表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第二部 ~男装の伯爵令嬢は、元婚約者の親友の用心棒になる~
70/513

29





 若者の目に映っていたのは、灰色の雲と、そこからはらはらとこぼれおちてくる細かな白い欠片だけだった。


 背中や足の背面に触れる雪は、冷たいが、どこか心地よい。

 若者は、視界を埋めつくす空の景色に、深く溜息をついた。


 どうしてこんなに重く暗い空から、天使の羽根のように、軽く真っ白な雪が生まれるのだろう。

 手を伸ばしても、黒い空に触れることはできない。伸ばした手に白い雪がそっと舞い降りるが、一瞬のうちに溶けて消えていく。


 そんな浪漫趣味ロマンチズムに浸っていた若者は、不意に、自分はなにをやっているのだろうと思った。

 他人の財産を奪い、女子供をさらい、彼らを売りさばき……。

 空に届くことが叶わなかった掌を、雪をつかむことができなかった手のひらを、強く握りしめた。


 ――自分は、いったい何をやっているのだ。


「おい、ヴィート。ひとりで黄昏たそがれてるんじゃねえよ」


 突然振りかかってきた声とともに、空を映していた視界のなかに男の顔が乱入してくる。


「無粋なやつだな。今は、おまえの顔なんて見たくない」

「それは悪かったな。おまえにとりあえず、お別れを言っておこうと思って」

「…………」


 ヴィートは無言で目をまたたいた。


「……戻るのか」

「ああ」

「……そうか」

「おまえも来いよ」


 ヴィートは仰向けになっていた身体を横にして、男から顔を背ける。


「おれはいい」

「まだ怒ってるのか?」

「怒ってるんじゃない。赦せないんだ」


 ヴィートの言葉に、男は片眉を上げた。


「……ブラーガなりに考えがあったんだろう」

「どんな」

「あのままチェルソが長だったらおれたちは分裂しかねなかった。あいつが長になったから、おれたちはまたひとつにまとまったんだ」

「それはそれ、これはこれだ。なにもチェルソを殺さなくてもよかっただろう」

「あいかわらず理想主義だな。実際に殺さなかったら、チェルソが大人しく長の座を退いたと思うか?」

「チェルソは、おれが小さいころから、父親代わりだったんだ」

「小さいころの話を持ち出すのか? それなら、おまえはいつも皆にいじめられて、ブラーガにさんざん助けてもらっていたじゃないか」

「仲間を蹴ったり殴ったりなんて、おれは一言も頼んでない」

「……まあ、いいけど。とにかく、戻ろうぜ。この巣には気の合うやつもいないし」

「やめておく」

「頑固だな」

「……なあ、エラルド。おれはもうこれ以上、こんなことを続けたくない」

「…………」


 エラルドと呼ばれた山賊は、返事をしなかった。


「それじゃ行くぜ。ブラーガに言伝とかある?」

「『山賊やめたい』」


 エラルドは苦笑して、立ち去っていった。


 ヴィートは二十三歳である。二歳年上の幼馴染みであるブラーガが、カザドシュ山にある本拠地で、当時の首長であったチェルソをしいし、その座についたのは一年前のこと。


 チェルソはもともと腕のよい山賊だったが、殺される前の数年間は朝から晩まであびるように酒を飲み、仲間が集めてきた食糧を食らい、これもまた仲間がさらってきた女を抱き、首長としてなすべきことはなにもせず、権力だけを振りかざしていた。

 そのような状況が続くうちに、仲間のあいだから不満の声が出始め、チェルソに従い続ける者と、離反しようとする者に分裂した。こうして、仲間うちで口論や喧嘩が絶えなくなり、毎日のように争いが起こるようになっていった。


 それを終わらせたのがブラーガだ。

 酒に酔って気持ちよく歌っていたチェルソの首を、斧の一振りで討ち取った。そのとき、ブラーガがチェルソを殺害したことについて、だれもなにも言わなかった。また、ブラーガが首長に就くことに異議を唱える者もいなかった。

 こうして、ラ・セルネ山脈の山賊は再びひとつにまとまったのだ。

 ――ただひとり、ヴィートをのぞいては。


 チェルソがひどい飲んだくれで、首長らしいことをなにもしていなかったことはわかっている。けれどチェルソはそうなるまえ、父を失くし、仲間に馴染めずにいた孤独なヴィートをかわいがってくれていた。

 なにも、殺さなくてもよかったのではないかと思うのだ。


 チェルソが死んだ今、この山賊のなかでヴィートと親しい者は、ブラーガとエラルドしかいない。

 けれどブラーガがチェルソを殺した日の夜、ヴィートは生まれ育った山賊の本拠地カザドシュ山を降りた。向かった先は、ラ・セルネ山脈の各所に散らばっている拠点のひとつ、ここスーラ山だった。

 それからしばらくあとに、ヴィートを追ってエラルドもスーラ山へ移った。


 しかしエラルドはこの日、スーラ山を降り、カザドシュ山へ戻るという。

 寂しさを覚えないではなかったが、首長になったブラーガに会う気はしなかった。


 山賊として生まれたが、山賊にはなりたくなかった。

 いつかブラーガやエラルドといっしょに山を降り、真面目に、まっとうに生きたかった。それなのに、ブラーガはチェルソを殺し、首長の座などに就いてしまったのだ。

 次にブラーガに会うときは、彼を山から降りるよう説得するときでありたい。


 去っていく友人の後ろ姿を見送らずに、ヴィートは深い雪のなかにいつもまでも寝転んでいた。





+++





 館内は、やけに浮足立っているようだった。

 どこかピリピリとした空気が流れるなかで、いつも以上に忙しく働く女中や使用人たちの顔には、緊張のなかにも、好奇心のようなものがにじんでいる。


 地上階の廊下を歩いていたディルクは、彼らの様子を興味深げに眺めた。

 大階段をのぼり、リオネルの書斎へと向かう。


「入るよ」


 かろうじてノックはしたが、返事を待たずにディルクは扉を開けた。

 机に向かい書類に目を通していたリオネルは、その遠慮のなさを気にする様子もなく顔を上げる。一方、レオンは眉を寄せてディルクを振り返った。


「ディルク、ずいぶんゆっくりしていたね」


 声をかけたのはリオネルだ。


「のんびりと過ごせる食事の時間も、これで最後と思うとね」

大袈裟おおげさだな」


 リオネルは笑ったが、その表情にはまぎれもなく陰りがあった。むろん、ディルクが勝手に扉を開けたからではない。


「部屋を入るときは、相手の了承を得てからにしたらどうだ」


 そう苦言を呈したのは、むろんレオンである。


「ああ、そうだね」


 ディルクはレオンの小言を適当に流して、書類に向かうリオネルへ水を向ける。


「父上は夕方には着くはずだけど、エルヴィユ侯爵殿はいつごろいらっしゃるんだ?」

「さあ」


 リオネルは顔を上げずに答えた。

 友の伏せられた睫毛の奥を探るように、ディルクは彼のうつむく顔をじっと見つめたが、そこから彼の感情は読みとれない。


「婚約者が来るのに、ずいぶん素っ気ないね。使用人たちのほうが、よほど浮かれているようじゃないか」

「……だから、婚約者じゃない」


 リオネルはようやく顔を上げて、反論した。


「そうか、でもおれみたいに後悔するまえに、慎重に考えたほうがいい」

「それとは状況が違う」

「どう違うんだ?」

「……とにかく、違うんだ」


 リオネルはこの話題を打ち切ろうとするように、再び書類に視線を落とす。


「フェリシエはたしかに、ふくよかだし、そばかすだらけだし、わがままで傲慢だけど、それほど悪いやつでもなかったと思うよ……十年前は」

「ディルク、おまえ、それで彼女を擁護しているつもりか?」


 散々な言いように、すかさず切り込んだのはレオンである。


「そのつもりだったんだけど、そうでもなかった?」

「おまえの視点からものを言うのは、やめておいたほうがいいのではないか。どうせ、嫌われるようなことをしたのだろう」

「別に……」

「ミミズや幼虫をフェリシエ様の頭に乗せたり、あの方の靴をどこかに隠したり、気に入っていらした髪飾りを池に投げ捨てたり、フェリシエ様のお作りになった花冠を壊したり……されておりました」


 淡々と答えたのは、ディルクの後ろに控えていたマチアスである。

 レオンは呆れ返る。


「それでよく、『別に』とか言えるな」

「そうかな」

「『そうかな』? なら同じことを、自分の婚約者にできたか?」

「シャンティに? まさか」

「ほら見ろ。その差はどこからくるのだ。なぜそんなことをしたのだ」

「おれも七歳とか、八歳のころだったからね。男女問わずリオネル以外の友達には、いたずらばかりしていたし、いちいちその理由なんて覚えていないよ」

「相手は、もっと幼かったんだろう」

「おれたちの一つ下だよ」

「最悪だな」


 二人がそんな話をしている傍らで、リオネルはなにも聞こえていないかのように、机に向かい、書類になにやら書きこんでいる。

 その姿を見て、ディルクは小さく溜息をついた。


 ディルクとレオンが、ここベルリオーズ邸に来た日以来、リオネルはアベルと話していなかった。

 そのまま二週間以上が経ち、年が明けた。

 リオネルは淡々と自領の政務をこなし、客と会い、残りの時間で家族や友人らと団欒していたが、いつも物憂げで心ここにあらずといった感じだ。


 そしてこの日、ディルクの父であるアベラール侯爵、リオネルの婚約者候補であるフェリシエ、その父兄であるエルヴィユ侯爵とシャルルがこの館を訪問し、しばらく滞在することになる。

 後日、新年を祝う盛大な宴が催されるだろう。言葉を変えれば、親密な王弟派の集まりでもあった。


「ところでおまえのそばにベルトランがいないけど、ひょうでも降ってくるんじゃないか?」

「そんなにベルトランがおれのそばにいないのは珍しいかな」


 リオネルは苦笑したが、ディルクもレオンも同時に深くうなずいたので、リオネルは小首をかしげた。


「そうか」

「ベルトランは主人を置いてどこへ行っちゃったの?」

「……アベルに、稽古をつけている」

「あ……そう」


 ディルクはなにかを悟ったようにうなずいた。

 おそらく、リオネルは自分で様子を確認できないため、ベルトランをアベルのそばに行かせたのだ。

 ディルクはなにかを思いついたように、にやりと笑った。


「なあ、稽古を見にいこうぜ」

「…………」


 リオネルの沈黙のなかに、たしかに肯定の思いを感じとって、ディルクは返答を待たずに部屋の戸口へ歩みだす。


「……おい」


 呼びとめたのはレオンだ。


「おまえも来いよ。部屋にいても退屈だろう?」


 答えながら、ディルクはすでに部屋を出ていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ