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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第二部 ~男装の伯爵令嬢は、元婚約者の親友の用心棒になる~
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いつもお読みいただきありがとうございます。

お話の途中で、前書き失礼します。


作者の懸念なのですが…。

フェリシエ(&ライラ)の話は、読者様にとってストレスを感じられる要素かと思います。

今回も後半に出てきます…。申し訳ありません。

一部のストーリーを変えると全体の流れが崩れるため、今後も時折登場するかと思います(今後どれだけフェリシエが登場しても、リオネルの心はアベルにだけ向けられていて、揺らぐことはありません)。

読者様にご不快な思いをさせるのは作者の本意ではなく、あらかじめ書かせていただきました。

引き続きお付き合いいただけたら幸いです。m(_ _)m








 ディルクとマチアスが伯爵の執務室に戻ったときには、すでに話し合いは終わり、侯爵らは葡萄酒を片手にまったく山賊討伐とは関係のない話をしながら、二人が戻るのを待っていた。


「ディルク、その傷は……?」


 息子の頬のについた無数の血の筋を目にしたアベラール侯爵は、眉をひそめる。


「いかがされましたっ」


 侯爵よりもはるかに動揺したのは、デュノア伯爵である。


「もしや館の者が――」

「いいえ、違います。雪道を歩いていて、滑って転んで頬を擦ったのです。ほんのかすり傷ですよ、お構いなく」

「すぐに手当てを」

「いいのです。お二人の話も済んだようですので、我々はもう戻ります」

「しかし――」

「本当に大丈夫です、伯爵殿。池で亡くなったシャンティ嬢の苦しみに比べれば、このような傷は、風が吹いたくらいのものです」

「…………」


 ディルクは強引にデュノア伯爵の言葉を遮り、父侯爵を促して帰途についた。


 カミーユがあのような状態であることは、ひどくディルクの心を痛めさせたが、これ以上この館にいてもけっして状況は好転しないことはわかっている。

 今のカミーユには、おそらくどんな言葉も届かないだろう。


 ディルクはひどく疲れていた。




 帰りの馬車のなかでは、アベラール侯爵が息子の頬を見て、再び眉をひそめる。


「……して、本当にその傷は転んだものなのか」

「そうですよ、父上」


 侯爵は訝るように息子の横顔を見たが、それ以上なにも言いそうになかったので、代わりにマチアスへ視線を向ける。


「マチアス、それは真実か」


 問われた従者は、ややためらってから、


「この傷をつけたのは、カミーユ様です」


 と白状した。


「マチアス」


 ディルクがマチアスを睨んだが、彼はそれを平然と受け止める。


「侯爵様に問われて、真実をお答えしないわけにはいきませんので」

「さっきは珍しくおれをかばったと思ったら、今度は裏切りやがって」

「普段、余計な手出しをしないのは、貴方が充分にお強いからです。抵抗しない貴方が傷つけられているのを黙って傍観などしておれません」

「…………」

「貴方を傷つける者がいれば、私は許しませんよ」

「わかったよ」


 ディルクは多少ぶっきらぼうに話を打ち切らせる。


「カミーユ殿がおまえを? なぜだ。その傷はどのようにしてついたものなのだ」

「……もういいではありませんか。それより父上のほうこそ、伯爵にすげなく断られたのでしょう?」


 アベラール侯爵は、どうしても話したがらぬ息子を渋い表情で眺めやり、それからマチアスに視線を向ける。マチアスはそれを受け、目だけでうなずいた。

 子細はあとで息子の従者から聞けそうである。

 侯爵は、今はこれ以上この件にこだわらないことにした。


「……よくわかったな」

「お話が早くに終わられていたので」

「伯爵には難色を示された。おそらく時が経っても、伯爵の考えは深まりこそすれ、討伐参加に向くことはないだろう」

「説得する余地もないと?」

「表向きの理由は、カミーユ殿がまだ幼いため、夫人と彼を残して館を離れるわけにはいかないというものだった。そう言われてしまえば、反論のしようがない」

「……なるほど」


 ディルクはうなずきつつも、心はすでにここにあらず、先程の出来事を思い出していた。

 傷ついた頬がひりひりするが、身体よりも、心のほうがずっと痛い。


 カミーユの瞳。

 カミーユの言葉。


 彼は、苦しんでいるようだった。

 フィデールになにを言われたのかわからないが、裏切られたという思いが、そこかしこに滲んでいるようだった。


 しかし、あの青灰色の瞳に映っていたのは、純粋な憎しみだけではないような気もする。

 憎むべき相手でありながら、ディルクを信じていたいという思い。

 それらが、複雑に入りまじっているようだった。


「人殺しのくせに」と言ったカミーユの声が、耳から離れない。


 ――人殺しのくせに、そんな哀しそうな顔するなよ!

 ――おまえにそんな権利なんてない!


 ディルクには哀しむ権利もないと、少年は言った。

 そうかもしれない。

 自分は、ひどく身勝手かもしれないと、あらためて思う。

 婚約者を死なせたかもしれないというのに、それなのに、その哀しみに浸るなど。


 ……自分はどうすればいいのか。

 彼女を忘れ、平然と生きることが、罪の償いになるとでもいうのだろうか。

 とてもそんなふうには考えられないし、もし仮にそうだったとしても、ディルクにはシャンティの存在を忘れることなどできそうになかった。


 ならば、自分も死んで罪を償うしかないのか――。

 空色のハンカチに、空色の押し花。


 ――まだお会いしたことのない、わたしの婚約者様へ

 ――あなたのシャンティ


「シャンティ……」


 ディルクは、あまりに深い考えに耽っていたので、自分がその名を口にしたことにも気づかなかった。


 侯爵とマチアスは、そのつぶやきをたしかに聞きとりディルクに視線を向けたが、青年はぼんやりと馬車の壁に頭を持たせかけ、舞い落ちる雪を眺めていただけだった。





+++





 一方ベルリオーズ領を挟んで、アベラール領やデュノア領の真北に位置するエルヴィユ領では、ひとりの若い女が同じく降りやまぬ雪を、自室の大きな窓から眺めていた。


 高い位置に結わえた亜麻色の髪には、髪留めに埋め込まれた宝石が輝いている。

 薔薇のような唇からは、ときおり吐息が洩れた。

 その表情は、夢を見ているように恍惚こうこつとしていたが、ときに激しく燃える炎のような色をちらつかせることもあった。


 最後に触れた、愛しい男の温もりが忘れられない。

 その声、その香り……。

 すべてを手に入れたい。

 ――それなのに。


「フェリシエ?」


 例によって例のごとく、部屋の主の承諾なしに入ってきたのは、兄のシャルルである。侍女のライラがかすかに眉を寄せる。


 窓硝子に手を添え、外の景色を眺めていたフェリシエは、ゆっくりと兄を振り返った。


「昼食にも現れずに、どうしたんだ?」

「お兄様、勝手に入らないでくださいと、いつも申しあげているはずです。そういうところは、野蛮なディルク様にそっくりですわね」

「ディルクは、久しぶりに会って前よりさらにいい男になっていたな」

「あれのどこがいい男なのですか? リオネル様の爪の先ほども素敵ではありませんわ」

「ああ、リオネル様はまた、他の追随を許さぬ美男子だな。あの容貌とご気質、そしてあのご身分とくれば、これから貴婦人がたから相当な人気がでるぞ」

「お兄様!」


 フェリシエの気も知らないで、軽々しく不安をあおるようなことを言うシャルルに、彼女は声を荒げる。


「すまない、フェリシエ。一般的な所見を述べただけだ」

「一般的な所見など、聞きたくありません」

「いいではないか。おまえとリオネル様は、ずいぶんと二人だけで過ごしていたし、あの方もついに美しいおまえに心を開いてきたのかもしれないぞ」


 シャルルはかわいい妹に、にこやかに語りかけたが、フェリシエはぷいと背中を向けてしまう。

 すると、しばらくして彼女の肩が細かく震えだす。


「なにを笑っているのだ? 思い出し笑いか?」

「――泣いているのです!」


 ふり向いたフェリシエの目からは、ぼろぼろと涙が流れ出ていた。


「おおッ?」


 突然、号泣しはじめた妹に、さすがにシャルルは驚いて一歩後ずさりした。


「ど、どうしたんだ」


 フェリシエはシャルルのもとへ歩み寄り、その胸元を引き寄せ、両手に握った拳を叩きつけた。


「アベルを殺してください!」

「な、なにを、いきなり言いだすんだ」

「あの子のせいよ! あの子がすべて悪いのよ!」

「アベルがおまえになにかしたのか? おまえはあれほど彼を気に入って、楽しそうに話していたではないか」

「あれは、血も出るような努力の結果です」

「は?」


 シャルルはあんぐりと口を開けた。


「あんな子、大嫌いよ! 卑しい身分のくせに、リオネル様に気にいられて、いい気になって。ぐちゃぐちゃにして、ボロボロにして、アンテーズ川に沈めてやりたいわ!」

「そんな気持ちでいたのに、あんなにほがらかな笑顔を彼に向けていたのか――。女とは、かくも恐ろしい生き物とは」


 シャルルの背筋を冷たいなにかが流れていく。


「お兄様には、乙女心がおわかりにならないのです」

「それのどこが乙女なんだ? ……アベルはたしかにリオネル様に気に入られているが、いい気になっているようには見えないし、そもそも男なのだから恋敵にもなりえないだろう。なにも殺したいほど憎まなくても」

「アベルのせいで、わたしは、わたしは――」

「なんだというのだ」

「――婚約の話を進めるつもりがないと、言われたのですよ!」


 その瞬間、シャルルは氷のように固まった。

 両手に顔をうずめ、フェリシエは号泣しはじめる。


「だ……だれにだ?」

「リオネル様です」

「リ、リオネル様、ご本人に――?」

「わたしとは婚約できないと、言われました」

「な…………なんということだ……」


 シャルルは衝撃のあまりに、再びさらにもう一歩後ずさりした。

 ライラが、泣きじゃくるフェリシエの肩をそっと抱き寄せる。


「お嬢様……ああ、おかわいそうに」


「フェリシエ、それは父上には……」

「言えば、リオネル様が公爵様にお叱りを受けます」

「そうか公爵様はリオネル様のお気持ちをお認めになっていないということか。しかし、それほどご本人からきっぱりと断られたなら、どうにもなるまい」


 気が抜けたようにシャルルは声の調子を落とした。


 縁談への異議を父クレティアンに認められないがゆえに、ベルリオーズ家の嫡男としての立場では、エルヴィユ侯爵やシャルルには伝えることはできない。けれどフェリシエと結婚できない気持ちは揺るぎなく、これ以上互いに状況を悪くしないために、リオネルからフェリシエ本人に直接伝えたと――、そういうことなのだろう。


 それはリオネル自身のためでもあり、また、フェリシエのことを思ってのことでもある。

 もはや、周りがとやかく言ってどうにかなることではないのだ。


「まだ道はあります、お兄様」

「……ないだろう」

「ベルリオーズ公爵様はわたしをお認めくださっているのです。あとは、リオネル様のお心が定まるのを待つだけ」


 落胆しているシャルルとは違い、フェリシエの声にはなにか底知れない力がみなぎっている。


「そこが最も肝心なのではないか?」

「だから、アベルを殺してほしいのです」

「……アベルが死ぬとなにが変わるんだ? 彼とこの話とどう関係があるのだ?」

「リオネル様の、あのご執着ぶり。婚約を断られたのはアベルのせいです」


 はっきりと言い切る妹に対して、シャルルは困惑気味である。


「おまえの目にはそう思えるというだけで、アベルのせいだと決まったわけではないだろう?」

「いえ、確信しています」

「なにを根拠に?」

「女の直感です」

「は……?」

「あ――いえ、そうではなく……アベルが、わたしが婚約者にふさわしくないと、リオネル様に諫言したようなのです」


 突如シャルルの眉間に深いしわが寄った。


「だれがそんなことを言ったんだ」

「ラ……ジュストがそれを聞いたそうなのです」

「ジュストが……?」


 シャルルは、フェリシエを抱きしめているライラへと視線を向ける。ライラは女主人に向けていた憐れむような視線をそのままシャルルに向け、深くうなずいた。

 シャルルは、短い髪の毛を激しくかきむしる。


 ――わからない。

 アベルがそのようなことをするようには見えなかったが、ジュストが聞いたというのは本当のことなのか。


「お兄様、思い出してみてください。アベルが、リオネル様のおそばに来たのはいつですか」

「二年前だったか?」

「ベルリオーズ公爵様が、婚約の話をあまり口にされなくなったのはいつですか」

「……その少しあとか」


 妹に問われるままに、シャルルは答えていく。


「リオネル様は、アベルをどのように扱っていらっしゃいましたか」

「大事な家臣と思っているようだった」

「その家臣が、もし、婚約の話を取りやめるように進言したら、あのお優しいリオネル様ならどうされると思います?」

「…………」


 青ざめ、黙り込んだシャルルの様子に手ごたえを感じたフェリシエは、再び両手に顔をうずめて泣きだした。

 ライラは自らも涙をぬぐいながら、フェリシエの肩を抱く。


「ああ……なんということでしょう。フェリシエお嬢様のお心が、このままでは切り裂かれてしまいます」

「…………すまん、ちょっと、外の空気を吸ってくる」


 シャルルは、泣き崩れる妹の髪をひと撫でし、


「そんなに泣くな」


 と言って、難しい顔で部屋を出ていった。

 扉が閉まり完全に足音が聞こえなくなると、フェリシエは泣くのをやめ、そっとライラの胸から両手にうずめていた顔を離した。


「……うまく、いったかしら?」

「お見事です、フェリシエ様」


 ライラは満面の笑みを浮かべながら、幾度もうなずいた。


「あなたが急にいろいろ耳元で囁くから、驚いたわ」


 フェリシエはライラから渡されたハンカチで、化粧がくずれないように丁寧に涙を拭く。


 なにもフェリシエははじめから演技をしていたわけではなかった。

 兄のシャルルが来ることも、予想していたわけではない。

 ライラが台詞を指示しはじめたのは、婚約を断られた話を打ち明け、泣きじゃくる彼女を抱き寄せたしばらくあとだった。

 かわいそうになどと言いつつ、フェリシエにしか聞こえないほどの声で、アベルがリオネルに諫言したという作り話をささやいたのだ。

 フェリシエはその台詞を、なるべく自然に会話に織り交ぜた。

 そして、シャルルは二人の芝居にまんまと騙されたわけである。


「お兄様は、アベルをどうにかする気になったかしら?」

「シャルル様が、あの者を殺そうとなさるかどうかはわかりませんが、必ず心の動揺はいつか効果をあらわします。それは、ジュストがアベルを毒殺するときでも、いつでもかまわないのです。必ずわたしたちの役に立つでしょう」

「そう……なんだかお兄様に申しわけないような気もするけど」

「大丈夫ですよ。シャルル様にとっても、悪い結果にはなりませんから」

「そうね」


 フェリシエは深くうなずいた。






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