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滅多に晴れることのない、シャルムの冬。
来る日も来る日も、重苦しい雪雲は低く立ち込めたままであり、陽が昇るのは朝餉の時間を過ぎたあと――陽が落ちるのは夕餉の時間よりずいぶんまえだった。
しかし、その日は違った。
新年の宴が催された翌朝。
なにかの気まぐれで、季節の神が陰鬱な雲を一掃したようだった。
いくつかの千切れ雲が浮かぶ空は、澄んだ淡い水色をしている。真夏の青空よりも透明感のあるその色は、アベルの瞳の色だった。
アベルが、酒の余韻と怪我の痛みでかすかに頭痛を感じながら目覚めたのは、普段よりも遅い朝食が始まったころのこと。
今から行っても、もう間に合わない。
アベルがひとりいなくとも皆の食事には大きな問題はないが、アベル自身は、今日は使用人らの食堂で食べるしかなかった。
寝起きが悪く、朝が苦手なアベルは、普段以上に重く感じられる身体を引きずるようにして、カーテンを開ける。
すると、途端に視界に広がった景色に、身体のだるさと痛みのすべてを忘れた。
太陽が昇りきったところだった。
昨日まで降り積もっていた雪が、冬の朝の優しい陽光を反射して、眩しいほどきらめいている。まるで昨日までの景色とは別世界であった。
声こそ出さなかったが、アベルは大きく息を吸い込み、それから感嘆の吐息をもらす。
夜着に包帯を通して血が染みていることも気にとめず、急いで服を着替え、顔を洗い、軽く髪を束ね、身なりを整えると部屋を出る。
朝食など食べている場合ではない。
正面玄関ではなく、使用人らが使う裏口から外へ出て、厩舎へ向かった。
厩舎に入ると、リオネルやベルトランの名馬たちに挨拶してから、アベルは自分の馬に飛び乗ろうとする。
そのときだった。
「きゃあ!」
アベルの身体は急に背後から抱きとめられ、驚きのあまりに、うっかり悲鳴を上げてしまった。アベルの身体を包む手は、けっして乱暴ではないが力強い。
声を上げてしまったことと、抱きかかえられていることの両方にひどく慌てて、その犯人を振り返る。
すると、そこにいたのはリオネルだった。
ほっとしたのも束の間、リオネルの不機嫌そのものの声がアベルの耳を打った。
「アベル」
その表情は、声と同様の感情を露わにしている。
怒りたいのはアベルのほうだ。急に後ろから、馬に乗るのを妨害されたのだから。
「怪我をしているのに、馬に乗ってはだめだ」
「リオネル様こそ、驚かせないでください」
アベルは憮然として言い返した。
「それは――」
リオネルは急に強硬な姿勢を崩して、すまなそうな表情になる。
「驚かせてすまなかった。おれも、驚いたんだ。きみが馬になんて乗ろうとしていたから」
「……とりあえず、離していただけないでしょうか」
「きみが馬に乗らないと約束してくれるなら」
「…………」
アベルは少し視線を逸らして、乗ろうとしていた馬を未練がましく眺めやる。
そんなアベルの様子にリオネルは溜息をつき、そっと細い身体を離した。
「……朝食に現れないから、心配した」
アベルが食堂に現れないため、怪我の具合が悪いのだろうかと気になり彼女の部屋に行ったら、昨夜の怪我で汚れた服だけが置いてあったのだ。リオネルは、アベルの身になにかあったらと心臓が止まるような思いで、アベルの行きそうなところを考え、そして真っ先に厩舎へ向かった。
冬の朝の日差しに包まれた雪景色のなかを、馬で散策する――いかにも彼女が思いつきそうなことだった。
「ひとりで乗るまえに見つけられてよかった。庭園へ行くつもりだったのだろう」
「リオネル様、ご朝食は? お腹空きませんか?」
「おれを館に返そうとしても、無駄だよ」
リオネルが穏やかに笑うので、〝リオネル様は案外に意地が悪い〟とアベルは心中で独りぼやいた。
「怪我の具合はどう?」
「まったく痛くありません」
「まったくということはないだろう」
リオネルが眉をひそめる。
「夜着が汚れていた。血が止まってないかもしれないから、包帯を巻きなおしたほうがいい」
「あれは昨日付いたのです。今は、それはもう完璧に止まっています」
「…………」
「本当に痛くありません」
そう言うアベルの目は、リオネルになにかを強く訴えていた。
「どうしても行きたいのか?」
言うことを聞かない子供に対するような口調で問われたが、アベルはめげずに深くうなずく。
「……では、おれの馬で行こう」
「え?」
「怪我人がひとりで馬に乗るのは危険だが、前鞍ならかまわない。乗せていってあげるよ」
アベルはやや面食らって、長身のリオネルを見上げた。
「そのかわり、戻ったらすぐに包帯を巻きなおすんだ。いいか? これだけは譲れない」
返事ができないでいると、リオネルはアベルの解答を待たずに自分の馬のもとへ行き、手際良く準備をすませ、手綱を引いて厩舎の外へ向かっていく。
「あ、あの……」
呆然としながらついてくるアベルをよそに、リオネルはしなやかに馬に跨る。
「おいで」
そう言うやいなや、軽々とアベルの身体を抱き上げ、慎重に前鞍に乗せた。
なにが起きたのか、アベルは把握できない。ただ、一瞬のうちに視界の位置が変わり、アベルは強くあたたかい腕に包まれていた。
「リ……リオネル様」
アベルは抗議とも驚きともつかぬ面持ちで、背後を振り返る。
すると、信じられないほどの近さでリオネルの秀麗な顔があったので、アベルは慌てて前に向きなおった。
鼓動がやけに早鐘を打つ。
「庭を案内すると言っておいて、まだしていなかったから、ちょうどいい機会かもしれない。天気もいい。白鳥を見にいこう」
リオネルは先程の不機嫌な様子とは異なり、むしろ楽しそうに言った。
二人でシャサーヌの街へ行ったときのような活き活きとしたリオネルの雰囲気に、アベルもなんとなく呑まれていく。
落ちたりせぬようアベルをしっかりと腕のなかに抱きながら、リオネルが足を軽く動かすと、馬はベルリオーズ邸の庭へ向かって歩きだした。
「今のは、リオネル様ではありませんか?」
館から厩舎へ向かう途中だった騎士が、庭のほうへ消えていく馬を目で追いながら言った。
「前鞍にいたのは、フェリシエ様でしょうか?」
リオネルが自らの外套で覆うようにしていたので、金糸の髪は見えたが、その小柄な人物の顔までは見えなかったのだ。
「いいや、あれはアベルだ」
騎士と共にいた男は淡々と答えた。
「どうしてお分かりになるのです?」
「このまえ、間近で会って話したからだ。それにしても、昨日のアベルとディルク殿の試合は、おれも見たかったな」
「クロード隊長は、なぜご出席されなかったのですか?」
「ああいう場は苦手だ」
「なるほど。しかし、いい試合でしたよ。あれほどの実力がぶつかりあう真剣勝負は、そうそう見られるものではありません」
「ああ、惜しいことをした。あの細い少年が、かのディルク殿相手にほぼ互角で戦った姿が見たかったな。ベルトランはよほど実力のある従騎士を選んだと見える」
「アベルが肩に怪我をした瞬間など、全員が息をするのも忘れていましたね」
「ひどい怪我ではなかったのだろう?」
「はい。それにしても……なぜリオネル様は、アベルを前鞍に乗せて庭に行かれたのでしょう」
「怪我をしていると、おまえがたった今言ったばかりじゃないか。ひとりで乗るのは危険だからだろう」
「はあ」
納得したようなしないような顔で、騎士は首を傾げた。
〝怪我〟は、アベルがひとりで馬に乗らない理由にはなるが、必ずしもリオネルに守られるようにして二人で庭に行かねばならぬ理由にはならなかったからだ。
二人を乗せた馬は、正門からシャルム式庭園へ通じる道の上にまたがるようにかかる橋を渡り、木立の脇の広い雪道を館の東側の庭園へと向かった。
西側にあるリヴァロ式庭園へは、ベルトランに稽古をつけてもらっていたので何度も行ったことがあったが、東側には足を踏み入れたことがない。
右手には延々とポプラの木立が続き、左手は、手前に造園、遠くには広々とした雪原が広がっていた。
雪を被り、陽光によって虹色に映しだされた木々の葉や生垣、ところどころにある東屋、そして神秘的に輝く雪原を、アベルは輝くような瞳で見ていた。
「綺麗……本当に、綺麗……」
アベルはうっとりとつぶやいた。
注意も散漫なアベルを、リオネルが背後からしっかり支えている。
はじめは、あまりに近くに感じられるリオネルの存在に、どうにも落ちつかないような気がしていたアベルだが、けれど次第にその感覚にも慣れてきた。
リオネルの透明感のある香りと温かさに包まれていると、不思議と心が落ち着く。
早鐘を打ちつづける鼓動も、けっして不快なものではなかった。
まるで、心地よい夢のなかにいるようだった。
目覚めたくないと、思うほどに。
「雪が光っています、リオネル様」
幸せな夢はいつか必ず終わるのだという現実を思い出さないよう、アベルは明るく言った。
「そうだね」
リオネルの返答はひと言だけだったが、その声音はどこまでも優しい。
「これ以上に美しいところなんて、あるのでしょうか」
アベルは知らず知らずのうちに気持ちの鎧を脱ぎ、それと同時に、独りごとに近いことをつぶやくときは、時々言葉の鎧も脱いでしまっていた。
「天国は、ここよりもっと綺麗なところかしら」
そのことにリオネルは気づいていたが、指摘することなく、柔らかくほほえんだままだった。
「そうだね、天国はもっと美しいかもしれない」
「これより美しいなら、人は死んでからしか見られないなんて、残念なことですね。元気に生きているうちに、一度でもいいから見てみたい……」
アベルの無邪気な想像に、リオネルはくすりと笑った。
「でも、おれにとっては天国でも地獄でも地上でも、見える景色にそんなに大きな違いはないよ」
謎めいた言葉に、アベルは首をかしげた。
「天国はたしかに美しく、素晴らしいところかもしれないけど、どこにいるかということより、だれといるかということのほうが、おれには大事かな」
アベルはリオネルの言葉にうなずいた。
「わかるような気がします。天国にいても、そこでひとりぼっちだったら、たとえどんなに綺麗なところでも哀しいです。でも、独りではなくても……やっぱり地獄はいやです」
アベルの声がかすかに憂いを帯びことに気づき、リオネルは安心させるように言った。
「アベルは地獄にはいかないよ」
「そうでしょうか……」
「なにか悪いことをしたの?」
「いろいろ日々反省しています」
アベルは冗談めかして答えたが、その調子は沈んでいた。
アベルは心に、ある種の罪悪感を背負っていた。
二年前の嵐の日に起こった事件。それはけっしてアベルのせいではなかったが、赦されぬことのように思えた。
結果的には先に婚約者を裏切ってしまったという、自責の念かもしれない。
もしくはあのとき父が暴力を振るいながらまくしたてていた言葉のせいかもしれない。
あのときの父の声――瞳。
それらは昨日のことのように鮮明によみがえる。
〝汚れた女〟と、彼はアベルに言った。
汚れた娘を、神は、神の国は受け入れてくれるのだろうか。
いつか見た夢のように、顔の見えない悪魔の手で地獄に引きずり込まれるのではないかという気がする。
アベルは、暗い思考の淵に沈んでいった。
「大丈夫だよ、アベル」
リオネルの声が、アベルの思考を絶ち切る。
あの悪夢のなかで聞こえた声と同じ……その声は、暗い森で見つけた、ほんのひとかけらの陽だまりのようだった。
「おれの目には、きみが反省したり、地獄に堕ちたりするようなことは、なにも見あたらない。……でももし仮にきみが地獄に堕ちたら、おれが必ずそんなところからきみを連れ出すから」
「……リオネル様が?」
「ああ。だから、心配しなくていい」
自信ありげに答えるリオネルに、アベルはつい笑ってしまった。
「なにかおかしかった?」
「リオネル様は、すごいです」
「なにが?」
「リオネル様がそう言うと、本当にできてしまうような気がしてくるから、不思議です」
「〝気がする〟だけじゃない。本当にそうしてみせるよ、アベルのためなら」
リオネルの声音が冗談を言っているようには聞こえなかったので、アベルは、笑いをおさめて少しだけリオネルを振り返った。
そして次の瞬間、アベルはそうしたことを、深く後悔した。
リオネルの紫色の瞳が、あまりに近くからアベルを見返したのだ。
この距離にいるのだから、それはあたりまえのことだったが、アベルは顔から火がでるのではないかというほど赤面した。
慌てて顔を元に戻す。
「あ、ありがとうございます」
アベルはようやくそれだけ口にすることができた。