75
舞い上がる香りは、春の花々。庭の草木がいっせいに色づきはじめ、白や黄色の小さな蝶が、ひらひらとあちらこちらで舞っている。
待ちに待った春の気配に、アベルは深く息を吸い込んだ。
春の訪れが、これほど嬉しいとは。
毎年のように春は来るというのに、幾度経験してもこの瞬間に感動する。おそらく大陸の冬が長く厳しいからだ。
春めく景色のなか、アベルは十時の鐘が鳴るのを待っていた。
ベルリオーズ邸に到着してから一週間。従騎士としての仕事が忙しく、またリオネルは溜まった政務の処理に追われ、すれ違う毎日だった。
寂しい、とは思いつつも、食事の時間に一日三回、遠目にでもリオネルの姿を見ることができれば、それだけで満足すべきだと承知している。
この館に暮らせるだけで、自分には過ぎた待遇なのだ。
セルヴァント通りでの生活のように、とはいかない。
リオネルは皆のリオネルで、アベルはその下で働くひとりの家臣。いくらリオネルが好きだと言ってくれても、アベルはそこのことを心にとどめるように心掛けていた。
けれど今朝、アベルの部屋の扉に、一枚の紙が差しこまれていた。
拾いあげ、開いてみれば見慣れたリオネルの端正な文字。
『十時の鐘が鳴るころ、前庭脇の厩舎の裏で会いたい。クロードには、アベルに仕事を頼みたいと伝えるから、心配しないで来てほしい』
アベルはその手紙に、胸が高鳴った。
内容ももちろんだが、それ以上に、リオネルの筆跡にどきりとする。
自分のためだけにリオネルが書いてくれた文字。
なかなか会えないが、リオネルはこうやって自分のために机に向かい、羽根ペンを握ってこの文字をつづってくれた。そのことに、彼の想いが感じられて、胸が震える。
手紙ひとつで舞い上がる自分は、きっと本当にリオネルに惚れているのだ。まだ覚えたばかりの感情は、アベルを不安にさせた。
クロードには申し訳ない気がしたが、アベルはリオネルの言葉に甘えて、こうして人気のない前庭の脇にある厩舎の裏に立ち、リオネルが来るのを待つ。
早く着いたせいで、リオネルは現れないし、十時の鐘も鳴らないが、待っている時間でさえアベルにとっては意味がある。いっしょに過ごせない時間が長いぶん、余計に。
直後、ふわりとリオネルの香りを感じれば、振り返るより先に、背中から抱きすくめられた。
細身なのに力強い腕、すっぽりと包んでくれる、しなやかで逞しい身体。
五感で覚えているこの感覚。
髪にかかる吐息がくすぐったい。
アベルは顔がかすかに熱くなるのを感じながら、小さな声で言った。
「……こんなところ、見られたら大変です」
「だって、ずっと会えなかった」
駄々をこねる子供のような言い分に、アベルは内心、少しおかしく思う。
普段ベルリオーズ家の嫡男として振る舞うリオネルからは、とても想像がつかない。
「毎晩、お休みのご挨拶にはうかがっていました」
「アベルは挨拶だけすると、おれたちと話さず、すぐに部屋に行ってしまうから」
「それは、家臣として当然の――」
言いかけたところ、後ろから伸びてきた指先に促され、振り向かされる。
と、リオネルの少しばかり硬い表情がこちらを見下ろしていた。
「だれが〝家臣〟だって?」
背後から抱きすくめられているところを見られるのも危険だが、そのままの体勢で、こうして間近で見つめあっているところを見られるのも、かなりまずい。
「……ですから、わたしです」
アベルは互いの立場をわきまえているつもりだし、『アベルが生きて、元気で、そばで笑っていてくれている。それだけで、おれは幸せだ』と言ってくれたリオネルもまた同様かと思っていたが、実のところリオネルは少し認識が違うのだろうか。
「どうしてそんなことを言う?」
「そういうお約束だったかと」
ますますリオネルの表情が曇る。アベルがなにか言葉を付け加えようとすると、声を発するまえにリオネルの腕ががアベルの膝裏にまわり身体をそっと抱き上げられた。
「えっ?」
突然の状況にアベルはすぐに反応ができない。反応できないでいるうちに、リオネルはアベルを抱き上げたまま厩舎へと向かった。
「……ちょっ、リオネル様!」
リオネルの愛馬ヴァレールの前鞍に丁寧に乗せられて、ようやくアベルは声を発する。
たまたまだれもいなかったからいいが、こんなところを見られたら、本当にどうするつもりなのか。
けれど、声を高めたアベルのひたいに軽く口づけただけで、リオネルはなんのつもりなのか一切説明しなかった。彼自身もヴァレールに跨り、腹を蹴る。
「え、まっ、リオネル様、どこへ?」
主人の意図に忠実に従って厩舎を飛び出したヴァレールは、一直線に正門へと向かった。
門番が驚き、慌てて道を開ける。リオネルの愛馬ヴァレールは勢いよく、城門前通りへ飛び出した。
冗談抜きに、これはまずい。
噂云々もさることながら、館の外へ出るのに、リオネルのお供が自分しかいないとは。
ここに至ってはじめて、ベルトランはどこだろうとアベルは疑問を抱く。自分たちのあとを追ってくる者は、ひとりもいないようだった。
前鞍にまたがるアベルをしっかりと抱きながら、黙々と馬をかけるリオネルを、不機嫌な顔で少し振り返る。
「リオネル様」
名を呼ぶその声に、すべての意味を込める。するとリオネルは視線を返してきた。
「強引に連れ出したことを、怒っているのか」
怒ってはいないけれど……。
「アベルが、自分は家臣だとか、父上との約束だとか、そんなことを言うから」
「言うから?」
「館の外へ連れ出したくなった」
「なんの関係が?」
「人の目があるところでは、抱きしめることさえ許されないのだろう?」
「当然です」
今更論じる余地もない。リオネルは不敵にほほえんだ。
「だったら、館の外へ行くしかない」
「……外へ行くところも見られていますし、第一お供もいないではありませんか。ベルトランは?」
「父上と話していたから、置いてきた」
「…………」
アベルは自らの師匠を不憫に思った。今頃慌ててリオネルを探していることだろう。
「ベルトランがきっと困っています」
「アベルを待たせたくなかった」
「わたしはどれだけ待たされても平気です。第一、まだ鐘は鳴っていませんでした。戻りましょう、リオネル様」
沈黙と共に、リオネルの消沈した空気が伝わる。
「彼にはちゃんと書き置きしてきたから大丈夫だよ」
「リオネル様がこれから向かう場所を、ベルトランは知っているのですか?」
「すっかり手堅い家臣だね。セルヴァント通りで暮らしていたときのアベルは、もっと素直だったのに」
ぼそりとぼやくリオネルに、アベルはぎくりとした。
「それは――」
「ひとときの夢だった?」
ずばり核心をつくリオネルの言葉に、アベルは咄嗟に返す言葉を失う。
あのときだけは、二人は恋人でいられた。けれど今は違う。主従に戻る――それがベルリオーズ邸に住まうに際して交わした、クレティアンとの約束だ。
春の風が、二人の頬を優しくなでていった。
「恋人としての気持ちも、あのときだけ?」
あんまり寂しそうに言うので、アベルはついリオネルを振り返ってしまう。リオネルにこんな顔をさせたかったわけではない。
「どんな関係であっても、わたしの気持ちは変わりません。これから先も、ずっと」
はっきりと告げれば、リオネルから返事はなかったが、無言でアベルの身体を支える腕に力が加わり、ゆっくりとヴァレールの速度が落ちる。それから、完全に足を止めた馬上でリオネルは静かに尋ねた。
「……アベルが戻りたいなら、戻るよ」
こうなってしまうと、戻ろうとは言えなくなってしまう。
まさかこれがリオネルの策略だったのだろうか。彼の手のうちにいるような気がしたが、腰にまわるリオネルの腕に、自分の手を重ねることしかできなかった。
いざとなれば、リオネルのことは自分が守ればいい。そう自分に言い聞かせて。
「ベルトランが、行き先を知っているなら……」
「このまま行って平気?」
途端にリオネルの声が輝く。いつもの、騎士らのまえに立つときの、近寄りがたいほど冷静な態度はどこへやら、まるで十歳かそこらの少年だ。
確認してくる声にアベルがうなずき返すと、リオネルは再びヴァレールを前進させた。
「どこへ?」
「着いたらわかるよ」
刻々と変わっていく辺りの景色は、見覚えのあるものだった。鶏が地面をつつく家畜小屋も、館から離れるほどに減っていく民家や、広がる田園地帯の景色も。
向かっているのは、シャサーヌの南西。
かつて、リオネルに導かれてこの景色を見ながら、この方角へ馬を駆けたことがある。
「ラベンダーの丘?」
ぽつりとつぶやけば、リオネルが小さく笑う気配があった。
「ご明察。でも、今はラベンダーの季節じゃない」
たしかにラベンダーが咲くにはまだ早いだろう。
「なにが咲いているのですか?」
「着いてからのお楽しみだ」
二人はヴァレールの背に跨り、思い出の丘を目指した。
+++
その丘へ行ったのは、去年の初夏のこと。
一度目は突然の嵐に遭って礼拝堂へ逃げ込み、二度目はラベンダーの花冠を作り、礼拝堂で結婚式の〝練習〟をしたのだ。
思い返せば顔が赤くなる。あのころはリオネルへの気持ちにも気づかず、祭壇の前に立っていたのだ。
考えてみれば、あのときリオネルは、アベルを愛することを神に誓っていた。
彼の気持ちはおろか、自分の気持ちにさえ気づかなかったのだから、我ながら己の鈍さに呆れる。
こうして、両想いになって再びリオネルと二人、あの丘へ行くことになるとは。
ヴァレールの背に揺られているうちに辿りついたのは、小高い丘の麓。絶壁になっている別れ道で、木々が茂っている険しいほうの道を行く。
徐々に道が狭くなると、二人は馬を降り、木々のあいだの道ならぬ道を歩いた。
陽のあたらない木の根元には、ところどころ雪が残っているが、少しひらけたところでは春の花が顔をのぞかせている。
あのときと同じように、リオネルはしっかりとアベルの手を引いてくれていた。
そうしてようやく辿りついた先、視界が開けてアベルは大きく目を見開く。
以前訪れたときは一面の紫だったのに、今日は。
「ひなげし……」
一面、真紅だった。
丘を埋め尽くす、燃えるような紅。
思わず、よく知る歌を思い出さずにはおれない。
「ひなげしがこの丘を埋めつくしたら……」
身体に沁みるように記憶している歌が、ついアベルの口をついてしまえば、リオネルがこちらを見た。
「あ、ごめんなさい」
「聞かせてくれないか、歌の続きを」
リオネルはまるで、アベルがこの歌を口ずさむことを知っていたかのようだった。そういえば、セレイアックの街で買ってくれたのも、ひなげしの髪飾りだ。
じっと見つめれば、リオネルが観念したようにほほえむ。
「……ローブルグに伝わる歌を、きみは大切に心に刻んでいるだろう?」
ローブルグ、というひとことに、アベルはぴんときた。
その言葉の意味。
はじめて気づく。
たしかにこれはローブルグの歌。つまり、実の母から聞かされた歌なのかもしれない。
アベルに唯一残っている母の記憶。
それはきっと、このひなげしの歌だけ。
見上げるアベルの頬に、リオネルが手を添える。
「アベルが愛されていた証拠だ」
アベルの顔がくしゃっと歪む。また泣き虫だと言われるから、泣きたくなかった。
目に貯めた涙をこらえながら、アベルは視線をうつむける。
「……なぜわたしがこの歌を知っていることを、ご存じだったのですか?」
「どこでだったかな、聞いたことがあった」
聞いたことがあるといっても、アベルはこれまでこれをリオネルのまえで歌ったことはないはずだ。これまでに唯一口ずさんだのは――。
「あまり深いことは考えなくていいよ。アベルにこの景色を見せたかった……というのは、アベルに会うための口実だから」
そう言いながら、そっとリオネルの腕が伸びてアベルの身体を抱き寄せた。
「……この歌のことを知っていて、ひなげしの髪飾りを?」
「それもあるけど、一番の理由は似合っていたからだ。真紅は、アベルの髪の美しさを引き立てる」
アベルはくすぐったいような気持ちになる。
似合っていたというのは、きっと惚れた欲目だろう。それでも、好きな人に褒められれば、素直に嬉しい。
そっと、アベルは続きを口ずさんだ。
「ひなげしがこの丘を埋めつくしたら……」
どうか あなた
わたしを迎えにきてください
甘い言葉を 花束に添えて
どうか あなた
わたしを迎えにきてください
とても長いこと
それは 気が遠のくほど 長いこと
あなたを待ちつづけているのですから
風に揺れる 紅の火影
震える胸を焼きつくす 無限の花弁
深い眠りから
どうか あなた
わたしを目覚めさせてください
覚めない夢なら いっそこのまま
どうか あなた
あなたの その手で
この胸を貫いてください
わたしを この世界の果てへと
ひなげしの花も咲かぬ
夢も 届かぬ
遥か彼方へと
どうか あなた
連れていってください
そして 夢の終焉
どうか あなた
永遠に絶ち切ってください
リオネルの胸に抱かれて歌い終えると、そうっと息を吐くのを感じた。
「綺麗な歌だね。でも哀しい」
「哀しい?」
「そうは思わない?」
「あまり考えたことがなかったのですが……」
哀しいといえば、そうなのか。
「物心ついたときから知っていたので、あまり歌詞を意識したことがありませんでした」
「大切な相手が現れるのを待ち続ける歌なのかな?」
問われてはじめて、じっくり歌詞を頭のなかで辿ってみれば、リオネルの言うとおりだ。
深い眠りというのは例えで、大切な相手がいない空虚な時間は、待つ者にとっては現実のものではないのだろう。
大切な相手が現れず、このまま夢が冷めないならば、命さえいらぬというほどに激しく哀しい歌。
「母には、父こそが待っていた相手だったのでしょうか」
ぽつりとこぼれた言葉に、リオネルがわずかに目を細める。
「わたしは、この歌が哀しい歌だと感じたことはなくて。それは、母が幸せそうにこの歌を口ずさんでいたからなのかな、とか……もちろん、母のことは少しも覚えていないのですが」
デュノア家の話題になると、皆が気を使うことをアベルは知っている。リオネルに心配をかけたくなくて、アベルは誤魔化すように最後に笑った。
けれど、リオネルは少しもつられて笑ってはくれない。
「昔、アベルにどんな歌が好きか尋ねたことがあっただろう? 覚えているか」
「はい」
あれは山賊討伐から帰るときのことだったか。
「あのとき、アベルはなんて答えたか覚えている?」
「『虹の街』です」
リオネルはうなずいた。
「ひなげしの歌を聞いていて、おれはあの歌を思い出した」
アベルが首を傾げると、小さな声でリオネルが口ずさみはじめる。
「舞い散る雪は花……」
リオネルが歌う声なんて滅多に聞けないが、低い美声だからとても心地よく響く。
舞い散る雪は花
群青色の空から
色とりどりの花
雪は 降り積もり
降り積もり
きみがいるこの街が 虹色に包まれる
迎えにいくよ
この手には なにもないけれど
きみを迎えにいくよ
舞い散る雪は宝石
哀しみ背負った空から
色とりどりの宝石
雪は 降り積もり
降り積もり
きみがいるこの街を 輝きで包む
迎えにいくよ
この手では なにもつかめないけれど
きみを迎えにいくよ
枯れた木も 凍った池も
遠い 遠い きみの家も
すべてが虹色に輝いている
迎えにいくよ
だから 待っていて
ふたりならきっと
――きみとならきっと
なにかを見つけられる 気がするから
今すぐきみを
迎えにいくよ
聞き終えると、リオネルの瞳をしっかりと見つめながら、アベルは笑った。
「……本当ですね」
リオネルの言った言葉の意味がよくわかった。
「まるで、対になっているかのようです」
大切な相手を待ち続けるローブルグの歌に、〝きみ〟を迎えに行くシャルムの歌。
「まるでおれたちのようだと言ったら、アベルは笑う?」
いたずらっぽく笑うリオネルを、アベルは見つめる。
長いこと――とても長いこと、自分はリオネルを待っていたのだろうか。
……〝それは、気が遠のくほど長いこと〟
春の風が、ひなげしの花を揺らす。
風に揺れる紅の火影。
震える胸を焼きつくす、無限の花弁。
「わたしを、リオネル様は、〝深い眠り〟から目覚めさせてくださったのですか?」
「〝この手にはなにもないけれど〟アベルを迎えにいくよ」
「わたしとなら、〝なにかを見つけられる気がするから〟?」
二人は顔を見合わせて笑った。
それから、どちらからともなく寄り添い、そっと身体を抱きしめあう。
「おれに、アベルを目覚めさせることができただろうか」
ひとりごとのようなリオネルの問いに、アベルはゆっくりうなずく。
「長い眠りから、わたしを呼び起こし、目を覚まさせてくれたのはリオネル様です」
それは長いこと、眠っていたのかもしれない。
……自分は幼く、己のことさえなにも知らなかった。ベアトリスが実の母親ではないことにも、オラスの複雑な感情にも気づかず、知らず心の底に生じていた寂しさや葛藤にさえ気づかなかった。
痛みに鈍くて、それなのに強がりで、でも本当は苦しくて。
手を差し伸べてくれたのはリオネル。
深い眠りの淵から、力強く引き上げてくれたのは、この優しい腕。
「リオネル様がいらっしゃらなければ、わたしは眠り続けていました」
「本当にアベルは目覚めたのだろうか」
リオネルの声が、甘く切なく響く。
「アベルが瞼を閉じると、このまま目を開けないんじゃないかと不安になる。いつかおれの手の届かないところへ行ってしまう気がしてならない。情けないけれど、不安でしかたがないんだ」
アベルはリオネルの胸に身体を預けたまま、ひなげしが風に揺れるのをぼんやりと見つめる。
「わたしはどこへもいきません。……不安なのは、わたしのほうですから」
「どうして?」
どうして、とは……あたりまえではないか。
リオネルは光の射す場所にいる人だ。
アベルにはあまりに遠い存在。
「どうして不安なんだ?」
答えないアベルに、リオネルが再び尋ねる。けれど、答えられそうになかった。
「アベル」
呼ばれてアベルは顔を上げる。と、正面から見つめられてやや狼狽した。こんな気持ちのときに、こんな至近距離で見つめあうのは心臓に悪い。
「どうしたら、アベルを不安にさせずにすむ?」
リオネルの問いにアベルは泣きたくなる。
彼は、本当に、どこまでも優しい。
その優しさがいつまで自分のそばにあるのか、アベルの胸に暗い予感が過ぎる。
けれど。
今、このときだけでも、リオネルの愛がまっすぐにアベルに向けられている。
それで充分だ。
たとえこの愛を失う日が来たとしても、愛されている今のこの瞬間があったのならば、生まれてきた意味がある。
だから、アベルは言った。
「口づけを、ください」
今このときだけでもいい。
リオネルを全身で感じていたい。
明日失う愛だったとしても、今がすべてだから。――今という時を、命を燃やして咲き乱れるひなげしの花のように。
わずかに見開かれたリオネルの紫色の瞳が、次の瞬間にはすっと細められる。それから、ゆっくりと身体をかがめ、身長差のあるアベルの唇にそっと自らの唇を重ねた。
触れるだけの、優しい口づけ。
けれど、離れていくリオネルの唇を引き止めるように、アベルは手を伸ばした。リオネルの後頭部に手を回して引き寄せる。
そして、背伸びして再び自分から口づけた。
なにかを求めるように唇を重ねる。
戸惑う空気をリオネルから感じたものの、アベルに応えるように腰を抱く腕に力が加わり、アベルは抱き寄せられた。
そして、深く口づけられる。
息もできないくらいに奪われれば、安心できるかもしれない、とアベルは思う。
けれど、やはりリオネルは優しく、深く口づけてもなお、まるでアベルを壊れやすい硝子細工のように扱う。いっそ壊されて、身も心もリオネルのものになってしまいたい、そんな衝動がどこからくるのか、アベル自身にもわからなかった。
長い口づけのあと、再びそっと離れていくリオネルの唇にもどかしさを感じて、アベルはうつむく。すると心配そうなリオネルの声が降ってきた。
「苦しかった……?」
そうじゃない。
苦しいのは、呼吸ではなく、胸の痛み。
この痛みはなんだろう。
そう思ったとき、アベルの脳裏にかつてのリオネルの言葉がよみがえる。
――結婚に必要なのは神々の承認であって、父上の了解ではないよ。
――アベルと生涯を共にしたい。だから、おれと結婚してくれないか。
あのときは、熱が出てしまってきちんと応えられなかったけれど。
ああそうだ、とアベルは思う。
この胸の痛みは、リオネルのことが好きだから。
好きで、好きで、怖いくらいに、苦しいくらいに、好きだから。
だから。
気持ちを自覚すれば、涙が出そうになる。アベルはリオネルの胸に抱きつき、頬を寄せた。そして、小さな声で尋ねる。首筋まで赤くなりながら。
「……もし、リオネル様のお気持ちに変わりないなら」
「え?」
「もし、わたしと生涯を共にしたいというお気持ちに、変わりないなら――」
「もちろん変わらないよ」
来たるべき言葉を予想できただろうリオネルが、わずかな緊張感をまとう。
アベルは泣きたいのを堪えて、リオネルの胸にひたいを押しつけた。
「……わたしを、リオネル様のお嫁さんにしてください」
深い沈黙が横たわり、アベルは祈るような気持ちでリオネルの服をぎゅっと掴んでいる。
すると、そっと後頭部に手をさしこまれ、わずかに屈んだリオネルの顔が近づいてきた。
再び重なった唇が、返事の代わりだった。
優しく、甘く、けれど情熱的な口づけ。
こらえていた涙が、アベルの頬を伝った。
従騎士ではない、家臣などではない、アベルは大切な愛する娘なのだと、リオネルの口づけが伝えてくる。その気持ちに、アベルは胸がいっぱいになった。
リオネルの愛の大きさ。
クレティアンとの約束や、互いの立場のことばかり考えてきたこの一週間の自分が、とても小さな存在に思えた。きっとこれからも、そんな小さな存在からアベルは抜け出ることができないのだろうけれど。
甘い吐息さえ吸い取るような口づけのあと、そっと唇を離したリオネルはアベルをきつく抱きしめてささやいた。
「ありがとう、アベル」
本当にリオネルのお嫁さんにしてもらえるのだろうか。ぬぐい切れぬ不安な気持ちのままリオネルの服をぎゅっと掴めば、リオネルにしっかりと手を握られた。
「行こう」
「え?」
「礼拝堂だ」
「は?」
「式を挙げよう」
「式?」
「結婚式だよ」