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その冬、これまでに何度か雪は降っていたが、年が明けてからは、ただひたすらに重く、暗い雲が立ちこめているだけだった。どんなに手を伸ばしても突き抜けられそうにない厚い雲は、沈んで、デュノア邸に覆いかぶさろうとしているように見えた。
デュノア邸に、アベラール家の嫡男ディルクが訪れたのは、そんな日の午前中のこと。
アベラールの館からここまでは、馬車では半日ほどかかるが、馬の背に乗って駆ければ数時間で着く。
普段は、幼馴染みのリオネルがいるベルリオーズ領方面、つまり北側に向かって馬を駆ることが多かったが、この日は南のデュノアへ訪れることとなった。
デュノア領内の町の多くは、周囲に城壁が張り巡らされていた。特に、デュノア領主家の住まう町マイエは、堅固な壁で守られている。それは、デュノア領が、大国ローベルグと隣り合う、国境周辺地域に位置していたからだった。
従者のマチアスただ一人だけを伴ったディルクは、町の壁門をくぐり、さらに、デュノア邸の門をくぐると、その玄関前で馬から降りた。マチアスは馬の鞍にくくりつけてあった大きな弔花を、ほどいて抱えた。
デュノア邸は、侯爵家であるディルクの屋敷には及ばないものの、広大で壮麗な屋敷だ。
ブレーズ公爵家の令嬢が腰入れするほどであるのだから、伝統と格式があり、金銭的にも比較的余裕がある領主家のはずだった。
馬を降りた瞬間、強い視線を感じて、ディルクは上を見上げた。
ずらりと規則的に並んだ大きな窓の一つに、少年らしき影が映り、目が合ったような気がしたが、すぐにその影は消えた。
デュノア家の執事が外まで出てきていたので、共に玄関をくぐると、そこでは、デュノア伯爵が二人を出迎えていた。
なるほど、歳は四十代後半といったところだが、引き締まった体つきの、魅力的な風貌の男であった。ブレーズ公爵の令嬢は、デュノア伯爵に惚れて身分違いの結婚をした、という噂も聞いていたので、ディルクはなんとなく納得した。
「寒い中、ようこそおいでくださいました、ディルク殿」
伯爵はよく通る声で挨拶し、笑顔で手を差し出した。
その手を握り返して、ディルクも挨拶をする。
「こちらこそ、年明けのお忙しい時分に伺い、申し訳ありません」
と言いつつ、ディルクは少し拍子抜けしたような気持だった。
今回、ディルクの訪問の目的は、シャンティの眠る場所に祈りをささげること、そしてシャンティの死の経緯を直接聞き、その内容次第では謝罪を受け入れてほしいと思って来たのだ。
しかし、娘を亡くしたばかりの伯爵に、見てとれるような悲壮感は漂っていなかった。
「わざわざ娘を弔うためにいらしてくださったとのこと、貴殿のお父上から聞いております。婚約は解消されておりますのに、お気に留めてくださり大変恐縮です」
少し眉を下げて、申し訳なさそうに伯爵は言った。
「この度は……本当に悲しい出来事でした。心からお悔やみ申しあげます」
「恐れ入ります……話の続きは部屋でいたしましょう」
伯爵は周りの者に指示して、ディルクとマチアスをまず客間に案内させた。
階段を上って、回廊に差しかかるとき、四部屋ほど離れたところに、幼い少年が立っていることにディルクは気がついた。
先ほど、玄関の外から見えた少年かもしれないと思った。
歳はディルクより五つは下であろうか。仕立ての良い服を着ている。暗めの金髪に縁取られた、かわいらしい顔立ちだが、青みがかった灰色の瞳が、親の仇でも見るような目で、ディルクを睨んでいた。
それは、ものすごい気迫だった。
とても十やそこらの少年の目とは思えない。
ディルクは、殺気や殺意を感じたことはあっても、これほど憎しみのようなものがこめられた眼差しを向けられたのは、生まれて初めのことだった。
婚約者だったシャンティには、歳の離れていない弟がいると聞いていた。この子が、そうかもしれない。
シャンティの家の者から恨まれることは、ディルクが想定していたことでもあった。もし、父から届いた手紙の内容が事実ではないとしたら、デュノア家の者にとって、自分はだれよりも憎い相手のはずだ。
「カミーユ様……!」
二人を客間に案内していた女中が、驚いた様子で少年を見た。
少年の存在そのものを、そこに想定していなかったような響きがその声にはあった。まるで、そこに少年がいることが、思いがけない出来事であったかのように。
伯爵の息子だとすれば、彼が館の中にいることはごく当然のことなのに、なにを驚くのか、ディルクは腑に落ちない。
女中に名を呼ばれた少年は、再度、射るようにディルクを睨んでから、奥の部屋に消えた。
言葉を発せないでいた二人を、女中は気まずそうに振り返る。
「……失礼いたしました。どうぞこちらへ」
少年が消えた方とは逆側に位置する応接間に、二人は案内された。
室内は、暖炉に火がくべてあり、暖かかい。
広すぎない部屋には、朱色で統一された家具が並んでいる。こんな真冬の寒い日には、目にも暖かい色調だ。
どうぞお座りください、と女中は促したが、ディルクは腰かける代わりに質問をした。
「いまの子は?」
「え……」
「いま、廊下にいた子はだれ?」
「あ、はい……」
少し言いづらそうにして女中は答えた。
「伯爵様のご子息、カミーユ様でいらっしゃいます」
やはり、とディルクは思う。
「あの……カミーユ様は、シャンティ様が亡くなられたことを、大変悲しんでいらっしゃいます。どうぞあのような態度をお許しくださいませ」
女中は、侯爵家の嫡男に対する、身内の無礼な態度を気にしたようだった。
「いや……当然のことだろう」
ディルクはつぶやくように言った。そして、
「さっきはなにを驚いていたの?」
と、重ねて聞いた。女中は、はっとしてから、うつむいた。
「……これ以上、わたくしの口からは……」
そうか、と答えたのと、扉が開くのが同時だった。
「ディルク殿、お待たせしました」
背の高い伯爵が入ってくると、女中の顔がこわばった。
「ドロテ、客人を立たせたままとはどういうことだ」
申し訳ございません、と深く頭を下げる女中に、おまえは下がって飲み物を用意しなさい、と伯爵は命じる。
「伯爵殿、その方を責めないでください。勧めてもらったのに座らなかったのは私です」
伯爵は、返事はせずに、そつのない笑顔でディルクを見た。
「さぁ、どうぞおかけください」
ディルクはが腰かけた肘掛椅子は、座面と背もたれに朱色の刺繍があしらわれている。
従者のマチアスは、扉のほうへ移動して、そのわきに立った。
暖炉の薪がぱちぱちと音を立てた。
「立派なお屋敷ですね」
ディルクは正直な感想を述べた。
「とんでもない。ディルク殿の館に比べれば、足元にも及びませんよ。本当にこのような屋敷までよくおいでくださいました」
伯爵は謙遜しつつ、再びディルクの来訪に対して謝辞を述べた。
彼はディルクに対して非常に丁寧だった。下にも置かないようなその態度が、今のディルクには居心地が悪い。シャンティの父と弟で、どうしてこうも態度が違うのか、理解に苦しむ。
婚約が解消され、シャンティも死んだいま、両家の繋がりを深くできるのは領主同士の親睦しかないと伯爵は思っている、そう考えるのが一番納得できる解釈だった。
「ディルク殿は現在、王宮の正騎士隊隊長殿について従騎士をされておられるとか」
「はい。もう二年になります」
「いまおいくつでおられますか?」
「十六になりました」
「とすれば、叙任式は来年ですか。ディルク殿が騎士におなりになれば、アベラール侯爵殿もさぞ喜ばれるでしょうな」
「順調に行けばそうですね。ただ、あまり私は真面目な生徒ではないので、シュザン殿があと一年で叙任してくれるかどうか」
冗談と受け取ったのか、伯爵は声を立てて笑った。もちろん、ディルクは冗談を言ったわけではなかった。
「王都に住まわれるというのはいかがですか? この辺と違ってあちらは賑やかでしょう」
「賑やか……なようですが、従騎士の期間中は基本的には王宮の騎士館におり、練習が厳しいので、よそ見をしている時間などほとんどありません」
「なるほど。しかし、ディルク殿。最後の一年となれば、城の夜会に忍んでみたり、王都に散策に出かけてみたりしておくことをお勧めしますよ。若いころに様々なことを知っておくのはよいことです」
「そう、ですね」
ディルクは曖昧にうなずいた。
「しかし、ディルク殿は十六歳にして、しっかりしておられる。それによいお顔立ちだ。娘にあんなことがなければ、あの子も、我々も幸せであったかもしれませんな……」
伯爵は、この日初めてシャンティを失った心情を露わにした。
彼の言う「あんなこと」とは、シャンティの事故死のことだとディルクは解釈したが、実際、伯爵の頭にあったのはまったく違う事実である。
「いや、婚約は解消されていたのでしたね……生きていても、あなたと家族になることはできませんでした」
そう言った伯爵の言葉に、ディルクを非難するような響きはなかった。
今までの雰囲気から察するに、伯爵は娘の死を婚約破棄にあったとは考えていないようだった。
それでも、ディルクは気まずい思いで言う。
「今回は、シャンティ嬢の眠っている場所に、挨拶と……お別れを言いにきました」
ディルクは目を伏せて言った。その言葉に伯爵がうなずく。
「ありがとうございます。娘も喜ぶでしょう」
「……婚約を解消したこと、本当に、申しわけありませんでした」
ディルクは意を決したように頭を下げた。胸の奥が、ちくりと痛んだ。
怒鳴られるかもしれない、そう思った。むしろそうしてほしい気持ちもあった。自らを責め続けるより、他人から責められた方が、よっぽど心は楽になる。
しかし、伯爵は嫌味のひとつも口にしなかった。
「いいえ、あなたもまだお若い。いろいろ思うことがあってのことでしょう。娘は、婚約の解消のことを知らずに死にました。それが、今となれば、あの子にとって幸いなことでした。全てなるようにしてこうなったようにすら思えます」
伯爵の言う、シャンティにとって「幸いなこと」というのが、婚約の解消を知らなかったこと自体を差すのか、死んだこと自体を差しているのか、ディルクには分からなかった。
もしかしたら、この場で死の真相を聞けるかもしれないという期待もあったが、伯爵は手紙の内容に沿ったことだけを語った。
シャンティはその日、デュノア邸の池に咲く蓮の花を見に行き、足を滑らせて、池に落ちた。池は深く、懸命に捜索したが、遺体は出てこなかったという。シャンティの持ってきていた手籠が、池の傍らにのこされており、翌日、シャンティの靴と耳飾りが水中から見つかっただけだった。
「そうですか……」
ディルクはつぶやいた。伯爵からはこれ以上の話は聞けぬと悟り、別の切り口を模索することにした。
「そういえば、先ほどご子息をお見かけしました」
「カミーユを?」
伯爵はこのとき、笑顔を消して眉を寄せた。
「はい、こことは逆側の廊下におられました」
「そう……ですか」
「もし叶うなら、カミーユ殿と共に、シャンティ嬢が眠る池に行きたいのですが」
ディルクの申し出に、伯爵は口に含んだ葡萄酒を吹き出しそうになった。ごまかすようにもう一度、銀杯を口にあてる。
「いえ……カミーユは……娘が死んでからというもの、部屋に閉じこもったきりでして」
「先ほどはお見かけしましたが」
「どういう風のふきまわしか……」
「私に何か言いたげでした」
ディルクのさらなる一言に、伯爵は無言になる。それから、ゆっくりと再び口を開いた。
「カミーユは少し混乱しておりまして」
「混乱?」
カミーユを会わせたくないという雰囲気を感じ取って、ディルクはますますあの少年と話してみたくなった。
平行線の言いあいが続いていたが、最後に、ディルクの言葉で決着はついた。
「カミーユ殿も、私も、いずれこの隣接する領地の主となる者です。カミーユ殿がお会いになりたくないのであれば、無理にとは言いません。しかし、もし会いたいと思ってくださるなら、いずれは顔を合わせ、手を携えていく者同士、早いうちからお話をしておきたいと思っています」
ディルクの言いぶりは巧妙だった。デュノア家とアベラール家の親睦を前面に出しつつ、このままカミーユをディルクに会わせないわけにはいかないことを、伯爵に納得させる――。
婚姻関係が結べない以上、両家の繋がりは、ディルクとカミーユにかかっていた。
「そうまでおっしゃるなら、カミーユを連れてまいりましょう。しかし、来るかどうかは分かりませんよ」
「もちろんです。無理強いはなさらないでください」
伯爵は、控えていた使用人に声をかけて、その者が部屋から出て行くのを見送った。そして小さなため息をつくと、部屋には気まずい沈黙が流れた。
複数の大人の足音の合間に、軽い足音が混じって聞こえた。
扉をたたく音に伯爵が答えると、それが開く。使用人のわきに、さきほどの金髪の少年が立っていた。その後ろには、ディルクよりも年長と思われる青年がひかえている。
「カミーユ、入りなさい」
少年はうつむいたまま、部屋に足を踏み入れた。
「挨拶しなさい。アベラール侯爵家のディルク殿だ」
カミーユはディルクの顔を見ずに、軽く頭を下げた。
「なにか言いなさい」
「…………」
そのカミーユの様子に、伯爵は渋面を作った。
「申し訳ございません。このところずっとこんな調子でして」
「いいえ……調子の出ないところを呼んですまない、カミーユ殿」
ディルクは、年下のカミーユにやわらかい口調で話しかけた。
しかし、カミーユは顔を上げなかった。
「カミーユ!」
伯爵が怒気を含んだ声で呼んだが、ディルクは首を振ってそれを制した。
「いっしょに、シャンティ嬢の亡くなられた池まで連れていってもらえないだろうか」
カミーユの、下を向いたままの、長いまつ毛に向かって問いかけた。
「…………」
なおも口を開かないカミーユに、伯爵は苛立ちを露わにする。
「カミーユ! いい加減にしないか!」
「伯爵殿、いいんです。カミーユ殿、無理を言ってすまなかった。気が向かないならいい。また別のときに案内してくれ」
そう言い終わったとき、カミーユがほんの小さな声を、床に落とした。
「……二人だけなら」
「え?」
「貴方と二人でなら」
「案内してくれるのか?」
ディルクが意外そうに問うと、カミーユはこくりとうなずいた。
「カミーユ、馬鹿なこと言うな。だれになにを言っているのか、おまえは分かっているのか」
無理だと言う伯爵へ、ディルクはまっすぐな視線を向ける。
「お願いします。カミーユ殿と池に弔いに行かせてください。婚約者でありながら、生前に会うことのできなかった、せめてもの、私の償いです」
伯爵はそう言われて押し黙った。
反論される前に、ディルクは次の行動に移る。
「マチアス、花を」
命じられた従者のマチアスは、傍らの女中に持たせてあった弔花を受け取り、さらに主に手渡した。
「では行こうか」
ディルクが、そう促した相手はカミーユだった。カミーユは顔をあげて、伯爵の顔を見た。伯爵は渋々といった感じでうなずく。
「せめて従者殿をお連れください。カミーユもトゥーサンを連れていきなさい」
「大丈夫ですよ。カミーユ殿は私が守ります」
そう言うので、ディルクとカミーユの二人だけが、その部屋から出ていった。
トゥーサンはその後ろ姿を心配そうに見ていたが、それは、カミーユの身を案じるものではなかった。館の敷地内にカミーユを害する者がいるとは考えにくい。逆に、カミーユが、アベラール家の嫡男になにかしでかすのではないか、ということのほうが心配なのだった。
絶対に許さない、と言ったときのカミーユの強い双眸を思い出す。
伯爵も続いて応接間を出た。トゥーサンとマチアスという不思議な組み合わせの二人が、部屋で待機することになった。
主人が出ていってもまったく気にする様子のない従者を、トゥーサンは怪訝な顔で眺めた。
「ご心配では?」
「え?」
「敵地で、主人と離れるのは心配では」
トゥーサンは、はっきりと言った。
王弟派であるディルクが共もつけずに、国王派の元にいるということ。カミーユがディルクに対して憎悪に近い感情を抱いていること。この従者が、このような状況を、分かっていないとは到底思えなかった。
「ディルク様はお強いので大丈夫です。襲われたとしても、私などあまり役に立ちませんから」
あっさりとそう答えた従者は、開き直っているようにも見えた。
主人も我が道をいく種の人物に見えたが、その従者も従者だ……と、トゥーサンは思う。
マチアスにすれば、そんなことをいちいち心配していたら、ディルクの従者など勤まらぬといったところだった。