第八部最終回 76
当然のように言われても、アベルには直ちに理解できない。
「いっ、今から?」
言ってから、そういう問題ではないことに気づく。
「もちろん今からだ」
司祭は? この格好で? ――いや、そういう問題でもない。
「え、え、え、でも」
「嫌か?」
立ちどまったリオネルが、アベルの真意を知ろうとするようにアベルの瞳をのぞきこむ。
アベルは狼狽した。
「でも、本当に……?」
「本当に?」
リオネルが首を傾げる。
「その……本当に、わたしがリオネル様と――」
さっき確認したばかりなのはわかっているが、二人きりとはいえ本当に式を挙げるとなると、アベルは現実のこととは思えなかった。
「だって、心変わりされると困るから」
「は?」
「そのうちに、やっぱり結婚できないなんて言われたら大変だ。今すぐに結婚式を挙げてしまえば、アベルは従騎士だとか、家臣だとか言わずに、ずっとおれのお嫁さんでいてくれるだろう?」
「それは……それとこれとは……」
しどろもどろ言っていると、リオネルが笑った。
「嘘だよ。アベルが真面目なことは、ちゃんとわかってる」
「…………」
からかわれたのか。
「でも、二人で式を挙げたいという気持ちは本心だ。昔ここへ来たとき伝えたけれど、あの礼拝堂で好きな人と二人で結婚式をするのがおれの夢だった。そして、アベルだけが、おれのその夢を叶えられる」
アベルは泣きたいような気持ちになる。
そんなことを言われたら、礼拝堂へ向かわないわけにはいかないではないか。
アベルはリオネルの手をとり、そしてまっすぐにリオネルを見上げてうなずいた。引き寄せ、抱きしめてくれるリオネルの腕。
泣きたいほど、幸福だった。
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礼拝堂は以前と変わらず荒廃していて、朽ちかけた木製の扉は外れそうだし、黴臭いような懐かしいような匂いも、かつてと変わらない。
懐かしく感じるのは、礼拝堂内の空気の冷ややかさのせいだろうか。
石の壁に数カ所ある縦長の小窓からは、暗い堂内へ白い光が差し込んでいた。
「……とても懐かしい感じがします」
「あれから、まだ一年も経っていなんだね」
アベルはリオネルを、くすぐったいような心地でちらと見上げた。
「あれから随分と経ったきがしますね」
「そう、結婚式の練習をした、あの夏の日から」
含み笑いでリオネルが答えるので、アベルもつられて小さく笑った。
「こんな日が来るとは思っていませんでした」
「あのとき、おれはすでにはっきりと、アベルとここで結婚式を挙げたいと願っていたよ」
「……リオネル様は、いつから?」
いつから、こんな自分のことを好きでいてくれたのだろう。
リオネルは苦笑した。
「もうずっとまえから――ほとんど出会ってすぐのころだと思う。自覚したのは、アベルとサン・オーヴァンの川で再会したあと、桶を取りあったときだ。アベルが子供の喧嘩のようだと笑ったとき、自分の気持ちに気づいた」
「本当に?」
そんなにまえからだったとは。
「本当だとも」
リオネルは懐かしむかのように笑う。
「アベルを好きになって、もう丸三年以上だ」
「…………」
「けれど、一生片想いだと思っていたから、今日アベルとここで式を挙げられるなんて夢のように感じる」
「……鈍くてごめんなさい」
「ああ、本当にアベルは鈍い」
「リ、リオネル様だって」
「おれだって?」
リオネルがやや驚いた顔でアベルを見返すので、アベルは少し拗ねたように言った。
「新年祭のあとくらいから、わたしが想いを伝えても、気づいてくださりませんでした」
ああ、とリオネルは苦笑する。
「それは、片想いだった時間が長かったから。アベルがおれに心を傾けてくれるなんて、夢にも思わなかったんだ」
返す言葉が見つからない。
これだけ鈍いのだから、リオネルがそう思うのもしかたのないことだと思った。
「最初は、ただそばにいられるだけで幸せだと思っていた」
アベルを祭壇のまえへ促しながら、リオネルがそっとほほえむ。
「けれど、ジェルヴェーズ王子に組み敷かれたアベルを見て、あまりの苦しさから、想いを打ち明けてしまった。それがどんなにアベルを苦しませることになるか、わかっていたのに」
「そんなこと……」
「あのあと、アベルは出て行ってしまった」
「生真面目すぎるのですね」
自分で言えば、リオネルが小さく笑った。
「戻ってきてくれたときも、このままいっしょにいるだけでいいと思ったんだ。けれど、アベルが好きだといってくれた瞬間から、おれは欲張りになって、アベルと恋人になりたいと思うようになった」
「……セレイアックでの日々は、夢のようでした」
辛い思いもさせたけれど、とリオネルがすまなそうな顔をする。
「そんなことありません。セルヴァント通りのあの部屋で、リオネル様といっしょに寝起きし、いっしょに食事をして、生計を立てるために働いてくださるリオネル様を見送り、出迎え……幸せでした」
こちらを見つめ紫色の瞳は甘く、切ない。
「そんな毎日を送っていたら、おれはもっと欲張りになって、アベルと本当に結婚したいと願ってしまったんだ」
祭壇のまえ。
向きあう二人。
リオネルがアベルの腕に手を置く。
「アベル、おれと――」
真剣な台詞の途中。言葉が途切れたのは、礼拝堂の入口でガタンと木の扉が音を立てたからだ。
「ちょっと待て、ちょっと待て、ちょっと待て」
相手を確かめる必要もなく、ディルクの声が響く。
リオネルが嫌な顔ひとつせず、アベルの腕に手を置いたまま顔だけディルクへ向けて、目を見開いた。
「ディルク」
「『ディルク』、じゃないだろう」
表情までリオネルの真似してから、ディルクは苦い面持ちになった。彼の背後には、レオン、マチアス、そしてベルトラン。
「結婚式におれたちを呼ばないとは、どういう了見だ?」
アベルとリオネルは顔を見合わせる。
「いえ、これは成り行きと言いますか……」
リオネルの代わりにアベルが弁解した。なぜ自分たちが責められているのか、あまりよくわからなかったが。
「成り行き? いやいや、それはアベル、リオネルに騙されているぞ。ベルトランから話を聞いて、おれは確信したんだ。リオネルがこの頃合いで、アベルを連れ出す目的はひとつしかない」
アベルが驚いてリオネルを見上げると、困惑した表情が返ってくる。
「アベルとこの礼拝堂で式を挙げたいと思っていたのは事実だし、今日だったら嬉しいと思っていたが、でも、そうでなくともよかった」
「本当か、リオネル?」
ディルクはいたずらっぽく口端を吊り上げながらリオネルに尋ねる。
「そうか、おれたちを呼ぶ時間がなかったということか。なら仕方がない」
レオンが当然のように祭壇のまえの椅子に座る。
「とにかく間にあってよかった」
さあ式を始めなさい、と言わんばかりのレオンをまえに戸惑っていると、ディルクがリオネルの肩をぽんと叩く。
「まあいいや。今日はおめでたい日だから、細かいことは水に流そう。おれが司祭になってやるよ」
そう言って祭壇へ向かうディルクの肩を、ベルトランが掴んだ。
「司祭はおれがやる」
「ベルトラン? 反対者がいても無視するあの強引な司祭だろ。胡散臭すぎるんだけど」
「おまえよりはいい」
「そうかな?」
ほとんど強制的に祭壇から引き離され、ディルクはしかたなさそうにレオンの隣に座った。
「おれがいないときに、館の外へ出るな、リオネル」
祭壇に上がったベルトランの第一声は、小言だ。
「ごめん」
リオネルはしれっと謝ったが、確信犯だとわかっているらしく、ベルトランは溜息をつく。
「静粛に、今から婚礼の儀式を始める」
「話してるのは、ベルトランとリオネルだろ」
冷静なディルクのつっこみにも、ベルトランは素知らぬ顔だ。
「参列者は席に」
そう言いながら、ベルトランは扉口に立ったままのマチアスをちらと見やった。
ゆっくりとマチアスはディルクの背後へ。
本当に胡散臭い司祭だな、とディルクはつぶやいたが、ベルトランは完全に無視した。
「これから、結婚の儀式を執り行う。全員立て。反対の者はいるか」
「なんだ、あの偉そうな司祭は」
先程からぶつぶつと文句を言うディルクの隣で、レオンは背後にいるマチアスの様子をびくびくしながら気にしている。
「なにやっているんだ、レオン?」
「い、いや。なんでもない」
さすがにマチアスが反対者として手を上げないのを確認して、レオンは肩を撫で下ろした。と、思いきや、ベルトランがディルクをじろりとにらんだ。
「なんだ、今更」
「えっ、これは――」
ディルクの手を背後から上げさせていたのはマチアスだ。ディルクが背後を振り返ったときには、マチアスは素知らぬ顔で手を離していた。
片眉を上げてディルクは自らの従者を怪訝そうに見やる。
「まあいい。今更反対したところで、この婚儀は執り行う」
「あいかわらず、強引だな……」
聖典の有名な一節をベルトランが諳んじる。それから視線をリオネルへ向けた。
「リオネル・ベルリオーズ。汝はアベルと結婚し、神の定めに従って婚姻を結ぼうとしている。その健やかなときも、病めるときも、常にこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、これを守り、その命の限り、心を尽くすことを誓うか」
「誓います」
よく通るリオネルの声が、礼拝堂内に響いてアベルは息を呑む。
リオネルの誓いに、胸がいっぱいになった。
「アベル。汝はリオネル・ベルリオーズと結婚し、神の定めに従って婚姻を結ぼうとしている。その健やかなときも、病めるときも、常にこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、これを守り、その命の限り、心を尽くすことを誓うか」
これだけの人数で執り行う式なのに、声を発するのにひどく緊張した。
「……はい、誓います」
まるで自分の声がどこか遠くで響いているような気がする。
「ここに、神のまえで二人が結ばれたことを証明する。二人は誓いの口づけを」
え、とアベルは動揺する。ディルクたちの見ているところで、口づけをするのだろうか。
アベルがひとり顔を赤くしていると、リオネルがこちらへ身体ごと向き直る。
つられてリオネルのほうへ向けば、しなやかな指先が伸びて、アベルの頬を包んだ。
軽く屈みながら、リオネルが顔をかたむける。
アベルは観念した。
目を閉じて、そのときを待つ。
唇に触れる、リオネルの吐息。
そして重なる唇。
沸き上がる想いに、名前などつけられない。
ただ、泣きたいほど胸が熱かった。
「おい、なにをする」
参列席でささやく声がする。手で目隠しされてもがいていたのはレオンだ。
「お子様には刺激が強すぎるかと思って」
目隠ししていたのはむろんディルクだ。
「口づけくらい――」
「そうか、西方の恋人としたのか」
「黙れ、変態無神経男」
ディルクの足を蹴ろうとレオンが何度も懸命に足を踏み出すが、目隠しされているので、なかなか標的が見つからない。つまらぬ小競り合いをしている二人の背後で、静かなささやき声がした。
「今ならまだ間に合うかもしれませんよ、ディルク様」
はっと蒼ざめてレオンはもがくのをやめたが、ディルクは至って冷静で。
「マチアス、おまえ、おもしろくない冗談に、はまっているのか」
「おい、そこ。うるさいぞ」
口づけをする大事な場面で騒ぐ三人を、ベルトラン司祭が一喝する。
「叱られたのはおまえのせいだぞ、ディルク」
「おれ? いや、おかしな冗談を言うマチアスが悪い」
「人のせいになさらないでください」
あいかわらずな三人のことなど、愛を誓い合った二人は少しも気に止めていない。
唇を離したリオネルが、アベルの瞳を見つめた。
アベルは泣き出したいような気持ちでリオネルを見返す。
想いは溢れ、互いに言葉にならず、リオネルの引き寄せるままにアベルはその胸に身を委ねる。その力強さに、瞼の奥が熱くなって、溢れる感情は涙となり、もはや止められそうになかった。
「愛しあう二人のうえに、神々の祝福があるように――」
――いつもまでも、永遠に。
ベルトランの偉そうな声に、いつのまにか静かになっていた参列者のあいだから盛大な拍手が沸き起こった。
アベルを抱きしめたまま視線だけを参列席に向けたリオネルが、小さく「ありがとう」とつぶやく。
すでにアベルの瞳は涙で溢れ、とてもディルクたちに顔を見せられそうになかった。
正式な形ではないが、それでも、こんな自分が結婚できる日がくるなんて。
世界で一番好きな人と結ばれる日がくるなんて。
――とっくに諦めていた幸せ。
本当に、泡のように儚く脆い幸せが、今、アベルの手のなかにある。
いったいどうしたらこの瞬間を信じることができるだろう。
「おめでとう、リオネル! おめでとう、アベル!」
「ああ、愛しあう二人の結婚式とはいいものだな」
「おめでとうございます、リオネル様、アベル殿。心より祝福いたします」
にこにこ笑うマチアスを、レオンは引きつった顔で振り返った。
「……素直に従者殿の言葉を受けとれないのは、おれだけか?」
レオンのつぶやきはだれにも聞かれることなく、ディルクの盛大な拍手がいつまでも礼拝堂に響きわたっていた。
ひなげしの花咲く丘。
人々から忘れ去られた礼拝堂。
大切な仲間に見守られ、アベルとリオネルは密やかに結ばれた。
長い冬の終わりを告げる春の風が、朽ちかけた礼拝堂に甘い花々の香りを届ける。
小さな窓からまっすぐに伸びる、柔らかな光。それは、どれほど豪奢なステンドグラスの色彩よりも美しい光だった。
(第八部 終わり)
あとがき
2016年から投稿を始めた(途中で1本にまとめましたが)この長いお話を、ここまで読んでくださった読者様、本当に心より感謝申し上げます。
幾度か書かせていただきましたが、作者が、作者のためにつづった作品でした。
それを投稿することにしたのは、一人でもこのお話を読んでリオネルやアベルとその仲間たちの冒険を知ってもらえたらという気持ちでした。
実を申しますと、第一部完了以降、様々な意見を頂戴し、また匿名掲示板のほうでも当時たまたま自分の作品について書かれているのを読んでしまい、大切にしていた作品だっただけに、また、なにげなく投稿しただけだったため、その言葉が頭から離れず、数日眠れない日々を過ごし、その末に耳鳴り、聴覚過敏、耳閉感などを患うようになりました。病院へ行き、薬や鍼などで治療しましたが、結局治ることなく、生涯残るものとなりました。
作品のなかで時折「静寂」や「静けさ」という言葉を使っておりましたが、私は「静寂」を失いました。常に耳鳴りがしているので、静けさを感じられなくなったのです。それは想像を絶する苦痛でした。
投稿をやめようと思いました。
けれど、しばらくの休止の後に再開したのは、たくさんの読者様からの励ましと再開を待っているというお言葉を頂いたからです。
アベルやリオネルたちの冒険を待っていてくださることが、嬉しかったです。
もう一度投稿してみようと思いました。
そうして、この度タイトルの回収までこぎつけることができました。
スランプのときは、時に数ヶ月も同じ個所を修正しつづけたこともあります。どうしても表現や言葉や台詞が思いつかずに、大変な思いをしたこともありました。
けれど、基本的には作者が物語を紡いだというより、ひとりひとりの登場人物が物語のなかで実際に存在していて、その会話や活躍を作者がひとつひとつ丁寧に表現していった作業だったと感じています。
ですので、彼らの冒険はまだまだ続くはずです。王弟派と国王派の争い、エストラダの脅威、ベアトリスの罪……まだまだ解決していかなければならないことはたくさん残っています。
けれど、二人の幸せな婚姻を見届けたここでいったん作者のなかでは完結にさせていただき、以降は後日談として書かせていただきたく思っています。(あくまで、作者のなかでの完結なので、小説家になろうのシステム上の〝完結〟とはしません)
実は少し前まで、第八部完結後は作品にお暇をいただきたいと考えていました。
長いこと書き続けてきた疲れもあり、また、最も描きたかった二人の幸せを描き終えたので、「ひなげしの花咲く丘で」の執筆にお休みをいただこうかと……。
続きを書くことがあれば、そのときは、最初そうやってスタートしたように、自分のためだけに書くかもしれないし、もしくは、それが皆様の前にお出しできるほどのものであると感じれば投稿することもあるかもしれない。そう考えていました。
しかしながら、第七部終了後に一年以上投稿をお休みしていたあいだにも、ずっと拙作を忘れずに待っていてくださった読者様がいらっしゃいました。今でも同じお気持ちでいてくださっているかは分かりませんが、もし「ひなげしの花咲く丘で」の続きを待っていてくださる読者様がまだいらっしゃるのであれば、どのような形でも完結までお届けするべきではないかと、今は感じております。
私事ですが、昨年、大好きだった祖父が亡くなりました。
作者は子供の頃から文章を書くことが好きで、けれど当時は大人から見ればとても幼稚な文章で、子供心に「どうしようもないことをしている」という空気を大人たちから感じていました。
けれど、祖父に小説を書いていることを打ち明けたとき、祖父だけは「将来、本になったらじいちゃんに読ませてね」と言ってくれました。
自分のための小説。
けれど、いつか祖父に読んでほしかった。あの約束を果たしたかった。
祖父はもう死んでしまって、ついに約束を果たすことはできませんでした。
余談でしたが、祖父が亡くなり、その代わりというわけではありませんが、このような拙い作品をお読みくださった読者様がいらっしゃったことが幸せです。
読者様に満足いただけるような作品をお届けできるかどうか、甚だ自信がありません。主人公は第八部まででリオネルを愛し、愛され、この物語のテーマそれ自体は完結しているからです。
終わらないお話がほしかった。
――自分だけの、永遠に続くお話が。
作者が小説を描きはじめた理由です。
終わらないお話の続きは、どのようなものかはまったくわかりませんが、アベルやリオネルたちと再び会えるときには、いっしょに冒険の世界へごいっしょできましたらこれ以上嬉しいことはありません。
心優しい、あたたかな読者様に支えられて「ひなげしの花咲く丘で」をここまで描くことができました。心から、心から、お礼申し上げます。ありがとうございました。
また第九部でお会いできましたら、とても幸いです。
たくさんの感謝を込めて。yuuHi