18
若者らが出ていく様子を眺めていた公爵だったが、執事と二人きりになると、しばらくして小さく笑い出した。
「公爵様?」
オリヴィエが困惑した様子で問う。
笑いをいったん収めた公爵は、真剣な面持ちで言った。
「……リオネルが本気で私に刃向かったのは、初めてのことではないか」
オリヴィエはなんと言ってよいものかわからぬ様子で、ただ「さようでございますか」と返す。
「あれが、私にあのような目を向けるとはな」
「…………」
「そのような顔をするな。私は憂いているわけでも、気分を害しているわけでもない。むしろ新鮮な気持ちですらある。感情を表に出さないリオネルが、まっすぐに、正直な思いをぶつけてきたのだからな。驚かなかったと言えば嘘になるが……しかし、それをなくしては、真に心が通じ合うことなどできない。真実の気持ちを抑え込めば、人を愛することも憎むこともできない。必ずどこかで歪みが生ずる。たとえ、血の通った親子のあいだであっても」
公爵の言葉を静かに聞いていたオリヴィエだが、ひかえめに公爵に忠言した。
「身元を明かさぬ、かの美しい従騎士をリオネル様のおそばにおいておくことで、後々災いを生じませんでしょうか」
「アベルか……たしかに、身元を明かすことのできない者を、信用することはできない。しかし、リオネルはあの者を守るために必死だった。あのように、リオネルがなにかに執着するのを、私はかつて見たことがない。無理に引き離すわけにもいかないだろう」
「アベルをこの館に連れてきたときから、リオネル様はアベルを……なんと言いましょうか」
オリヴィエはいったん言葉を切った。
「なんだ」
「――周囲から切り離し、他のだれでもない、リオネル様ご自身の手で守ろうとしているように、私には感じられます」
「…………」
公爵は髭に囲まれた唇に親指をあてて考えこんだ。その表情は、けっして晴れやかではない。
「ところで、オリヴィエ」
「はい」
「エルヴィユ侯爵令嬢との話を、進めようと思っている」
オリヴィエは感情を消した表情のなかにも、かすかな驚きを露わにした。
「しかし、リオネル様は本意ではないご様子」
「あれが婚約に難色を示しはじめたのは、一年半ほどまえだ。アベルが王都別邸に住まうようになったのは、その少し前のことではなかったか」
オリヴィエは唾を飲んだ。
「まさか、リオネル様が婚約を渋られるのは、アベルのためと……」
「時期が重なるから脳裏をかすめただけだ。ただ、リオネルが婚約の話より、アベルをそばに置くほうに関心があることは確かだ。あの調子では、いつまでたっても結婚などしないだろう。あれがその気になるのを待っていては、リオネルの挙式よりまえに、私の葬式を挙げることになろう」
「そのような……」
「……それと、オリヴィエ」
「はい」
「あの従騎士、どこかで見たことがあるような気がするのだが。そなた、覚えはないか」
オリヴィエはうつむいてしばし考え込むが、思い当たらなかったらしく、首を傾げた。
「私の記憶にはございません」
「そなたが知らないのであれば、やはり私の思いすごしか」
「申しわけございません」
「なに、そなたが謝る必要はない。それと、最後に――」
「はい」
「アベルの出自については、リオネルの作り話のとおりに皆には伝えなさい。身元を語らないとなれば、あれこれ騒ぎたてる者もでてくるだろう。そうなると事態の収拾が困難だ」
「かしこまりました」
公爵は、最後に大きな溜息をつく。そして、ふと、アンリエットの顔が脳裏に浮かんだが、なぜ今、彼女の顔を思い出したのか、公爵にはわからなかった。
三人の若者が、広い回廊を無言で歩んでいた。
回廊といっても道幅は広く、大理石の柱に彫られた飾り棚に、半身の彫像や、常緑樹の葉を活けた花瓶、豪華な燭台などが等間隔に並んでいる。左右には部屋があり、ところどころにある踊り場の窓を額縁にして、ベルリオーズ邸の庭の美しい景色が飾られていた。
アベルは言葉を発することができないまま、幾何学模様の絨毯の上を歩く。
二日前の夜のリオネル。
そして、今日のリオネル。
どちらのリオネルに対しても、向ける言葉が見つからない。
あれこれ考えて思い至ったのは、アベル自身の抱いた不安だった。
顔を上げ、リオネルに呼びかけようとすると、同時にリオネルも足を止めてアベルを振り返る。
二人ともなにか言いかけたまま、互いに見つめあった。
ベルトランは、そんな二人を黙って見守っている。
「すいません……どうぞ」
アベルは小声で言った。
「なにか言いかけたのだろう?」
「はい。ですが、リオネル様からどうぞ」
「いや、アベルから言っていいよ」
「…………」
結局なにも話さない二人に、ベルトランは少しおかしそうな顔をしたが、口を挟むことはしない。
しばらくして、先に口を開いたのはリオネルのほうだった。
「アベル、今日はすまなかった――」
「え?」
意外な言葉にアベルは目を見開いた。
感謝こそすれ、リオネルに謝罪されることなんて、なにも思い当たらない。
「きみに嫌な思いをさせてしまった。試合の約束などさせてしまったのも、おれが至らなかったからだ」
アベルは驚いたまま、リオネルの瞳を見つめる。
「けっしてそのようなことはありません。リオネル様はわたしのような者を弁護してくださいました。身に余るほどです」
「きみにあんなことをさせたくなかった」
「あんなこと?」
問われたリオネルは、視線を床に落として苦い表情を作った。
「罪人の証など……」
そのことかと、アベルはうなずく。
「……公爵様の抱かれる不安と疑念は、当然のことです。公爵様がこれでご安心なさり、わたしがリオネル様のおそばにいることをお許しくださるなら、罪人の証がないことの証明など取るにたりないことです」
リオネルは顔を上げ、複雑な表情でアベルを見た。
「それでも、あんな方法、おれはいやだった」
アベルはリオネルの言葉の意味がわからず、少し首をかしげる。
「……すいません、見苦しい姿をお見せして」
「違う、そうじゃなくて――」
リオネルは言葉を続けられずに、睫毛を伏せた。会話が途切れたので、アベルのほうから再び口を開く。
「……リオネル様にはご心配をおかけしてしまいましたが、わたしは公爵様に認めてもらうためなら、なんだっていたします。条件は、あとひとつです」
「試合なんて、やらなくていい」
リオネルは不機嫌に言い捨てる。その様子に、アベルは申し訳なくなってうつむいた。
「わたしなどのために、公爵様を説得してくださったこと、心から感謝しています。ですが、わたしのせいで、リオネル様が公爵様からご不興をこうむることなどあってはなりません。どうか公爵様の仰せに従わせてください」
「いいんだ、父上と言い争っても」
「そんな……」
「父を、ひと時でも憎いと思ったのは、初めてだ」
その言葉に、アベルもベルトランも無言でリオネルの紫の瞳を見つめる。
「愛することと、憎むことが、これほどまでに隣り合っているとは思わなかった」
「……どういう意味ですか?」
アベルが、困惑した顔で問うと、リオネルは小さく笑った。
「人を愛するということは、同時に、憎しみの感情も生むってことだよ」
アベルはリオネルが何を言っているのかわからず、目をまたたいた。
そんなアベルに、リオネルはそっとほほえむ。
「なんでもない、気にしないで」
アベルはリオネルの笑顔につられて笑みを返したが、今日のリオネルの言葉には謎が多く、もやもやとした気持ちが残った。
「アベルはなにを言いかけたの?」
「ええと……忘れてしまいました」
アベルは、言いかけたことを忘れたわけではなかった。今までの話のなかですでに解決していたので、今更言う必要がなかったのである。
「そう、ところでアベル」
「はい」
「熱、下がっていないだろう」
「…………」
アベルは気まずげに視線を泳がせたが、その先にはベルトランがいたので、慌ててうつむいた。
「……下がりました」
「そうか」
「……はい」
「それなら、今日はアベルにしてほしい仕事がある」
突然仕事の話を切り出され、アベルは表情を引き締める。
「なんでしょうか」
「おれの書斎の――本の整理だ」
「…………」
言葉を失ったアベルに、リオネルは問いかける。
「不満か?」
アベルは、首を横に振る。
「ですが、館の方々にご挨拶にまわらなくてもよろしいのでしょうか」
「おれも今日は書斎で本を読んで過ごすから、いっしょにいてほしいんだ」
歩き出したリオネルに、ベルトランが小声で尋ねる。
「いいのか、リオネル。ブリアン子爵は」
アベルには伝えていなかったが、この日はシャルム王国の左翼の東端、ラ・セルネ山脈のふもとにある領地のひとつ、ブリアン領の領主が、ベルリオーズ家を訪問する予定だった。リオネルが同席するものと思っていたベルトランは、眉を寄せる。
けれどリオネルはベルトランを振り返らず、歩きながら言った。
「また、力ずくで寝台に押し戻すわけにはいかないだろう」
ベルトランは無言でリオネルの後ろ姿を見つめる。そのとき、考えごとをしていたベルトランの耳に、無邪気な声が届いた。
「あ、白鳥」
アベルが窓の外の雪景色に、白鳥を見つけて目を輝かせている。
「見たことないのか」
「本の挿絵でなら」
リオネルが足を止めて振り返る。
「今度、熱が完全に下がったら庭を案内するよ。白鳥もたくさんいる、見にいこう」
顔じゅうに喜びの色を広げたアベルだったが、ふと表情を曇らせ、不満をにじませて言った。
「熱は、下がっています」
「そうだったね。じゃあ、本の整理が完全に終わったら……にしようか」
リオネルは、アベルの熱が下がっていないことに気づいている。
本の整理という仕事が、本調子ではないアベルを館の者に会わせず、ゆっくり過ごさせるためのリオネルの配慮であることに、気がつかないアベルではなかった。
家臣らしくありたいのに、完全にリオネルの庇護のもとにいるという現実に、アベルは口を引き結ぶ。
その表情に、リオネルは穏やかな視線を向けた。
「白鳥は――」
リオネルが何を言い出すのか興味を引かれて、アベルは顔を上げた。
「白鳥のつがいは、とても仲がいいんだよ。つがいの片方が傷ついていたら、越冬の時期が終わっても飛び立たないし、互いが死ぬまで相手を変えない」
「そうなんですか……素敵ですね」
アベルは、素直な気持ちで言った。
死ぬまで運命を共にする白鳥のつがい。
アベルもかつてはディルクと、そんな関係を築くことを夢見ていた。
今は、つがいではないが、リオネルと死ぬまで運命を共にしたいと思っている。
アベルの、どこか嬉しそうな、そしてどこか寂しげな笑顔をそっと見やって、リオネルは再び歩き出した。