73
「どこいってたの、アベル!」
館に戻って真っ先にアベルが向かったのは、イシャスのもと。
本来はクレティアンに挨拶しにいくべきところだが、今回だけはどうしても先に会いたかった。
訪れたイシャスの部屋。扉口に現れたアベルを見て、イシャスは遊んでいた木のおもちゃを放り出し、飛びつくようにしがみついてきた。
「ごめんね、イシャス」
長らく不在にしていたことを怒る様子でアベルの身体を小さな拳で叩く。
「どこ、いってたの。アベル、アベル」
「こら、イシャス。アベルを叩いたらだめよ」
エレンがすぐにイシャスを諌めた。
「いいんです、長いこと不在にして、すみませんでした」
アベルが頭を下げると、エレンは微妙な面持ちになる。
「……大丈夫だったの?」
「ええ、もちろんです。仕事で王都へ行っていただけですから」
「そう――ならいいけれど。なんとなくね、もう戻ってこないのかと思ったのよ」
エレンの鋭さにアベルは押し黙る。
「リオネル様も公爵様も承知のうえと聞いていたから、大丈夫だとはわかっていたのだけど、あんまり長いし……」
こちらの表情をうかがうエレンの眼差しは、真相を探ろうとしているようだ。アベルは笑ってみせた。
「すみません、忙しかったもので」
「ふうん。少し痩せたかしら」
「仕事が忙しかったので」
「でも、なんだか雰囲気が違うわ」
まじまじと見つめられて、アベルはたじろぐ。
「雰囲気、ですか?」
「もしかして、リオネル様となにかあった?」
「なにかって……なにもありません」
なにか勘づいたらしいエレンにアベルはどぎまぎする。
「わたしは三年前からずっとあなたたちのことを見てきたのよ。……そういえば、ちょうどあなたがいなかった期間に、リオネル様もいなかったわね」
じっと見つめられ、アベルは思わず窓のそとへ視線を向けてしまう。これでは認めているも同然だ。
二人が話しているあいだに、イシャスはアベルの腕から離れ、今度は足にまとわりついて片手に持ったおもちゃをいじっている。
「なにかあったわね」
「いえ――」
努力して視線を戻してみたが、すでにエレンの瞳には確信めいた色が宿っていた。
「じゃあ、わかったわ。どこでなにをしていたかは聞かないから、リオネル様となにがあったかだけ、教えて」
エレンの追求からは、逃げきれる気がしない。
それに、エレンはすでに多くの事情を知っているし、長いことアベルとリオネルを見守ってくれている。伝えるべきなのかもしれないとアベルは思う。
逡巡しながらも、アベルはうなずいた。
エレンの眼差しが痛い。
ある種の緊張から、アベルは小さく息を吐き、それから口を開いた。
「……リオネル様から、その……告白されたことは、ご存知だと思います」
「ええ、それはまえに話したわね」
ユスターでの戦いから戻ってきた後、エレンに問い詰められて、やはり逃げきれずにアベルは口を割っていた。問われた時点でエレンはすでに確信していたので、隠しようがなかったのだ。
「あの、つまり……、わたしも、リオネル様が好きだと気づいたのです」
「それは、なんとなくわたしも気づいていたわ」
思いきって口にしたというのに、当然のように言うエレンにアベルは拍子抜けする。
「気づいて……?」
「あなたの場合、忠誠心との境目が曖昧なのね。出会って間もないころから、アベルはリオネル様を盲目的なまでに慕っていたじゃない」
エレンの言うとおりだった。すべて見抜かれている。
「それで?」
「わたしは……その気持ちを、リオネル様に伝えました」
「まさか! 本当に?」
エレンの声が途端に輝く。
「え、ええ」
「それで、両想いに?」
「ええ、まあ……」
エレンは両手を口に当てて、目を見開いた。
「リオネル様とあなたが!」
「あの、エレン?」
「やっと……やっと想いが通じ合ったのね! あなたは鈍感なうえに生真面目だから、ずっと自分の気持ちに気づかず、ましてや想いを伝えるなんて想像できなかったわ!」
こんなに驚かれると、アベルも恥ずかしくなってくる。
「いえ、あの、両想いになったといっても、クレティアン様に許されるはずもありませんし、一生私は従騎士のままで……」
しどろもどろ言うアベルにかまわず、エレンはアベルの手を取り、力を込めた。
「きっとだれより喜んでいるのは、この鈍感な娘に恋をしてしまったお気の毒なリオネル様ね」
「…………」
「二ヶ月もいなかったと思ったら、どこでなにをしていたか知らないけど、そんな進展があったなんて」
「けれど、わたしたちは生涯、主従という関係です」
「そんなことは、今はどうでもいいのよ。わたしもそのことを考えて、重い気持ちになったことはあるけれど、長らく苦しんでいらしたリオネル様のお心を思えば、想いが通じ合っただけで、わたしは本当に嬉しいわ」
そう言いながらエレンは瞳を潤ませる。
「その点については……わたしが鈍感なせいで、リオネル様に大変なご苦労をおかけしました」
「本当にね」
「エレンにも」
長いことエレンには心配をかけてきたのだろう。瞳を潤ませるエレンをまえにして、アベルはあらためてそう思った。
「本当にね」
先程と同じ台詞を繰り返しながら、エレンはいたずらっぽく笑う。
「ありがとうございます、エレン」
「なにを感謝するの?」
「出会ってから今までのこと、ずっと……わたしたちのことも、イシャスのことも」
エレンは嬉し泣きの顔に、くすぐったそうな笑みを浮かべる。
「苦しみながら遠回りしてきたのは、リオネル様と、アベル――あなた自身よ。この先も平坦な道ではないことくらい、私にもわかるわ。イシャスのことだって、あなたは苦しみながら愛してきた。これから先も泣きたくなるほど辛いことはたくさんと思う。でも、それでも一歩進めたのだから」
アベルはこくりとうなずく。
この先、リオネルと結ばれる未来はこない。そのことはアベルも、エレンもよくわかっている。
女性としてではなく、従騎士アベルとしてリオネルに仕えることを許された。
哀しいけれど、一方で、これでいいのだという気もした。リオネルのそばに居られる以上のことを求めたら――多くを望みすぎたら、いつか罰が下る。そんな気がした。
「わたしは、充分に幸せです」
アベルの言葉に、エレンは曖昧に笑う。
ずっと応援しているわ、とエレンはささやくようにつぶやいた。
なぜだかアベルは無性に泣きたいような気持になって、足元にいたイシャスを抱き寄せることでその感情を紛らわせる。すると、イシャスが小さな手でアベルの頭を撫でてくれる。
あいかわらず、イシャスはあたたかく、ミルクのような少し甘い香りがした。
+
クレティアンの部屋へ赴く直前、アベルはリオネルの部屋の扉をたたいた。声をかけるようにと言われていたからだ。
大きく重厚な扉に、アベルは少し緊張する。
セレイアックのセルヴァント通りの部屋の、小さな扉が思い起こされて、胸を締め付けられた。
扉を開けてくれたのはベルトランだ。視線が合うと、軽く肩をたたかれる。それだけで、彼の気持ちは伝わった。
ベルトランへ小さく笑みを返し、扉から一歩なかへ入れば、机に向かっていたリオネルが顔を上げた。
「アベル」
「遅くなり申し訳ありませんでした」
アベルは頭を下げる。こうしていると、やはり街で過ごした時間が嘘だったかのように、以前の主従関係に戻ったようだった。
そのことが、寂しく、けれど一方で安堵もした。エレンに語った言葉は本心だ。もうアベルは充分に幸せだ。多くを望めば、失うことになる。
リオネルのそばに居られる以上の幸福はないのだから。
「べつにかまわないよ」
こちらへ歩んできたリオネルが、頭を下げるアベルの頬に触れて顔を上げさせる。
「頭なんか下げなくていい」
ゆっくりとアベルは視線を上げる。
間近で視線が絡みあう。けれど、言葉は出なかった。リオネルもアベルの瞳を見つめたまま。
互いに抱くもどかしさを口にしてしまえば、先の見えない迷宮に迷い込むことになるだろう。
アベルは思いを胸に秘めて、ようやくほほえんだ。
「イシャスやエレンと長く過ごしすぎてしまいました」
「いいんだ。二人とも喜んでいただろう?」
「はい」
アベルが笑えば、深い紫色の瞳がわずかに細められる。
「二カ月前……」
「え?」
「二カ月前、凍えるような夜、おれはデュノア邸へ赴くアベルを、この館の前庭から送りださなければならなかった」
「そう、でしたね」
「引き離されて、もう二度と会えないかもしれないというだけではなくて、アベルの身になにかあったらと、不安だった。アベルが行方不明になったと聞いて、生きた心地がしなかった」
リオネルがどれほど心配してくれていたのかと思えば、アベルは胸が苦しくなる。
「再会したアベルの手を放したくなくて、我儘を言って街での生活に付き合ってもらった」
リオネルの我儘に付き合ったのではない。いつだって与えられているのはアベルのほうだ。
「けれど、アベルと過ごした街での生活は、おれにとって信じられないくらい幸福で」
「……わたしもです、リオネル様」
今だけは、そう口にしてもいいだろう。
なんの過去も身分も背負わない、ただ互いを想う二人でいられた日々。
アベルの言葉に、リオネルがかすかにほほ笑む。
「そして、こうしてベルリオーズ邸へ、アベルと共に戻ってくることができた」
ひとつ、アベルはうなずいた。
市井での生活は、多くの犠牲のうえに成り立っていた。なにかを犠牲にして、真の幸福は続かないだろう。
リオネルとアベルのあるべき場所――それはまがうことなく、このベルリオーズ邸なのだ。
「今は、このベルリオーズ邸に、アベルと共にいられる――言葉にならない気持ちだ」
リオネルへ向けてもう一度ほほえんでみせたつもりが、泣きそうな表情になる。
本当に色々なことがあった。すべて夢だったかのようだ。それは、残酷な夢であり、同時に幸福な夢でもあって――。
「アベルが生きて、元気で、そばで笑っていてくれている。それだけで、おれは幸せだ」
まっすぐな言葉は、アベルの胸にあるとても深い場所へじんわりと沁みて、あたたかく広がっていく。
「どこにいたって同じだ。セルヴァント通りでも、ここベルリオーズ邸でも」
「はい」
アベルはリオネルを見上げ、心から告げた。
「恋人とか、主従とか、そういうものを超えて、リオネル様のことが大好きです」
リオネルの手がアベルの髪に触れる。
「ありがとう、アベル」
ベルトランが苦労して気配を完全に消していたそのとき――、半開きの扉からひょいとディルクが顔を出す。
「アベルいる? って、あれ、お邪魔だったかな?」
「いや、大丈夫」
アベルはだれかに見られたのではないかとやや慌てたが、リオネルは相手がわかっていたのか、落ち着いた様子で親友に笑みを返した。
ディルクのそばにはレオンとマチアスの姿もある。
「申し訳ありません、そろそろアベル殿は公爵様へご挨拶にいく時間かと思いまして」
恐縮した様子で、マチアスが頭を下げる。
「ああ、これから向かうところだ。ディルクとレオンは?」
「おれたちも今からだ」
答えたのはレオンである。彼らは着いてからしばらく時間があったはずなのに、何をしていたのだろう。不思議に思ってアベルが首をかしげると、ディルクが説明する。
「アベルといっしょに挨拶しようと思って。ほら、公爵様もばらばらに挨拶に来られると大変だろうから」
「そもそも、おまえが居間でだらだらと過ごしていたから、こんな時間になったのだ」
レオンの指摘にディルクは屈託なく笑う。
「まあ、それもあるけど」
レオンはごまかしたが、アベルにはわかる。アベルがクレティアンと二人きりになると気まずいだろうと、ディルクたちは配慮してくれたのだ。
皆の気遣いと優しさが胸に染みる。
「ありがとうございます」
クレティアンと二人きりになることを避けていたわけではないが、ディルクらと一緒のほうがむろん緊張は和らぐ。アベルは素直に礼を言った。
「別にお礼を言われることじゃないよ」
少し困ったようにディルクは頭をかく。
すると、リオネルが政務の束を簡単に片づけながら言った。
「おれも行くよ」
リオネルはすでに一週間この館にいるので、挨拶の必要はないはずだ。アベルと同様の疑問を、ディルクも抱いたらしい。
「おまえが行ってどうするんだ?」
「アベルやディルクが行くのに、おれがいないとおかしいだろう」
「……まあ、それもそうか?」
ディルクは納得したようなしないような様子だったものの、一同はそろってクレティアンの部屋へ向かうこととなった。
+++
緊張してクレティアンのもとへ行ったが、挨拶は思いのほかあっさり終わった。
ディルクやレオンにはゆっくりと過ごすようにと、アベルにはしっかり職務に励むようにと告げ、クレティアンはそれ以上のことはなにも語らなかった。まるで、リオネルとの関係については触れたくないかのような――あるいは、ここでは、二人のあいだは主君と家臣でしかないのだと示すかのように。
けれどそれは、おそらく正しい態度なのだ。
ここでのアベルは従騎士であり、リオネルの恋人ではない。それをしっかりわきまえなければならないということを、クレティアンの態度は、はっきりと示していた。
切なさと、身の引き締まる思いとを抱き、アベルはクレティアンの書斎を辞し、それから、リオネルらに断って騎士館へ向かう。クロードはじめ他の騎士たちにも挨拶するためだ。
騎士館の門をくぐるとすぐ、大声で名を呼ばれた。
「アベル! アベルじゃないか! 戻ってきたのか」