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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
505/513

68







 水に浸した冷たい布を頭に当てられると、心地いい。

 窓からは、弱い光がカーテンの隙間から差している。明け方になっても、アベルの熱は下がらなかった。


「ごめん、アベル」


 消沈した様子で、リオネルがアベルの髪を梳く。


「リオネル様が謝ることなんて、なにも……」

「おれが突然の言葉で驚かせたから」

「そんなことありません、とても嬉しかったです」

「本当に?」

「もちろんです」


 アベルがそっとほほえめば、リオネルは、はにかむようにうつむいた。


〝嬉しい〟だけではなく、なにか答えなければならないことはわかっている。

 結婚。

 もちろん、リオネルと結婚できたらいい。

 ……けれど。


「あ、あの」


 おそるおそる口を開けば、リオネルがアベルの唇に指を押しあてる。


「いいんだ、返事は。アベルの、その言葉が聞けただけで充分だから」


 きちんと話し合わなければと思ったが、リオネルの指があって口が開けられない。


「アベルは熱があるんだから、なにも考えずに休んで」


 ただリオネルを見つめることしかできずでいれば、部屋の隅にいたベルトランが言った。


「アベルの熱は、このところの疲れが出たせいだろう。そもそも冬の川に落ちて、風邪をひかなかったことのほうが不思議なくらいだ。あのときはリオネルが温めたからなんとかなったが、身体は弱っていたのだろう」

「そこへ、父上が現れた?」


 答えづらそうながらも、ベルトランがうなずく。


「……そう、クレティアン様がここへ現れたのは、アベルにとってはまったく想定外の出来事だ。緊張もしただろうし、おまえとの別れも覚悟しただろうし、挙句には様々な判断を迫られた。熱も出て当然だ」


 クレティアンが直接的な原因だとは思わないが、驚いたことや、リオネルとの別れを覚悟したことは事実なので、アベルはとりあえず反論しない。


 リオネルがアベルの髪をそっと梳く。


「熱のあるアベルを置いて仕事へ行くのは辛い」

「ジュストがいる」


 ベルトランの言うとおり、しばらくすれば、約束通りジュストが来てくれるだろう。けれど、リオネルは落ちつかぬようだった。


「……そうだね」


 他人にアベルを任せなければならないリオネルは切なげだ。アベルは手を伸ばし、唇に触れているリオネルの指先をとれば、ようやく話せるようになった。


「大丈夫ですよ、熱は高くないですし、咳やくしゃみなどもありません」


 そっとアベルの手を包んで、リオネルがほほえむ。


「……朝ご飯を作ってくるよ。あたたかいスープなら食べられそう?」

「なんでも食べられそうです」


 アベルの返事にリオネルが笑った。


「張り切って作ってくるから」

「おれが作るぞ、リオネル」


 横からベルトランが口を挟むが、リオネルは迷わず答える。


「いや、おれが作ってあげたいんだ」


 ベルトランにはアベルのそばについているよう頼んで、リオネルは調理場へ向かう。その背中を見送ると、ベルトランが寝台のそばへ寄ってつぶやいた。


「本当に身体はしんどくないのか」

「はい、微熱だけです」

「やはり風邪というよりは疲れが出たのだろうな」


 布団から目よりうえだけのぞかせて、寝台の脇に立つベルトランを見上げる。


 ここから見ると、ますます背が高い。細身なのに筋肉質で、端正な顔立ちと、綺麗な赤毛……仏頂面とか愛想のない態度をどうにかすれば、もっと女性に騒がれるだろうに、とアベルは思う。

 実際にベルトランの兄ロランドは、絶世の美男子だ。


「なんだ?」


 じっと見つめていたことに気いたベルトランが、怪訝な面持ちになる。アベルは慌てた。


「ごっ、ごめんなさい。別に理由とかあったわけではなく……」


 もごもごと言えば、ベルトランが黙りこんでこちらをじっと見返す。


「あの?」


 すると、思わぬひとことを向けられる。


「おまえは、だれかに甘えたことがあるか」

「え?」

「あのような両親の子供――しかも長女として育ってきたおまえは、いったいだれに甘えてきた」


 脈絡のない話に少し混乱する。

 あらためて〝あのような両親〟と言われてみれば、たしかに愛情に満ちた家庭とは程遠い場所で育ってきたのかもしれないと思う。


 けれどアベルには、カミーユも、エマも、トゥーサンも、カトリーヌもいた。

 甘えていたとすれば……エマ、だろうか。

 いや、物心ついたときから、エマは幼いカミーユの面倒を見ていたし、トゥーサンも基本的にはカミーユの付き人だったので、あまり甘えた記憶はない。

 考えてみれば、甘えるというのは、どういうことだろう。


 ベルトランがしゃがみ込んで、目線を合わせる。リオネルのよくやる仕草だが、ベルトランには珍しい。


「甘えろ、アベル」

「…………」

「甘えることを知らない者が、急に甘えることはたしかに難しいかもしれない。だがこれから先、一生ベルリオーズ家の家臣として生活していくんだ。ひとりで気を張っていては、必ず心の折れるときがくる」


 そういえばつい最近、ジュストからも似たようなことを言われたような気がする。

 辛い思いをしてきたぶん、今はリオネル様に甘えていいときだ、と。


 だから、ジュストに問われたときと同じ答えを、アベルはベルトランに返した。


「もう充分に甘えていますよ」


 するとベルトランは難しい顔つきで、髪をかきあげた。


「そうやって、ひとりですべて耐えて生きるつもりか」


 鋭いところを突かれたような気がしたが、毅然と答える。


「わたしは平気です。リオネル様のおそばにいられるなら、どんなことも耐える覚悟ができています」

「おまえはおれを兄のようだと言ったが、おれも、おまえを妹のように思っている」


 間近で見るとますます仏頂面の……それでいて、優しいベルトランの瞳を、アベルは見返した。


「――だからおまえは、おれに甘えてもいい。むろんリオネルでもいい。ディルクでも、マチアスでも、レオンでも、ジュストでも、だれでもいい。もっと頼れ。――もっと寄りかかってもいいということに、気づけ」


 ベルトランの言葉で初めて、思いを見透かされていたことに気がつく。

 それはおそらく、アベル自身でさえ気づいていなかった思いだ。

 ベルトランの本当の妹だったらよかったのに……とつぶやいたのは、寄りかかってしまいたいという思いが、たしかにあったからではないか。


「充分に甘えているというなら、なぜおれが本当の兄だったらよかったと言う?」

「それは……」

「本当の兄だと思っていればいい」


 ……ベルトランを兄だと思えたら、どんなにいいだろう。


 嬉しいと思う反面、できない、と思った。できないと思ったのがなぜだかわからなかったが、その疑問に答えをくれたのはベルトランだ。


「おれを兄とは思えないのだろう? おまえが甘えられないのは、信じきれないからだ」


 どきりとした。

 信じきれない、という言葉に胸が痛む。


「怖いのだろう?」


 ――怖い。

 だから、信じられない。


 充分に甘えているとジュストに答えたとき、彼はこう言った。


〝ある意味では、そうかもしれないな。けれどそう、肝心なところでアベルはリオネル様を頼らない〟と。


 そして、アベルが口にした言葉。


〝完全に甘えきってしまえば、すべて失うような気がします〟


 ベルトランは、そんなアベルの気持ちをすべて見抜いているようだった。

 甘えることが、怖い。

 なぜなのか。


 あらためて振り返ってみれば、その思いの根源は、遠い昔の、過去の彼方にあるように感じられた。そこまで思い至って、ふと、気がつく。


 そうか。

 記憶には残っていない。

 意識したこともない。

 けれど、母と信じてベアトリスを愛してきたアベルは、はっきりと言葉や態度で示されなくとも、無意識のうちに、彼女の冷ややかな思いに気づいていたのかもしれない。


 母に愛されていないことに気づいていたのかもしれない。

 だから、懸命に愛されようとした。

 あの嵐の日も、ベアトリスのためにユリの花を探しに行った。


〝愛されていない〟

 ――父からも、母からも。


 甘えようとした。

 けれど、応えてくれる愛はなかった。


 二人はカミーユを愛しているが、自分のことは愛していない。その事実をずっと感じながら、アベルは育ってきたのかもしれなかった。


「信じてみたらどうだ?」


 信じる、ということの難しさ。

 信じるということは、裏切られ、心を引き裂かれる可能性を秘めている。


「おまえは、どんなに剣の腕が立っても、女性だ。その細い身体のまま従騎士から騎士になる、その厳しさがわかるか。そして、リオネルはいずれ正妻を娶ることになるかもしれない、その現実に耐えられるか。甘えられないままだと、おそらくこれから先、館での生活はおまえにとって辛いものとなるだろう」


 アベルは胸がじんとなった。ベルトランはそこまで考えていてくれたのだ。

 と同時に、リオネルがいずれ妻を娶るだろうという言葉に、わかっていたはずが、胸をえぐられた。


「少しずつでいい。甘えられるようになれ」


 アベルが布団から手を出すと、ベルトランがしっかりと握り返す。


「……ありがとうございます、ベルトラン」


 甘える、ということそれ自体が、よくわからなかった。けれど、ベルトランの思いが今は嬉しい。


「いつまでアベルと手を握っているんだ?」


 気がつけば、これまで料理を作っていたはずのリオネルの声がいたずらっぽく響く。


「……わかってて言うな」


 ベルトランは困惑気味に答えつつ、アベルから離れた。


「少しくらい嫉妬してもいいだろう? それに、だれが正妻を娶るって?」

「かもしれない、と言っただけだ」


 リオネルは軽く溜息をつく。


「……正妻は迎えない。けれど、ベルトランの言っていたことは、おれも同じ気持ちだ。アベルはもっと周囲を頼っていいんだよ」


 いつからこの場所で話を聞いていたのだろう。それとも、居間まで聞こえていたのだろうか。

 壁に軽くもたれかかるリオネルの姿を目にして、アベルはあらためて思う。


「わたしはきっと、リオネル様に甘えています」


 軽くリオネルが首をかしげた。


「おれに? あまりそうは感じないけれど」

「きっと、出会ったときから……助けていただいたあの瞬間から、わたしはリオネル様には甘えっぱなしなんです」


 ベルトランがふっと笑う。


「まあ、ある意味では、そうかもな。頼ってはいないが、甘えてはいる」


 ジュストと同じようなことをどう言うベルトランがおかしい。〝ある意味〟でアベルがリオネルに甘えているということは、皆がうなずくところのようだった。

 けれど、リオネルの顔には、どういう意味だと書いてある。


「ようするに、はじめからアベルはおまえのことが好きだったということだ」


 ベルトランの言葉にリオネルが軽く目を見開く。

 あらためて言葉にされると恥ずかしくて、アベルは布団のなかで視線を伏せた。


 おそらく、ベルトランの指摘は正しい。

 いつからかわからないが、アベルはリオネルを好きになっていた。考えてみれば、出会ったそのころから、アベルを救ってくれたリオネルの優しさに心揺さぶられ続けてきた。


 リオネルの優しさが怖くてしかたなかったのは、その優しさが、本当は欲しくて欲しくてしかたなかったからではなかったのか。


 そんな心を忠誠心にすり替えたのは、自分を守るためだったのかもしれない。

 アベルは自分がいかに幼く、鈍感で、さらに臆病だったかということに今更ながらに思い知らされる。

 三年間もそばにいて、ずっと気づかなかったとは。


 そのことを思えば、アベルは今リオネルと両想いでいられる奇跡に、胸が熱くなる。


「はじめから好きだったということはないだろう」


 リオネルが苦笑する。


「もしそうだったら、おれはこんなに長いこと片思いをしてこなかったよ。……さあ、昨日の夕飯の作り足しで悪いけど、朝ご飯ができた。アベルのぶんはここに運んでくるから」

「リオネル様」


 いったん寝室から出ていこうとするリオネルを呼び止める。寝台から降りようしているアベルのほうへ、やや呆れた顔でリオネルが歩み寄った。


「ここへ運んでくると言っているのに」


 それでもアベルは立ちあがる。そして、目のまえにきた長身のリオネルの首に、背伸びをして手を回した。


「……アベル?」


 よほどのことがなければ自分から抱きつくことなどないアベルに、リオネルは戸惑う様子だ。

 けれどアベルはリオネルの首に腕を回したまま、目を閉じた。


 欲しくて欲しくてしかたのなかったものを、手に入れた。

 けれど、手に入れたものを失うかもしれないという恐怖は、未だにつきまとう。もしかしたら、一生いっしょにいられたとしても、アベルには生涯つきまとう感情なのかもしれない。


 怖いのだ。忠誠心という殻に閉じ込めていない、生身の想いは、たやすく傷つき血を流すだろう。


 欲しくてどうしようもなかったものを、一度手に入れてしまえば、手に入らなかったときより、もっと苦しく感じられるだろう。


 だからこそ、理由を説明せずにリオネルに抱きつく。

 こうしてリオネルに身を任せるのは、甘えているからだ。この恐怖をやりすごすために、アベルはリオネルの胸を借りた。


 無言でリオネルの腕がアベルの背中にまわり、抱き返される。


 怖いのです、とは言えなかった。

 リオネルを失うことが怖いのだと言えば、きっと、ずっとそばにいるとリオネルは約束してくれるだろう。それでも、恐怖の消えないことをアベルは知っていた。


 どれほど抱き締められても、いくら約束されても、アベルは怖いのだ。



 だから、今はリオネルの腕の力強さだけが心の拠り所だった。








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