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お読みくださりありがとうございます。
ライラの従兄弟ジュストが、以降ちょこちょこ出てきます。苦手な方はスルーをお願いしますm(_ _)m
アベルは一人で、書斎の本の整理をしていた。
歴史や地理、哲学、法学、言語学、それから算術、医学、神学など様々な分野に関する学術書がほとんど隙間なく並べられた本棚を前に、アベルはさきほどから同じ作業を繰り返している。
分野ごとにまとめようと、一冊ずつ引き抜いては入れていくのだが、そのあと作者順に並べ替え、主題別にしていくと、再び分野が混ざりあっている。気がつけば、整理をはじめたときよりも、本棚に並んだ書物は無秩序な配列と化していた。
アベルは泣きたい気持ちになった。
リオネルはというと、さきほどオリヴィエが書斎に迎えに来て、しばらく押し問答をしていたようだが、結局ベルトランと共に部屋を出た。
「昼までには戻るから、ゆっくり本の整理をしていて。疲れたら休むんだよ」
リオネルはそう言い置いていった。
すでにそのとき、本の配列は秩序を失いはじめていたので、アベルはそれに気がつかれぬように何度も大きく首を縦に振った。二人が戻ってくるまでに、なんとかしておかなければならない。
必死にうなずくアベルに、リオネルは少し不思議そうな顔をしていた。
そうして一人になってから、しばらく経つ。
けれど時間が経つにつれて混沌としてきた本棚の様子に、アベルは焦りとも諦めともつかぬ思いを抱きはじめた。
アベルは剣や弓、乗馬など身体を動かすことは得意だったが、料理や裁縫、整理整頓なんてことは専ら苦手だった。不思議なもので、その分野の才能は神様が備え忘れたように、すっぽり欠落している。
アベルは一冊ずつ並べ替えることをやめ、まとめて本を取り出しはじめた。作業机の上で整理してから、本棚に戻すことにしたのだ。
けれどそれは決定的な失敗となった。数分後には、机の上に本が山のように積みあげられ、どこから手をつければよいかわからないような状態になっていた。
頭が痛くなってきて、アベルは本棚のまえでへなへなと座りこんでしまった。
これをどのようにして、少なくとも、最初の状態にまで戻せばよいのだろう。
算術書の隣に歴史書、その隣に医学書、さらにその隣には哲学書というふうでは、リオネルが必要なときに必要なものをすぐに見つけだせない。
アベルはこめかみを押さえた。剣を振るっていたほうがずっと体調は良くなりそうだ。
絶望的な気分で机の上を眺めやり、なんとなく一冊の本に手を伸ばす。
金の縁取りがほどこされた濃い赤紫色の本で、主題は「アンセルミ公国の興亡」と記されていた。
アンセルミ公国といえば、ラ・セルネ山脈の麓にあった小国である。百年以上前にシャルムに亡ぼされ、今はラロシュ領やベロム領などに吸収されている。
アベルはなんとなくその本を開いた。ぺらぺらと頁を繰ると、美しい挿絵がところどころ描かれているのが目に入る。かつてのアンセルミ公国の城、貴族の生活、季節ごとの田園風景、戦争の場面……。
それらに見入っていて、アベルはすぐ隣に人が来たことに気がつかなかった。
「アベル、だったか?」
突然声をかけられて心臓が跳ねる。
顔を上げれば、そこにはアベルと同じか少し上ほどの年頃の青年が立っており、冷ややかな眼差しで床に座るアベルを見下ろしていた。
アベルは慌てて本を閉じて、立ち上がる。
「あ、はい……アベルです」
軽く頭を下げると、青年は軽蔑するような眼差しをアベルに向けた。
「おまえ、なにをやっているんだ? リオネル様の書斎の床に座りこみ、本なんか読んで。この部屋に入れるような身分なのか? さぼってないで仕事したらどうなんだ」
「……すいません」
矢継ぎ早に浴びせられた厳しい言葉に、アベルはうつむく。
青年が言うことは正しい。リオネルに許しを得ているが、そもそもこの部屋に入れる身分ではないし、仕事をさぼって本を読んでいたのは事実である。
「そんな本を見ていたって、どうせ字なんて読めないんだろう。勝手にリオネル様の大切な本を開くなよ」
「…………」
青年の侮蔑のこもった語調に、アベルはしばし言葉を失った。
「早く部屋から出ろ。おまえみたいなやつが入るところじゃない」
「……お言葉ですが、わたしはリオネル様の言いつけで、ここの本の整理をしています」
「本の……なんだって?」
青年は、天高く積みあがった本を見上げて、瞳を眇めた。
「これのどこが、整理なんだ」
「それは……」
反論の余地もない。たしかにこれは整理ではなく、逆に散らかしただけである。
「これ以上滅茶苦茶にするまえに、本来の仕事をしろよ。ベルトラン様の従騎士なんだろう? ベルトラン様の馬の世話はしたのか?」
「……いいえ」
「じゃあ、してこいよ」
「どこに馬がいるのか存じあげません」
青年は呆れた顔をした。
「おまえはお客様のつもりか? 知らなければなにもしないのか? なにも知らず、なにもやらず、このまま遊んでいるつもりなんだな」
アベルは悔しさを呑みこんで答えた。
「そんなつもり、ありません」
「つもりだけではなにも物事は進まないぞ。おれは今から厩舎へ行くから、おまえも来いよ」
「わたしはここで本の整理をしなければならないので」
「だから、これのどこが本の整理なんだ。おれを馬鹿にしているのか?」
言い返せないことが悔しかった。
黙りこんだアベルの腕を強く引いて、青年は部屋からアベルを連れだす。アベルはその手をふり払おうとするが、力かなわず強制的に部屋から出される。
「待ってください。リオネル様になにも言わずに出ていくわけにはいきません」
アベルの怒りのこもった眼差しを、冷ややかに流して青年は言った。
「リオネル様にはおれからお伝えしておく。おまえのようにぼんやりしたやつは、馬の世話くらいしかできないだろうからな」
有無を言わさぬ青年の態度に、アベルは怒りと屈辱を覚えたが、ここで刃向かってはおそらく喧嘩になるだろう。
この青年は、アベルに対して侮蔑と敵意を抱いている。ベルリオーズ家本邸に来て早々に、館の者と諍いを起こしたくはなかった。
「わかりました。厩舎で仕事をすればいいのですね。ただし、あなたの口からリオネル様に必ず経緯を伝えてください」
リオネルが戻るのは昼前だから、それまでに厩舎の仕事を終えて、書斎には戻っているつもりだ。けれど万が一入れ違いになったら、なにを言われるかわからないので、伝えておいてもらったほうがいい。
「だから、そう言っているだろう。厩舎はこの部屋を出て、小階段を地上階まで降りて、食堂の隣にある通路から、地下の調理場脇の裏口を出て左手だ」
「……貴方も行くのでは?」
「行かないことにした」
青年は、自分も厩舎に行くからついてくるようにと言っておきながら、今度は行かないという。アベルは不審な眼差しを向けたが、青年が意に介した様子はない。
しかたないので、アベルはひとり厩舎へ向かった。
彼が教えてくれた道順は、言っていたほど単純ではなく、調理場にたどり着くまでにかなり迷うはめになった。そして、辿りついた先に厩舎はなかった。考えてみれば当たり前である。地下にある調理場の脇に裏口があったとしても、そこはやはり地下である。厩舎が地下にあるわけがない。
アベルは、言葉を失ってたたずんだ。青年は、嘘をついたのだ。けれど怒りは湧いてこない。今は貴族という身分でもなく、身元もはっきりしないアベルがこの館で厚遇されていることに、周囲の者が反感を抱くのは当然のことで、それはおそらくジュストだけではないだろう。
なんともいえない気持ちになりうつむいたが、アベルは再び歩き出した。
厩舎を探さなければならない。
とりあえず地上階に戻り、アベルは外への出口を探した。
館のなかは広大だった。行き交う使用人らは、ぼんやり歩いているアベルのことなど気にも留めずに、忙しそうに通り過ぎていく。たまに目が合うと、はっとして頭を下げる者もいるが、言葉を交わそうとはしなかった。
どこにいるのかもわからぬまま、館のなかをさまよい歩いていると、玄関らしき空間に出た。最上階まで吹き抜けになっている天井から、巨大な銀製の大燭台が吊るされ、そこには涙型に削られた水晶がぶら下がり虹色の光を放っている。
床も柱も大階段も全て大理石でできており、脇に置かれた飾り棚には、この季節だというのに溢れんばかりの色とりどりの花が活けられ、その背後にある巨大な鏡がその色を鮮やかに映しだしている。
金箔で縁取られた壁や天井画には、花や唐草模様が描かれていた。
アベルは、この玄関をはじめとした、館内の広さと美しさに呆気にとられていた。
かつてこれほど壮麗な場所を目にしたことはない。
半ば呆然と立ち尽くし、地上階から天井までを見渡す。
そして、不思議なことに気がついた。今まで館内で目にした多くの使用人の姿が、この場にはないのである。居てはいけない場所なのだろうかと思ったとき、向かいの扉が開き、一人の若者が姿を現した。
外套を片手に持ち、深い緑色の軍衣を着たその男は、アベルを見ると驚いた面持ちになる。
ゆっくりと若者が歩み近づいてくるのを、アベルは待った。
若者はアベルの目前までくると、珍しそうに顔を眺め、そして口を開く。
「今日は客がいる。こんなところでうろうろしていると、一行に出くわすぞ」
アベルは黙って若者を見上げた。
「ここでなにをしている?」
「……道がわからなくて」
若者は虚をつかれた顔になる。
「道? この館のなかで、迷子になっているのか?」
「……はい」
恥ずかしさからアベルは小声になった。
寸秒の間をおいて、若者が笑いだす。
「そうか、迷子か。たしかにこの館は広い……」
ひとしきり笑ってから、若者は再びアベルをまじまじと見る。
「それで、きみはどこへ行きたいんだ?」
「厩舎へ」
「厩舎? なにをしに?」
「ベルトラン様の様子を見に」
「ベルトラン?」
若者は首をかしげた。アベルがしまったと思った時にはもう遅い。
「ベルトランは厩舎にはいないが」
「間違えました。ベルトラン様の馬の様子を見にいきたかったのです」
若者は再び笑ってから、アベルの肩に手を置いた。
「おもしろいね、おまえ。わかった、厩舎にはおれが案内するからついておいで」
気さくな雰囲気の若者に、アベルはほっと胸をなでおろす。
ベルリオーズ公爵も、執事のオリヴィエも、さきほど出会った青年も、皆、アベルに対して不信感を抱き、距離を置いているようなふしがあった。けれど目のまえの若者は、アベルが何者なのかさえ問わずに、自分を厩舎まで案内してくれるという。
「ありがとうございます」
アベルはなんとなく嬉しくなり、緊張を幾分か和らげた。