルクは、にぎった拳を土の上に置いて、カミーユに頭を下げた。


「でも……! 姉さんは、おまえなんかのことが好きだったんだ。ずっと、ずっと会ったこともないおまえのことを想っていたんだ……」


 カミーユの涙は、止めどなくあふれる。


「ディルク様は、強くて、優しい人だって……おまえと結婚するのを夢見ていたんだ……!」


 カミーユはもはや冷静さを取り戻すことができなかった。

 自分より背の高いディルクの襟首をつかんで、力任せに揺さぶった。


「なんでもっと早く会いに来てくれなかったんだよ! どうして姉さんを助けてくれなかったんだよ! どうして婚約を解消したりしたんだよ! なんで……なんで……!」


 ディルクのやわらかい茶色の瞳が揺れた。振りほどくことは容易かったが、カミーユにされるがままでいた。こうしていることでしか、ディルクは自分の罪を償えなかった。

 そのうちカミーユの動きが止まり、かすれた声で呟く。


「……姉さんを救うことができなかった……」

「…………」


 自責の念に囚われているのは、ディルクだけではなかった。だれよりも心に十字架を背負っていたのは、この少年だ。

 ディルクは、カミーユの肩を強く抱きしめた。


「……すまなかった。本当に、すまなかった……」


 弁解するつもりはなかった。シャンティの幸せを思ってやったことだったが、そんなことには、今やなんの意味もなかった。

 ディルクの腕のなかで、カミーユは大声で泣いた。

 だれかの腕のなかで、声を出して泣いたのは、シャンティがいなくなってから初めてのこと。いつまでも、いつまでも、声がかれるまで、ディルクの外套の胸元が涙でびしょ濡れになるまで、泣いた。

 それは、カミーユにとって、ある意味では、解放された瞬間だった。

 家族でも、友達でもない、その腕のなかは、カミーユにとっては意外なことに、あたたかくて、居心地が良かった。


 いっそのこと、シャンティがこの池で死んでいないこと、デュノア領から追放されたこと、その全てをディルクに告げられれば、カミーユはどんなにらくになれたかわからない。

 けれどそれができなかったのは、巧妙に話を作り上げた父に対して、遠慮したわけではない。

 シャンティが、婚約者以外の男の子供を身ごもっていること――、それをこの人の耳には入れたくなかったのだ。

 シャンティは、ディルクの前では綺麗なままでいたいはずだった。


 ――なにもなかった――。


 そう言い続け、震えていたシャンティの気持ちと自尊心を、これ以上に傷つけたくなかった。

 カミーユは、ディルクの腕のなかに身体を預けたまま、顔を見ずに言う。


「ここで、この池の周りで……姉さんとよく遊んだ」

「……そうか」

「ディルク」

「…………?」

「……ありがとう」


 カミーユの頬に、再び涙がこぼれた。

 

 ――これが最後の涙。


 カミーユは、そう思った。


 ――姉さんは、生きているかもしれない。


 声の限りに泣き叫び、ディルクと一緒にいたら、そんな気持ちがわいてきた。

 以前は、前向きに思いこもうとしても、悪いほうにしか考えられなかったのに、今はこんなふうに思えることが、不思議だった。


 ――強くなろう。強くなって、今度こそ姉さんを守りたい。




 ディルクが池の畔に弔花をそっと置くと、カミーユはそれを拾い上げ、勢いよく池の上空に放り投げた。束ねていた紐がほどけ、花が鮮やかに舞う。

 色のない真冬の池が、散らばった花弁で彩られた。


 驚くディルクに、カミーユは笑顔を見せる。


「綺麗でしょ?」


 その何かがふっきれたような顔に、ディルクは、参った、と笑った。

 池から館に戻る途中で、二人は様々な話をした。


「いまいくつなんだ?」

「十一」

「シャンティ殿とは仲がよかったの?」

「仲がいいってもんじゃないよ。いつもいっしょだった」

「……そうか」

「姉さんは、とても綺麗な人だったよ。ディルクはもったいないことしたな」

「それは、残念だな」


 先ほどとは打って変わって元気になった少年を見て、ディルクは少しばかり安堵した。

 一方で、もうひとり心を痛めているであろう人物のことも思い起こす。


「奥方様にもご挨拶できたらよかったのだけど」

「母上に?」

「さぞお嘆きだろうな……」

「……うん。泣いていたよ」


 その日、ディルクは、寝室に閉じ籠ったきりの伯爵夫人に会うことはなかった。

 館に続く階段の前までたどり着くと、カミーユは立ち止まってディルクに言った。


「ねえ、また来てよ」

「いいのか」

「……きっと、きっといつか姉さんに会える日が来るから――」


 最後の言葉は、冬の冷たい風に乗って、木立のほうへ消えていく。耳が良いとレオンに言われるディルクにさえ聞こえないほど、小さな声だった。




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