16
レオンが見つめていたスミレと同じ色の瞳は、かすかな緊張をにじませ、窓の外に向けられている。
――ここが、ベルリオーズ邸……。
広大な庭園は、どこまでも続いているように見えた。
雪がかぶさっているので、視界を埋めつくすのは、見渡す限りの雪原である。そのなかに、氷の張った巨大な人口池や、迷路のような生垣、騎士や神々の銅像が、素晴らしい景観を織りなしている。
庭園の景色をまえに、アベルは感嘆のため息をもらした。
音もなく雪が降りつもっていく様は、神聖にさえ見える。
アベルは、次第に曇っていく窓硝子を、手のひらでそっと拭いた。硝子玉のような瞳に、透明度を増した窓を通して、舞い落ちる雪片が映し出されている。
けれどその視線は、雪でも、庭でもない、どこか遠くを見ているようでもあった。
――デュノアの空からも、雪が降っているだろうか。
そんなことを、アベルは思った。
父は、母は、カミーユは――この雪を見ているだろうか。
この地から南西に向かえばアベラール領、そして、その先にデュノア領がある。
アベルが二度と帰ることの許されぬ、故郷。
少女の瞳が、雪が放つ白い光をとじこめたように見えた。
双眸をつむり、思考の流れを止める。そして再び開いたとき、その瞳にはかすかな緊張が戻っていた。
ベルリオーズ邸に着いてから、高熱で二晩も寝込んでいた。熱は完全に下りきってはいないが、これ以上、呑気に寝ているわけにはいかない。
窓から離れ、寝台にたてかけてあった長剣を腰に下げる。
もうすぐ迎えが来るはずだ。
扉に視線を向けたとき、ちょうどそれを軽く叩く音がした。
アベルが扉を開けると、そこにはベルトランと、落ちついた赤銅色の服をまとった男性の姿があった。四十台後半ほどのその男は、出で立ちから執事だろうと思われる。
「おはようございます」
アベルは頭を下げる。
「おはよう」
ベルトランは、アベルの顔をのぞきこみながら聞いた。
「本当に熱は下がったのか?」
「はい、おかげさまで。大変ご迷惑をおかけしました」
「……ならいいが」
昨夜アベルは、看病のため部屋を訪れたベルトランに、熱が下がったのでもう寝ている必要はないと伝えた。いったん部屋を出て、しばらくしてから再び戻ってきたベルトランは、公爵が会いたがっているので翌朝に挨拶に赴くようにとアベルに答えたのだった。
そして今朝を迎えた。
アベルは、ベルトランの斜め後ろにいる男に視線を向ける。
ベルトランはそれに気づいて、一歩、男から離れた。
「アベル、この人はベルリオーズ家本邸の執事、オリヴィエだ」
紹介された男は、視線を合わせずに軽く頭を下げる。
「オリヴィエと申します」
「アベルです。到着して早々二日間、ご迷惑をおかしました」
アベルが深々と頭を下げると、オリヴィエは落ちつきはらった様子でそれを制した。
「いいえ、長旅でお疲れになったのでしょう。お気になされませぬよう」
アベルは顔を上げたものの憂いの色が浮かんでいる。オリヴィエの気遣う言葉は、アベルの気持ちをらくにはしなかった。
一方オリヴィエは、うつむく少年の顔を眺めながら、この少年を大事そうに抱きかかえて帰館した若い跡取りの青年の様子を思い出す。
気を失っているときも美しいと思ったが、こうして目前で見ると、神話の彫刻が命を吹き込まれたようだ。
「公爵様が待っておられます。どうぞいらしてください」
オリヴィエはアベルに背を向け、部屋を出る。
そのあとにベルトランとアベルは従った。
アベルにあてがわれた部屋は、ベルリオーズ家に連なる者が使用する部屋と同じ階にあるので、公爵の執務室まで階段を使わずに行ける。それは、シャルム国王の弟であり、かつ公爵位を賜る身分の者と、今は貴族でもなんでもないアベルとが、同じ階で生活をするということであり、甚だ身分不相応のことである。
アベルは風邪のせいだけではない頭痛を覚えた。たとえ伯爵家の令嬢という立場であっても、天と地ほどの身分の違いがあるというのに……。
その考え方からすると、アベルとリオネルのあいだにも、それだけの身分差があるのだ。
別邸にいたときは、特殊な環境だったせいかさほど気にならなかったが、ここに来るとそれを感じざるをえない。リオネルは本来であれば雲の上の人なのである。
けれどリオネルに対しては、どうしても思ったことを口にしてしまうし、それを態度にも出してしまう。そして、彼の優しさに対して、いつも戸惑ってしまう。
二日前の夜以来、リオネルには会っていない。
リオネルは怒っているのだろうか、あれから一度もアベルの部屋には訪れなかった。
胸がちくりと痛むが、同時に、ほっとしたような気持ちもあった。
どうしてほっとするのか、よくわからない。ただ、リオネルに会うことが、なんだか怖いような気がした。
入り組んだ廊下を幾度も折れ、通路となっている部屋を通り過ぎ、控えの間の奥にある重厚な扉の前に辿りついた。
オリヴィエがアベルを振り返る。アベルが小さく頷くと、オリヴィエは扉を軽く二回叩いた。
扉の中から返事があって、オリヴィエが扉を開く。
その向こうに広がった景色と、そこに佇む人物に、アベルは目を奪われた。
広々とした室内には、朱色を基調とした壮麗な家具が置かれ、また、支柱や窓枠は細やかな彫り装飾が施されていて、壁に飾られた大きな絵画や織物の壁掛けは精緻で華麗である。
「クレティアン様、リオネル様、失礼いたします」
オリヴィエが一礼すると、ぼんやりしていたアベルも、はっとしてその場で片膝をつき、頭を下げた。
背後でベルトランが扉を閉める。
「アベル殿を連れてまいりました」
オリヴィエが言うと、部屋の空気が微妙に変化する。おそらく、この部屋に多大な影響を及ぼしているだろう公爵のまとう空気が、変わったのだ。
「そうか、そなたがアベルか」
頭上におりてきた公爵の声には、アベルに対する興味が聞いて取れる。それに続いて聞こえてきたのは、穏やかなリオネルの声音だった。
「アベル、よく来てくれたね。具合はもういいのか」
「はい、お気遣いありがとうございます。大変長らくご迷惑をおかけいたしました」
跪いたままアベルは続ける。
「公爵様には初めてお目にかかります。ベルトラン様の従騎士をしております、アベルと申します。この度は御館に到着してから、ご挨拶もせず二日間も伏せておりましたこと、何卒ご容赦くださいませ」
アベルの挨拶は、発音も、言葉づかいも大変に美しいものだった。
公爵は半ば感心して跪く少年を見やった。とても腕が立つようには見えない、華奢な身体つきの少年である。痩せているというのもあるが、身体の骨格それ自体が繊細なのである。
「アベル、立ちあがって顔を上げなさい」
公爵の声は静かな語調だったが、王者が有するような重々しい響きがある。
アベルはすっと立ちあがり、視線を伏せたまま顔を上げた。
「もっと近くへ」
指示され、アベルは一礼して公爵の五歩ほど先まで歩み寄る。リオネルはその斜め後ろに立っていた。
アベルは自分を観察する公爵の視線をひしひしと感じる。
一方公爵は、アベルの姿を感嘆の思いすら抱いてしばし眺めていた。
淡い青紫色の仕立てのよい服を身につけた少年は、王族の子弟と言ってもよいほどに優美である。金糸の髪や、整った目鼻立ちもさることながら、少年が身にまとう洗練された物腰が、その美さをいっそう際立たせている。
そして、公爵の脳裏にふとなにかがよぎったのはそのときだった。
――どこかで見たことがある。
もしくは、だれかに似ている。そんな気がした。しかし、いつ見たのか、だれに似ているのか思い出せなかったのは、アベルが着ていた青紫色の服のせいだったかもしれない。
「それは、リオネルが着ていたものだな」
公爵は懐かしげに目を細めて言った。
「はい、父上。私が五年以上前に着ていました」
アベルはベルトランから渡された服を身につけただけだったので、これがリオネルの服だとは思いもよらなかった。着ている服を見下ろし、ほんの一瞬、そのころのリオネルを想像する。
「アベル、私を見なさい」
命じられて、アベルは伏せていた視線を、ゆっくり公爵に向けた。
このときアベルははじめて、公爵の姿をはっきりと目にした。貴族らしいすらりとした長身に、黒い髪と口髭が厳しい印象を与える。けれどその目の奥に宿る光は、穏やかで優しげだ。たしか四十代前半だったはずだが、リオネルの父というだけあって年齢を感じさせない美丈夫だった。
その公爵が次に発した言葉は、アベルにとっても、リオネルにとっても、思いもかけないものだった。
「そなた、以前どこかで会ったことがあるか」
アベルは冷やりとして、いったん記憶を探るが、やはりそのようなことがあるはずがなかった。アベルは、デュノア領から一度も出たことはないし、ベルリオーズ公爵が小さな伯爵領に訪れるはずもない。
「いいえ、公爵様。はじめてお目にかかります」
「そうか……そのはずだな」
公爵はアベルの左右の瞳を交互に見つめながら、釈然としない様子でしばし考え込む。
その様子に、リオネルが軽く眉を寄せて怪訝な顔をした。
「父上、いかがされましたか」
「いいや、なんでもない……この服をまとったリオネルもなかなかのものと思ったが、そなたはまた一段と似合っているな」
公爵は思考を絶ち切ったようで、表情を変えた。
「おそれいります」
アベルは公爵の言葉を世辞と受け止め、頭を下げる。
「アベル、そなたにいくつか質問をしたい。リオネル、かまわないか」
リオネルはけっして快いとは言えぬ表情で公爵を見返してから、アベルへ視線を向けた。アベルはその視線を受け止め、頷く。
「……どうぞ、父上」
リオネルの声はどこか不満そうだったが、公爵は気にしない素振りで頷き、質問を始めた。