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馬車が雪道をゆっくり進んでいる。
ときに、車輪についた大きな雪の塊が、馬車の動きを止める。それを御者が幾度も降りては払い避けながら、馬車は南西へと向かっていた。
普段、ディルクとマチアスだけであれば、時間のかかる馬車ではなく、それぞれ騎乗していくのだが、今回はある人物といっしょだったので馬車を使用することになった。
ディルクの向かいの席には、父のアベラール侯爵が座っている。
ベルリオーズ邸から自領に戻り、数日経った日のことだった。
今回はシャンティを弔うことが訪問の目的ではなかったが、マチアスの手には弔花がある。
「領地も隣り合い、このように長いあいだつきあっているというのに、父上がデュノア邸へ行くのが初めてとは、正直、驚きました」
「……デュノア伯爵には、ブレーズ家の令嬢が嫁いでいる。私が気安く行ける場所ではない」
「では、なぜ今回は父上ご自身が赴かれるのですか?」
「頼みごとをしに行くのに、相手を呼びつけるわけにはいかないだろう」
「はあ、たしかに。ですが、父上ご自身が行こうが行くまいが、デュノア家は我々の要請を受け入れるとは思えません」
「……なぜそう思う」
「なんとなく、です」
再び車輪が雪道にはまり、馬車が止まる。
マチアスが外に出て、御者の作業を手伝った。
車内に、レオンの姿はない。
レオンはまだディルクのもとに居座っているが、今回の訪問の目的を知ると、
「おれはどういう立場で会えばいいかわからないし、気が重いから」
と言って館に残った。そして、侯爵もディルクもそれに賛成した。
レオンが行けば、政治的に難しい問題を生じるのだ。
今回アベラール侯爵がデュノア伯爵のもとを訪れる目的は、山賊討伐がもし仮に行われることになった場合、左翼側の諸侯の一員として参加してもらえないか伯爵に打診するためだった。
デュノア家の領地は、竜の形をした国土の左翼と尾のあいだに位置し、しかも今は国王派であるため、ベルリオーズ家中心の討伐隊に参加するかどうかというのは、非常に微妙なところだ。
それを、アベラール侯爵が自ら赴いてまで、参加を要請しにいくのには、わけがある。
もしデュノア家が参加すれば、少なからず効果があるのだ。
それは、エマ領や、ノートル領など、デュノア領同様、左翼と尾の中間あたりに位置する諸侯らを討伐隊に引き入れやすくなること、さらに、ブレーズ家の後ろ盾のあるこの伯爵家が参加するとなると、国王派の諸侯も参加する可能性が高まる。
しかし、ここでもし山賊討伐に参加するようにと、レオンがアベラール侯爵と共に頼みに行けば、それは国王の代理――つまり、国王の意思であると捉えられてもおかしくない。
一歩間違えば、レオンは無断で王権を行使したことになり、処罰がくだらないともかぎらないうえに、そのときは、レオンに従ったデュノア家にも罪が及ぶ可能性もある。
ややこしい事態は避ける必要があった。
「そなたの『なんとなく』は、どこからくるのだ」
「さあ……」
ディルクは曖昧な返事をしつつ、自ら疑問に思う。
なぜデュノア家はこちらの願い出を拒否すると思うのか――。
もとを辿れば、デュノア家は国王派や王弟派に関わらず、いかなる時代にも政派に属さぬ、中立貴族だった。
というのも、国境沿いの所領は隣接する他国からいつ侵入をうけるかわからないので、中立という立場をとり、どのような政派からの援軍も期待できる状況を整えておく必要があったからだ。
そのデュノア家が国王派となったのは、むろん、現伯爵が娶った妻の家柄ゆえである。
歴史的な経緯を考えれば、伯爵がベルリオーズ家に従い、討伐に参加してくれる可能性は充分に考えられる。
だが、なんとなくデュノア家が承諾しないと思ったのは、ふとブレーズ家出身であるデュノア伯爵夫人の顔が思い浮かんだからだった。
上品で美しい夫人であったが、なにを考えているのか、つかみどころがない人物である。
なぜ彼女を思い出したのかはわからないが、あの家は動かないのではないかという気がした。
「弔花を手向けるのは、何度目だ」
車内に戻ってきたマチアスが、花束を丁重に抱えなおすのを見ながら、侯爵は質問した。
「さあ…………何回目だったかな、マチアス」
「今日で四回目です」
「……だそうです」
「いつまで続けるつもりだ」
「いつまでも続けます」
窓の外に顔を向けた息子をまえに、アベラール侯爵は溜息をついた。
「……ディルク。私が悪かったのだ」
「父上が悪いとは?」
ディルクは外の景色から視線を外さずに、聞き返した。
窓の外では、粒の大きい雪が降っている。
シャンティが眠る池にも厚い氷が張り、その上に、この真っ白の雪が降り積もっていると思うと、ディルクの胸は痛んだ。
「そもそも私が縁談を受けたのが、間違いだったのだ。そなたが、いつまでも十字架を背負う必要はない」
「私は間違いだったとは思いません。十一年間、彼女が婚約者であったことが間違いだったとは思いたくありませんから」
「『十三年間、彼女が婚約者であること』の言い間違えではないのか」
「…………」
父親の言葉は聞こえていたが、ディルクはなにも答えなかった。
「なぜ、気乗りされない縁談をお受けになったのですか、侯爵様」
珍しく口を挟んだのはマチアスである。こういうときの彼の質問はいつも鋭い。
アベラール侯爵が息子の従者に向けた瞳は、どこか哀しげだった。
「そうなのだ。そのことはいずれ、リオネル殿も含め、そなたらに話そうと思っている」
「リオネル……?」
怪訝な顔をディルクは父親に向ける。
「どうしてリオネルが出てくるのですか?」
「……それも、そのときに話す」
「父上がベルリオーズ邸を発つときに、リオネルに今度話すと伝えたのは、このことについてですか」
「そうだ」
侯爵は、はっきりと肯定した。
ディルクが表情を曇らせる。
なぜリオネルがからんでくるのか気になってしかたがないのに、それを教えてくれるのは、再び皆が揃うときだとは。
父親が胸に抱えているものに考えを巡らせてみたが、まったく見当もつかなかった。
そうしているうちに、馬車はようやくデュノア邸に到着する。
初めてアベラール侯爵を迎えるデュノア邸では、やや緊張した様子で執事や使用人らが玄関に立っていた。
執事に案内され、丁重に応接間に通されると、すぐに女中が葡萄酒を運んでくる。
冬に訪れることが多いせいか、この応接間の朱色で統一された色調は、いつもあたたかさを感じさせた。
それからデュノア伯爵が現れるまで、ほとんど待たされることはなかった。
「大変お待たせいたしました、アベラール侯爵、ディルク殿」
「いえ、待ってなどおりませぬ。お久しぶりです、伯爵」
「たしかにここしばらくご無沙汰しておりました。お元気そうでなによりです。どうぞおかけください」
デュノア伯爵は二人を椅子に座るようすすめる。
その伯爵を、マチアスは控えめに見やった。
マチアスはある疑念――ひとつの可能性――を胸に抱いてから、それが単なる考えすぎであると自らに言い聞かせてはいたが、思考が先へ先へと進もうとすることを止められずにいた。
アベラール侯爵が肘掛椅子に腰かける一方、ディルクは立ったままである。
「私は、先にシャンティ嬢に花を手向けさせていただければ幸いです」
「これは、ありがとうございます。いつも娘を心に留め置いていただき、感謝の言葉もございませぬ。しかし……」
「どうかなさいましたか?」
「カミーユが、最近ふさいでおる様子でして」
「カミーユ殿が?」
ディルクは意外な思いで聞き返す。
いつも元気で明るいカミーユがふさぎこんでいるとは、いったいどうしたことだろうか。年末に会ったときは、普段と変わりなかったというのに。
「池までカミーユがご案内できるかどうか」
「会いに行ってもかまいませんか?」
「もちろんです。ただ、部屋から出てくるかどうかはわかりませんが」
「それほどまでに?」
「はい、まあ……」
ディルクの心に、ぼんやりと暗い陰がさす。
そこはかとなく嫌な予感がするのだった。
執務室を辞したディルクとマチアスは、使用人に案内されてカミーユの寝室へ向かう。
そこは、先日訪れたシャンティの寝室の隣の部屋だった。
使用人が扉を叩き、声をかけたが返事がない。
ディルクは使用人に代わって、扉の前に立った。
控えめに扉をたたく。
「カミーユ、おれだ。ディルクだ」
返事はない。
「どうしたんだ、なにかあったのか」
やはり返事はなかった。
ディルクは軽く眉を寄せて、扉を見つめる。
どうしてよいのか、わからなかった。
これ以上しつこくしても意味がないし、しかし、あれほど元気だったカミーユが顔も見せぬほど沈んでいるのを、このまま放っておくこともできない。
軽く息を吐いてから、再び口を開きかけたとき、思いもかけず扉が開いた。
なかから扉を開けたのはトゥーサンだったが、その奥にいるのは、まぎれもなくカミーユ本人である。
「カミーユ……?」
ディルクは驚きとともにその名を呼んだが、少年の表情を見た瞬間、続く言葉を失った。
初めて会ったとき、彼は憎しみに満ちた目をディルクに向けてきたが、今、目の前にいる少年は、今にも泣き出しそうな哀しい目を苦しげに細めてディルクを見据えていた。
十三歳の少年の瞳にしては、あまりに複雑な感情が入り混じっていた。
「どう……したんだ」
カミーユはなにも答えずに、ちらと視線をマチアスの手元に向けると、つかつかとそちらへ歩み寄った。
そして皆が見守るなか、カミーユはマチアスが持っていた弔花を乱暴に取り上げ、渾身の力を込めてディルクの顔から肩にかけて叩きつけた。
白や水色の花弁が、無残に舞う。
ディルクは反射的に両目を閉じ、軽く顔を背けたが、あえて叩きつけられる花束を避けることはしなかった。
「カミーユ様!」
叫んだのはトゥーサンである。
幾度も叩きつけようとするカミーユの腕をトゥーサンが押さえ、その一方で、カミーユとディルクのあいだには、主人をかばうようにマチアスが立ちはだかった。
マチアスにしては珍しい光景である。
「おやめください、カミーユ様!」
トゥーサンはカミーユの身体を、後ろから羽交い絞めにする。
カミーユは抵抗もせず、なにも言わなかった。
しかし、なにも信じられぬような孤独な目を、ディルクに向けた。
花の顎や茎に傷つけられたディルクの左頬には、幾筋もの血が斜めににじみ、淡い色調の花弁が、彼の髪と洋服の肩や胸を彩っている。彼の茶色い瞳は、哀しげに――そして、苦しげに揺れている。
「…………るい……」
カミーユは、かすれた声でなにかをつぶやいた。
ディルクは「え?」と聞き返す。
すると今度は、カミーユははっきりと言った。
「ずるい」
「……ずるい……?」
「おまえがそんな目をするなんて、ずるい。なんでそんな目でおれを見るんだよ!」
カミーユの目から涙がこぼれおちる。
「人殺しのくせに、そんな哀しそうな顔するなよ! おまえにそんな権利なんてない!」
カミーユはもう一度、落ちていた花束を拾い、ディルクに向かって投げつけた。
止めようとしたトゥーサンの動きは間に合わなかったが、ディルクの顔に再び当たるまえに、それはマチアスの手で払い落とされた。
「二度と、おれのまえに現れるな」
カミーユはトゥーサンの手を払いのけて立ち上がり、部屋に入ると、乱暴に扉を閉めた。
束の間の嵐が去り、静寂が訪れる。
「申しわけありません」
トゥーサンがディルクに向かって深々と頭を下げた。
ディルクは無言で視線を落とし、散らばった花の茎や花弁を見やる。
そして、ゆっくりとしゃがみこむと、そのうちの一本を拾いあげた。
「ディルク様、そのようなことは――」
「なにがあったんだ?」
ディルクの声は低かった。
「…………」
トゥーサンは黙りこむ。
ディルクは、花を拾い集めていく。
マチアスは主人の手を掴んで暗にやめるように促したが、ディルクは無言で彼の手を引き剥がした。
「お怪我の手当てを」
マチアスが諦めずにそう言うのも無視して再び拾いはじめたディルクは、声をぽとりと地面に落とした。
「……シャンティに持ってきたんだ。彼女に手向ける花だ」
マチアスはなにも答えなかった――答えられなかった。
そのかわり、彼もまたしゃがみこみ、主人とともに花を拾いはじめる。
ディルクを部屋まで案内した使用人が、真っ青な顔で卒倒しそうになっているが、それを少しも気にとめぬ様子でトゥーサンまでもが花を拾いはじめる。
「トゥーサン殿、貴方が拾う必要はありません」
マチアスがそう言ったが、トゥーサンもまた手を止めなかった。
「貴方がたのためではありません。シャンティ様のためです」
「…………」
「カミーユ様は――」
低い声でトゥーサンがつぶやく。
「――カミーユ様は、ブレーズ邸へ行ってから、あのようになってしまわれました」
「ブレーズ邸……?」
ずっと視線を地面に落としていたディルクが、そのときようやく顔を上げた。
「はい。お従兄弟殿と会われてから、毎日思いつめたご様子です」
「…………」
カミーユの従兄弟といえば、ブレーズ公爵の一人息子フィデールである。
ディルクは、会ったことも話したこともない相手のことを考える。
ブレーズ邸でなにかあったのだろうか。
フィデールという人物が、カミーユになにかを吹きこんだのだろうか。
しかし、カミーユが言っていたことは真実であるし、彼がディルクに向ける怒りは当然のことなので、それをだれかのせいにする気にはならなかった。
花をすべて拾い終わると、
「あいにくこれ以外に、花を持ってきていない。ばらばらになってしまったけど、これを池に手向けてもいいだろうか」
と、ディルクはトゥーサンに確認した。
トゥーサンは無言でうなずく。
トゥーサンに導かれ、二人は、雪が舞い落ちる庭のなかを、池に花を手向けに行った。
カミーユがいないこの道は、これといった会話もなく、やけに長く感じられる。
池に辿りつくと案の定、氷の張った水面には、たくさんの雪が降り積もっていた。池の底は、まったく見えない。
カミーユがいたら、この池の氷を、笑顔で叩き割ってくれたかもしれない。
ディルクはばらばらになってしまった花を、そっと雪の上に散らせた。
「ごめんね、シャンティ。おれには、この氷を割ることはできないんだ」
ディルクは雪のなかに手を差し入れ、氷の感触を確かめるように表面をなでる。
「また来るよ」
そう言い置いて、ディルクは池をあとにした。