39
ディルク、レオン、そしてマチアスがアベルの部屋を訪れたのは、怪我の治療が終わり、着替えてすぐのことだった。
「アベル、大丈夫?」
部屋に入ると、まっさきにアベルに駆け寄り、椅子に腰かける彼女の顔を心配そうにのぞきこんだのはディルクだった。
「ディルク様」
小さな子供に接するような態度に、アベルは気恥かしくなる。
「怪我の具合は?」
「かなり重症だ」
アベルが口を開くより前に、リオネルが冷ややかな声音で回答した。
「えッ」
アベルが驚いてリオネルを見上げる。
「重症っ?」
リオネルの言葉にディルクがさっと顔色を変えると、ベルトランが軽く苦笑した。
「大丈夫だ、ディルク。傷はかなり浅い。出血が多かったのは、激しく立ちまわったのと、飲酒量が多かったせいだろう。痕も残らないと思う」
ディルクはがくりと頭を落として、大きく息を吐いた。
「ああ、よかった――」
アベルの怪我をよほど心配していたのだろう。ディルクの様子からそのことが伝わり、アベルは申しわけない気がした。
そして突如、スミレの押し花のことを思い出し、心臓が跳ねた。
ディルクは顔を上げると、軽くリオネルを睨む。
「重症だなんて、よくも嘘をついてくれたな」
「軽ければ、怪我をさせてもいいのか」
「…………」
親友の厳しい言葉に、ディルクは肩をすくめた。
「リ、リオネル様、あの、ディルク様のせいでは――」
ディルクに対するリオネルの容赦ない態度に驚き、アベルは慌てて椅子から立ち上がる。
「アベルは座っていて」
それは、穏やかだが有無を言わさぬ語調だった。アベルはその雰囲気に気圧されて、ゆっくりと椅子に座りなおす。
「……ちょっと部屋を出ないか、リオネル」
そう切り出したのはディルクである。この部屋でやりとりを続けても、リオネルとのあいだに生じた溝は埋められそうにない。
リオネルは束の間ディルクの両眼を見据え、そして無言で戸口へ向かう。
心配そうに見送るアベルの視線を背中に感じつつ、二人は部屋を出ていった。
「こ……怖い」
扉が完全に閉まると、つぶやいたのはレオンだった。
「リオネルが怒ると、あれほど怖いとは」
一度火がつくと怒りに身をまかせ暴力を振るう兄のジェルヴェーズに比べ、リオネルの怒りは静かだが、息が詰まるほどの重苦しさと緊張感があり、レオンにとってはこちらのほうがむしろ恐ろしくも感じた。
部屋を出てすぐ、ディルクはリオネルに頭を下げた。
「リオネル、ごめん。申しわけなかった」
しかし、リオネルの表情は微塵も動かない。
「おまえが大切にしている家臣を傷つけて、本当にすまなかったと思ってる」
「……どうして怪我をさせたんだ?」
「…………」
「試合を断れなかったのは仕方がない。貴族社会に身を置く者として、父上に抵抗できなかったということは、理解できなくはない。だけど、おまえの腕ならアベルに怪我をさせずに、決着をつけることができたはずだ」
ディルクは押し黙った。
そのとおりだった。
いや、そのはずであった。
しかし、自らの未来を決する試合に臨んだ今夜のアベルの強さは、普段以上のものだった。そうして、手加減する余裕を失ったディルクの剣先はアベルの肩をかすり、傷つけてしまったのだ。
「言いわけはしないよ……ただ、おれもけっして傷つける気はなかった。それだけは、わかってほしい」
「あたりまえだ。傷つけるつもりがあったなら、おれはこの場で迷いなくおまえを殴っていた」
ディルクは親友の剣幕に、肩をすくめる。
「……すまなかった」
リオネルがディルクに対して本気で怒ったのは、十八年近くつきあってきて、初めてのことかもしれない。しかしそれは、これまでの彼のアベルに対する態度からしても、当然のことであったし、自分が悪いということもわかっていたので、ディルクは悄然とした。
謝りっぱなしの親友の姿に、リオネルは小さく溜息をつく。
「どれほど謝られても、おれはしばらくおまえを赦す気にはなれない。でも、アベルは違う。……アベルは、最初からまったくおまえを責めていない」
「ちょっとくらい批難してくれたほうが、おれも救われるんだけど」
「それにアベルは、おれがおまえを責めることも、望んでいない」
「…………」
「だから、少し待ってくれ」
「……え?」
「おまえを赦す気になるまで、あと少し時間をくれ」
ディルクはきょとんとリオネルの紫色の瞳を凝視し――そして、ほっとしたように笑った。リオネルも、かすかに表情を緩めたが、出てきた声音は厳しかった。
「言っておくが、まだ赦してない」
ディルクは再び肩をすくめたが、その顔からは憂いの色がわずかに薄れている。親友から怒りを向けられることが、これほど辛いものだとは思わなかった。
「あの……」
扉がかすかに開き、顔を出したのはアベルだった。
「アベル、動いたらだめだ」
リオネルは彼女のもとに駆け寄り、眉をひそめる。
「その……廊下は寒いので、お部屋に入りませんか?」
アベルは二人の様子が気になり、マチアスやベルトランが止めるのを聞かずに、廊下に出てきたのだ。
「わかった、なかに入るよ」
リオネルがディルクに目配せして、三人は再び部屋に戻る。
「なにやら怖そうな話は終わったのか?」
レオンが恐々と、戻ってきた従騎士仲間二人を見やる。
「……まあ」
ディルクは曖昧に答えた。
「聞こえなくてよかったよ。背筋が凍りそうだからな」
「おれの背筋はカチカチに凍って、寒くて仕方ないよ」
「やはり廊下は寒いですよね」
アベルは気遣わしげな視線をディルクに向ける。
「ああ、大丈夫だ。物理的な寒さではない。ディルクが悪寒を覚えるのは、おそらく世界で唯一リオネルの怒りに対してだけだ」
レオンが親指でディルクを差して意地悪く笑うと、本人は否定せず、「マチアスが本気で怒ってもけっこう怖いぞ」と言う。ディルクが普段どおりの冗談が言えるだけの雰囲気に戻ったことに、皆がほっと肩をなでおろした。
「それにしてもアベルは強かった。ディルクとあれだけ戦えるなら、おれは負けるかもしれない。それに、きみに怪我をさせていたら、おれがリオネルに怒られていた。本当に対戦せずにすんでよかった」
しみじみというレオンへ、アベルは恐縮したように首を左右に振った。
「殿下と剣を交えるなど、とんでもございません……ディルク様にも、けっして剣を向けたくはありませんでした」
うつむき、拳を握ったアベルに、ディルクは再び謝る。
「ごめんね、おれが公爵様の指示に従ったばかりに」
「あれはしかたなかった。おれもどうにもできなかったからな」
ベルトランも、やや低い調子で言った。
「わたしのために皆さまを巻きこんでしまい、本当に申しわけございませんでした」
「アベルのせいじゃないよ」
リオネルがアベルに優しく声をかける。すると、従騎士仲間である二人がふと思い出したようにリオネルを見た。
「そうだ、リオネルはフェリシエと別室に行って、なにをしていたんだ?」
「そういえば、途中でいなくなっていたな」
「もう口づけは交わした?」
「子供の数でも相談していたのか?」
ディルクとレオンにからかわれたリオネルは、わずかに口元にほほえみを浮かべたが、その目はけっして笑っていなかった。
リオネルの瞳の奥に宿る冷たい光に、二人は軽口を諌めて、視線を泳がせる。
――今日のリオネルは、信じられぬほど機嫌が悪い。
いつもの穏やかなリオネルとは、別人と考えたほうがよさそうだった。
「フェリシエ様は、美しくて心優しい方ですね。お話も、さぞ弾まれたのでは」
その機嫌の悪さの理由に気づかぬアベルは、場を和ませるつもりでリオネルに笑いかける。
「――――」
リオネルは返す言葉を見つけられないようだった。
実際にフェリシエとなにを話していたかなど、リオネルはほとんど覚えていない。王宮での生活についてなどだっただろうか。質問には答えていたような気はするが、はたして具体的になにを聞かれ、どう答えたか。
会場に残してきたアベルのことが気になって、意識はほとんどそこに向いていなかった。
「そう……かもしれないね」
なにか返事をしなければと、リオネルが苦労して発した言葉は、これだけだった。
「ずいぶん、気のない返事だね」
「照れ隠しか?」
「…………」
従騎士仲間の二人はけっして懲りてはいないようだった。
「リオネル、手に血がついているが」
そのとき、レオンがリオネルの手に付着した血液に気がつき、深く眉を寄せる。
「ああ……」
リオネルはそう言われてはじめて、治療を終えた後、手をすすいでいなかったことに気がつく。
「おれの血じゃない。アベルの手当てをしたときのだ」
「なに?」
「だから、アベルの怪我を診たときに付いたんだ」
「は?」
「……だから――」
「リオネル、おまえが手当てしたのか?」
レオンは信じられないという顔でリオネルを見た。
さすがに、ディルクとマチアスも驚いた顔になる。
「まあ、手当てというほどのことはできなかったけど」
「そういう問題ではなく、なぜおまえが自らそのようなことをやるのだ? なぜ医者を呼ばない」
「今年の冬は寒いな」
「……おまえ、たまにすごい話の逸らし方するよね」
ディルクは呆れた顔で言う。
マチアスはずっと黙っていたが、アベルの華奢な身体と、リオネルの手についた血を交互に見て、そして小さくかぶりをふった。
「手当てくらい、医者に任せられないのか?」
ディルクがめげずに問いかけると、マチアスが答える。
「ここ数年、寒い冬が続いていますからね」
「マチアス、おまえは……」
ディルクは片手で頭を抱えた。
けれど、マチアスがリオネルに同調したのは、彼に協力するためではなかった。
皆がリオネルから引き出さそうとする答えを、聞くのが怖かったためである。
もし抱いている予感が真実であったとき、どう振る舞えばいいのか、マチアスはまだ結論を出せずにいたのだった。
宴もほぼ終わったころ。
ひとりの青年が、左手のなかに収まる、小さな銀製の容器を見つめていた。
花の装飾がほどこされたこの美しい容器のなかには、とてもその外見とは似つかわしくないものが入っている。
従姉妹のライラは、青年にこれをだれにも気づかれぬように手渡し、ささやいた。
「これは、芫青の粉よ」
「……〝カンタリス〟?」
青年はやや眉をひそめて、ライラに聞き返した。
「毒」
その言葉に、青年は息を呑む。
「これを、あのリオネル様のそばにいる従騎士の、食事か飲みものに混ぜなさい」
「アベルのことか」
「そうよ」
「するとどうなるんだ?」
「もちろん死ぬわ」
「…………」
青年は無言で銀の容器を見下ろした。
「あの者は、あなたにとってだけではなく、将来ベルリオーズ公爵夫人になられるフェリシエ様にとっても目障りな存在。リオネル様――つまりは、ベルリオーズ家にけっして良い影響を与えません。消してしまいなさい」
「……アベルを殺すのか」
「それは、あなたの望みでもあるでしょう? ジュスト」
返事をしない従兄弟に微笑を向け、ライラは何事もなかったかのように、ドレスの裾をひるがえし、去っていった。
ジュストは銀容器を握りしめる。
アベルは目障りだ。けれど、殺したいほどだろうか……?
陰謀のうずまく貴族社会では、暗殺など日常茶飯事であるし、高位の者を狙ったはずの毒を、誤って従騎士や使用人のひとりが飲み、死んでしまうなどということも充分にありえる。
殺すのは簡単だ。
リオネルやベルトランにさえ悟られずに、うまくやり遂げる自信はある。
けれど、死に値するほどの罪を犯したわけではないのに、これを使うことには躊躇いがあった。騎士を志す者としての矜持が、ジュストにはある。
一方、ライラの言葉が頭のなかで鳴り響いていた。
〝――それは、あなたの望みでもあるでしょう? ジュスト〟
あの少年を殺すことが、リオネルのため――ベルリオーズ家のためになる……?
なにが正しいことなのか。
自分のためにアベルを殺そうとは思わない。けれどベルリオーズ家のためならば、迷いはない。
十六歳の青年の心の中には、黒く底知れない感情が渦巻いていた。