29
若者の目に映っていたのは、灰色の雲と、そこからはらはらとこぼれおちてくる細かな白い欠片だけだった。
背中や足の背面に触れる雪は、冷たいが、どこか心地よい。
若者は、視界を埋めつくす空の景色に、深く溜息をついた。
どうしてこんなに重く暗い空から、天使の羽根のように、軽く真っ白な雪が生まれるのだろう。
手を伸ばしても、黒い空に触れることはできない。伸ばした手に白い雪がそっと舞い降りるが、一瞬のうちに溶けて消えていく。
そんな浪漫趣味に浸っていた若者は、不意に、自分はなにをやっているのだろうと思った。
他人の財産を奪い、女子供をさらい、彼らを売りさばき……。
空に届くことが叶わなかった掌を、雪をつかむことができなかった手のひらを、強く握りしめた。
――自分は、いったい何をやっているのだ。
「おい、ヴィート。ひとりで黄昏てるんじゃねえよ」
突然振りかかってきた声とともに、空を映していた視界のなかに男の顔が乱入してくる。
「無粋なやつだな。今は、おまえの顔なんて見たくない」
「それは悪かったな。おまえにとりあえず、お別れを言っておこうと思って」
「…………」
ヴィートは無言で目をまたたいた。
「……戻るのか」
「ああ」
「……そうか」
「おまえも来いよ」
ヴィートは仰向けになっていた身体を横にして、男から顔を背ける。
「おれはいい」
「まだ怒ってるのか?」
「怒ってるんじゃない。赦せないんだ」
ヴィートの言葉に、男は片眉を上げた。
「……ブラーガなりに考えがあったんだろう」
「どんな」
「あのままチェルソが長だったらおれたちは分裂しかねなかった。あいつが長になったから、おれたちはまたひとつにまとまったんだ」
「それはそれ、これはこれだ。なにもチェルソを殺さなくてもよかっただろう」
「あいかわらず理想主義だな。実際に殺さなかったら、チェルソが大人しく長の座を退いたと思うか?」
「チェルソは、おれが小さいころから、父親代わりだったんだ」
「小さいころの話を持ち出すのか? それなら、おまえはいつも皆にいじめられて、ブラーガにさんざん助けてもらっていたじゃないか」
「仲間を蹴ったり殴ったりなんて、おれは一言も頼んでない」
「……まあ、いいけど。とにかく、戻ろうぜ。この巣には気の合うやつもいないし」
「やめておく」
「頑固だな」
「……なあ、エラルド。おれはもうこれ以上、こんなことを続けたくない」
「…………」
エラルドと呼ばれた山賊は、返事をしなかった。
「それじゃ行くぜ。ブラーガに言伝とかある?」
「『山賊やめたい』」
エラルドは苦笑して、立ち去っていった。
ヴィートは二十三歳である。二歳年上の幼馴染みであるブラーガが、カザドシュ山にある本拠地で、当時の首長であったチェルソを弑し、その座についたのは一年前のこと。
チェルソはもともと腕のよい山賊だったが、殺される前の数年間は朝から晩まであびるように酒を飲み、仲間が集めてきた食糧を食らい、これもまた仲間がさらってきた女を抱き、首長としてなすべきことはなにもせず、権力だけを振りかざしていた。
そのような状況が続くうちに、仲間のあいだから不満の声が出始め、チェルソに従い続ける者と、離反しようとする者に分裂した。こうして、仲間うちで口論や喧嘩が絶えなくなり、毎日のように争いが起こるようになっていった。
それを終わらせたのがブラーガだ。
酒に酔って気持ちよく歌っていたチェルソの首を、斧の一振りで討ち取った。そのとき、ブラーガがチェルソを殺害したことについて、だれもなにも言わなかった。また、ブラーガが首長に就くことに異議を唱える者もいなかった。
こうして、ラ・セルネ山脈の山賊は再びひとつにまとまったのだ。
――ただひとり、ヴィートをのぞいては。
チェルソがひどい飲んだくれで、首長らしいことをなにもしていなかったことはわかっている。けれどチェルソはそうなるまえ、父を失くし、仲間に馴染めずにいた孤独なヴィートをかわいがってくれていた。
なにも、殺さなくてもよかったのではないかと思うのだ。
チェルソが死んだ今、この山賊のなかでヴィートと親しい者は、ブラーガとエラルドしかいない。
けれどブラーガがチェルソを殺した日の夜、ヴィートは生まれ育った山賊の本拠地カザドシュ山を降りた。向かった先は、ラ・セルネ山脈の各所に散らばっている拠点のひとつ、ここスーラ山だった。
それからしばらくあとに、ヴィートを追ってエラルドもスーラ山へ移った。
しかしエラルドはこの日、スーラ山を降り、カザドシュ山へ戻るという。
寂しさを覚えないではなかったが、首長になったブラーガに会う気はしなかった。
山賊として生まれたが、山賊にはなりたくなかった。
いつかブラーガやエラルドといっしょに山を降り、真面目に、まっとうに生きたかった。それなのに、ブラーガはチェルソを殺し、首長の座などに就いてしまったのだ。
次にブラーガに会うときは、彼を山から降りるよう説得するときでありたい。
去っていく友人の後ろ姿を見送らずに、ヴィートは深い雪のなかにいつもまでも寝転んでいた。
+++
館内は、やけに浮足立っているようだった。
どこかピリピリとした空気が流れるなかで、いつも以上に忙しく働く女中や使用人たちの顔には、緊張のなかにも、好奇心のようなものがにじんでいる。
地上階の廊下を歩いていたディルクは、彼らの様子を興味深げに眺めた。
大階段をのぼり、リオネルの書斎へと向かう。
「入るよ」
かろうじてノックはしたが、返事を待たずにディルクは扉を開けた。
机に向かい書類に目を通していたリオネルは、その遠慮のなさを気にする様子もなく顔を上げる。一方、レオンは眉を寄せてディルクを振り返った。
「ディルク、ずいぶんゆっくりしていたね」
声をかけたのはリオネルだ。
「のんびりと過ごせる食事の時間も、これで最後と思うとね」
「大袈裟だな」
リオネルは笑ったが、その表情にはまぎれもなく陰りがあった。むろん、ディルクが勝手に扉を開けたからではない。
「部屋を入るときは、相手の了承を得てからにしたらどうだ」
そう苦言を呈したのは、むろんレオンである。
「ああ、そうだね」
ディルクはレオンの小言を適当に流して、書類に向かうリオネルへ水を向ける。
「父上は夕方には着くはずだけど、エルヴィユ侯爵殿はいつごろいらっしゃるんだ?」
「さあ」
リオネルは顔を上げずに答えた。
友の伏せられた睫毛の奥を探るように、ディルクは彼のうつむく顔をじっと見つめたが、そこから彼の感情は読みとれない。
「婚約者が来るのに、ずいぶん素っ気ないね。使用人たちのほうが、よほど浮かれているようじゃないか」
「……だから、婚約者じゃない」
リオネルはようやく顔を上げて、反論した。
「そうか、でもおれみたいに後悔するまえに、慎重に考えたほうがいい」
「それとは状況が違う」
「どう違うんだ?」
「……とにかく、違うんだ」
リオネルはこの話題を打ち切ろうとするように、再び書類に視線を落とす。
「フェリシエはたしかに、ふくよかだし、そばかすだらけだし、わがままで傲慢だけど、それほど悪いやつでもなかったと思うよ……十年前は」
「ディルク、おまえ、それで彼女を擁護しているつもりか?」
散々な言いように、すかさず切り込んだのはレオンである。
「そのつもりだったんだけど、そうでもなかった?」
「おまえの視点からものを言うのは、やめておいたほうがいいのではないか。どうせ、嫌われるようなことをしたのだろう」
「別に……」
「ミミズや幼虫をフェリシエ様の頭に乗せたり、あの方の靴をどこかに隠したり、気に入っていらした髪飾りを池に投げ捨てたり、フェリシエ様のお作りになった花冠を壊したり……されておりました」
淡々と答えたのは、ディルクの後ろに控えていたマチアスである。
レオンは呆れ返る。
「それでよく、『別に』とか言えるな」
「そうかな」
「『そうかな』? なら同じことを、自分の婚約者にできたか?」
「シャンティに? まさか」
「ほら見ろ。その差はどこからくるのだ。なぜそんなことをしたのだ」
「おれも七歳とか、八歳のころだったからね。男女問わずリオネル以外の友達には、いたずらばかりしていたし、いちいちその理由なんて覚えていないよ」
「相手は、もっと幼かったんだろう」
「おれたちの一つ下だよ」
「最悪だな」
二人がそんな話をしている傍らで、リオネルはなにも聞こえていないかのように、机に向かい、書類になにやら書きこんでいる。
その姿を見て、ディルクは小さく溜息をついた。
ディルクとレオンが、ここベルリオーズ邸に来た日以来、リオネルはアベルと話していなかった。
そのまま二週間以上が経ち、年が明けた。
リオネルは淡々と自領の政務をこなし、客と会い、残りの時間で家族や友人らと団欒していたが、いつも物憂げで心ここにあらずといった感じだ。
そしてこの日、ディルクの父であるアベラール侯爵、リオネルの婚約者候補であるフェリシエ、その父兄であるエルヴィユ侯爵とシャルルがこの館を訪問し、しばらく滞在することになる。
後日、新年を祝う盛大な宴が催されるだろう。言葉を変えれば、親密な王弟派の集まりでもあった。
「ところでおまえのそばにベルトランがいないけど、雹でも降ってくるんじゃないか?」
「そんなにベルトランがおれのそばにいないのは珍しいかな」
リオネルは苦笑したが、ディルクもレオンも同時に深くうなずいたので、リオネルは小首をかしげた。
「そうか」
「ベルトランは主人を置いてどこへ行っちゃったの?」
「……アベルに、稽古をつけている」
「あ……そう」
ディルクはなにかを悟ったようにうなずいた。
おそらく、リオネルは自分で様子を確認できないため、ベルトランをアベルのそばに行かせたのだ。
ディルクはなにかを思いついたように、にやりと笑った。
「なあ、稽古を見にいこうぜ」
「…………」
リオネルの沈黙のなかに、たしかに肯定の思いを感じとって、ディルクは返答を待たずに部屋の戸口へ歩みだす。
「……おい」
呼びとめたのはレオンだ。
「おまえも来いよ。部屋にいても退屈だろう?」
答えながら、ディルクはすでに部屋を出ていた。