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聞きなれたこの大声は、ラザールしかいない。
「ラザールさん」
馬の腹を蹴ってこちらへ駆けてきたラザールは、大きな身体に似合わず、ひらりと地面に降り立つ。
「なにが、にこにこ笑って『ラザールさん』だ、アベル。いったい二ヶ月ものあいだ、どこへ行っていたんだ」
「ですから王都です」
「ダミアンが、王都でアベルに会えなかったと言っていたぞ」
「えっ」
そういえば、リオネルから適当にごまかすように言われていたことを思い出す。
「……それは、少し外泊していたのです」
すると周囲に集まってきた騎士たちのひとりが、にやにやしながらアベルの腕を肘でつつく。
「王都で外泊? 純粋そうな顔をして、どんな悪い遊びを覚えてきたんだ?」
「そっ、そういうのではありません」
「男なら、そろそろ興味津々の年頃だろう? 本当に知らないなら、今度、街で遊び方を教えてやるよ」
「いいです。けっこうです。大丈夫です。おかまいなく」
「そんなに及び腰にならなくたって、だれも取って食ったりしないから」
騎士らのあいだに笑いが広がる。完全にいじられている。
「いやあ、アベルなら、女たちが寄ってたかって、取って食おうとするだろうな」
「たしかにこの容姿と雰囲気じゃな」
再び笑いの渦が巻き起こったとき、別の声が響いた。
「いっそ、アベル、おまえが売春宿で働いたらどうだ? 女みたいな顔だから、男たちにもかわいがってもらえるだろうな」
冗談めかしているが、これまでの愛情あるからかい方とは違う。悪意のある言葉。
視線を向ければ、オクタヴィアン・バルトやトマ・カントルーブらをはじめ、アベルに敵意を抱いている高貴な騎士らが数名通りかかるところだった。
際どい冗談に、ラザールが大声で返す。
「ベルリオーズ家の未来ある従騎士を、だれがそんな場所に連れていくものか。なあ、アベル!」
「え、あっ……はい」
「あれ、大人たちの会話に、アベルがついていけてないぞ?」
うまく答えられないでいるのを、他の騎士がからかう。おかげで再び和やかな笑いが広がり、先ほどの和気あいあいとした雰囲気に戻った。
心無い言葉はアベルを傷つけるが、ラザールや仲間の騎士に救われた。このやり取りの直後、ラザールがひそかにオクタヴィアンらを睨んだことにまでは、アベルも気づいていなかったが。
「アベルはクロード隊長に挨拶に来たのだろう? 隊長はお部屋におられる」
そう言いながらアベルをその場から連れだしたのは、いつのまにかそばにいたダミアンだ。
「ありがとうございます、ダミアンさん」
「王都では会えなかったけど、ようやく無事な姿が見られてよかった」
「すみません、予定が合わなくて。……あの、ひとつうかがってもいいですか?」
騎士館内にあるクロードの部屋へ向かいながら、アベルはダミアンに尋ねる。
「なんだ?」
「ダミアンさんは、王都でシュザン様にお会いになったのでしょう?」
シュザンがジェルヴェーズから怪我を負わされたことは、ここへ来る途中にディルクから聞いていた。さらに、ダミアンがシュザンの様子を見にいったことも、ベルリオーズ邸に着いて館に入るまでのあいだにリオネルから聞いている。
この件については、カミーユともうひとりの従騎士をかばってのことだったと知り、アベルはひどく気にかかっていた。
「ああ、公爵様のご指示を受けてシュザン様のもとへうかがったんだ」
「どのようなご様子でしたか?」
「アベルは会っていないのか?」
意外そうにダミアンが尋ねてくる。王都にいて、互いに面識があるのに、直接会っていないのだから、当然不思議に思うだろう。
「えっと……そうなんです。その……ご静養中に押しかけてもいけないと思って」
そうか、とうなずきながらダミアンはシュザンの様子を説明してくれる。話を聞きながら、アベルは胸が痛んだ。
アベルもかつて五月祭の折りに、ジェルヴェーズから暴行を受けたことがある。成人男性であっても、彼の与える痛みが半端なものではなかっただろうことは察せられた。
「ご本人はしっかりした様子でおられたし、大丈夫だろうとは思うが」
「……そうですか」
シュザンのことを案じると同時に、アベルは王都にいる弟カミーユに思いを馳せる。
昔から剣や乗馬より、勉強をしているほうが性に合っているような、大人しい子だったが、成長するにつれて、はっきりと気の強さや芯の強さのようなものが垣間見えるようになった。
頼もしいことだが、それはジェルヴェーズにけっして屈服したくないという感情に繋がるだろう。この先、カミーユの身になにかあったら、と思うとアベルは背筋が寒くなる。
近くにいればなんとかして守ることも、気をつけるように助言することもできるのに、もどかしく思う。
話しているうちに、騎士館内の一室に辿りつく。騎士館の外観はやや殺風景だが、天下のベルリオーズ家の騎士館だけあって、内装はこぢんまりとしながらも優美だ。
ダミアンに案内されて部屋に入り、アベルはクロードと対面した。彼の従騎士であるジュストも部屋にいて、セレイアックで幾度も会っていた二人は、互いに視線だけで挨拶を交わす。
と、クロードが明るく声をかけてきた。
「ああ、アベル。よく戻ってきた」
ときに呑気にも見えるほど、常に変わらぬ屈託のない笑顔と明るい態度は、クロードの美徳だ。
「長らく不在にし、ご迷惑をおかけしました」
「ああ、大丈夫だ。なにも心配しなくていい」
クロードは今回の詳細を知らないはずだが、ジュストからなにか聞いていたのか、あるいはリオネルやクレティアンから感じとるものがあったのか、いつもに増しておおらかな態度だった。
アベルとクロードが話す様子を、ジュストは黙って聞いている。
「ありがとうございます。不在だったぶんも含め、しっかり働きます」
「いや、久しぶりだろうし、従騎士の仕事はできる範囲でやりなさい。困ったことがあればジュストに相談すればいい」
ジュストがアベルに視線を向けてうなずく。皆の優しさが胸に沁みた。
「ご配慮いただきありがとうございます。ジュストさんに教えてもらいながら、力を尽くします」
クロードはにこにこと笑う。
「あいかわらずの頑張り屋だな。まずは、しっかり食べて元気でいることが、従騎士の一番大事な仕事だ。わかったな」
そう言いながら、ぽんと肩を叩くクロードの屈託のなさに、アベルはほっとする。
敵意を向けてくる騎士もいるが、ラザール、ダミアン、クロード、ジュスト、その他にも声をかけてくれる気さくな騎士たちのおかげで、アベルは無事にベルリオーズ邸での日常に戻ることができたのだと実感した。
+
一方、アベルがいなくなって騎士らが散り散りになった乗馬場では、ラザールがオクタヴィアンらを呼び止めていた。
「ちょっといいか」
「これはラザール殿。どうかしたのか」
振り返ったのは、オクタヴィアン・バルトで、いっしょにいたジェローム・ドワイヤン、ロベール・ブルデュー、トマ・カントルーブらも足を止める。彼らは皆、由緒ある家柄の者たちで、ベルリオーズ家に深い忠誠心を抱いている者たちだ。けれどその忠誠心が、ときに排他的にもなる。
そんな騎士らに、ラザールは低い声で告げた。
「さっきは、随分とつまらない冗談だったな」
「つまらない? それは失礼。私たちも楽しそうなところに加えてもらいたかったのだが」
オクタヴィアンは、高貴な者特有の上品な笑顔を見せる。
「おもしろい冗談の手ほどきなら、いつでもしてさしあげるが?」
「それは頼もしい、考えておこう」
これ以上の会話を避けるように、仲間へ目配せしてオクタヴィアンが去っていく。ラザールは片眉を上げて彼らの後ろ姿を見送った。
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大きな窓から差し込む陽射しは、室内を暖めるほどではないが、優しく暖かい。
広すぎるほどの部屋に、カミーユはぽつんと所在なく座っていた。
螺鈿細工の美しい小卓に、手触りのよいビロード生地の肘掛け椅子。壁の装飾から、カーテンまで、なにもかもが豪華で洗練されている。
ノエルに従って近衛の仕事をする際に、このような特別な部屋に入ることはあるが、カミーユは壁際に立つことが許されるだけで、けっして椅子に腰かけることなどない。
緊張しながら、カミーユはきっちりと両手を膝に置いて待っていた。
ここは、ブレーズ家のために王宮内で用意されている一室。
むろんカミーユの部屋ではなく、従兄弟のフィデールを待っているのだ。
さすがは公爵家ともなると、これだけの部屋が王宮に用意されるのか。そんなことをしみじみと思えば、カミーユの脳裏にひとりの青年の顔が浮かんだ。
リオネル・ベルリオーズ。
彼は王都にいてもほとんど王宮に寄りつかず、ベルリオーズ家別邸に留まっているが、おそらくこの部屋と同等の一室は用意されているのだろう。いや、彼こそが、本来は〝王子殿下〟と称されるはずの人物だったのであって……。
そんなことにまで考えが至れば、あらためてリオネルがどれほど高貴な血筋なのかということを思い知らされる。
「正式にお嫁になんて……そんなこと」
できるはずない。
デュノア家を追放されたシャンティが、リオネル・ベルリオーズの正妻になどなれるはずないのだ。それをあの男は真剣に語るのだから、カミーユでさえ呆れる。
リオネルが考えの浅い人間ではないことも、カミーユは知っている。だからこそ、彼の言葉に心底呆れるのだ。
「……どれだけ、姉さんのことが好きなんだよ」
ぶつぶつ言っていると、不意に部屋の扉が開く。カミーユは慌てて立ち上がった。
「遅くなってすまなかった」
「とんでもありません」
フィデールは今日も、背の高い異国人の従者を従えている。カミーユはこの男が声を発するところを聞いたことがなかった。
斜め向かいの椅子に腰かけながら、フィデールが声をかけてくる。
「待たせたな」
「私が早く着いてしまっただけです」
フィデールに促されてカミーユも腰掛ける。今日この部屋を訪れたのは、フィデールに呼ばれたからだ。
「飲み物は?」
「大丈夫です」
「故郷から届いた葡萄酒がある。いっしょにどうだ」
「あ、はい。では、いただきます」
カミーユの返事にフィデールはくすりと笑った。
「緊張しているのか?」
「えっ、あ、まあ……その、こんな部屋の椅子に、私なんかが座っていいのかと思って」
「ここはブレーズ家の部屋だ。おまえはブレーズ家の血を引くのだから、いつでもここを使うことができる」
とんでもない、とカミーユは思う。
ベアトリスはたしかにブレーズ家の令嬢だったが、自分はデュノア家の跡取りだ。
けれど、はっきり否定するのもどうかと思ったので、曖昧にうなずけば、目のまえにグラスと葡萄酒が用意された。
見ているだけで酔ってしまいそうな濃い色の液体を、酌取りがグラスへ注ぐのを見ながら、フィデールが語る。
「ブレーズ領内で作られた葡萄酒だ。収穫時期を遅らせ、充分に熟した葡萄のなかでも、さらに選び抜いたものだけを使っている」
「……へえ、そうなのですね」
まえに置かれたグラスを、カミーユはまじまじと見つめた。フィデールは早速グラスを優雅な仕種で口に運びながら、ほほえむ。
「眺めていても、味はわからないと思うが」
こういうときのフィデールの表情は、カミーユから見ても魅力的だ。
優しげ、ではない。素直な笑みでもない。
暗さを秘めた、どこか危うい笑み。
けれど、その危うさのなかになにか人を惹きつけるものがある。
「どうした?」
ぼんやりするカミーユに、フィデールが訝る眼差しを向けた。
「あっ、そうですね」
我に返ってカミーユはグラスへ手を伸ばす。
溜息のでるような芳醇な香り。
けれど、ゆっくりと口にしてみたそれは、想像していたような濃い風味ではなく、とても爽やかだった。
「香りが素晴らしく、甘みと酸味と苦みの均衡がいいだろう」
そういうことかとカミーユは思う。おいしい葡萄酒というのは、香りがよく、けれど味に癖がないのだ。
「気がつけば、何杯飲んだかわからなくなっている」
「それが、おいしい葡萄酒なんですね」
グラスに口づけたまま、フィデールは青みがかった灰色の瞳をカミーユへひたと注ぐ。
「……頬の腫れはだいぶ引いたようだな」
「え、あ、はい」
頬の腫れとは、ジェルヴェーズに暴行されたときのものを言っているのだろう。肩を蹴られ、頬を殴られたが、後に残るようなひどい怪我にはならなかった。
「ご心配をおかけしました」
「ずっとカミーユと一度話したいと思い、怪我が治るのを待っていたのだ」
「怪我なんて、たいしたことありませんでした」
「ああ、今回はな」
フィデールの台詞に、カミーユは言葉を呑む。
「シュザン殿や父上が現れなかったら、どんなことになっていたか、わかるか」
「…………」
「おまえになにかあったら、叔母上がどれほど哀しむことか」
ベアトリスの名を出されて、カミーユは胸に黒いインクがぽとりと落ちたような心地になった。
大好きだった。
腹を痛めて自分を産んでくれた、かけがえのない人。
けれど、シャンティに対する仕打ちは、普通の感覚を併せ持つ人間のやることではない。
「いいか、カミーユ。ジェルヴェーズ殿下には、今後一切近づいてはならない」
近づくなと言われても、今回はあちらから勝手に近づいてきて、雪だるまを蹴り倒したのだ。
「殿下がそばにいるときは、けっして目を合わせず、瞼を伏せ、視線を下げ、聞かれたことに対してだけ答え、刃向かう姿勢を見せてはならない」
カミーユは黙っていた。
すると、フィデールが声を低める。
「父上が通りかからなかったら、シュザン殿はどうなっていたと思う?」
返す言葉もないほどに、フィデールの言うことは正しい。あのままだったら、シュザンは骨にひびが入ったくらいではすまされなかっただろう。
「おまえのことだけではない。周囲を巻き込むことになるんだ」
シュザンの名を出すことで、カミーユを効率的に説得できることを、フィデールは知っているようだった。
「殿下はこのところ気が立っておられる。これから先、エストラダの緊張も高まり、さらに王宮には張りつめた空気が流れるはずだ」
カミーユはうつむき、グラスを握りしめた。
「ジェルヴェーズ殿下のまえでどう振る舞うべきか、よく考えなさい」
カミーユは返事もうなずきもしなかった。
かつてシャンティを痛めつけ、常に気に入らない相手には容赦せず、さらに、だれもかもを自らの思いどおりにさせようとする――そんな王子に屈することは、カミーユの生き方を曲げることだった。
かといって、フィデールの言っていることは理解できる。
自分の信念……悪く言えば意地のために、周囲を巻き込んではいけない。
ここは、おとなしくしているのが、賢い態度なのだろう。
「不本意だが、首を縦に振るまで私はおまえを部屋から出すことはできない」
フィデールが心配してくれていることも、よくわかる。彼にこのようなことを言わせていること自体が申し訳なかった。
そう、きっとシャンティのためにも、おとなしくしているほうがいいのだろう。
カミーユは小さな声で言った。
「これからは、気をつけて振る舞います」
フィデールが浅く溜息をつく。
「本当だな」
カミーユはうなずいた。
「大切な人たちを、傷つけたくないし、哀しませたくありません」
でも、とカミーユは顔を上げる。
「私は、人として忘れてはならないものもあると思うのです」
「人として?」
「どうしても譲れない――それを譲ったら、自分が自分でなくなってしまうものって、ありませんか」
フィデールは冷ややかな青みがかった灰色の瞳を、カミーユへ向ける。自分もこんな冷たい眼差しをしているのだろうかと、カミーユは一瞬どきりとした。
ベアトリスと同じ色の、瞳。
「そこまでして守るべき自分とはなんだ?」
「それは……」
咄嗟に答えられない自分がもどかしい。
「答えられないなら、譲れないものなど、端からありはしない」
返す言葉も見つからず、カミーユは押し黙った。悔しかった。自らの未熟さを見せつけられた気がした。
きっと、きっといつか、フィデールから向けられた問いに、胸を張って答えられるようになろう。そうカミーユは胸に誓う。
人として忘れてはならないものは、絶対にある。人間は、悪魔のように残酷にもなれる生き物だが、すべての人がそうではない。そうではない人を、カミーユはたくさん知っている。
自分で在り続けるために、譲れないもの。
その〝自分〟とは、いったい何者なのか。
カミーユが、香りのよい葡萄酒と共に呑み込まなければならなかったもどかしさは、きっと時を経て大きな志となるだろう。
この部屋を出たら、コンスタンと話をしに行こうとカミーユは決めていた。
コンスタンなら、カミーユの思いをしっかり聞いてくれるだろう。そして、彼もまたたくさんの思いをカミーユに語ってくれるのだ。
二人の話は、いつまでもきっと――大人になってもなお尽きないだろう。
いつも拙作をお読みくださり、ありがとうございます。
あと2話で第八部も最終回となります。
連休中にあと1話くらいは投稿できたらなあとは思っているのですが、できない可能性も高いので、そのときはごめんなさいm(_ _)m
あと少しですが、最後までお付き合いいただけましたらとても嬉しいです。yuuHi