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腑に落ちない。
ベルリオーズ家別邸から王宮へ向かって馬を駆けながら、ダミアンは頭をひねっていた。
シュザンの怪我の具合を直接見てくるようにと、クレティアンから命じられたダミアンが、王都のベルリオーズ家別邸に着いたのは昨夜のこと。
そこで当然、別邸に滞在しているはずのアベルに会えると思っていたが、いなかったのだ。
『アベルが来ていると聞いたのだが』
執事のジェルマンに尋ねれば、
『アベル殿は、クレティアン様のご命令で、外出されています』
という返答。
『いつ戻るんだ?』
『一週間ほどはかかるかと』
『一週間! それでは私の滞在中に会えないな』
『ええ、アベル殿も残念に思われるでしょう』
控えめな態度を崩さぬジェルマンだが、隙がない。
『アベルはここでなにをしているんだ? 外出とは、どこへいっているのだろう』
尋ねてみても、私のようなものにはわかりかねます、と恐縮した態度だ。
しかたがないので、ダミアンはそれ以上聞くのをやめた。
そして今朝になって、こうして王宮へ向かっているが、考えれば考えるほど腑に落ちない。アベルはいったいどこへいってしまったのだろう。あとを追うようにリオネルまでベルリオーズ邸からいなくなってしまった。
いったいどうなっているのか。
王宮に着くと、ダミアンはまっすぐに騎士館へ向かった。
シュザンと面会するまえに、正騎士隊に所属する騎士から、シュザンの状況について事前に説明を受け、それからシュザンの私室へ通される。
寝台に横になっている正騎士隊騎士隊長の姿は、まったく胸の痛むものだった。
立場と名前を告げると、シュザンが身体を起こす。ダミアンは恐縮して寝台へ寄った。
「どうかそのままで」
「すまないな、わざわざベルリオーズ領から王都まで長旅をさせて」
「とんでもございません」
クレティアンの義弟にあたるシュザン・トゥールヴィルは、正騎士隊隊長になる以前はベルリオーズ邸にしばしば訪れていたので、ダミアンのほうは顔を知っていた。
久々に見れば、ベルリオーズ公爵夫人アンリエットの弟だけあって、ますますリオネルに似ている。
整った顔立ちや、均衡のとれたしなやかな身体つきだけではない。声や、表情、口調までもがどこか似ているのだから、不思議な感覚だ。
どうしても起きあがろうとするので、手を貸しながらダミアンは尋ねる。
「怪我の具合はいかがですか」
「ああ、なんてことはない。義兄上には心配をかけて、心苦しいばかりだ」
「痛みなどはないのでしょうか」
「骨折といっても、完全に折れているわけではない。ひびが入った程度だ。食事も普通に取れるし、こうして起きあがることもできる。あとは医者の外出許可を待つばかりだ」
そうは言ってもダミアンが軽く眉をひそめたのは、頬骨から頬にかけて、顔の傷がまだはっきりと残っているからだ。
シュザンが抵抗しないとわかっていて、ジェルヴェーズが顔や身体を蹴りつけたのだということは、正騎士隊に所属する騎士から聞いていた。
容赦のない暴力だったことは、一見してわかる。
「公爵様は深く案じておられます。どうかお身体を大切になさってください。それと……公爵様からのご言伝です」
「義兄上からご伝言?」
書状ではなく、伝言というところに、シュザンが軽く怪訝な面持ちになる。うなずきつつ、ダミアンは声をひそめた。
「……申しあげます。〝近頃ジェルヴェーズ殿下の振る舞いは目に余る。身を守るため、正騎士隊隊長の座を退くことも視野に入れるように〟と」
言伝を聞いたシュザンは、なるほど、とつぶやく。
「これが、今回、ダミアン殿が私のところへ来た最大の理由か」
手紙で書き送れば、万が一にでもだれかに見られたら、とんでもないことになる。シュザンはすぐに悟ったようだ。
ダミアンは真剣に答えた。
「私が参りましたのは、シュザン様のお怪我の具合を直接知ることと、公爵様の言葉をお伝えすること――その双方のためです」
そうか、とつぶやき、ひと呼吸おいてからシュザンは視線を上げた。
「義兄上のお心遣いには、心から感謝している」
ダミアンは軽くうなずく。シュザンが口にするだろう言葉は、だいたい予測がついていた。なぜなら、彼はリオネルに似ているからだ。
「だが、今の役職を離れるわけにはいかない。私には、やらなければならないことがある」
もう一度うなずいてからダミアンは告げた。
「……公爵様はシュザン様がそうお答えになることを、わかっておられたのではないでしょうか。だからこそ、これから視野に入れていくように、という言葉にとどめたのだと思います」
シュザンがふっと微笑する。
「そうかもしれないな」
「どうぞ、ご自身のため、そしてトゥールヴィル家の方々や、クレティアン様、リオネル様のためにも、御身を大切になさり、今後のこともご検討いただければと存じます」
軽く微笑してみせてから、シュザンがふと尋ねた。
「リオネルはどうしている?」
ダミアンは軽く視線を上げる。
「どうかしたのか」
「いえ、リオネル様は二月の十日目あたりから、アベラール邸へ赴かれています」
シュザンが首を傾げる。
「一ヶ月以上も?」
今は三月も後半。ただの滞在にしては、たしかに長い。けれど事実なのでダミアンはうなずくしかない。
少し考える様子になってから、再びシュザンは尋ねた。
「ベルトランやアベルはどうしている?」
「アベルをご存知ですか」
「……ベルトランの従騎士だからな」
シュザンは、ベルトランとアベルの名を同時に出したが、実際にはベルトランよりもアベルのことが聞きたかったのではないかという気配が感じとれる。あるいは、ダミアン自身がアベルのことを気にしているから、そう聞こえたのだろうか。
「ベルトラン殿はリオネル様に同行しています。アベルは、リオネル様が出ていかれるよりまえ……二月の頭に、王都の別邸へ発ちました」
シュザンが目を丸くした。
「王都へ?」
この様子だと、シュザンはアベルには会っていないようだ。
そこでふとダミアンは疑問に思う。もしアベルが本当に王都にいたならば、なぜ自分をわざわざシュザンのもとへ遣わしたのだろうか。顔見知りならなおさら、アベルをシュザンのところへ向かわせれば話は早かっただろうに。
「ええ、ですから、もう二ヶ月近く、アベルはベルリオーズ家別邸のほうにいるはずなのですが」
「いるはずだが?」
「私が王都へ着いたときには、すでに別邸にはいませんでした」
「どこへ?」
「ジェルマン殿からは、外出していると聞いています」
シュザンがなにやら考え込む様子になる。それもかなり深刻な表情で。
「……シュザン様?」
「あ、ああ。すまない。そうか、ではリオネルやアベルはいつ戻るのだ?」
「リオネル様がどれくらいアベラール邸に滞在されるかは存じあげませんが、アベルは、数カ月は戻らないと聞いております」
シュザンは視線を宙の一点にしばらく留めてから、不意にダミアンへと戻す。
「すまないが、手紙をしたためたいから時間をくれないか」
「もちろんです」
シュザンの新米従騎士のひとりが、寝台に硬い板と紙、それにインクと筆ペンを持ってくる。ダミアンは手紙の内容が見えない位置へ下がった。
しばらくしてシュザンが書きあげた手紙は二通。
一通はクレティアン宛て、もう一通はリオネル宛てだと語った。
「たしかにお預かりいたします」
「手紙にも書いたが、義兄上には心配いらないと伝えてほしい」
「かしこまりました」
こうしてダミアンは、アベルに会えぬまま二通の手紙を携え、ベルリオーズ領へ戻ることとなった。
+++
ふぅ、とディルクが深いため息をつく。
「なんだ?」
冷めた眼差しをレオンがディルクへ向けた。
さほど広くはない小間物屋の二回の部屋に、アベル、リオネル、ベルトラン、ディルク、レオン、そしてマチアスが集まり、食卓を囲んでいる。幸い、食卓は大きいので全員が席についても料理を並べることはできた。
約束の一週間が、終わろうとしている。
街で暮らす最後の夜だった。
今夜の食事は、リオネルとベルトラン、そしてアベルが手伝って作ったものだ。
猪肉の串焼きや、アーモンドのポタージュ、小麦粉の丸パンなど、普段より少し豪華な夕飯は、ディルクらにあれこれと迷惑をかけたことに対する詫びの気持ちと、最後の夜への思いが込められている。
最後の夜を惜しむべきか、それともリオネルとアベルが館で共に暮らせることを祝すべきか迷うところだが、どうもディルクは前者の感情のほうが強いらしい。
大きく溜息をついたディルクは、残念そうにアベルを見やった。
「もう、ドレスを着たアベルが見られないなんて」
レオンが冷めた眼差しのうえに、呆れた声で言った。
「そんなことか」
「〝そんなことか〟って言うけど、大問題だよ、レオン。あんなかわいらしいアベルが、もう二度と見られないなんて」
そんなことを言いながら、ディルクはどさくさに紛れてアベルの肩を抱く。
困惑する以上に、ディルクの言動が冗談にしか思えなくてアベルは笑った。けれど笑えないのは、リオネルだ。
恋人の肩を元婚約者に抱かれて、リオネルは文句こそ言わないものの、なにも思わないわけではないだろう。
「従騎士の姿も綺麗だけれど、女の子の姿のアベルには言葉が出ないよ。疲れも、悩みも、すべて飛んでいく気がする」
「おまえに悩みなどあるのか」
アーモンドのポタージュを口へ運びながら言うレオンからは、あるわけないだろうと言外に読みとれる。
「悩みだらけだから、アベルに癒されるんだよ」
「口説いているのか?」
リオネルの代わりに、咎めるように尋ねたのはベルトランだ。
「口説いて? いや、とんでもない。率直な意見を述べただけだよ。口説いているなんてことになったら、リオネルに殺される」
「だったらその手を離したらどうだ」
細いアベルの身体を抱くディルクの腕を、ベルトランが指差した。
「これくらい、いいだろう。ケチだな」
ディルクの台詞にレオンが顔を引きつらせた。
「本当に殺されるぞ、ディルク。早く離れておけ。従者殿もなにか言ったほうがいいのではないか?」
レオンから視線を向けられたマチアスは、まるで聞こえていないかのように涼しい顔で食事を口にしている。
「……ときに従者殿が怖いと思うのは、おれだけか?」
レオンのつぶやきは、皆の耳には届かなかった。
「アベル」
肩を抱かれたままディルクに名を呼ばれ、アベルは視線だけで応えた。
「公爵様との約束は、ベルリオーズ邸にいるかぎりでのことだから。アベラール邸に来たときは、またぜひ女の子に戻ってよ。よかったら夜会で、おれとダンスを――」
「するわけないだろう」
ついに声を発したのはリオネルだ。
「いいじゃないか、友人として」
「この話は終わりだ」
一方的に話を打ち切るリオネルに、ディルクがにやりと笑う。
「おれに妬いているのか?」
そう言いつつアベルの肩を引き寄せるディルクは、意地が悪い。リオネルの顔からみるみる表情という表情がなくなっていく。
「あの……」
遠慮がちにアベルが口を開くが、ディルクは聞いてやしない。
「大丈夫だって、アベルはおまえのことしか見ていないから」
「早く食べろ」
ぶっきらぼうに言い放ったのは、リオネルではなくベルトランだった。
レオンが呆れ切った眼差しをディルクへ注ぐ。
「友達をなくすぞ、ディルク」
「いいよ、おれにはアベルという大切な友人さえいてくれれば――いてっ」
ベルトランの投げた胡桃がディルクのひたいを直撃する。
「なにするんだよ」
「早く食べろと言ってるだろう」
はいはい、と言いながら、ディルクはあろうことかリオネルの目のまえでアベルの髪へ口づけを落とした。
ディルクが冗談でやっているということが、アベルにはわかる。だからこそ、慣れ親しんだ親戚から挨拶されたような気分だが、その場の空気が凍りついたことも、さすがにわかった。
ベルトランのこめかみに青筋が浮かぶ。
リオネルの沈黙にレオンが震える。
「ディ、ディルク、おまえ、なにやって――」
なにも悪いことをしていないはずのレオンが、ひどくうろたえた声をもらす。自分がアベルに口づけしたかのように動揺する様子は、お人好しとしかいいようがない。
すると、ディルクは悪びれもせず答えた。
「ベルトランが早く食べろって言うからさ。ああ、そうか。食事のことか」
アベルの蜂蜜のような髪のことかと思ったよ、と不自然なほど明るく言うディルクに、リオネルは責めるような眼差しを向けた。
ディルクがその目を見返して笑う。それから、なにも言わずにアベルから離れ、さらに何事もなかったかのようにディルクは食事を再開させた。
「ディルク様は、わたしがずっと幼いころから知っていたので、親戚みたいに感じられます」
この雰囲気に落としどころをつけるため、アベルはリオネルの様子を気にしながら言う。
けれどリオネルは、
「……そう」
と、軽く視線を上げただけで、また食事を再開させた。
「えっと、あれ、あれだな。ほら、この料理は実においしい。なあ、マチアス」
なにも悪くないレオンが、慌てて話題を変えようとする。
「ええ、本当に」
やはりマチアスはディルクの行動を咎めもせずに、ひとり涼しげに食事をとっていた。
「アベル、そういえば熱はもう平気なのか?」
レオンがさらに別の話題を提供する。
「あっ、はい、おかげさまで、二日で下がりました」
「そうか、それはよかった。疲れが出たのだろうな。約束の日までに下がって、本当によかった」
うんうん、とレオンはひとりうなずいている。
「ご心配をおかけして、申しわけありません」
「いや、アベルが元気なのが一番だ。明日からは、アベルもリオネルと共に、ベルリオーズ邸に行けるからな」
「わたしは少し遅れていくつもりです」
レオンが目を丸くした。
「そうなのか?」
「大聖堂にいるエマやカトリーヌと少しいっしょに過ごすお許しをいただきまして」
「ああ、それはいい。きっと二人も喜ぶだろう」
「じゃあ、おれもいっしょに大聖堂でアベルと過ごそうかな」
アベルとレオンが和気あいあいと話しているところへ、再びディルクがいらぬ発言を挟む。
「おまえは黙っていろ」
レオンが呆れて言うと、ディルクがにやりと笑いながらリオネルへちらと視線を送る。
リオネルが軽く溜息をつくその意味が、アベルにはわからなかった。
+
食事を終えてアベラール邸へ戻る途中、並んで馬を駆けながらレオンがディルクの横顔へ視線を注ぐ。
「ディルク、おまえはなにを考えているのだ」
「なにって?」
「あのようにアベルに近づいて、リオネルを怒らせたいのか?」
レオンの言葉にディルクは笑った。
「怒らせる? とんでもない。おれがどうしてリオネルを怒らせたいんだ?」
「ではなぜアベルの肩を抱き、髪に口づけしたのだ」
「最後の夜だからさ」
意味がわからないというレオンの顔。
「アベルが女性の姿でいられる最後の夜だから、肩を抱き、髪に口づけしたのか?」
呆れた様子のレオンに、ディルクは声を立てて笑った。
「まさか。おれは変態か」
「変態にしか見えない」
マチアスは黙って二人のあとに従っている。
「失礼だな、おれをなんだと思っているんだ?」
「だから、変態だ」
苦笑しつつ、ディルクはレオンをちらと見やった。
「アベルとリオネルが、恋人としていっしょにいられる最後の夜だから、ああしたんだ」
「嫌がらせか?」
苦笑を深めつつディルクは、ある意味ではそうかもしれないとつぶやく。
「おれがなにもしなければ、リオネルはアベルの過去を気にして、先へ踏み出せないだろう?」
「なんのことだ」
「このままだと、リオネルはアベルに指一本触れない」
「…………」
「これだけの条件がそろっていて、なにも起きなければ、ベルリオーズ邸に戻った二人は一生なにもないままだと思わないか? それじゃあまりにリオネルが不憫だ」
ごほん、と軽く咳払いしてから、レオンが気まずそうに言う。
「未婚の男女が、そういった関係になるのは、いかがなことかとは思うが」
「もちろん、いずれ二人が結婚できるなら、そのときを待てばいいと思うよ。でも、そうじゃない。二人は永遠に結ばれることはないかもしれない」
黙りこんだレオンへ、ディルクは意地悪な視線を注ぐ。
「うぶな王子殿下には刺激が強すぎたかな?」
「期待に添えなくて悪いが、兄上が女性を連れ込む現場を幾度も目にしている。運が悪ければ、その先も」
ああ、とディルクはうなずいた。
「それなら西のほうにいる恋人とも準備万端――」
「だまれ、変態男」
レオンが鐙から足を外して、ディルクを蹴りつける。
「痛いな、蹴るなよ、暴力男。ティエリが怪我したらどうするんだ。だれが変態男だ、それはおまえの恋人だろう」
「ともかく、おかしなことになって、リオネルがアベルに嫌われるようなことになったら、すべておまえのせいだぞ」
「アベルがリオネルを嫌うわけがないじゃないか」
「アベルは過去の経験から、心に傷を負っているのだろう? リオネルが気にするのも当然のことだ」
「わかっている。けれど、このままじゃなにも変わらない」
「無神経な男だな。変態男に加えて、無神経男と命名してやろう」
変態無神経男、と命名されたディルクは、苦笑交じりにティエリの鬣を撫でる。
「ひどいね。精一杯、親友のことを思いやっているつもりなのに」
「それにだ、ディルク。おまえが余計なことをしたせいで、万が一にでも二人のあいだに子供ができたらどうするつもりだ」
「リオネルはそこまでマヌケじゃないだろ」
馬上で話をする二人へ、マチアスが控えめに指摘する。
「お二人とも、少しお声が……」
あっ、とレオンが我に返る。たしかに大きな声で話すには憚られる内容だ。
「……ディルクにつられて、つい声が大きくなってしまった」
「つられてってなんだ、おれのせいかよ」
あれこれと言い合いながら、一行は夜道をアベラール邸へと向かった。