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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
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 皆が帰ったあと。


 アベルは就寝の準備を終え、寝台に座っていた。

 その手には、淡い薔薇色のドレスがある。橙色の小さな花の刺繍が、なんとも可憐だ。


 女の子でいられる……リオネルと恋人でいられる最後の夜。

 夢が、終わる夜。


 リオネルがクレティアンと和解し、皆でベルリオーズ邸に戻ることができることはなにより嬉しいが、こんなふうにリオネルと過ごすことはもうないのだと思えば、少し切なかった。


 カミーユがアベルのために買ってくれたこのドレスを着ることも、生涯ないだろう。

 ドレスを身体にあて、小卓に置かれていたひなげしの髪飾りを、そっと髪に添えてみる。せっかく買ってもらったこのひなげしの髪飾りも……。


「アベル」


 突然名を呼ばれてアベルは我に返った。慌ててドレスを隠そうとしたが、長いドレスを背後に隠し切れる訳もなく、ひなげしの髪飾りも耳の脇についたままだ。


「こ、これは……」


 扉口に現れたリオネルからは、なにも聞かれていないのに、アベルは必死に言い訳を考える。

 ゆっくりとアベルのもとに近づくリオネルは、湯を浴びてきたばかりで、髪が濡れていた。


「……ちょ、ちょっと眺めていただけなんです」


 そう言いながら髪飾りを取ろうとすると、歩み寄ってきたリオネルにそっと手首を掴まれた。

 驚いて顔を上げれば、切なげなリオネルの表情が目前。すべて見透かされているような気がした。


「アベルを一生、男として過ごさせたりしないから」


 手を握ったまま寝台の隣へ腰掛けたリオネルの声には、強い決意が滲んでいる。胸が締めつけられた。


「そういうのではないのです。男として生きると一度は決意したのですから、わたしは平気です」


 そう、生涯、男として生きることを決意したはずだ。けれどその決意は、リオネルへの気持ちに気づいたときから、わずかに揺らぎ始めている。

 なんと意思が弱いのだろう。


 それでも、リオネルに告げた言葉は本心だった。男として、リオネルのそばで生き、そしてリオネルを守ることができれば、アベルにとってそれ以上の幸福はない。


 アベルは揺れる思いを心の奥底に沈めて、決意を新たにするが、けれど、リオネルはあくまでまっすぐにアベルへ気持ちを伝えてくる。


「どんな格好でいたって、おれにとってアベルは大切な女の子だ」


 ……恥ずかしいような、くすぐったいような心地になる。


「そのドレスも、髪飾りも、身につけることのできる日が必ず来るから」


 リオネルが具体的になにを考えているかわからないが、力強い口調で伝えてくれるその気持ちが嬉しいと同時に、ある意味では不安になる。

 自分のことで、再びリオネルとクレティアンが衝突するようなことがあってはならない。


「ディルク様がいろいろおっしゃるから、つい眺めていただけです。ドレスが着られなくても、私はリオネル様といっしょにいられるだけで幸せです」


 ここにはいないディルクのせいにしながら、そっとほほえんで気持ちを伝えれば、低い美声で名を呼ばれた。


「アベル」


 リオネルを見上げると、すっと影が差す。


 唇に感じる、リオネルの熱い唇。

 甘く吸われて思わず溜息が漏れた。今日はいつもより情熱的なような……。


 頭がくらくらするのは、口を塞がれているからだろうか。思わずリオネルの服を掴むと、アベルを抱きしめる腕に力が加わる。


 唇を重ねたまま、そっと寝台に押し倒された。

 重ねた手を顔のすぐ横につき、覆いかぶさるリオネルの口づけが、さらに深くなる。


 心臓が破れそうなほど早鐘を打つ。

 これは――この状況は。


 優しいのに、それでいてとても深い口づけ。

 幾度も方向を変え、少し離しては、再び重なる唇。


 それからそっと離れたリオネルの唇が、不意にアベルの頬から耳のあたりをかすめる。くすぐったい、と思った直後には、耳から首筋へと口づけが下りていた。

 もはやどうしたらいいかわからない。

 拒否する理由もないし、できるわけもない。


 リオネルの熱い吐息に全身が泡立つ。

 頬に触れるリオネルのさらさらの髪。

 身体に触れる、繊細な指先。

 アベルを組み敷く、リオネルのしなやかな身体。


 気が遠くなるような心地で目を閉じれば、否が応でもアベルの身体中の神経は、リオネルと触れあっているところへ集中する。

 とてもこの状況を現実のものとして捉えることができない。


 けれど、リオネルの手が真っ白な夜着の結び目にかかったとき、アベルのうちにまるで黒い染みが落ちたかのように、心臓がどくりと痛む。

 わずかに身体が震えたわけを、アベルは知っていた。


 記憶が呼び覚まされたのはほんの一瞬のことなのに、まるで思考のすべてを奪うかのように、衝動的な感情がアベルを襲う。

 激しい雨の音が、鼓膜を打ったような気がした。

 三年前の嵐の日。

 その記憶が刹那に蘇れば、全身に力が入って強張った。


 同時に、アベルは思う。果たして自分は、リオネルに触れられる資格があるのだろうか。

 沸き上がる感情をやり過ごすために、眉を寄せ、唇を噛む。

 と、リオネルの動きが止まった。


 解けかけの結び目はそのままに、視線を上げたリオネルは、形のいい眉を寄せて苦い表情だった。


「リオネル様……」


 かすれてほとんど声にもならない声で呼べば、リオネルがアベルの目を見つめ、優しい仕種で髪を撫でる。

 まだわずかに熱っぽいリオネルの紫色の瞳が、室内の光を映しだす。

 それを綺麗だと、ぼんやり思った。


 リオネルが手を止め、こちらを見てくれたことに安堵している自分がいる。そのことに気がつけば、深い罪悪感が湧きあがった。


「――ごめん」


 髪を撫でながら謝罪したリオネルの瞳には、後悔の色が浮かぶ。


「ごめん……アベル」


 アベルは首を横に振ることしかできない。リオネルはなにも悪くない。すべては、自分が臆病だからだ。

 これほど好きなのに、過去に捕らわれたまま生きる自分がいる。

 そう、幸福が怖いのも、リオネルを受け入れられないのも、すべてアベル自身の弱さだ。


「このあいだは傷つけたくないと言っておいて……おれは今、この手でアベルをひどく傷つけるところだった」


 アベルはもう一度大きく首を横に振る。

 傷つけるなんて。

 ……傷つけたのはアベルのほうだ。


「どうかしていた」


 触れたことを後悔する様子のリオネルを引き寄せ、アベルは自分から唇を重ねた。リオネルの驚きと困惑が、触れあう唇から伝わってきたが、かまわない。

 リオネルの温度を感じれば、なぜだろう、涙があふれてこめかみを伝った。


 彼に触れられたのはたしかに喜びだったはずなのに、自分はなんて馬鹿なんだろう。

 自らの奥底に潜む恐怖を悟りさえしなければ、このままリオネルと本当の恋人になれたかもしれないのに。

 この先もう二度と、このような夜は訪れないかもしれないのに。


 けれど、〝自分は大丈夫だから〟とは言えなかった。

 三年前のあの日のことを思い出すのは怖かったし、否応なく過去の出来事に彼を巻きこむような気がした。


 二人のあいだにぽっかりと生じてしまった大きな溝を埋めようとするように、リオネルに口づける。


「もう、いいよ……アベル、無理しなくていい」


 離れようとするリオネルに、胸が押しつぶされそうになった。相手の首にしがみついて、必死にリオネルの身体を引きとめる。

 ここで離れたら、心まで離れてしまう気がした。


「お願いです……」


 すがるようにアベルはリオネルの肩に顔を埋める。

 涙が止まらないのが、なぜなのかわからない。


 混乱……、自分がひどく混乱しているのだと、ようやく気づいた。


 涙でリオネルの顔が見えないまま、再び顔を上げる。こぼれて止まらない涙をぬぐう仕種で、アベルの頬を両手で包みこんだリオネルは、そっとアベルの求めに応じて唇を重ねてくれた。


 今は、どんな言葉よりも触れ合っていることだけが、アベルを安心させてくれる。

 少しばかり落ち着いたところで、リオネルがアベルの様子をうかがいつつ、ゆっくり唇を離し、それからすっぽりと胸に抱いてくれる。


 あやすように肩をさすってくれるリオネルの手に、アベルの呼吸も徐々に整い、深くなっていった。

 そうっと身体から力が抜けていき、まるで幼い子供のようにアベルはリオネルの胸に身体を預ける。


「……なにも考えなくていい」


 耳に直接伝わるリオネルの声が心地いい。

 リオネルを傷つけておいて、ひとり心地いい場所へ戻っていく自分が、ひどく卑怯な気がした。


「泣かないで、アベル」


 ……この人は、どこまでも優しい。

 だから、不安になる。触れあっていなければ、気が狂ってしまいそうなほどに。


 アベルは目を閉じ、リオネルの心臓の鼓動だけを全身全霊で感じていた。







 呼吸が整っていくうちに、アベルの瞳から溢れていた涙が止まっていく。

 すうっと息を吸い込んだアベルは、くったりと体重をこちらへ預けてきた。その重みと息遣いでアベルが眠ったことをリオネルは悟る。


 頬も、睫毛も、涙に濡れている。痛々しいその姿を間近に見つめれば、リオネルはなんてことをしたのだろうと、これまで経験したことがないほどの自責の念に駆られた。

 アベルの心を理解しているつもりでいたのに、自分はほんの表面にも触れられていなかったのだと気づかされる。


 傷が癒えていないことは想像できていた。

 不安を抱いていることもわかっていた。

 ――そしておそらく、過去のことで自分自身をアベルは赦せないでいる。


 夕食時に、ディルクの態度から受け取った合図は関係ない。アベルに触れたいと思ったのは、自分の意志だ。

 彼女の身体を穢れているなどと思ったことはない。かつて本人にも告げたとおり、むしろ触れていいかどうか躊躇われるほど綺麗だと思う。表面的なものではなく、リオネルにとってはアベルのすべてが美しい。


 けれどそれだけではない。恋人同士でいられる最後のこの夜に、リオネルは自分がアベルに対して抱く想いを伝えたかった。

 過去も、過酷な運命も、彼女の抱く苦悩も、すべて含めてアベルが愛おしいのだと。

 ……けれど、結果はどうだろう。


 こんなにもアベルを傷つけた。

 傷いていないといくらアベルが言ってくれたところで、あのようなアベルの姿を見てしまえば、どうして自分を許す気になれるだろう。


 アベルの心が壊れ、細い身体まで腕のなかで砂のように消えてしまうのではないかと、不安になった。


 今、アベルが軽く寝息を立てていることが、せめてもの救いだ。

 それでも髪を撫でる手を止めることができない。いくら撫でても、この手はアベルの傷を癒せないのに。



 キイ、と扉の開く音がした。

 アベルが眠ったことに気づいたのだろう、これまで部屋に入らなかったベルトランが扉口に姿を現す。


 涙のあとを残したまま眠るアベルと、彼女の髪をなでつづけるリオネルを見やって、ベルトランはわずかに表情を曇らせた。


「……受け入れられなかったとしても、拒絶じゃない。気にするな」


 リオネルは静かに答える。


「ありがとう、拒絶じゃないことはわかっているつもりだ」


 そう、拒絶ではなかった。

 辛い記憶を抱え、それでもなお受け入れようとしてくれている。

 そのことに気づいたとき、リオネルは先を続けることができなくなった。アベルが自責の念を抱くことはわかっているのに、続けられなかったのだ。


 あるいは、残酷なことをしたのかもしれないと思う。

 中途半端に苦しみだけを味あわせたのかもしれない。

 それでも。


 二人のあいだに生じた隙間を埋めるかのように――あるいは、三年前の出来事を塗り潰そうとするかのように、口づけを求めてきたアベルは、胸が潰れそうなほど痛々しくて。


 あどけない寝顔にリオネルは頬を寄せる。


「……互いに惚れていたといっても、アベルのほうは、自分の気持ちに気づいてからまだ日が浅い。子供を相手にしていると思って、気長に待つんだな」


 ベルトランが就寝の準備をしながら、なんでもないように言う。深刻にしないように、気をつかってくれていることが伝わってきた。


「明日はベルリオーズへ発つ。おまえも早く寝ろ」


 リオネルが振り返れば、いつのまにかベルトランはひとり用の寝台に入っていた。


「…………」


 無言になるリオネルへ、ベルトランが淡々と告げる。


「いっしょに眠るだけでも、アベルは落ちつくだろう。いったん眠りに落ちてしまえばおまえも休まるはずだ」


 その言葉が、ベルトランの気遣いだということを、リオネルは理解していた。


 ……恋人として過ごす、最後の夜。

 もう、同じ寝台で眠ることは、二度とないかもしれない。


 そっとアベルのひたいへ口づけを落とし、リオネルはアベルを胸にすっぽりと包みこむ。


 恋人らしいかどうかなど問題ではなく、こうしてアベルを抱きしめて眠れる夜に、リオネルは密かにアベルへの変わらぬ愛を誓った。









 ジュストがリオネルを迎えにあがったのは、翌朝のこと。

 すでにクレティアンはベルリオーズ邸へ発っており、リオネル、ベルトラン、そしてジュストの三人での帰途になる。


 アベルはというと、当初の予定どおり、いったんセレイアック大聖堂でエマやカトリーヌと会い、そこで数日を共に過ごしてから出立することになっていた。


 道にはまだ雪が残っているが、頭上の雲は薄い。

 届きそうで届かない陽光がもどかしく、わずかに靄がかった街は、春を待ちわびていた。


 小間物屋のまえの通りに立って、アベルは少し恥ずかしいような――けれどひどく心細い心地で、リオネルを見上げる。


 昨夜はあんなことがあったが、目覚めたらリオネルが隣にいてくれた。それは、アベルにとって救いになった。

 自分の弱さと愚かさでリオネルを傷つけてしまったが、そばにいられた時間は、アベルにとって意味のあるものだった。


 リオネルにとってはどうだっただろう。

 彼にとってもまた、少しでも心の満たされる夜であったならばと、アベルは祈った。


「ベルリオーズ邸で待っているから」


 一時的とはいえ、再び離れなければならなくなった二人は、二か月前、デュノア邸へ発った夜のことを思い出さずにはおれない。


 あのときは長く、辛い別れとなった。

 もうひとときだって離れ離れになりたくない。

 繋いだ両手は離すことができぬまま。


「一週間のうちには、わたしも館へ向かいます」


 精いっぱい気丈に振る舞い、アベルはリオネルへ笑ってみせた。


 ……一週間。

 これから一週間ものあいだ会えないのだと思えば、寂しさが込み上げる。

 リオネルの家臣としてこれから生きていくというのに、我ながら情けない。けれど共に戻るわけにはいかないので、必要な期間だった。


 それに、エマやカトリーヌと過ごす最後の機会でもある。

 わずかに眉を下げたものの、リオネルもまたアベルにほほえみかけた。


「エマ殿やカトリーヌと、ゆっくり過ごしておいで」


 再び会えるまで、しばしの別れ。

 力強い腕で抱きしめてくれるリオネルの暖かさを、アベルは目を閉じて感じていた。







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