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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
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 幅の広い公道は、溶けかけの雪で茶色くぬかるんでいる。泥水を跳ねながら、アベルは軽快に馬を駆けていた。


 セレイアック大聖堂を発ったのは今朝のこと。

 今アベルの胸には、エマやカトリーヌと別れた寂しさ、二カ月ぶりに戻る日常へのわずかな緊張感、そしてリオネルや仲間たちと再会できる喜びなどが、複雑に入り混じっていた。


 イシャスやエレン、ベルリオーズ家に仕える騎士たちは、変わりないだろうか。

 離れていたあいだに様々なことがあったせいで、皆のことがひどく懐かしく感じられる。


 リオネルとはほんの一週間離れていただけだというのに、やはりとても長いあいだ会っていないような気がした。


 さらに、アベルにはこの一週間、ずっと気にかかっていることがあった。

 ……リオネルの気持ちに対し、アベルはまだ返事をしていない。

 自分のような者に求婚してくれたのに、あのときは動揺してまともな返事ができなかった。


 このまま曖昧なままではいけない。いや、アベル自身がきちんと応えたいのだ。


 リオネルの愛に、応えたかった。

 公然に結婚できる日など、永遠にこないだろうが――。


 そう考えれば、今朝のエマとの会話が思い出された。


 別れ際、大聖堂を出るとき、アベルは祖母の形見である瑠璃の首飾りをエマに手渡したのだ。





『シャンティ様、なぜでございますか』


 瑠璃の首飾りを渡されたエマは、戸惑う様子だった。


『これは、お祖母様、母、そしてわたしのものだった首飾りよ』

『ええ、そうですね。本当に』

『お祖母さまや母をよく知る――そしてわたしを育ててくれたエマに持っていてもらいたいの。わたしには今、リオネル様からいただいた水宝玉の首飾りがあって、二つ首から下げることはできないし』


 瑠璃の首飾りを見つめたまま、エマは黙りこんだ。


『あげるわけじゃないわ。預かっていてほしいと思って』

『お預かりする?』

『いつか、時がきたら返してもらうわ。いいでしょう?』


 アベルにとって、あげるのか預けるのかということについては、さほど大きな問題ではなかった。エマに持っていてほしいという気持ちが大きいのであって、形はどちらでもいいのだ。

 ただ、あげる、と言えばエマはけっして受けとらないだろう。

 だから預かってほしいと言った。


〝時がきたら〟とアベルは言ったが、エマはそれがいつなのかとは問わずに、じっと考えていた。あまりに長く考え込んでいるので、アベルはエマの手からそっと首飾りをとり、立ち上がってエマの首にかける。


 かすかに驚くエマへ、アベルは笑いかけた。


『はい、これでよし』


 エマは、しかたなさそうにうなずく。


『……そこまでおっしゃるのなら、わかりました』

『預かってくれる?』

『ええ、では再びわたしがお預かりいたします。そして、いつかお嬢様がご結婚されたときにお返しいたします』


 アベルは曖昧に笑った。


『そういう意味なら、返す機会はないかもしれないわ』


 エマもまた笑ったが、とても穏やかで優しい笑みだった。きっとエマはその日がくると信じているのだろう。あるいは信じたいのかもしれない。


 では、アベル自身はどうだろう。

 先のことは、想像もできなかった。

 今は、リオネルのそばにいられる、ただそれだけがすべてだ。





 馬の軽快な揺れに身を任せながら考え込んでいると、不意に声がかかる。


「休憩する?」

「あ、いえ、大丈夫です」


 驚いて振り向けば、ディルクがちょうど馬を寄せてくるところだった。


「本当? 無理しちゃだめだよ」


 もともとひとりでシャサーヌまで行くつもりだったアベルに、自分もベルリオーズ邸へ行ってのんびりしたいからとディルクがついてきたのだ。むろん、マチアスとレオンも一緒である。


 ディルクが言うには、謹慎処分を受けたときに政務をかなり片づけたため、アベラール侯爵は反対しなかったらしいのだが、真相はマチアスしか知らないだろう。


「エマやカトリーヌとの別れはどうだった?」


 アベルの横にディルクが馬を並べる。四月初頭の空気はまだ冷たいが、それでもアベルの頬をなでる風には、たしかな春の気配が感じられる。


 アベルは別れ際の二人の様子を思い浮かべた。


「エマは笑顔でしたが、カトリーヌがずっと泣いていて、後ろ髪をひかれました」


 小さくディルクがうなずく。


「そうか、彼女は人一倍アベルを思っているからね」


 アベルはディルクを見やった。なにかを知っているようだったからだ。


「――以前デュノア邸を訪れたとき、カトリーヌと話したことがあったんだ」

「デュノア邸で?」

「シャンティの身に起こったことや、感じていたことを知りたいと告げたら、〝シャンティ様の痛みは、あなたにはわかりません〟って言われたよ」

「…………」

「憧れ続けた相手から一方的に婚約を破棄されたうえに、伯爵からはそのことで責められなければならかったシャンティの痛みは、おれにはわからないと」

「……すみません、カトリーヌが大変失礼なことを」

「とんでもないよ」


 アベルが謝るとディルクはかすかに首を横に振った。


「カトリーヌが言っていたことはどこまでも真実だ。……ねえ、アベル。きみに気づいてほしいんだけど」


 あらためて名を呼ばれ、アベルはディルクを見つめる。

 柔らかい薄茶色の瞳が、真剣にこちらへ向けられていた。


「アベルの出生も、三年前に襲われたことも、おれが婚約破棄したことも、すべてアベルのせいじゃない。たったの一つだって、アベルが原因を作ったものなんかない。デュノア伯爵がアベルを責めたのは、とんだお門違いのやつあたりだ」


 ディルクの口ぶりに、アベルは小さく笑いそうになってから、けれどうまく笑えなかった。


「アベルは、ずっと自分を責めているだろう?」


 自分自身を責めているつもりはなかった。

 けれど、言われてみればそうなのかもしれない、とも思う。


「そろそろ気づくときだよ、アベルはなにも悪くないって」


 いつもの明るく屈託のないディルクの言葉なのに、不思議と目の奥が熱くなる。


「ありがとうございます」

「……お礼なんていいからさ、おれの言ったことわかった?」

「なんとなく、わかったような気もします」


 わかったとしても、きっと急になにかが変わるわけではないかもしれない。それでも、心のなかではなにかが変わりはじめたらいい。


「なんとなくじゃなくて、こう、雲間から光が差すように、ぱあっとわかってほしいんだけど」


 アベルは笑った。


「では、ぱあっとわかりました」

「〝では〟ってなんだ?」


 ついディルクの言い方がおかしくて笑ってしまう。


「笑ってる場合じゃないぞ? おれは真剣に話しているんだよ」

「いいではありませんか」


 二人の会話が聞こえていたらしいマチアスが言った。


「なんとなくわかることが、第一歩です。こういうのは、少しずつ感じていくものではないでしょうか」

「さすが従者殿、いいことを言う」


 レオンがそれに加わった。


「なんだ、おまえたちいつもおれを地獄耳呼ばわりしているわりに、話を聞いているのはそちらじゃないか」

「ディルク様はお声が大きいのです」


 そうそう、とレオンがマチアスに同意する。

 いつもの冗談めかした雰囲気になりそうだったので、そのまえにアベルはディルクをまっすぐに見つめて告げる。


「ディルク様のお気遣い、わたしは言葉もないほど嬉しいです。おっしゃってくださったこと、心にとめておきたいと思います」


 ディルクがきょとんとした顔になったのは一瞬のことで、すぐに笑みが口元をかすめた。


「ありがとう、アベル」

「お礼を言うのは、わたしのほうです」

「ああ、それにしてもアベル。ついにリオネルのところへお嫁にいってしまうのか。今更ながら惜しくなってきたよ……ぃてッ」


 ディルクの頭になにかが当たって落ちる。落下していくそれを目で追えば、どこにあったのか、茶色い木の枝だ。


「なにすんだよ、レオン」

「アベルは嫁にいくわけではないし、〝惜しい〟というのはなんだ。せっかく心温まる場面だったのに、きわどい冗談を言うな」


 レオンは呆れた様子だ。けれどマチアスはというと。


「そう思われるなら、いっそこのまま連れ去ってはいかがですか?」


 レオンがぎょっとした面持ちになった。


「従者殿……」

「ああ、いいね。このまま連れ帰って、おれのお嫁さんにしてしまおうか」

「ディルク様は、やはり冗談が得意でおもしろいですね」


 アベル、ディルク、マチアスの会話に、レオンがひとり愕然としていたことを、だれも気づいていない。


「従者殿は、どれだけ恐ろしい男なんだ……? アベルとディルクの会話も、ある意味では普通ではない」


 ぶつぶつ言うレオンをディルクが振り返る。


「なにか言った、レオン」

「いや……なんでもない」


 アベルとの会話に夢中で、さしもの地獄耳のディルクも、レオンの声は聞こえてなかったようだ。


「さあ、次の街で休憩をしましょう」


 マチアスのひとことで、心なしか皆の駆ける馬が軽快さを増したようだった。






+++






 ベルリオーズ邸の応接間の天井に描かれている風景画を思わせる、壮大な空。


 周囲にまだわずかに残る雪と同じ白さの壁に、はっとさせられるような鮮やかな紺色の屋根。雪のかぶっていない土からは、ひなげしや白詰草などの小さな花々が顔を出し、蝶が舞いはじめていた。


 二ヶ月ぶりのベルリオーズ邸は、春の訪れを感じさせる景色のなかに、壮麗なその佇まいをみせている。


 戻ってきたという深い感慨と共に、あらためて目にするベルリオーズ邸に、アベルはやや気後れした。同時に、胸に突き刺さるように感じる強い確信がある。


 ――やはり、リオネルにはこの館がふさわしい。


 街の片隅で、アベルのためだけに生きるのではなく、このベルリオーズ邸で、多くの人々の中心となって生きる人。


 ベルリオーズ邸をまえにして、アベルは思う。

 リオネルとの再会は嬉しくもあり、けれど、少しばかり怖いような気がしていた。セルヴァント通りの、あの狭い部屋でアベルと共に過ごしたリオネルは、もうどこにもいないような気がした。


「どうしたんだ?」


 馬の足を止めてしまったアベルに気づき、ディルクが手綱を引く。


「なんでもありません」


 なるべく普通に答えたつもりだったが、アベルの返事にディルクが引き返してくる。


「……リオネルに会うのが怖い?」


 言いあてられて、アベルは視線を伏せた。普段は冗談ばかりなのに、肝心なところでディルクは驚くほど鋭い。


「大丈夫だよ、街にいたリオネルとなにも変わらないから」


 ……すっかり〝身近なリオネル〟に慣れてしまっていた自分に気づく。


 そう、ディルクの言ったとおり、怖いのだ。

 あらためて主人と家臣という関係で会うことが、アベルは怖かった。


 ベルリオーズ邸でリオネルと共に暮らし、近くで彼を守ることが、アベルの望みであり幸せでもある。けれど。


 会えば、あの狭い部屋で過ごした幸福な時間が、泡のように儚く消えてしまうような、そんな恐怖もまたどこかにあった。


「なんなら、ここまでリオネルに迎えてきてもらう?」

「そんな、大丈夫です」


 慌ててアベルは首を横に振った。


「べつに遠慮しなくても」

「遠慮します」

「ベルリオーズ邸に戻れば、アベルにとってリオネルはベルリオーズ家嫡男で、王弟派の中心に立つ高貴な〝リオネル様〟になってしまうのか?」


 違う、と言いたかったけれど、はっきりとアベルには言葉にして否定することができなかった。


 気持ちは変わらない。リオネルのことが好きだ。けれどクレティアンとの約束でもある。ベルリオーズ邸では、二人は主従関係に戻るのだ。


「あいつのためにもさ、ただのつまらないひとりの男として見てやってくれよ。女に本気で惚れた男なんか、ただの馬鹿だからさ。あいつがどんなに高貴な生まれで、騎士や領民の上に立つ存在だったとしても、アベルのまえだけでは恋に悩むちっぽけな男だ」


 馬鹿だとか、つまらないだとか、ちっぽけだとか、さきほどから散々な言いようだが、それなのに、ディルクが抱くリオネルへの友人としての愛情は、やわらかな温かみを伴って伝わってくる。


 二人の会話をマチアスは黙って聞いていた。

 レオンはというと、寒いのか、あるいは花粉を吸ってしまったのか、真剣な話の背後で立て続けにくしゃみをしている。


 そうして四人が馬に跨ったまま、ベルリオーズ邸をぐるりと囲む鉄柵門のまえで足を止めていると、ベルリオーズ邸の門から出てくる姿があった。


 館に仕える騎士かと思いきや、思いもかけず現れたのはリオネルその人だ。


 たったの一週間しか離れていなかったのに、遠目に見えるリオネルの姿がひどく懐かしく感じられ、胸が締めつけられた。


「噂をすれば、だね。ちょうどよかった」


 ディルクが呼べば、すぐにリオネルがこちらに気づき、馬を駆けてくる。背後にはむろんベルトランの姿。

 間近で見るリオネルにアベルの心臓は早鐘を打つ。


 挨拶代わりにディルクへ軽く視線を送ってから、リオネルはまっすぐアベルのそばへ馬を寄せた。


「アベル」


 紫色の瞳とアベルの水色の瞳が、一週間ぶりにからみあう。

 別れたときは恋人同士だったが、今の二人はベルリオーズ家の嫡男とその家臣だ。


「リオネル様、ただいま戻りました」


 馬上でアベルはほほえんだ。


「よく戻ってきてくれたね」


 リオネルの目が細められる。安堵したように、けれど、どこか切なげに。


「戻ると約束しました」

「アベルはいつだって、おれのまえから風のように消えてしまいそうだから」


 リオネルの深い紫色の瞳を、アベルはまっすぐに見つめる。


「わたしはここにいます。ずっと、あなたのおそばに」

「ありがとう――おかえり、アベル」


 なにげないリオネルの言葉が、アベルの胸を締め付けた。


 ここにいるのはたしかに主従という関係の二人。触れられる位置にいるのに、互いに触れ合うことができない。


 セレイアックでの日々は終わった。

 それでもあの狭い部屋で過ごした毎日は、現実のことだった。泡のように消えてしまいなどしない、この先二人のあいだになにがあろうとも、あの時間はアベルの心のなかで永遠に紡がれていくだろう。


 リオネルは同行したディルクらに礼を述べ、とりあえず館に入るよう促す。


「どこかへ行こうとしていたんじゃないのか?」


 ディルクに問われると、リオネルは首を横に振った。


「遅いから様子を見に来たんだ」

「なるほど、心配して迎えにきたわけだ」


 馬の腹を軽く足でたたきながら、ディルクが降り返る。


「さあ、行こうか」


 道の先では、荘厳なベルリオーズ邸の建物が、青い空の景色に溶けながら若者らを見守っていた。









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