17
「歳はいくつだ」
「十五です」
「生まれは?」
「…………」
アベルは公爵の瞳から視線を外し、床の絨毯の上にさまよわせる。
「アベル、私の目を見て答えなさい」
重々しい公爵の声に、アベルは口を引き結び、息を吸い込みながら視線を元に戻した。
「そなたは、サン・オーヴァンの生まれと聞いているが、そうではないのか」
アベルは公爵の鋭い眼光をまっすぐに見返し、意を決して口を開いた。
「サン・オーヴァンではありません」
「王都ではないと」
公爵はかすかに眉を寄せて、問い直す。
「では、どこなのだ」
「申し上げられません」
アベルの凛とした声と視線を受け止めつつ、公爵は意表を突かれたような顔をした。
まさか、貴族でもない従騎士の少年が、自分の質問に答えることをこのように拒むとは思わなかったのである。
「答えられないと言うか」
「申しわけございません」
「そなたはサン・オーヴァンで育ったと、リオネルに嘘を述べたのか。であれば、そなたがローブルグの騎士の末裔であると言うのも虚言か」
「全て嘘です」
驚きと心配が入り混じった表情でリオネルがアベルを見つめる。
リオネルにとっては話が違った。
周囲には、アベルはローブルグの騎士の家系の末裔であり、サン・オーヴァンで生まれ育ったと説明するはずだった。これは、身元を明かせないアベルを守るための方便であり、リオネルはアベルがこの部屋に訪れる前に、父公爵にあらかじめこのように紹介してあった。
けれどアベルははっきりとその全てを否定してしまったのだ。
「そなたは、リオネルやベルリオーズ家の者に嘘を言ったのか。そのうえ、この期に及んで出自を明かせないと」
公爵の語調は、厳しさと重苦しさを増していく。
穏やかな響きのなかにも、アベルに対する不信感と怒りがうかがえた。
「大変申しわけございませんでした」
アベルは深く腰を折った。
「父上」
これ以上傍観していられないという様子で、リオネルは父公爵とアベルの間近まで歩み寄る。
「全ての虚言を考えたのは私です」
「……リオネル、そなたが?」
公爵はアベルに向けていた厳しい視線を和らげて、息子の顔を見た。
「アベルは、はじめて会ったときから、自ら身元を明かせないと言っていました。それでもかまわないと私はアベルに言ったのです。それでもかまわないから、館に留まり、私のそばにいてくれないかと」
ベルリオーズ公爵は右手を自らの顎にやり、複雑な表情を作った。
「この者が、出自を明かせぬ身であると承知で、そばに置いたと」
「そうです」
「なぜだ」
「私には必要な存在だと思ったからです」
リオネルは深い紫色の双眸を、ひたと公爵に向けて言った。
公爵は息子の瞳を、戸惑ったように見つめる。リオネルの視線の強さは、妻のアンリエットのそれによく似ている。
公爵がなにか言おうと思案しているとき、ベルトランがはじめて声を発した。
「クレティアン様、私からも申し上げたいことがございます」
「ベルトラン、なんだ」
「この者を私の従騎士に、そしてリオネルのそばにおくことに決めたのは、この者が素晴らしい剣の使い手であると同時に、リオネルに対して揺るぎない忠誠心を持ちあわせているためです。腕が立ち、真摯にリオネルに仕える者であるにもかかわらず、出自などにこだわっていれば、貴重な存在を失うことになるかもしれません」
「…………」
公爵はベルトランの言葉を黙って聞きながら、アベルを見つめた。
アベルもその視線を見つめ返す。
「それで、そなたなぜ、リオネルがわざわざ考えた虚言を、私に主張し通さなかったのだ」
「……こうしてお会いし、リオネル様のお父上様に嘘を申しあげたくないと、心から思ったからです。それに、それは同時に、リオネル様やベルトラン様にも、公爵様に対して隠し事をさせてしまうことになります。嘘だと認めたのは、お二人にそのような隠し事をさせ続けてはならないと気づいたからです」
「なるほど、リオネルやベルトランを思うがゆえに、真実も明かせないが、嘘もつけないと言うことか」
「わたし自身が、公爵様に嘘を申しあげたくなかった気持ちもあります」
「それで、そなた……身元を明かすことのできない不審な者を、私の子のそばに――ベルリオーズ家のたった一人の跡取りのそばに置くことを、私が許すと思ったか」
公爵の声音は、さらに重みを増した。
アベルを〝身元の明かすことのできぬ不審な者〟と称したその言葉には、リオネルのそばにアベルを置いておきたくないという彼の気持ちが、明白に現れている。
けれどアベルは表情を変えず、穏やかに答えた。
「もしお許しくださらないときは、わたしは即刻この館から……リオネル様のおそばから去ります」
その言葉に顔色を変えたのはリオネルだった。
「アベル」
形のよい眉を寄せ、強い口調で言うリオネルに、アベルは寂しげな笑みを返す。
「わたしは生涯、リオネル様にお仕えする所存です。ですが、もしそれが叶わないとすれば、それは、公爵様がお許しにならないときです。お父上様のご意思に背いて、リオネル様のおそばにいるわけにはまいりません」
リオネルのそば以外に寄る辺のないアベルの、なけなしの覚悟だった。
「父上がなんと言おうと、アベルはここに居てかまわない」
「リオネル様……」
胸が詰まるような思いでアベルはうつむく。
「父上、もし父上がアベルの存在をお許しにならなければ、父上のお心が変わり、アベルを連れ帰ることができる日まで、私はこの館には戻りません」
静かな声音だが、激しい言葉だった。
アベルも驚いたが、公爵も呆気にとられている。
幼少のころから聞きわけがよく、クレティアンに逆らったことのないリオネルが、このような強情な態度を示すのである。それに、ベルリオーズ公爵家の嫡男が、家臣を連れ戻すまで館に戻らないなど、前代未聞だ。
「リオネル、もういい。そなたの言うことはわかった」
公爵は溜息をついた。
「アベル、そなたの父母はどこにいるのだ」
「……お許しください」
「サン・オーヴァンの街で、リオネルに助けられたと聞くが、そなたそのときなにをしていたのだ」
「家も、食べるものもなく、路頭に迷い、病気で死にかけていました」
「…………」
公爵は美しい少年をじっと見つめてから、息子に向きなおり、今度はリオネルの顔をしばし見つめた。
再び大きく溜息をつき、クレティアンは組んでいた腕を解く。
「アベルが、この館に留まること及びそなたに仕えることを許そう」
「――ありがとうございます、父上」
リオネルの顔は、真に嬉しそうである。公爵はその息子の顔をまえに、軽く苦笑した。
クレティアンが、リオネルのこのような顔を見るのは、久しぶりのことだった。
「しかし条件がある」
リオネルも、頭を下げたアベルもその言葉に虚をつかれた。
「条件とは……」
リオネルが呟くように問うと、公爵は金髪の少年に視線を戻した。
「ひとつは、館の者が見守る席で、腕に覚えがある者と試合をし、そなたが優れた剣の使い手であること――さらにはリオネルのそばに相応しい存在であることを証し、納得させること。いまひとつは、アベル……そなたの手のひらと、鎖骨下を見せなさい」
公爵の言葉を聞いていた皆の表情が強張った。
「父上はアベルが罪人であるとお疑いなのですか」
この大陸では、罪を犯した者は皆、罪の重さによって左の掌か鎖骨の下に印をつけられる。そこを見れば、罪人であるかどうか一目でわかる。
リオネルが、硬い声音で問うと、公爵ははっきりと答えた。
「罪人は、けっして身元を明かそうとしない。この者が身元を明かせぬというのであれば、罪人でないとも限らない。罪を犯した者ではないことを確認できないなら、そなたのそばに置いておくことはできない。もし印があれば、即刻この館から出てもらう」
「アベルは罪人ではありません」
「それで?」
「印を見る必要も、ありません」
「そなたはそう言うが、この目で確かめるまで私は納得しない。出自については、今はこれ以上なにも聞かない。その代わり、この二つの条件だけはけっして譲ることはできない。たとえそなたの頼みであってもだ」
リオネルは父公爵を睨むように見据えた。
「いいえ、たとえ父上のおっしゃることでも、そのような条件を受け入れることはできません。試合をさせることも、罪人の確認をすることも、お断りします」
「リオネルそなた、私がここまで譲歩したというのに、私の指示に従わないと言うか」
「今回だけは、従うことはできません」
徐々に苛立ちはじめた公爵と、まったく引く様子のないリオネルのあいだに、緊迫した空気が流れる。
執事のオリヴィエが、落ちつかぬ様子で二人を見守っている。この父子が、このように対立するのは珍しい。
「私の命に従えないのであれば、そなたをこの館の一室に閉じ込め、アベルをこの館から追放するのみだ」
「そのときは、私は必ず館を抜け出し、アベルを探しにいきます。それとも父上は私を一生この館のなかに閉じこめておけるとでもお思いですか」
「そうか、私に刃向かってまで、この身元の知れぬ者をそばにおきたいのであれば、この者を鞭で打ちすえ、出自を問いただせばいい。たしかな出自が明らかになれば、二つの条件を満たさずとも、ここにおいておく余地はあるだろう」
「父上の口から、そのような残酷なお言葉を聞くとは、夢にも思いませんでした」
「そなたを守るためなら、私は鬼にも悪魔にもなれる」
「アベルに鞭など打ったら、私は生涯、父上を赦しません」
リオネルの目には深い怒りの色が浮かんでいる。
「……リオネル」
その瞬間、公爵の表情はわずかにひるんだ。
目に入れても痛くないほどにかわいがっていた息子から、一度も向けられたことがないような憎悪を向けられたのだ。
「リオネル様」
父子の緊迫した会話にだれ一人として口を差し挟めずにいたが、その重たい空気を打ち破ったのは、アベルの声だった。
声のほうを振り向き、リオネルは、はっとした。少女の顔には穏やかな笑みが浮かんでいたからだ。
「ありがとうございます――リオネル様」
もう充分だと、アベルは思った。
「わたしは幸せ者です。リオネル様にこれほどまで庇っていただけるのですから」
アベルは右手を左肩に添え、上着の止め具の銀細工を外す。カチャと小さな音が、静まり返った広い室内に響いた。
「アベル?」
リオネルが眉を寄せる。
アベルは上着を脱ぐと、前開きの下着の結び紐に手をかけた。
「アベル、なにをしているんだ」
少女の細い指先を握りしめて、その動作を止めたのはリオネルだ。
「そんなことしなくていい」
けれどアベルは静かに首を横に振る。
「これで全て円滑に進むのです」
なおも離れないリオネルの手を、アベルは左手でそっと掴んで退けた。
首から結び紐を解いていく。ちょうど鎖骨の下でその手を止め、アベルは襟を開いた。
純白の雪原のような、なめらかな肌が広がる。そこに罪人である証拠――斜めの十文字の印はなかった。
次いで、アベルは左の手のひらを公爵に向けて開く。そこにも、印はない。
皆の視線がアベルの手のひらに集中するなか、だれかが大きな溜息をつき、その場の空気がゆるんだ。
「父上、もういいでしょう」
リオネルの声音は、激しい苛立ちを含んでいるように聞こえる。
「そなたが罪人ではないことは、わかった」
公爵はいささか疲れたような声でアベルに言った。
「恐れ入ります。試合についても、いつでもお受けいたします」
いったんほどいた紐をアベルは結びなおしていく。
「もしその際に、公爵様に認めていただけなければ、わたしはここを去ります。もし、認めていただけましたら、どうかわたしをリオネル様のおそばにおかせてください。そして、リオネル様をお守りすることをお許しくださいませ」
アベルはもとの姿に戻り、まっすぐに公爵の瞳を見据えた。
「それが、私が出した条件だ。約束は守ろう」
「ありがとうごさいます」
「最後にひとつだけ聞きたいことがある」
「なんでしょうか、公爵様」
なにを問うのかと、皆の視線が公爵に集まる。
「そなた、なぜリオネルに仕え、守りたいと考えるのだ」
「それは――」
アベルは、公爵の瞳の奥を見つめる。
「わたし自身のためです」
「そなた自身のため……?」
「私の生きる場所は、リオネル様のおそば以外にはないのです」
公爵は、先ほどまでは疲れた表情を浮かべていた顔を、すっと引き締め、興味を引かれる面持ちになった。
「それは、もしリオネルが死ねば、そなたも死ぬということか」
「リオネル様にもしものことがあれば、わたしの心は死にます――心の死は、すなわち肉体の死です」
リオネルと出会う前の自分を思い出し、アベルは息苦しさを覚えて服の胸元を掴んだ。
深い孤独の記憶は、未だアベルの胸に中にある。それは、呼吸さえも止められるのではないかと思うほど、強く胸をしめつける。
「もしリオネルのそばに居ることを許されず、ここを追い出されたら、そなたはどうするのだ」
「…………」
アベルがすぐに答えられなかったのは、自分でもわからなかったからだった。
リオネルのいないところに、アベルの帰る場所はない。
この館を追い出されたら、再び生きることも死ぬこともできぬ身となって、この地上を彷徨いつづけるのだろうか。
アベルが答えられないでいると、リオネルが明るい声音で言った。
「父上もアベルも、私が死んだときなどの話をするのはやめてください」
二人はリオネルに顔を向ける。
「縁起が悪いです」
そう言ってリオネルが笑うと、アベルも少し苦笑した。
話を逸らした息子に、公爵はその日何度目かの溜息をつく。
「もういい。アベル、足労だった。私の言葉で少なからず嫌な思いもさせただろう。すまなかった。リオネルがこれほど大切に思う相手を、鞭打つはずがない、安心しなさい。ただし、試合について私が言ったことは必ず守ってもらう。そなたの技量に不足ありと判断したときは、私はそなたを躊躇することなくここから追放する。いいな」
「承知いたしました」
アベルは深々と頭を下げたが、リオネルは不満げな面持ちであった。
「父上――」
リオネルがなにか言いかけると、公爵はそれを手で制した。
「そなたが言いたいことはわかっている。しかし、そなたが自ら選んだ臣下だ。であれば、その者を信じて試合を見守ればいいはずだ。それとも、そなたは自ら望んでそばに仕えさせる臣下の技量を信じられないか」
「そのようなことを申しているのではありません。わざわざ危ないことをさせる必要はありませんし、もし父上がアベルの才覚をお認めにならなくても、アベルを追放するなどということは、私は断じて受け入れません」
「そなたと言い合いを再開する気はない。すぐに試合をするわけでもない。アベル、そなたはもう下がりなさい」
クレティアンはこれ以上この話題を続けたくないといった様子だった。
アベルは公爵とリオネルに向かって丁寧に一礼する。
「父上、私もアベルとともに失礼します」
「好きにしなさい」
公爵が声に疲労感をにじませて言うと、リオネルとベルトランも一礼する。
自分といっしょに出ていってもかまわないのだろうかとアベルが不安げにリオネルを見ると、彼はそっとほほえんだ。
「大丈夫だよ。行こう」
アベルは軽く頷く。
部屋に公爵とオリヴィエを残して、三人は退室した。