20
玄関ではなく、別の出入り口を使うのだろう。歩き出した若者のあとを追う。
「ベルトランの馬は、この館の厩舎にいるよ」
この館の厩舎ということは、この館ではない厩舎があるのだろうか。
「厩舎はいくつもあるのですか?」
「そう、ここは堀と池に囲まれた館だけど、少し離れたところに騎士館がある。そこの大厩舎には二百頭近く馬がいる」
「二百頭……」
アベルはその数に目を丸くする。
「なぜ、そんなにも?」
「それは、騎士がそれくらいいるからだ」
「そんなに多くの騎士が……」
「それ以外の兵士もいる。多くの者は騎士館で生活しているが、高位の貴族出身者の一部は館で生活しているし、妻帯者は館のそとに自分の邸宅を構えている。おれは騎士館と館を行ったり来たりの、どっちつかずだけど」
若者はアベルを振りかえって笑う。
この長身の若者はだれなのだろうとアベルは疑問に思ったが、聞くことはしなかった。
聞けば、こちらも名乗らざるをえない。いずれ互いに知ることではあったが、この若者からも、冷たい眼差しを向けられることが少し怖かった。アベルの心は、自分で思っている以上に疲れていたのかもしれない。少しのあいだだけでも、どのような偏見も含まない関係でいたかった。
「ベルトランの馬は名馬だ。皆が羨ましがるが、あれはあいつにしかなつかないから、あいつの馬になってしまったんだ。もちろん公爵様とリオネル様の馬も素晴らしいが、それに次ぐ名馬だろうな。おれになついたら、迷わずおれの馬にしたのだが」
聞いてもいないことを教えてくれるおしゃべりな若者に、アベルは小さく笑った。
館を出ると、刺すような冷気がアベルの頬を撫でる。そして、じわじわと身体に冷たさが染みわたった。外套を羽織ってくるのを忘れたのだ。
若者は片手に持っていた外套を自らの肩に羽織る。それを眺めながら、外套を取りに自室に戻るわけにもいかなかいので、諦めるしかないとアベルは思った。
「これが騎士館への近道だ。館の周りには堀があるから、出口を間違えると、橋があるところまでぐるっと回らなければならなくなる。ここの橋は館から騎士館までのほぼ直線距離上にあり、効率的に移動できる。多くの兵力を移動させることも想定して、この橋の幅はこれほど広くなっている」
アベルは雪のなかを、肩をすくめて歩いていたが、若者の硬い説明を聞きつつ、背後を振り返った。
アベルの目に映ったのは、館ではない。もはや、王宮である。
氷の張った堀に囲まれた建物は、巨大な城だった。古い時代の様式も残しているその建物は、白い壁に群青色の屋根、そして等間隔に尖塔が連なっている。
最も高い尖塔は礼拝堂だろうか。その優美なたたずまいに、しばし寒さも忘れて見惚れた。
立ち止まったアベルに、若者は声をかけてくる。
「立派な館だろう。何代もの主によって改築、増築されて今の形になったが、全体的に統一感があるのが、この館が美しい所以だ。しかし、美しいだけではない。もとは城だったから、周囲には堀があり、池がある。もっとも、最近では攻撃されることはほとんど想定されていない造りになりつつあるが、そう、だから城壁もないのだが、それでもいざというときにはある程度役に立つだろう。堀があるのとないのとでは、防御する際に顕著な差が出る。城壁もしかりだ。おれは城壁を再び設置することを提案しているのだが、なかなかお許しが出ない」
アベルはうなずきつつ、最終的にはどこか偏る若者の説明をおかしく思った。そしてふと疑問に思ったことを口にする。
「ベルトラン様の馬は、騎士館の大厩舎にはいないのですよね」
「いないよ」
「ですが、この道は騎士館に続く道では?」
「騎士館がどこにあるのかだけ見せておこうと思って……ほら、あそこに見えるのがそれだ。あの中に大厩舎と、騎士の部屋がある」
若者が指を差した先に、巨大な建造物があった。本邸の館と同色に統一された、やはり壮麗な建物である。
「これで、どちらの厩舎に行くときも迷わないだろう」
「ありがとうございます」
親切な若者に、アベルは口元をほころばせた。
彼のあとに従い、中庭に面した堀をぐるりと回り、中庭から城のバルコニーに続く大階段を上って、前庭を挟んで館の正面にある厩舎に辿りついた。
「この厩舎は、館に住まう者――つまり公爵様や、リオネル様、高位の貴族たち――がすぐに馬に乗れるように、館のそばに設置してある。わざわざ騎士館まで行くのは遠いし不便だからね。だからここにいる馬は皆いい馬だ」
とても厩舎とは思えないような華麗な装飾のほどこされた建物へ、アベルは足を踏み入れる。けれどそこはやはり厩舎。動物独特の匂いが鼻をつく。
馬の世話をしていた兵士や従僕たちが、若者の姿を目にして一礼してから、アベルを好奇の眼差しで見た。
アベルは軽く頭を下げ、彼らの視線をひしひしと感じながら、若者に続いて奥へ進む。
毛並みのよい馬が、仕切られた小部屋に一頭ずつ入れられている。小部屋にはそれぞれ彫り装飾がほどこされており、馬の住処というよりは金持ちの邸宅といった風情だ。
若者はそのうちの一頭に視線を向けて言った。
「ベルトランの馬はこれだよ。名をユリウスという。いい筋肉しているだろう。毛並みも最高だ。いい馬は、瞬発力もさることながら、持久力もすごい。戦場では体力のある馬が最も重宝する……」
その後も若者の説明は続いたが、アベルはもはや、ぼんやりとしか聞いていなかった。
ベルトランの馬は手入れが行き届いており、今更アベルが世話をすることもないようである。漆黒の毛色の馬に触れてみたくなって、アベルは手を伸ばした。
「ああ、ユリウスには触らないほうがいい。ベルトラン以外には警戒するから」
若者に制止され、アベルは宙で手を止めた。それでも触れてみたくて、アベルはじっと馬を見つめる。 ユリウスもまた、長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳をアベルにひたと向けている。
アベルが手を差し出すと、ユリウスがそちらへ注意の矛先を向けた。
「おいで」
ユリウスはじっとアベルの瞳と手と見つめてから、かすかに前足を動かす。
もしかしたらユリウスがアベルの手に頬を寄せるかもしれない、そう思ったとき、横合いから声が聞こえた。よく知った声だった。
「アベル」
若者とアベルが同時にふり向くと、そこにはリオネルとベルトランの姿があった。
リオネルはいつもの冷静な表情のなかにも、苛立ちを織り交ぜている。
当然である。書斎で本の整理をするように言いつけられていたのに、仕事を放りだして厩舎にいるのだから。
驚いた表情で「リオネル様」と呟いたのは、若者のほうだった。しかし、リオネルは若者に答えずに、眉をひそめてアベルを見た。
「本の整理が終わるまで外に出てはいけないと言ったはずだが」
「……厩舎にいることはお伝えしたはずです」
リオネルは怪訝な顔をした。
「おれはなにも聞いていない」
アベルは青年の顔を思い出した。あの青年は、約束を守らなかったのだ。
「だれかに伝言を頼んだのか」
「はい」
「だれに?」
「それは……」
アベルは青年の名を知らなかった。今更ながら、悔しいような、悲しいような気持ちになり、なにも答えられずにいると、リオネルは自らが羽織っていた外套をはずし、それをアベルの身体をくるむようにかぶせた。
「風邪も治りきっていないのに、こんな恰好で――本当にきみは」
外套を拒否すればリオネルの苛立ちを増長させることは間違いない。アベルは大人しく、されるがままでいた。
「クロード、おれの従騎士を連れて、おれの馬になにをするつもりだったんだ」
リオネルの横で、ベルトランが皮肉な口ぶりで若者に言った。
「なにをするつもりもない。迷子になっていたから声をかけたら、おまえの馬の様子を見たいと言うので、案内したんだ。それが……おまえの従騎士? そんなやついたか?」
「だから、その子が従騎士だ。アベルという」
アベルは、クロードと呼ばれた若者にあらためて頭を下げた。
「新入りの兵士ではないのか」
「そんなふうに見えるか?」
「いや、てっきりそうだと思っていた。ジュストを従騎士にしなかったのに、この別嬪さんは従騎士につけたのか」
「……いろいろあってな」
クロードは、ベルトランとアベル、そしてリオネルを見つめた。
「アベル、この人はベルリオーズ家の兵士を束ねる騎士隊長のクロードだ」
リオネルが若者をアベルに紹介する。
「騎士隊長様とは知らず、厩舎まで案内などしていただき、とんだご無礼を――」
「いいや、いろいろ話ができて楽しかったよ」
アベルの立場を知っても、これまでの態度を変えないクロードに、アベルは胸をなでおろす。
「いろいろ話ができたのではなくて、どうせ、おまえが一方的に話していたんだろう」
ベルトランの軽口を無視して、クロードはアベルに言った。
「きみも口の悪い師匠について大変だね。こいつが嫌になったら、おれの従騎士になるといい。こいつより丁寧に教える自信はあるよ」
どう答えてよいのかわからず、アベルはなんとなくリオネルの顔を見た。
「どちらに教えてもらってもいいけど、もう勝手に部屋を出ていかないでくれ。どれだけ心配したと思っているんだ」
アベルは気まずい思いでうつむく。
「すいませんでした」
青年の顔を思い浮かべて、かすかな苛立ちを覚えたが、すぐにその感情は消えていった。
こんなことで腹を立てていては、この館には――リオネルのそばにはいられない。この先、あの青年以外の者からも、いくらでも敵意を向けられるだろう。いちいち敏感に反応していては身がもたない。
耐えるしかない。どんな目を向けられても、どんな嫌がらせを受けても。
床に倒れていた水差しを思い出す。
あれも、だれかの嫌がらせだったのかもしれない。
「アベル」
うつむいて押し黙ったアベルの肩を、リオネルがほんのわずかに抱き寄せた。
「またきみがここを出ていってしまったかと思った」
「……ご心配をおかけし、本当に申しわけございませんでした」
「馬を見たかったのか?」
「そうではなく……すぐに、本の整理に戻ります」
「急いで本の整理をしてほしいわけではないし、馬を見にきてはいけないわけでもない。ただ、無断でいなくならないでくれ」
「…………」
「本当に、きみがこの館からいなくなってしまったのかと思ったんだ」
リオネルの脳裏に浮かぶのは、サン・オーヴァンの街外れに流れる川で、幾日も探していたアベルを見つけたときの光景だった。
あのとき、アベルの身体を祈るような気持ちで強く抱きしめた――その瞬間のことが、いまでも忘れられずに、リオネルの胸を締め付けていた。
「わたしはいなくなりません」
「……いつか、いなくなってしまうような気がする」
「わたしは生涯、リオネル様のおそばにいます」
切なげに目を細めて自分を見つめるリオネルに、アベルは安心させるように繰り返した。おかしなことだけれど、まるで幼子をなだめているような気持ちになる。
そのとき、かすかな足音がして、皆がその方向へ視線を向けた。
そこにいたのは、先程の青年だった。
「ジュスト」
名を呼んだのはクロードだった。
「あっ、あなた――」
ジュストと呼ばれた青年は、口を開きかけたアベルには目もくれず、一同に向かって一礼した。
リオネルは、アベルの肩から手を離しジュストを手招きする。
「もう顔を知っているのか? いちおう紹介しておこう。以前はおれの従者をしていて、今はクロードの従騎士をしているジュストだ。アベルよりひとつ年上で、歳も近いから話しやすいのではないかと思う」
十五歳の少女と、十六歳の青年は、互いを好意的とはとても言い難い視線で見つめあった。
「ジュスト、ここにいるのがベルトランの従騎士のアベルだ。仲良くしてあげてほしい」
ジュストはリオネルに対しては笑顔さえ添えて素直にうなずいた。
「はい、リオネル様のお申しつけとあらば」
それからアベルにも笑顔を向けたが、その瞳の奥に潜む敵意を、アベルは確かに感じとる。
「ジュストだ、よろしく」
「よろしくって、さっきあなたはたしかに――」
「初めて会うけれど、なんのことだ?」
「初めてって……」
リオネルはクロードやベルトランと話をはじめている。アベルはジュストの顔をしばらく睨んでいたが、短く溜息をついて軽く頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
挨拶を終えると、二人は主人らのそばへ寄った。
「クロード、アベルを案内してくれてありがとう」
リオネルがクロードに礼を述べている。
クロードは恐縮した様子で頭を下げた。
「いいえ、とんでもございません。館で迷っているところを、ここまで連れてきただけですので」
「アベルにはまだ館の内外を案内していないからね。けれど続きはまた今度だ。アベル、寒いから部屋に戻ろう」
アベルは、小さくうなずいた。歩き出したリオネルとベルトランのあとを追いながら、アベルは一度だけ背後を振り返る。
クロードは片手をあげて挨拶し、ジュストは冷ややかな視線をアベルへ向けていた。
「そういえば、アベル」
厩舎を出たところで、リオネルはいったん足を止めてアベルに問いかけた。
「なんでしょうか、リオネル様」
「書斎の机の上に本が積みあがっていたけど、あれはなにをしようとしていたのだろう」
アベルは正直に答える以外になかった。たとえ、だれにも納得してもらえなくても。
「本の整理です」
「…………」
しばらくアベルの顔を凝視していたリオネルだったが、「そうか」と一言だけつぶやくように言って、再び歩き出した。