24
シャサーヌの街は、王都サン・オーヴァンに寸分も引けを取らぬ華やかさだった。
ぼんやり歩いていたらぶつかりそうになるほど通りは人であふれ返り、八百屋や肉屋、飲食店の客引きの声、行き交う人々の話し声や笑い声が入り乱れ、自分たちの話す声がかき消されそうである。
老若男女問わず、多くの人々の服装は現代的で洒落ている。貴婦人のドレスは優美で煌びやかだし、忙しなく過ぎる馬車は豪奢だ。
木組みの家々は高さがあり、真新しいわけではないが、よく手入れされている。
店先や露天に並ぶ品々は種類が豊富で、アベルの見たことのない野菜や果物、洗練された食器や家具、色鮮やかな衣類、絨毯などが並んでいた。
「すごい……」
アベルは呆然と立ちつくす。
デュノアの中心都市マイエとは、比較にならないほどの活気と賑わいである。
街の様相に目を奪われていると、正面から走ってきた商売人らしき男と肩が触れた。相手の勢いと、二人の体格の差から、アベルは突き飛ばされてよろめく。
「危ない……っ」
アベルの腕をつかんで支えたのは、リオネルだ。
「気をつけろ! どこ見て歩いてるんだ!」
アベルを突き飛ばした男は謝りもせず、捨て台詞を吐いて去ろうとするが、
「待て。ぶつかったのはそちらのほうだろう」
と、リオネルが男を呼びとめた。
思いのほか不機嫌なリオネルの様子に、アベルは心中で冷やりとする。
「リオネル様、大丈夫です。わたしもぼんやりしていたのです」
三十代ほどの商売人の男は、木箱をかついだまま二人を振り返った。あらためて見てみれば、突き飛ばし、罵声を浴びせた相手が身なりの良い騎士風の二人組だと知り、男は態度を軟化させる。
「突き飛ばしたのは悪かったよ。あんたがこの子の保護者かい? 年長者だったら、子供の面倒はちゃんと見ておいてくれ。おれだって悪気があってぶつかったわけじゃない」
「子供とはだれのことですか」
リオネルに向けられた男の言葉につっかかったのは、アベルである。
主人を守る立場にいるのに、保護者と子供などと言われては黙っていられない。
「わたしは十五歳です。保護者を必要とするような歳ではありません」
「十五歳かい。十歳にもならない女の子かと思ったよ」
その言葉に憤り、剣の柄に手をかけたアベルに、今度はリオネルが冷やりとする。リオネルよりはるかに短気だったのは、アベルのほうだ。
「アベル……気持ちはわからないでもないけど、ここは剣を抜くところじゃない」
もちろんアベルも丸腰の相手に本気で抜刀する気などなかったが、男の次の一言で、あやうく柄を握る手に力が入りかける。
「おまえのような細っこいのが剣を抜いたところで、まったく怖くないぜ、お嬢ちゃん。茶髪の騎士さま、金髪のかわいいお嬢ちゃんをちゃんと見ておいてくれよ」
アベルの技量を知らぬ男は、最後までそれを知ることなく、嘲笑いながら去っていった。
怒りにふるふると震えるアベルの腕に手を添えて、リオネルがアベルの水色の瞳をのぞきこむ。
「大丈夫、アベルはちゃんと十五歳に見えるよ」
「…………」
アベルは無言でうなずいた。
「よし、じゃあ行こう」
リオネルは、アベルの身体を背後に隠すようにして歩きだした。アベルは気持ちを切り替え、再び街の様相に目を向ける。
賑わう大通りを抜けると、上空の視界がひらけて、重たい冬の空が広がった。
大広場に出たのである。
広場に面した西側に、大礼拝堂らしき荘厳な建物がそびえ立っている。
「ここは『アドリアナの広場』と呼ばれている。大礼拝堂に祀られているのが、主として女神アドリアナだからだ」
戦いと勝利の女神アドリアナ。
「なぜ、アドリアナなのですか?」
「もちろん三美神全員を崇めてはいるけど、ベルリオーズ家は代々、他者からの侵略に強兵をもって対抗し、領地の平和と繁栄を保ってきた。だからシャサーヌの人々は、三美神のなかでも、とくに戦いと勝利の女神に感謝しているんだ」
初めて聞く話にアベルは聞き入る。
「北側の建物は会議所、東の建物は裁判所。この二ヶ所で処理しきれない問題が、我々の館まで直接持ち込まれる」
「公爵様やリオネル様は大変ですね」
アベルの素朴な感想に、リオネルは笑った。
「そうだね。たしかに大変だけど、一番大変なのは当事者だから、なんとか解決へ導いてあげなければならない」
「あ、綺麗……」
リオネルの話を真剣に聞いていたのだが、アベルはふと目に入ってきた淡い水色に注意を引きつけられた。
水色は好きな色だった。
自分の目の色だからではない。不思議と安心するのだ。アベルはこの色を、記憶の奥底でずっと前から知っているような気がした。
けれど思わず自分の口からもれてしまった一言に、はっとする。それは、今の自分にはまったく必要のないものだったからだ。
アベルの視線の先にあったのは、小さな雫の形をした、水宝玉の首飾りだった。
リオネルがアベルの視線を辿って、宝石商の露店に目を向ける。
「……首飾り?」
リオネルが少し意外そうに聞いた。
「いえ、なんでもありません」
アベルは首飾りから視線を逸らすが、リオネルは露店のほうへ歩んでいく。そして、水宝玉をしげしげと見つめて、
「アベルの涙みたいだね」
とつぶやいた。けれどその声は小さかったので、アベルの耳には届かない。
「なにかおっしゃいましたか?」
「ほしかったら買ってあげるよ」
「いりません」
きっぱりと言ったアベルに、リオネルは押し黙り、思案する顔になった。
「……そうしたら、言葉を変えよう。きみに贈りたいから、買わせてくれないか」
リオネルの言葉の真意がつかめず、アベルは戸惑いつつ言った。
「宝飾品なら、どちらかのご令嬢に贈られてはいかがでしょう」
「贈る相手なんていないし……アベルに似合うと思うのだけど」
リオネルに宝飾品を贈る相手がいないなんて、本当だろうか。
王宮には多くの美しい貴婦人が出入りしていただろうし、ベルリオーズ家の跡取りで、容姿端麗な彼から贈り物をもらって嬉しくない令嬢はいないだろう。
それをどうして、自分のような男装した、かわいげのない家来に贈る必要があるのだろう。
からかわれているのだろうかと、小さな疑念を抱きつつ、様々な思考を断ち切るためにも、アベルははっきり返答した。
「わたしのような者に、このような高価な宝飾品は必要ありません」
「そんなに高くないよ」
「……いえ、そういう問題ではなくて」
店先で押し問答を繰り広げる客を、露店の主であろう老人は静かに見守っている。
「さあ、行きましょう、リオネル様」
アベルが有無を言わせず歩きだしたので、リオネルは慌ててそのあとを追う。
この街で一度はぐれたら、相手を探し出すのは至難の業だ。
アベルは追いついてきたリオネルに、会議所や裁判所の役割や、大礼拝堂の歴史などについて尋ね、首飾りの話題からなるべく遠ざかろうとした。
結局、首飾りについてはそれ以上触れないまま、二人は露店を冷やかしつつ、人ごみのなかを歩く。
ふと食欲をそそられる香りがして目を向けると、食事を出す露店らしく、スープの入った窯から濛々と白い湯気が立ちのぼっていた。
アベルは朝起きてからなにも食べていないことを、このときようやく思い出す。
「お腹空いたね」
リオネルの言葉に、アベルは大きくうなずいた。
「そこに食事用の机があるから、座って待っていて。買ってくるから」
「リオネル様、そんなことはわたしがやります」
「お金を持っているのか?」
「…………持っていません」
リオネルは笑顔で、市場の脇にある木製の机を指差した。
「今ちょうど席が空いているから、二人分確保しておいてくれないか。絶対にそこから動いてはだめだよ」
アベルはしかたなくリオネルと別れ、机の前の質素な長椅子に腰かけた。
主人に食事を買ってきてもらうなど、あってはならないことだったが、アベルは金銭を所持していなかった。館の自室に戻れば、ベルトランから与えられたいくらかのお金はあるが、普段使う機会がないので、持ち歩くことはほとんどない。
アベルは落ちつかなさと、かすかな心細さから、露店に向かったリオネルの姿を目で追う。けれど人ごみにまぎれて、その姿はすぐに見えなくなってしまった。
一人になると、街のざわめきが一段と大きく耳に響く。
突如、たった一人、取り残されてしまったような気がした。
デュノア邸を追い出されてからリオネルと出会うまでのアベルは、いつも独りだった。
独りでいると、アベルがいる場所は外界から切り離される。アベルと他者を隔てるものなどなにもないはずなのに、そこにはたしかに見えない厚い壁が生じるのだ。
耳に届く音の全てが、目に見えるものの全てが、透明なヴェールをかぶっていた。
息苦しさを覚え、拳を握って胸元を押さえる。
早く、リオネルに戻ってきてほしかった。
けれど混んでいるのか、リオネルはなかなか戻ってこない。
気持ちを落ち着かせようと、大きく深呼吸をすると、ぽんと背中を叩かれた。リオネルが戻ってきたのかと思って振り返ると、そこにいたのは、見たこともない若者だった。
「嬉しそうに振り向いたのに、ぼくを見たとたん、そんな顔にならないでくれよ」
長剣を下げた、騎士らしき格好の若い男が、頭をかいて笑う。
「わたしになにかご用ですか?」
アベルはこの男のおかげで急速に独りの世界から抜け出すことができたが、けっして待ち望んでいた相手ではなかった。
不審げに問うと、若者は嬉しそうに問い返してくる。
「用事を言っていいのかな?」
悪い人ではなさそうだし、金髪と青い瞳の、美男といってよい顔立ちだったが、質問に対して質問を返してきたこの男を、どうも信用する気になれない。
「なにかお困りなら聞きますが、それ以外ならべつにいいです」
アベルの冷ややかな台詞に、若者は一瞬面食らったようだったが、すぐに調子を取りもどす。
「特に困っていないけど、頼むから、言わせてくれよ」
「……なんですか?」
「きみが滅多にいない美人だったから、いっしょに食事でもどうかと思って」
アベルは呆れた眼差しで男を見上げる。
「美人を探しているなら、女性に声をかけてください」
「いや、綺麗ならどちらでもかまわない」
「わたしは、あなたのようにわけのわからないことを言う人は苦手です」
若者はおかしそうに笑った。
「その態度もたまらないね。名前はなんていうんだ?」
「よく知らない相手には、名乗らないことにしています」
「ぼくは、ジークベルト。どうしたらきみの名前を教えてくれる?」
彼の名にはローブルグ特有の響きがある。この若い騎士はシャルム人ではないのかもしれない。
「あなたがこの場所から立ち去ってくだされば」
アベルのつれない台詞に、ジークベルトと名乗った若者は声を立てて笑う。
「きみの名前を聞くまで、ぼくは絶対にここから離れないよ」
しつこい若者に、アベルは眉を寄せた。
「そんな顔もかわいいね」
「……意味がわからないです」
次いでジークベルトがなにか言おうとしたとき、
「連れになにか用事でも?」
突然別の声がしたので、二人は同時に振り返る。
そこには、リオネルがスープの入った椀を二つ持って立っていた。
リオネルは二つの椀をゆっくりと木机に置く。
リオネルの秀麗な顔は冷たいほどの無表情で、その紫色の目には静かな警戒心が宿っている。
「連れがいたのか」
ジークベルトは先ほどまでの甘い笑顔を消して、リオネルを見た。最初にアベルが振り返ったときの嬉しそうな顔が、この青年に向けられたものだとジークベルトは瞬時に理解したのだ。
「せっかく話をしていたのに残念だ」
「わたしはべつに残念ではないので、もうお話は終わりでいいですか?」
「冷たくされると、ますますその気になる」
「その気って、どういう〝気〟ですか」
アベルが怪訝な顔をすると、リオネルが落ちついた声音で助け船を出す。
「だれだか知らないが、貴方がそれほどここに残りたいなら、我々二人が場所を変えよう」
椅子に腰かけるアベルの頭上で、立ったままの若者二人が睨みあった。思いも寄らないこの状況に、アベルは一刻も早くこの若い騎士が去ってくれることを願う。
「きみの連れはずいぶん腕が立ちそうだから、ぼくは斬られる前に退散するよ」
睨みあった末にジークベルトが発したその言葉は、アベルを驚かせた。
リオネルが剣を抜く前に、その技量を見抜いたのだ。よほどこの男は目利きなのか、それとも、立ち去る口実として適当なことを口にしただけなのか。
「ただ、別れる前に名前だけ教えてくれ」
「名乗るほどの者ではありませんので」
「だから、そういう態度をされると、ここから離れたくなくなるんだ。素直に教えてくれれば立ち去るよ」
「…………」
この若者がいなくなってくれるのなら、と口を開きかけたアベルの唇を、リオネルがそっと指をあててふさぐ。
「名乗る必要はない。これ以上しつこくすると、憲兵を呼ぶぞ」
「憲兵……それは困るな」
ジークベルトは肩をすくめる。
「憲兵につかまって、領主の前にでも引きずり出されたら大変だ」
この男は、領主がすでに目の前にいることに気づいていない。
「今度会ったときは、必ず名前を聞くから」
「もう会うことはないと思いますけれど」
目もくれずに言ったアベルに、ジークベルトは長身をかがめておもむろに顔を近づけた。
アベルの頬に口づけでもしようとしたのかもしれないが、アベルがはっと顔をあげたとき、銀色に光るなにかが、二人のあいだを隔てるように木机に突き立つ。
――美しい光を放っていたのは、ベルリオーズ家の紋章の刻まれた短剣。
それは、リオネルの手にしっかりと握られていた。
「それ以上近づけば、短剣ではなく長剣を握らせてもらう」
リオネルの脅しに、ジークベルトはひどく残念そうな顔をした。
「厳しいな、別れの挨拶もさせてくれないとは」
「なにをしようとしていたのですか?」
アベルは訝りつつジークベルトを見上げたが、彼は笑って片手を上げただけだった。
「それじゃあね。今度は、きみの連れがいないときに会おう」
「ですから、もう会いませんから」
去っていく若い男の後ろ姿をしばらく無言で睨んでいたリオネルだったが、その姿が完全に視界から消えると深い溜息をついた。