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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第二部 ~男装の伯爵令嬢は、元婚約者の親友の用心棒になる~
76/513

35





 時は少し遡る。


 アベルが、どこか冷めた気持ちでいたのは、その場の空気になじめなかったからかもしれない。


 デュノア邸においても宴は催されていたが、幼い姉弟はほとんど参加することはなかった。

 賑やかな笑い声や、弦楽器のかすかな音色が遠くから聞こえてくるなか、シャンティとカミーユは客が帰る時間まで遊んでいた。

 室内で追いかけあって走りまわったり、かくれんぼをしたり、トゥーサンにいたずらをしたり……遊びはいつまでも尽きなかった。


 二人が見ることのなかった宴は、デュノア邸ではこれほど華やかではなかったにしても、今アベルの目のまえに広がるようなものだったのだろう。


 煌びやかで、現実とは思えぬような世界。

 けれどアベルは、どうしてもそこに浸ることができなかった。

 カミーユのことを思い出す。馳走や美酒、音楽や踊りがなくとも、二人だけで遊ぶ世界は、明るさと輝きと喜びに満ちていた。


 今、アベルは会場でひとり。

 カミーユはいない。

 リオネルもベルトランも、遠いところにいる。

 彼らの話し声は、まったく聞こえてこない。

 だからといって、話す相手がなく独りでいるのが寂しいわけではない。

 無理にだれかといっしょにいるよりは、独りでいたい気分だった。


「騎士さま、もしよろしければ、いっしょに踊りませんか?」


 声をかけてきたのは、アベルより少し年上と思われる娘だった。ベルリオーズ家に仕える騎士の親族だろう。


「すみません、私は踊り方を知りませんので」


 アベルはつとめて笑顔をつくって返す。


「そうですか……」


 若い娘は残念そうな表情になったが、アベルの周りにある見えない壁のようなものに阻まれて、それ以上はなにも言わずに立ち去っていった。


 アベルは再び蜂蜜酒を口に運ぶ。

 この日、何杯目だろう。

 蜂蜜の甘さが喉元を通るときだけ、少しほっとしたような気持ちになった。


「アベル殿」


 名前を呼ばれて、アベルは顔を上げた。

 この日、この会場で名を呼ばれたのは、はじめてのことだった。


「マチアスさん」


 アベルは意外な人物の姿をみとめて、ようやく口元をほころばせた。

 ディルクの従者マチアスである。

 ついさきほどまで領主らの席の傍らにいたのに、いつのまに会場に出てきたのだろう。


「飲みすぎではありませんか」


 開口一番マチアスに指摘され、アベルは驚いて自分の左手にある銀杯を見た。


「そ……そうでしょうか」


 再びマチアスと視線が合うと、二人は小さく笑った。


「アベル殿はお強いのですね」

「蜂蜜酒は、なぜか酔わないんです」

「……蜂蜜酒ですか」


 マチアスは思い出すものがあって、アベルの顔を見る。

 ほんの一瞬、その美しい顔が、デュノア家の跡取りの少年の顔とかぶって見える。

 ――似ていなくもない。

 デュノア伯爵にも……。

 ふとそんなことを思ったが、自分の思考の行きつく先がわからず――というよりも、行きつく先を知ることが恐ろしく――浮かんだ考えをマチアスは頭のなかで打ち消す。


「華やかな宴ですね。アベル殿は、このような場には慣れませんか」

「あまり馴染みはありません。なんだかわたしの居場所は、このようなところにはない気がして疲れます」

「もしお疲れなら、部屋に戻られてもかまわないのでは」


 マチアスの気遣いに感謝しつつも、アベルは首を横に振った。


「主人が出席する宴の場から、理由もなく去るわけにはいきませんから」

「あなたは、ご自分に厳しすぎるのですよ」

「……そんなことは、けっしてありません」


 アベルはうつむいた。

 自分に厳しいどころではない。

 甘えているつもりはないはずなのに、いつもリオネルに守られてばかりである。己の不甲斐なさを感じざるをえない。


「……マチアスさんは、こんなところにいていいのですか?」

「いいんです。ディルク様はおひとりでも充分にやっていける方ですから」


 その言葉に、アベルは少し複雑な顔で笑ってから、思い出したように切り出した。


「マチアスさんに、ずっと言わなければと思っていたことがあったのです」

「なんでしょう」

「王都からベルリオーズへ向かう途中、刺客に襲われた際に助けていただいたのに、お礼を申しあげていませんでした。あのときは、命を助けていただきありがとうございます」

「そんな大袈裟なことではありませんよ」


 マチアスは笑った。


「貴方を助けた直後、私も貴方に助けられました。お互いさまです」


 マチアスがアベルに助けられるような状況に陥ったのは、そもそも彼がアベルを助けたからだったが、細かいことに言及してもしかたがないので、アベルはそのことについてはなにも言わなかった。


「アベル殿は、本当にお強い」

「お酒ですか? それとも、剣ですか?」


 冗談交じりにアベルが聞くと、「両方です」とマチアスは再び笑う。

 そこに現れたのはレオンだった。


「王子殿下」


 二人はレオンに気がつくと、すぐに右手の拳を胸にやり、一礼する。するとレオンはわずかに居心地悪そうな顔になる。


「いつもディルクが言っていることだが、そんなにかしこまらなくていい」

「普段から主人が失礼極まりないことを申し、誠に申しわけございません」


 心の底からマチアスは謝っているようだ。型にはまらぬ性格の主人を持つと、側近の気苦労も絶えないことだろう。


「あ」


 レオンは突如、なにかに気がついたように、顔を上げたアベルを指差した。


「な……なんでしょうか」

「その服の色――目の色と同じ」

「目と、服?」

「ディルクの部屋にあったスミレの押し花が、なにかを思い起こさせると思っていたが、ずっとわからなかった。そうだ、きみの目の色だ」


 アベルが蜂蜜酒の入った銀杯を手元から落としたのは、そのときだった。


 金属音が会場内に響きわたり、人々の話し声と楽曲が止んだ。

 時が止まったような静寂が降り落ちる。

 その瞬間、アベルを叱り飛ばす声が聞こえた。


「アベル! なにをやっているんだ」


 やや離れた場所から、彼女の失態を目撃して駆けつけてきた、先輩従騎士のジュストだった。


「すみません」


 はっとしたアベルは、慌てて謝罪する。心は激しく動揺し、心臓は早鐘を打っていた。

 彼女がこれほど動揺したのは、銀杯を落として会場中の視線が自分に集まったからではない。


 ――ディルクの部屋にあったスミレの押し花が、なにかを思い起こさせると思っていたが、ずっとわからなかった。

 ――そうだ、きみの目の色だ。


 レオンの言葉が、何度も何度も頭のなかで反芻され、ぐるぐると回っていた。


 ディルクの部屋に――……押し花があった。

 幼い日の自分が贈ったハンカチに隠した、スミレの押し花が。

 当時、期待していたわけではなかったが、返事がなかったので、ずっと忘れられていたのだと思っていた。

 その後、自分でも忘れかけていた。

 けれどディルクはそれを今でも持っているのだ。

 そしてそれは、レオンの目に触れるところにあった――。


「アベル、殿下の御前でこのような失礼を……」


 ジュストに小言を言われ、思考の淵から我に返ったアベルは、レオンに向き直る。


「お……お召し物は汚れていませんでしょうか」

「お怪我はございませんか」


 アベルとジュストにほぼ同時に問われ、レオンは少し困惑したような顔になった。


「いいや、おれは大丈夫だ」


 アベルは再度謝ると、銀杯を拾い、ふところから出したハンカチで床を拭こうとする。


「アベル殿、そんなことは使用人に任せてもかまいませんよ」


 マチアスの言葉に、ジュストが憮然とする。


「いいえ、マチアス殿。アベルは、貴族の出ではありませんし、このような粗相はするし、気が利かないのです。これくらいのことは自分でやって当然です」

「ずいぶん、手厳しいのですね」


 マチアスは、駆けつけた女中メイドらとともに床を拭くアベルの姿を目にし、胸が痛むのを感じた。それは、マチアスの気持ちというよりは、家臣としての直感からくるものだった。


 蜂蜜酒。

 空色の瞳。

 そして、ディルクの部屋にあったスミレの押し花の色が、アベルの目の色だと指摘されたときの、反応。


 マチアスも、スミレの押し花が主人の机の上にあるのを目にしていた。

 そしてあの日、ディルクの目が赤かったことにも気づいている。

 スミレの押し花が、だれからもらったものなのか、容易に想像はついた。


 かがみこんだマチアスは、アベルとともに床を拭きはじめた。


「マチアスさん」


 アベルが驚いて顔を上げる。


「マチアスさんがこんなことする必要はありません。どうか手を止めてください」

「あなたがやめなければ、私はやめません」

「…………」


 アベルが言葉を失ったちょうどそのとき、床を拭く彼女の手にそっと触れた指があった。


「そんなことをしなくていい」


 皆が視線を向けると、そこにいたのは、客人らと食卓を囲んでいたはずのリオネルだった。


「リオネル」

「リオネル様!」


 レオンはごく普通に、ジュストは驚いたようにその名を呼んだ。

 けれどリオネルは二人を見ることなく、アベルの手からハンカチを取り上げる。


「きみが床を拭く必要はない」


 なにか言いかけたアベルの言葉を遮ったのは、ジュストである。


「しかし、殿下の御前で酒をこぼしたのはアベルです。片付けくらい――」

「いいんだ」


 リオネルがきっぱりと言うと、ジュストは悔しげに唇を引き結んだ。


「アベル、怪我はないか?」


 リオネルがアベルを立ち上がらせて問う。

 一方でアベルは、このような些細なことでリオネルがここまで来たことに、戸惑いを通りこして、なんと言ってよいものかわからなくなってしまった。銀杯をひとつ落としただけである。

 レオンも呆れ顔になる。


「わざわざここまで来たのは、おれのことではなく、アベルを心配してのことか」

「当然だろう」


 アベルにも、周囲にも、なにが当然なのかさっぱりわからない。

 しかし、そのとき、マチアスだけにはなにかがわかったような気がした。


 信じられないような思いで、マチアスはリオネルを見る。


 ――まさか……。


 彼の抱いている予感が真実であるためには、決定的に覆されなければならない事実がいくつかある。その事実のうちのひとつを、リオネルの態度は覆す要素をはらんでいた。

 もし予感が当たっていたとしたら……それは、ひどく複雑な事態である。

 マチアスは必死で己の思考の流れを止めた。


「そんなことがあるわけがない。――忘れよう。考えすぎだ、すべて思い過ごしだ」


 マチアスの心の声は、実際に音になって空気中に流れ出たが、いつのまにか再開されていた音楽によってかき消された。


「アベル、顔色が悪い」


 心配そうにリオネルがアベルの顔を覗き込むが、その眼差しから逃れるようにアベルは顔を背けた。


「……ぼんやりしていました。すみません、お騒がせして」

「どうかしたのか?」


 リオネルには、アベルが不注意で銀杯を落としたとは到底思えなかった。

 しかしアベルは首を横に振る。


「なんでもないのです」


 わずかな翳りをリオネルが瞳に浮かべたとき、


「なんでもないならよかったですわ」


 突然若い女性の声が聞こえてきて、皆が声のほうを向いた。

 朱色の華やかなドレスをまとってほほえんでいたのは、フェリシエである。


 彼女はおそらくリオネルを追ってここまで来たのだろう。かすかに眉を寄せてリオネルはフェリシエを見たが、彼女は艶やかな笑みを返しただけだった。


「フェリシエ様まで、このようなところに――。お騒がせして、申しわけございません」


 アベルは深々と腰を折る。


「いいのよ、あなたに怪我がなくてよかったわ、アベル」


 そう言って花のようにほほえむフェリシエに、アベルは恥ずかしさを覚えて、うつむいた。この女性は心配してここまで来てくれたのだ。それに比べて、自分は宴を乱し、主人らをわずらわせ……。

 自己嫌悪に陥りながら、アベルは再び頭を下げた。


「本当にお騒がせし、申しわけございませんでした。こちらはご心配には及びませんので、どうぞ皆様、引き続き今宵の宴をお楽しみください」


 その言葉が終わると、フェリシエはぱっと向きを変えリオネルを見上げた。


「リオネル様、アベルもそう言っていることですし、もうここは大丈夫ですわ。せっかく会場にきたのですから、わたくしたちは一曲踊りませんか?」


 リオネルは唐突な誘いに意表をつかれてフェリシエを見返すが、即座に表情を曇らせる。


「いえ、申しわけありませんが、遠慮させていただきます」

「ご気分がすぐれませんの?」

「そういうわけではありませんが」

「でしたら、公爵様のおっしゃっていたように、隣の部屋へ参りませんこと? 人のいないところで、ゆっくり休まれたほうが、気分が良くなりますわ」

「いいえ――」


 リオネルが再び断りかけると、


「行ってくればよいではないか、リオネル」


 とレオンが、


「それでは、私はお二人のお飲物をお持ちします」


 とジュストが、


「どうぞ、ごゆっくりなさってください」


 と極めつけにアベルが言ったので、リオネルは何も言えなくなってしまった。

 もはや断る理由も見つけられない。


「さあ、行きましょう」


 腕にからませてくるフェリシエの手をしかたなく受けとめ、リオネルは小部屋のほうへ歩き出した。アベルの表情を見るのが怖くて、リオネルは後ろを顧みることなく会場を出ていく。

 想いを寄せている相手から、女性を同伴して会場を出ていく自分の姿を、ただ無感動に見送られるのはリオネルにとって辛いことだった。それは、アベルの気持ちの全てを物語るものであり、そして今の現実を彼につきつけるものだからである。







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