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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第一部 ~婚約破棄された伯爵令嬢は、男装して旅に出る~
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 勢いの失われた芝生の上には、黄色い落ち葉の絨毯が敷きつめられた。

 やわらかい陽光が、朝食の時間になってようやく、闇のなかに隠れていたその鮮やかな色を照らしだす。目に痛いほどの黄だった。


 確実に日が昇るのが遅くなっている。凍えるような冬はもうすぐだ。


 デュノアの池も、さぞや冷たかったことだろう、とディルクは思った。

 騎士館は、王宮の敷地内にはあるものの、城から歩けば十五分ほど離れたところにある。正騎士隊を含め、近衛騎士隊の一部や従騎士もそこで寝泊まりしていた。


 さきほどまでだれもいなかった食堂には、今は少しずつ騎士たちの姿が見えるようになっていた。窓の外がようやく明るくなってきて、寝台から起きはじめたのである。


 男たちの低い話し声が雑音となってディルクの耳に入ってくる。その雑音のなかに、聞き慣れた、耳触りのよい声を拾った。


「おはよう」


 声をかけられ、顔をあげれば、幼馴染みのリオネルだった。手には、朝餉が乗った盆を持っている。


「今朝は早いね」

「ああ」


 と、一言だけ返事をして、視線をそらしたディルクの顔色はさえない。それに気づいたリオネルは、おや、という顔をした。


「寝ていないのか?」


 リオネルは、ディルクの隈のできた目元を見て聞いた。

 問われてディルクはリオネルに再び視線を戻す。


「そう見える?」

「……まあ、見える」


 そう言いつつ、リオネルはディルクの席の横に盆を置き、座った。さらにその隣に、影武者のようにそばから離れないベルトランが、同じように盆を置き、腰かける。ベルトランはディルクに軽く目で挨拶しただけで、二人の会話には加わらなかった。


 従騎士として王宮で生活する貴族の中でも、身分が高い者や貴族の嫡男には従者や護衛の騎士がついてくることがある。ベルトランもその一人だ。

 レオンは後継者の地位にはいないが、王子という身分であるため、稽古の内容や場所によって体格の良い騎士がついてきた。一方、ディルクは、めんどうだったので、従者のマチアスをアベラールに残してきている。


 王宮内ではひっそりとリオネルのそばにいるだけのベルトランだったが、その長身と明るい赤毛のせいで存在感と威圧感があった。

 ディルクはその雰囲気に慣れているので、気にする様子もなく、リオネルに言う。


「……たしかに昨夜は寝られなかった」


 ディルクの横顔は、どこか遠くのことを考えているようだった。

 同時期に従騎士になったレオンを含む三人は同室だったが、リオネルは先に寝ていたのでディルクが眠っていないことに気づいていなかった。

 いつも快活なディルクの、今日はどこか思いつめた様子にリオネルは目を細める。


「なにかあったのか?」

「…………」


 ディルクはすぐには答えなかった。リオネルは、それ以上は聞かずに、朝餉のスープをひとさじ、口に運んだ。

 その静かな沈黙をやぶったのが、レオンの眠たそうな声だった。


「……おはよう」


 リオネルは振り返って挨拶を返したが、ディルクは振り返りもしなかった。そして、


「手紙が届いたんだ」


 と、リオネルを向いて言った。

 眠たそうだったレオンの表情が、たちまち曇る。


「無視かよ……」


 仮にも一国の王子なのだけど、と言ってやりたかったが、リオネルがその場にいたので、喉の奥に押しとどめた。


「あ、レオン、悪い。いたのか」


 ディルクの振り向いた顔に、故意や悪意が感じられず、怒る気は失せた。


「……デュノアとかいうところのお姫様から手紙でもきたのか?」


 文句を言う代わりに、ちょっとした嫌味を言ったつもりだった。しかし、言った瞬間、哀しそうに目を細めたディルクの見慣れぬ表情に、レオンは内心で少し焦る。


「えっと……その、ほら、手紙が届いたって聞こえたから」


 生まれながらに王子であり、もともとぶっきらぼうで、他人の気持ちなど考えたことがなかったレオンだが、従騎士になってからは、リオネルやディルクと共に時間を過ごして少しずつ気持ちが変化していた。ここでも、慌てて弁解するあたりに、人の良さが感じられる。

 そんな慌てる様を気にも留めずに、ディルクはリオネルに言った。


「昨夜、父上から手紙が届いたんだ」


 リオネルはうなずいた。


「侯爵殿はお元気か」

「ああ、元気だよ。……父上は元気だけど」


 リオネルとレオンは続きを待った。ベルトランだけが、聞いているのかいないのか、黙々と食事を口に運んでいる。

 食堂内のざわめきにかき消されるような小声で、ディルクはその先を言葉にした。


「手紙には、デュノア家の娘が死んだと書いてあった……」


 二人は目を見開いた。ベルトランの持つスプーンの動きもほんの一瞬だけ止まる。


「ディルク、おまえの婚約者か」


 と言ったのはレオンで、彼は、夏の終わりごろ、稽古の休憩中に話していたことをすぐに思い出していた。


「……まだ十三歳だった。館の外の池に足を滑らせて溺れたらしい」


 リオネルは、ディルクの、婚約者に対する様々な思いを知るがゆえに、どこかうつろな光をたたえる薄茶の瞳をただ見守るしかない。


「そうか……かわいそうなことだったな、それは」


 レオンは同情をこめてディルクを見た。ディルクは伏せていた視線をあげてレオンを向く。


「でも、婚約者じゃなかったんだ」

「?」


 二人は、その言葉の意味が分からず、ディルクを見つめた。


「おれはその直前に、婚約を解消したいと手紙に書いて父上に送っていた」

「そうなのか……」

「送ったのは、一ヶ月ほど前だ。そして、父上はおれの意向をデュノア伯爵に伝えた……伝えたその日、その子は死んだ」


 二人は言葉を失った。

 レオンは額に手を置く。決してディルクには言ってはならない単語が、口に出てしまいそうになる。それを察したように、ディルクは言った。


「……自殺、ではないとのことだ。父上と直接話したあと、伯爵がデュノアの館に戻って彼女に伝える前に、池で死んでいたそうだ……が」


 ディルクの言葉は歯切れが悪かった。

 彼が、慰めや、励ましを求めているわけではないことを、リオネルはよく分かっている。だからこそ、言葉を選んで口を開く。


「ディルク、そう書いてあったのなら――きっとそうなんだよ」


 リオネルの静かな声は淡々としていたが、ディルクの心の奥に優しく触れた。

 ディルクの淡い茶色の瞳が揺れて、朝の陽光の欠片を閉じ込めた。


「リオネル……おれは正しいことをしたつもりだった」

「うん」

「……幸せになってほしかったんだ」

「ああ」

「こんなことになるなら、シャンティに会いに行けばよかった」


 この時初めて、ディルクは婚約者の少女の名前を口にした。

 リオネルはただディルクの言葉にうなずいた。


「会って……直接会って、ちゃんと話していたら、こんなことにはならなかったのかな」

「…………」

「叶うなら、一度でいい、過去に戻って彼女と会いたい……」


 リオネルは、苦しげな表情を浮かべるディルクの腕に手を置いた。


「葬儀には? どんな形でも直接会ったほうがいい」


 たとえそれが冷たい骸であっても、そうすることで、ディルクの心は少しでも癒されるはずだった。


「……彼女が死んだのは二週間前だそうだ。もう葬儀も終わっている」

「そうか……」


 リオネルはやりきれない思いで、うつむくディルクを見た。


「でも、年明けに戻ったとき、デュノア家に行こうと思っている」

「うん、そうだね」


 ディルクは、会ったことのない婚約者を大事に思っていた。だからこそ、苦しませないために婚約の破棄を決断したのだ。

 そのことを、リオネルは知っていた。

 それがこんな結末を迎えるとは、だれも想像しえなかったことだった。




 食堂を後にして、ディルクやレオンらと別れた二人は、木立と芝生のちょうど交わる場所を歩いていた。

 ベルトランが、ふと歩みをとめて立ち止まる。そして振り返ると、そこにはディルクの前では決して見せなかった、リオネルの思いつめた表情があった。

 ベルトランは言った。


「おまえが気に病む必要はないぞ」

「…………」


 返事をせずに、リオネルはうつむいた。そして顔をあげてベルトランをまっすぐに見返す。


「おれがいなければ、十三歳の少女は死なずにすんだかもしれない」

「おまえのせいじゃない」


 ベルトランははっきりと言いきる。

 青年三人の会話を聞きながら、ベルトランは、リオネルの気持ちを、手に取るように感じとっていた。

 国王派と王弟派――、国がこんな事態になっていなければ、ディルクは婚約を解消する必要はなかった。

 ディルクがそうしたのは、ひとえに彼の王弟派としての信念と、リオネルに対する思い入れを、なによりも、だれよりも優先したからだ。

 リオネルが存在することで、国が二分する。そして、幼い少女はその犠牲になったように思われた。

 手紙に書いてあるとおりなのではないかと、ディルクには言って諭したが、一番そう思えないのはリオネル自身だった。そして、胸がひどく痛んだ。


「もう一度言うが、おまえのせいじゃない」


 ベルトランは強い口調で言う。


「おれは死んだ娘を知らないが、その子に同情はしない。事故だろうが、自殺だろうが、その子の死んだときの気持ちをだれが分かるというんだ。仮に自殺だったとして、それはおまえのせいじゃない――。十三歳の子には、自分を幸せにするための、時間と、未来と、可能性と、希望が残されている。それを放棄したのはその子自身だ」


 リオネルはベルトランの言葉を黙って聞いた。


「おまえはおまえらしく、自分の産まれたこの場所で堂々と生きていればいい」


 リオネルは小さくうなずいた。その表情は先ほどよりも和らいでいる。


「ありがとう、ベルトラン」


 リオネルは、ややうつむいて、軽く微笑んだ。




+++




 一方、デュノア邸では、シャンティの「死後」二週間が経ったが、葬式がいつまでも続いているようであった。


 館の中では、伯爵がシャンティを引きずり出したのち、彼女は池に足を滑らせ、おぼれて死んだということになっていた。しかし、このような経緯では、対外的にやや不都合があったので、伯爵が館に戻るまえに、シャンティは死んでいたということで公表された。

 そのいずれもが真実ではなかったが、本当のことを知る者は、伯爵、伯爵夫人、カミーユ、そしてトゥーサンの四人だけだった。乳母のエマでさえ、シャンティは池で死んだと信じていた。


 明るく美しい伯爵令嬢の突然の死に、デュノア邸内の皆が悲しみに暮れた。


 シャンティの髪を毎朝梳かしていた女中のカトリーヌなどは、しばらく放心して仕事が手につかぬような状態になり、エマは喪服に身を包んで部屋で泣き暮らすようになった。


 そして、いつもシャンティという太陽を向く向日葵のようだったカミーユは、人が変わったようだった。

 表情は暗く、唯一、トゥーサンだけそばにいることを許したが、他の者とはまったく関わろうとしなくなった。食事は最低限の量だけを食べ、毎日、シャンティと長い時間共に過ごした子供部屋で、小さな円卓に突っ伏して泣いていた。


 まだ十一歳の少年だ。自分の半身のようだった姉の存在を失って、すぐに立ち直れるはずがなかった。

 寒い冬が来る。なのに、たった一つの鞄さえ持たず、上着の一枚も着させてもらえず、体調の悪い少女が路頭に放りだされたのだ。冬を待たずに、死ぬだろうことは容易に想像できた。


 けれど姉を助けに行くことはできなかった。

 カミーユは監禁状態で、庭に出ることさえも禁じられていた。幾度も脱出しようとしては失敗に終わり、そのたびに以前より厳しい監視の目が光るようになった。

結局、いつも自分はシャンティのために、なにもできない。

 悔しさと、悲しみで、涙が止まらなかった。


 特に夜になれば冷え込むこの季節。外は寒いだろうな、と思えば、胸が張り裂けそうになる。

 代われるものなら、代わりたかった。


「トゥーサン……姉さんはどこ……?」


 泣き疲れて、椅子にぐったりと腰かけながら、カミーユはつぶやいた。

 トゥーサンがそこにいるのを知っていたが、返事を期待して言ったわけではない。


「姉さんは……無事かな?」

「…………」

「ねえ……お腹空いてないかな?」

「…………」

「おれのごはん……全部あげるからさ……。お腹に赤ちゃんいるんだろ……食べさせてあげたいな……」


 ぽつりぽつりと出てくる言葉は、絨毯のうえに、ぽとりぽとりと落ちて消えた。

 トゥーサンは目頭が熱くなるのを感じて、強く目をつむった。


 シャンティを守る立場にいながら、守れなかったのはトゥーサン自身だった。

 あの嵐の日にもっとなにかできたのではないか。シャンティが一人で館の外に出たことにどうして気づけなかったのか。シャンティが戻ってきたとき、強引にでも扉を開けていれば、なにかが違ったのではないか。あれから二人の様子に感じた違和感をもっとつきつめて考えていれば、こんな事態は避けられたのではないか。

 自責の念に苛まれているのは、カミーユだけではなかった。


「……怪我なんてしてないかな……父さんに殴られた傷は、大丈夫かな……ねえ、トゥーサン」


 最後に呼んだ名は、床に落ちずに、しかし、部屋の空気に霧散したようだった。

 霧散した呼びかけをかき集めるように、トゥーサンは返事をした。


「カミーユ様、今は信じましょう。シャンティ様のご無事を」


 カミーユは、ぼんやりと宙を見据えて返事をしなかった。


「シャンティ様が生きていれば、またいつか必ず会える日が来ます」


 気休めでしかないことは分かっていたが、他の言葉は見つからなかった。


「……冬が、来る」


 カミーユがぽつりと言った。

 そして、再びその頬を涙が伝った。

 冬が来れば、家のある者でさえ凍死することがある。毎年、領内の凍死者の合計数を見て、伯爵は渋い顔をしていた。

 返す言葉もなく、トゥーサンは唇を噛んだ。


「……おれは、父さんを許さない」


 このときカミーユの瞳に炎が灯ったようだった。


「そして、アベラール家を許さない」

「カミーユ様……」

「絶対に」


 そして、シャンティの婚約者であった、アベラール家のディルクがデュノア邸を訪れたのは、秋も過ぎ、長い冬を迎え、年を越してすぐのころだった。





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