30
激しくぶつかり合う金属音が、池と迷宮のあるシャルム式庭園の西方、ところどころに木々や池の配置された自然な趣のリヴァロ式庭園に響いていた。
この寒さの中、庭に出る者はほとんどない。
騎士たちの練習も、騎士宿舎の鍛錬場で行われる。
二人の吐く息だけが限りなく白く宙に舞い、二人の交える剣の音だけが庭園に木霊した。
訓練の最中だったが、ベルトランはアベルにほとんど具体的な指南はしない。ひたすら身体で覚えさせるのである。
アベルが繰りだす攻撃を、ベルトランは軽々と受けとめ、弾いていく。アベルはベルトランの動きを読み、隙を狙い、あらゆる方向から攻めるが、師の息を上げることすらできない。それとは対照的に、アベルの鼓動は速まり、呼吸は苦しくなっていくばかりだ。
ベルトランの頭上に振り下ろした剣は容易く薙ぎはらわれ、長剣は回転して宙に舞い、雪のなかに音もなく落ちた。
息を整えられないまま、アベルは立ちつくす。
「調子が出ないようだな」
彼女がこれほど呼吸を乱すのは、珍しいことだった。
「……すみません」
アベルは、ここしばらく不調が続いている自分自身に恥じ入ってうつむいた。
自分にかまわないでほしいと告げた日から、リオネルはあまりアベルに話しかけてこなくなった。挨拶や必要最低限の言葉は交わすが、それ以上のこととなると、いつも物言いたげな空気を漂わせつつ言葉少なにその場を立ち去っていく。
冷たくされているわけではないから、傷ついてはいないし、自分から言い出したことなのだから当然の結果である。
ただ、リオネルに対して「かまわないでほしい」と言ったことそれ自体が、ずっと心のどこかにつかえていた。
リオネルはあのとき、哀しそうな顔をした。
その表情が脳裏から離れないのだ。
傷つけたかもしれない。そう思うと胸が痛んだ。
自分が言ったことだ。
それなのに……これまで以上に、リオネルと他愛のない話ができなくなったことが、今更ながら寂しい。
これでよかったのだと――、しばらくこのような状況が続けばすべて落ちついていくのだと、自分に言い聞かせながら二週間を過ごしてきた。
けれど自分自身の思考をねじ伏せることができても、身体は正直だった。心の迷いは、剣に、槍に、弓にあらわれる。どれをやってもうまくいかない日々が続く。
アベルは剣を拾って戻ると、一礼して再び構えなおそうとするが、ベルトランは剣を下ろしたままだった。
「あの日」
「……?」
「騎士館のやつらになにか言われたのか?」
思わぬ質問に、アベルは構えていた長剣をそろそろと下ろした。
「いいえ、なにも……」
ベルトランの訝るような視線を受けて、アベルは目をそらす。
「本当に?」
「……はい」
「ならいいが」
そう答えたものの、ベルトランが納得したようには見えなかった。
「稽古に身が入っておらず、そのようなご心配をおかけして申しわけありません」
「……そういう意味ではないが、今日の稽古はもうやめにしよう」
「え……なぜですか?」
突然、稽古の中止を告げられたことに、アベルは驚きを隠せない。
「真剣に取り組むので、どうか続けさせてください」
「いや、おまえが真剣にやっているのはわかっている。だが、そんな調子で続けていると、いずれ怪我をしかねない。やめておいたほうがいい」
ベルトランとしては、調子の出ないアベルに練習を続けさせて、万が一怪我でもさせたらリオネルに向ける顔がないし、なにより、大切な従騎士をそんな目に遭わせなくはなかった。
けれど、アベルは深々と頭を下げて懇願する。
「お願いです。やらせてください。訓練する以外に、今のわたしが前へ進むためにできることはないのです。強くならなければ、リオネル様のおそばにとどまることは決して許されません。どうかお願いします」
アベルの言葉からは、彼女が抱いている不安や恐怖がひしひしと伝わってくる。
その真剣な願いに、ベルトランは首を横に振ることはできなかった。
大きく息を吸い込み、そして吐きだしながら答える。
「……わかった。だが、無理はするなよ」
「ありがとうございます」
アベルはもう一度頭を下げた。
再開した練習は、さきほどよりも緊迫したものとなった。
アベルの剣は必死だった。
自らの思考を振り切り、迷いを断ち切ろうとする気持ちが、剣に乗ってベルトランに襲いかかる。けれどベルトランにとって、その攻撃自体はこれまでと同じく、まったく恐れるものではない。怖かったのは、アベルのその思いだ。アベルのまっすぐすぎる思いが、いつかアベルの身を亡ぼすことにならなければいいと思わずにはおれない。
そう思いながらも、アベルからの攻撃にベルトランは容赦なく応酬する。
これが、ベルトランのやり方である。
ベルトランの剣が、アベルの頬に触れる寸前まで迫り、それをかろうじてはね返した剣に、自らの剣をたたき入れる。普段のアベルなら、こうなる以前にもう少しうまく立ちまわれるのだが。
最後まで剣を離そうとしなかったアベルの手には激痛が走り、時間が経つにつれて持っていられなくなった剣が雪の上にゆっくりと落ちた。
「大丈夫か?」
声も出せず、痛みに耐えているアベルに、ベルトランが声をかけたときだった。
「――――っ」
ベルトランが殺気を感じて顔を上げると、あるものが彼をめがけて飛んできた。
咄嗟にそれを長剣で切り落とす。真っ二つに割れて散ったのは、拳大に丸められた雪の玉だった。
「なんだこれは」
不審に思って視線を向けた先には、顔をしかめたディルクがいた。
「ベルトラン、いくらなんでも、そんな乱暴な稽古はないだろう。もう少しでアベルが怪我をしていたぞ」
「……ち、違います。わたしが、稽古を続けたいとお願いし――」
アベルが言い終わらないうちに、今度はベルトランがディルクに向けて、雪の玉を投げつけた。
「返礼だ」
ディルクは軽々とそれを避けたが、彼のすぐ後ろ、飛んでくる雪の玉を見ることができぬ位置にいた人物に、雪は命中した。
「…………」
「リ、リオネル……」
ディルクが、しまったという声でつぶやく。
「リオネル、すまない――」
雪を投げ終えた恰好のまま固まり、謝罪したベルトランは、おそらくその表情や口ぶりから想像するよりも、はるかに動揺している。彼がリオネルになにかをぶつけたことなど、おそらく生まれて初めてのことだろう。
ベルトランが投じた強烈な雪の攻撃は、リオネルの秀麗な顔を、正面から直撃していた。
無言でリオネルは顔についた雪を払いのける。痛かっただろうし、冷たかっただろう。
気まずい沈黙が流れたのち、皆の表情がこわばった。
――リオネルが、不敵に笑ったのだ。
リオネルは雪を拾い固めると、これもまた猛烈な勢いの一球をベルトランに投げつけた。
その玉は、見事ベルトランの胸元に命中する。
「仕返しだ、ベルトラン」
無言で立ちつくしていたベルトランがやおら屈み込み、雪の玉を丸める。
すると、先ほどよりもはるかに速球をディルクに投げ込み、今度こそそれをディルクに命中させた。
「いてえ……っ」
「おまえが避けたから、こうなったんだ」
「やったな」
ディルクは即座に雪の玉をベルトランに投げ返したが、それは手元が狂って、アベルの顔面を直撃する。
「アベル!」
雪の玉にでさえ、心配そうな声をあげたのはリオネルだ。
アベルが自分の肌と同じ色の雪を払い終えると、小さな雪の玉を作り、軽くリオネルに投げていらずらっぽい目を向けた。
「師の仇です」
「じゃあ、友の仇!」
ディルクが雪をベルトランに投げる。
それに対してベルトランが投げ返した玉は、流れてレオンに当たる。レオンは雪を丸めてベルトランに投げ返し、彼が応酬した玉は、再びリオネルに当たる。
その間にも、だれが投げたか分からない玉が飛び交い、次々と五人の顔を、肩を、胸元を、背中を雪の玉が直撃していった。
「おい、ベルトラン、おまえの玉は痛いんだ。手加減しろ!」
「先に投げたのはおまえだろう」
「――ぶっ」
「だれだ、今、アベルに玉をぶつけたのは」
「おれだけど」
「レオンか」
リオネルが至近距離で投げた玉が、レオンに命中する。
「やったな、リオネル!」
真剣に雪を投げ合う主人らを、マチアスは流れ玉が当たらないよう、少し離れたところから、生真面目な表情で見守っていた。
「マチアス、おまえ一人だけ、涼しい顔しやがって」
ディルクが叫びながら雪の玉を投げつけるが、マチアスはそれを、首をひょいと動かして避ける。
「……昔から、避けるのと逃げるのだけは得意だな、おまえは」
「貴方のいたずらから逃れなければ、仕事になりませんでしたので」
五人の若者の、子供のような――いつになく楽しそうな――雪合戦は、いつまでも終わらぬように見えた。
それが突如終わりを迎えたのは、リヴァロ式庭園に広がる純白の雪原のなかに、薄紅色のドレスをまとった若い女が、侍女を従えて現れたときだった。
彼女らがいることに最初に気がついたのは、マチアスである。
「ディルク様」
マチアスが主人を呼ぶ声に、雪を投げ合っていた皆が振り返る。
そして、その視線の先にたたずむ姿をみとめた。
「フェリシエ?」
つぶやいたのはディルクだった。
ベルトランとマチアスが一礼したので、アベルも慌てて腰を折る。
「いったい、なんなの……?」
ひきつった表情でフェリシエが発したつぶやきは、近くにいた侍女とマチアスの耳にだけ届いた。
いい年をした若者五人が、雪の玉を投げ合い、雪と泥まみれになっているのだ。あろうことか、そのなかにリオネルがいるとは。
呆然としているフェリシエに、リオネルがゆっくり歩み寄る。
途端に我に返ったフェリシエは、今まで感じていた嫌悪感をどこかにふっ飛ばし、目を輝かせた。
「……フェリシエ殿。お久しぶりです」
「リオネル様」
目前まで来たリオネルに、フェリシエはうっとりとその名を呼んだ。
あちこちに雪をつけてはいたが、四年前よりはるかに長身になり、しなやかな手足、整った秀麗な顔立ち、やさしげな眼差し、優雅な物腰は、フェリシエの脳内をくらくらとさせた。
リオネルはフェリシエの前で軽くかがんだが、彼女の手元へ口づけることはしなかった。
「このような姿で、手も汚れていますので、ご挨拶は失礼させていただきます」
フェリシエは残念な気持ちだったが、それでも目の前の青年を見ていれば、そんなことはどうでもいいように思えた。大きな瞳のなかいっぱいに恋心を映して、リオネルを見上げる。
「リオネル様……お会いしとうございました」
「お元気そうでなによりです」
「本当、元気そうだね」
二人の間に割って入ったのは、ディルクだった。
「ディルク様……」
会いたくない人にも会ってしまったというのが彼女の本音だったに違いないが、ここはリオネルの前である。つとめて最高の笑顔を作った。
「お変わりなく」
「きみはずいぶん変わったね。一瞬だれだかわからなかったよ。化けたもんだなあ。あのころのおまえは、そばかすだらけで、ふくよ……」
言いかけたディルクの足を踏んだのは、マチアスだった。
フェリシエの顔は怒りで紅潮し、手元は震えている。
「痛いな! 主人に対してなにするんだよ、マチアス」
「とにかく、貴方はおとなしくしていてください」
リオネルはフェリシエの様子も、友人らの会話もまったく気にとめずに、館のほうを見て言った。
「とりあえず館へ」
「え……ええ」
リオネルがフェリシエを促して、館のほうへ戻っていく。
その途中、一度だけリオネルは背後を振り返ってアベルを見たが、なにか言いたげな視線を向けただけで、再びフェリシエと共に歩いていった。
「あの方は……?」
突然現れ、リオネルに寄り添うように去っていった美しい女性に、アベルは呆然としながらつぶやく。
「エルヴィユ侯爵家の令嬢、フェリシエだよ」
答えたのはディルクだ。
「エルヴィユ家……」
アベルはその名を知っていた。左翼に位置する貴族でその家を知らない者はない。
エルヴィユ家は、公爵家とまではいかないものの古くから続く由緒ある名家で、有名な王弟派である。
「そして彼女は、リオネルの婚約者だ」
「婚約者――」
はじめて聞く話に、アベルは瞳を見開いた。
まさかリオネルに、婚約者がいたとは……。
彼はそんなことは一言も言っていなかった。
「聞いてなかったの?」
アベルがうなずいたので、ディルクは嘆息した。
「まさか、伝えてないとはね。いったいどういうつもりなんだ」
「婚約者ではなくて、婚約者候補だ」
ベルトランが、やや不機嫌に訂正する。
「そうか、でも事情はよくわからないけれど、将来的に結婚する流れにはあるんじゃないのか?」
「それは――」
ベルトランは言い淀んだ。
「……二人の気持ち次第なのではないか」
我ながら冴えない返答をしたと思いつつ、ベルトランは苦い思いでアベルの顔を見る。
アベルは戸惑いを隠しきれない様子ではあるが、それが恋心からくるものとはどうにも思えない。
それに比べて、さきほどフェリシエがリオネルに向けていたのは、恋する女の視線そのものだった。おそらくあのときの彼女の目には、リオネルの姿以外はなにも映っていなかっただろう。
「苦労するな、リオネルも……」
「どういう意味?」
ディルクが怪訝な顔をベルトランに向ける。
「いや、べつに」
ベルトランは、リオネルらに続いて館に足を向ける。
「こんな状態になってしまったが、エルヴィユ侯爵殿が到着されたようだから、館に戻ろう。稽古はまた後日だ、アベル」
こんな状態とは、雪と泥にまみれたことだ。アベルはうなずきを返した。
「うう、寒い」
レオンが両腕をさする。
たしかに、はしゃいで雪を投げ合っていたときは忘れていたが、こうやって雪まみれのまま立ち話をしていると、寒さで手足の先々がしびれるような感覚を覚える。
アベルも自分を抱きとめるように腕をさすりながら、なんとなくすっきりしない気持ちでいた。
水色の首飾りが、脳裏に浮かぶ。
……贈る相手などいないと言っていたではないか。
どうしてそんな嘘をついたのだろうと、アベルはもやもやした気分で館に戻った。
幾段も連なる階段を上り、バルコニーを通り大広間に入ると、リオネルらに追いついた五人はいっせいに幾多の視線を浴びた。
それは、どこか冷ややかで、呆れた視線だった。
「……そなたらまで、なんだその格好は」
つぶやいたのは、エルヴィユ侯爵を出迎えていたベルリオーズ公爵だった。
「まさか、レオン殿下まで――」
公爵は言葉を失っている。
ベルリオーズ侯爵、エルヴィユ侯爵とその嫡男シャルル、フェリシエとその侍女ライラ、ベルリオーズ家執事のオリヴィエ、ジュスト、そして多くの使用人らの目のまえには、雪と泥にまみれた姿のリオネル、ベルトラン、ディルク、レオン、そしてアベルがいた。
「ひどい格好だ」
「まあ、仲のよい若者同士、童心に返って雪遊びでもしておったのでしょう」
呆れ返る公爵を前に、エルヴィユ侯爵はとりなすように言った。
「おまえが始めたんだぞ、ディルク」
文句を言ったのはレオンである。
「ベルトランが投げ返してきたのが悪いんじゃないか」
ディルクは、赤毛の男を見やる。
「おまえが避けたりするから、リオネルに当たったんだ」
ベルトランは、ばつの悪そうな顔である。
「そうだ、リオネルがあのときベルトランに投げ返さなければ」
「おれのせいか?」
親友の言葉に、リオネルは苦笑した。
「そのあとディルクに投げ返したのは、おれだったな」
と言ったのはベルトランで、
「それで、おれが投げ返したのが、アベルに当たったのか……」
とディルクは腕を組む。
「すみません、そのあとわたしが投げ返しました」
アベルがしょんぼりとうつむくと、
「きみのせいじゃない」
とリオネルは、彼女をかばう。
罪のなすりつけ合いと、どうでもいい雪合戦の経過を語る若者たちを、うんざりとした表情で公爵は見やった。
「もういい、そなたちは早くその服を替えなさい。正式な挨拶はそのあとだ」
五人は深々と頭を下げて、その場を辞した。