35
時は少し遡る。
アベルが、どこか冷めた気持ちでいたのは、その場の空気になじめなかったからかもしれない。
デュノア邸においても宴は催されていたが、幼い姉弟はほとんど参加することはなかった。
賑やかな笑い声や、弦楽器のかすかな音色が遠くから聞こえてくるなか、シャンティとカミーユは客が帰る時間まで遊んでいた。
室内で追いかけあって走りまわったり、かくれんぼをしたり、トゥーサンにいたずらをしたり……遊びはいつまでも尽きなかった。
二人が見ることのなかった宴は、デュノア邸ではこれほど華やかではなかったにしても、今アベルの目のまえに広がるようなものだったのだろう。
煌びやかで、現実とは思えぬような世界。
けれどアベルは、どうしてもそこに浸ることができなかった。
カミーユのことを思い出す。馳走や美酒、音楽や踊りがなくとも、二人だけで遊ぶ世界は、明るさと輝きと喜びに満ちていた。
今、アベルは会場でひとり。
カミーユはいない。
リオネルもベルトランも、遠いところにいる。
彼らの話し声は、まったく聞こえてこない。
だからといって、話す相手がなく独りでいるのが寂しいわけではない。
無理にだれかといっしょにいるよりは、独りでいたい気分だった。
「騎士さま、もしよろしければ、いっしょに踊りませんか?」
声をかけてきたのは、アベルより少し年上と思われる娘だった。ベルリオーズ家に仕える騎士の親族だろう。
「すみません、私は踊り方を知りませんので」
アベルはつとめて笑顔をつくって返す。
「そうですか……」
若い娘は残念そうな表情になったが、アベルの周りにある見えない壁のようなものに阻まれて、それ以上はなにも言わずに立ち去っていった。
アベルは再び蜂蜜酒を口に運ぶ。
この日、何杯目だろう。
蜂蜜の甘さが喉元を通るときだけ、少しほっとしたような気持ちになった。
「アベル殿」
名前を呼ばれて、アベルは顔を上げた。
この日、この会場で名を呼ばれたのは、はじめてのことだった。
「マチアスさん」
アベルは意外な人物の姿をみとめて、ようやく口元をほころばせた。
ディルクの従者マチアスである。
ついさきほどまで領主らの席の傍らにいたのに、いつのまに会場に出てきたのだろう。
「飲みすぎではありませんか」
開口一番マチアスに指摘され、アベルは驚いて自分の左手にある銀杯を見た。
「そ……そうでしょうか」
再びマチアスと視線が合うと、二人は小さく笑った。
「アベル殿はお強いのですね」
「蜂蜜酒は、なぜか酔わないんです」
「……蜂蜜酒ですか」
マチアスは思い出すものがあって、アベルの顔を見る。
ほんの一瞬、その美しい顔が、デュノア家の跡取りの少年の顔とかぶって見える。
――似ていなくもない。
デュノア伯爵にも……。
ふとそんなことを思ったが、自分の思考の行きつく先がわからず――というよりも、行きつく先を知ることが恐ろしく――浮かんだ考えをマチアスは頭のなかで打ち消す。
「華やかな宴ですね。アベル殿は、このような場には慣れませんか」
「あまり馴染みはありません。なんだかわたしの居場所は、このようなところにはない気がして疲れます」
「もしお疲れなら、部屋に戻られてもかまわないのでは」
マチアスの気遣いに感謝しつつも、アベルは首を横に振った。
「主人が出席する宴の場から、理由もなく去るわけにはいきませんから」
「あなたは、ご自分に厳しすぎるのですよ」
「……そんなことは、けっしてありません」
アベルはうつむいた。
自分に厳しいどころではない。
甘えているつもりはないはずなのに、いつもリオネルに守られてばかりである。己の不甲斐なさを感じざるをえない。
「……マチアスさんは、こんなところにいていいのですか?」
「いいんです。ディルク様はおひとりでも充分にやっていける方ですから」
その言葉に、アベルは少し複雑な顔で笑ってから、思い出したように切り出した。
「マチアスさんに、ずっと言わなければと思っていたことがあったのです」
「なんでしょう」
「王都からベルリオーズへ向かう途中、刺客に襲われた際に助けていただいたのに、お礼を申しあげていませんでした。あのときは、命を助けていただきありがとうございます」
「そんな大袈裟なことではありませんよ」
マチアスは笑った。
「貴方を助けた直後、私も貴方に助けられました。お互いさまです」
マチアスがアベルに助けられるような状況に陥ったのは、そもそも彼がアベルを助けたからだったが、細かいことに言及してもしかたがないので、アベルはそのことについてはなにも言わなかった。
「アベル殿は、本当にお強い」
「お酒ですか? それとも、剣ですか?」
冗談交じりにアベルが聞くと、「両方です」とマチアスは再び笑う。
そこに現れたのはレオンだった。
「王子殿下」
二人はレオンに気がつくと、すぐに右手の拳を胸にやり、一礼する。するとレオンはわずかに居心地悪そうな顔になる。
「いつもディルクが言っていることだが、そんなに畏まらなくていい」
「普段から主人が失礼極まりないことを申し、誠に申しわけございません」
心の底からマチアスは謝っているようだ。型にはまらぬ性格の主人を持つと、側近の気苦労も絶えないことだろう。
「あ」
レオンは突如、なにかに気がついたように、顔を上げたアベルを指差した。
「な……なんでしょうか」
「その服の色――目の色と同じ」
「目と、服?」
「ディルクの部屋にあったスミレの押し花が、なにかを思い起こさせると思っていたが、ずっとわからなかった。そうだ、きみの目の色だ」
アベルが蜂蜜酒の入った銀杯を手元から落としたのは、そのときだった。
金属音が会場内に響きわたり、人々の話し声と楽曲が止んだ。
時が止まったような静寂が降り落ちる。
その瞬間、アベルを叱り飛ばす声が聞こえた。
「アベル! なにをやっているんだ」
やや離れた場所から、彼女の失態を目撃して駆けつけてきた、先輩従騎士のジュストだった。
「すみません」
はっとしたアベルは、慌てて謝罪する。心は激しく動揺し、心臓は早鐘を打っていた。
彼女がこれほど動揺したのは、銀杯を落として会場中の視線が自分に集まったからではない。
――ディルクの部屋にあったスミレの押し花が、なにかを思い起こさせると思っていたが、ずっとわからなかった。
――そうだ、きみの目の色だ。
レオンの言葉が、何度も何度も頭のなかで反芻され、ぐるぐると回っていた。
ディルクの部屋に――……押し花があった。
幼い日の自分が贈ったハンカチに隠した、スミレの押し花が。
当時、期待していたわけではなかったが、返事がなかったので、ずっと忘れられていたのだと思っていた。
その後、自分でも忘れかけていた。
けれどディルクはそれを今でも持っているのだ。
そしてそれは、レオンの目に触れるところにあった――。
「アベル、殿下の御前でこのような失礼を……」
ジュストに小言を言われ、思考の淵から我に返ったアベルは、レオンに向き直る。
「お……お召し物は汚れていませんでしょうか」
「お怪我はございませんか」
アベルとジュストにほぼ同時に問われ、レオンは少し困惑したような顔になった。
「いいや、おれは大丈夫だ」
アベルは再度謝ると、銀杯を拾い、ふところから出したハンカチで床を拭こうとする。
「アベル殿、そんなことは使用人に任せてもかまいませんよ」
マチアスの言葉に、ジュストが憮然とする。
「いいえ、マチアス殿。アベルは、貴族の出ではありませんし、このような粗相はするし、気が利かないのです。これくらいのことは自分でやって当然です」
「ずいぶん、手厳しいのですね」
マチアスは、駆けつけた女中らとともに床を拭くアベルの姿を目にし、胸が痛むのを感じた。それは、マチアスの気持ちというよりは、家臣としての直感からくるものだった。
蜂蜜酒。
空色の瞳。
そして、ディルクの部屋にあったスミレの押し花の色が、アベルの目の色だと指摘されたときの、反応。
マチアスも、スミレの押し花が主人の机の上にあるのを目にしていた。
そしてあの日、ディルクの目が赤かったことにも気づいている。
スミレの押し花が、だれからもらったものなのか、容易に想像はついた。
かがみこんだマチアスは、アベルとともに床を拭きはじめた。
「マチアスさん」
アベルが驚いて顔を上げる。
「マチアスさんがこんなことする必要はありません。どうか手を止めてください」
「あなたがやめなければ、私はやめません」
「…………」
アベルが言葉を失ったちょうどそのとき、床を拭く彼女の手にそっと触れた指があった。
「そんなことをしなくていい」
皆が視線を向けると、そこにいたのは、客人らと食卓を囲んでいたはずのリオネルだった。
「リオネル」
「リオネル様!」
レオンはごく普通に、ジュストは驚いたようにその名を呼んだ。
けれどリオネルは二人を見ることなく、アベルの手からハンカチを取り上げる。
「きみが床を拭く必要はない」
なにか言いかけたアベルの言葉を遮ったのは、ジュストである。
「しかし、殿下の御前で酒をこぼしたのはアベルです。片付けくらい――」
「いいんだ」
リオネルがきっぱりと言うと、ジュストは悔しげに唇を引き結んだ。
「アベル、怪我はないか?」
リオネルがアベルを立ち上がらせて問う。
一方でアベルは、このような些細なことでリオネルがここまで来たことに、戸惑いを通りこして、なんと言ってよいものかわからなくなってしまった。銀杯をひとつ落としただけである。
レオンも呆れ顔になる。
「わざわざここまで来たのは、おれのことではなく、アベルを心配してのことか」
「当然だろう」
アベルにも、周囲にも、なにが当然なのかさっぱりわからない。
しかし、そのとき、マチアスだけにはなにかがわかったような気がした。
信じられないような思いで、マチアスはリオネルを見る。
――まさか……。
彼の抱いている予感が真実であるためには、決定的に覆されなければならない事実がいくつかある。その事実のうちのひとつを、リオネルの態度は覆す要素をはらんでいた。
もし予感が当たっていたとしたら……それは、ひどく複雑な事態である。
マチアスは必死で己の思考の流れを止めた。
「そんなことがあるわけがない。――忘れよう。考えすぎだ、すべて思い過ごしだ」
マチアスの心の声は、実際に音になって空気中に流れ出たが、いつのまにか再開されていた音楽によってかき消された。
「アベル、顔色が悪い」
心配そうにリオネルがアベルの顔を覗き込むが、その眼差しから逃れるようにアベルは顔を背けた。
「……ぼんやりしていました。すみません、お騒がせして」
「どうかしたのか?」
リオネルには、アベルが不注意で銀杯を落としたとは到底思えなかった。
しかしアベルは首を横に振る。
「なんでもないのです」
わずかな翳りをリオネルが瞳に浮かべたとき、
「なんでもないならよかったですわ」
突然若い女性の声が聞こえてきて、皆が声のほうを向いた。
朱色の華やかなドレスをまとってほほえんでいたのは、フェリシエである。
彼女はおそらくリオネルを追ってここまで来たのだろう。かすかに眉を寄せてリオネルはフェリシエを見たが、彼女は艶やかな笑みを返しただけだった。
「フェリシエ様まで、このようなところに――。お騒がせして、申しわけございません」
アベルは深々と腰を折る。
「いいのよ、あなたに怪我がなくてよかったわ、アベル」
そう言って花のようにほほえむフェリシエに、アベルは恥ずかしさを覚えて、うつむいた。この女性は心配してここまで来てくれたのだ。それに比べて、自分は宴を乱し、主人らをわずらわせ……。
自己嫌悪に陥りながら、アベルは再び頭を下げた。
「本当にお騒がせし、申しわけございませんでした。こちらはご心配には及びませんので、どうぞ皆様、引き続き今宵の宴をお楽しみください」
その言葉が終わると、フェリシエはぱっと向きを変えリオネルを見上げた。
「リオネル様、アベルもそう言っていることですし、もうここは大丈夫ですわ。せっかく会場にきたのですから、わたくしたちは一曲踊りませんか?」
リオネルは唐突な誘いに意表をつかれてフェリシエを見返すが、即座に表情を曇らせる。
「いえ、申しわけありませんが、遠慮させていただきます」
「ご気分がすぐれませんの?」
「そういうわけではありませんが」
「でしたら、公爵様のおっしゃっていたように、隣の部屋へ参りませんこと? 人のいないところで、ゆっくり休まれたほうが、気分が良くなりますわ」
「いいえ――」
リオネルが再び断りかけると、
「行ってくればよいではないか、リオネル」
とレオンが、
「それでは、私はお二人のお飲物をお持ちします」
とジュストが、
「どうぞ、ごゆっくりなさってください」
と極めつけにアベルが言ったので、リオネルは何も言えなくなってしまった。
もはや断る理由も見つけられない。
「さあ、行きましょう」
腕にからませてくるフェリシエの手をしかたなく受けとめ、リオネルは小部屋のほうへ歩き出した。アベルの表情を見るのが怖くて、リオネルは後ろを顧みることなく会場を出ていく。
想いを寄せている相手から、女性を同伴して会場を出ていく自分の姿を、ただ無感動に見送られるのはリオネルにとって辛いことだった。それは、アベルの気持ちの全てを物語るものであり、そして今の現実を彼につきつけるものだからである。