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前回短かったので、今週はひっそりともう一話更新。
といっても、敵陣営しか登場しないのですが…。
明々と暖炉の燃える部屋。
高級な葡萄酒の香りと薪の香りが混ざりあえば、冬特有の懐かしい匂いだ。
葡萄酒を傾けながら、シャルム国王エルネストがつぶやいた。
「あれには困ったものだ」
斜め向かいに腰かけるブレーズ公爵は葡萄酒の杯を揺する。
「ジェルヴェーズ殿下、ですか」
「シュザンのもとへ見舞いに行った」
直々の見舞いを受けたシュザンが、どれほどエルネストに気に入られているかわかる。その事実に内心でかすかに溜息をつきつつ、ブレーズ公爵はそつなく尋ねた。
「お加減はいかがでしたか」
エルネストが苦い表情になる。
「まず顔の傷が痛々しい」
「顔面を蹴りつけたようで」
「そのうえ、肋骨の一部に亀裂が入っていて、動くと痛むようだった。内臓にも損傷があるらしい」
「顔面を蹴ったその後、身体を抑えたまま腹部を繰り返し容赦なく蹴り上げたそうで」
カミーユらから直接話を聞いていたブレーズ公爵が説明すれば、エルネストは低く唸った。
「シュザンは正騎士隊の隊長。シュザンより適任は他にいない。それを、無抵抗だったにもかかわらず、王子たるジェルヴェーズが暴行を振るい怪我を負わせるとは」
敵対派閥の騎士でありながら、エルネストはシュザンを憚ることなく称える。たしかに国王としては、正規軍を率いる者がシュザンほど剣の腕に優れ、他を惹きつける魅力と統率力を備え持ち、さらには姿形まで完璧なのだから、誇らしいかぎりだろう。
シュザンがアンリエットの弟であることを差し置いても、エルネストが彼を気に入るのは理解できることだ。
「シュザン・トゥールヴィル殿は、たしかに優秀な方と存じます」
シュザンの実力は、だれもが認めざるをえないところだった。
「きっかけを作ったのが、甥のカミーユと、ロルム家のご嫡男殿ということで、誠に申し訳ございませんでした」
「いや、シュザンから話は聞いた。雪だるまを作っていたことが気に食わず、二人を痛めつけたところをシュザンが庇ったとか」
「はい、そのようですね」
エルネストは重いため息をつく。
「雪だるまなど、子供の遊びではないか。いちいち目くじらをたてるほどの価値もない。公爵には止めてもらったこと、感謝している。私とグレースの他には、あれを止められる者はそなただけだっただろう。そなたが通りかからなければ、私は秀でた騎士隊長を失うところだった」
「もう少し早く通りかかっていればと思っております」
そうすれば、シュザンもさることながら、カミーユに怪我を負わせることもなかったのだ。
「困ったことに、ジェルヴェーズは、日ごとに感情を抑えられぬようになっているようだ」
「リオネル様が大人になられつつあることや、エストラダの侵略など、様々な要因で気を尖らせているのでしょう」
「さて、早く結婚でもさせれば、落ち着くだろうか」
「そう思い、良家のご令嬢を探しているところです」
「……しかし、そのようなことで果たしてジェルヴェーズが落ち着くものか」
エルネストの台詞はほとんどひとりごとのようだ。
「レオン殿下はいつお戻りに?」
「このような状態では、戻ってきたところでろくなことは起きまい」
「けれど、このままではレオン殿下はますますリオネル殿をはじめとした王弟派の者たちと親しくなられるのでは」
「しかたがあるまい、西方視察を続けさせることは、妃の強い願いだ」
「王妃殿下の……さようでございますか」
聡明な王妃の顔を思い浮かべて、ブレーズ公爵はそれ以上の言葉を止める。グレースの願いは理解できる。レオンを橋懸かりに、息子らとリオネルがいずれ手を携え、このシャルムを盤石なものにすることを望んでいるのだろう。けれど。
現実がそれほど甘くないことをブレーズ公爵はよくわかっていたし、なによりグレースの望みが実現すれば、実際のところ困るのはブレーズ家だ。
ジェルヴェーズとリオネルには永遠に仲違いしてもらい、ブレーズ家こそが、ベルリオーズ家を凌ぐ力を常に掌握していなければならなかった。
言葉を選んでブレーズ公爵は進言する。
「けれど、レオン殿下が最終的に王弟派につけば、ジェルヴェーズ殿下とのあいだには埋められぬ溝ができます。どうか、そのことも考慮に入れたうえで、陛下ご自身でご判断くださいますよう」
ふうむと唸りながら、頭の痛い様子でエルネストは杯をあおった。
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一方、王宮から少しばかり離れた街サン・オーヴァンでも、派手に杯をあおる者がいる。
やや派手目ながらも質のいい調度品で整えられた室内。臙脂色の長椅子にもたれかかり、水を浴びるがごとく酒を口へ流し込むのは、ジェルヴェーズだ。
「シュザンはまだ起きあがることができないらしい。いい様だ」
高級娼館の一室で、若く美しい女たちをはべらせながらジェルヴェーズは高らかに笑った。
けれども、正騎士隊隊長シュザン・トゥールヴィルの名は、神前試合の見事な剣技でいっそう知れ渡り、街ではますます人気を博しているので、話を聞く娼婦らは微妙な面持ちである。
そんな女たちの態度に、敏感なジェルヴェーズが気づかぬわけがない。
「なんだ、その顔は?」
苛立ちに任せてジェルヴェーズはそのうちのひとりの髪を掴み上げ、乱暴に引き寄せると、そのまま床にたたきつけた。悲鳴を上げて倒れた娼婦は、けれど慌てて起きあがり、ジェルヴェーズの足もとにひれ伏す。
彼の不興を買えばどうなるかわかっているからだ。
「どうか……どうか、お赦しくださいまし」
ジェルヴェーズがなにか答えるより先に、フィデールが女へ冷ややかに告げる。
「もういい、下がっていろ」
痛みと恐怖で涙を流しながら、娼婦は逃げるように部屋から出ていった。
緊張した空気が残った娼婦のあいだに流れる。ジェルヴェーズは女たちの顔に恐怖の色が張り付いているのを見て、つまらなそうに背もたれに身体を沈めた。
「退屈な女ばかりだ」
いっきに葡萄酒の杯を空にするジェルヴェーズへ視線をやりながら、フィデールは言う。
「今回、シュザン殿の件では随分と派手にやられたようで」
ここ数日、ブレーズ領から届けられた多量の政務の処理に追われ、久しぶりにジェルヴェーズと話す機会を得た。多少ジェルヴェーズの機嫌を損ねることになったとしても、告げなければならないことがフィデールにはある。
淡々とした口調のなかにも非難が込められていることに気づいたらしく、ジェルヴェーズはわずかに眉をひそめた。それでも相手がフィデールだからだろう、一度は見逃す素振りを見せる。
「シュザンをあれだけ痛めつけることができたのは爽快だった。が、そなたの父親に邪魔をされたぞ」
「カミーユに危害を加えれば、当然父が放ってはおかないでしょう」
平らな声で言えば、ジェルヴェーズが今度こそ表情を変えた。
「フィデール、そなた、私に刃向かうのか」
ぴりとその場に緊張感が走り、娼婦らが身構える。けれど臆することなくフィデールは告げた。
「カミーユを傷つけることだけは、どうかご容赦願います」
ジェルヴェーズが口端を吊り上げて笑う。と、次の瞬間には、完全に据わった目で、目前に据えられていた小卓を蹴り倒した。
娼婦らが悲鳴を上げて雀のように散ったが、フィデールは微動だにしない。
足もとで倒れて割れたグラスを拾い上げたジェルヴェーズは、鋭い先端をフィデールの喉元に押しつけた。娼婦らが息を呑む。
グラスの先端はフィデールの喉に食い込み、ぷつりと血を浮き上がらせる。
「なぜブレーズ家の者たちは、そこまでしてあの子供を庇う」
浮き出た血が大粒になり、やがて首筋を伝って襟元を濡らしたが、フィデールは少しも動じなかった。
ジェルヴェーズは低くささやくように声を発する。
「たしか公爵が言っていたな。ブレーズ公爵の妹御が、ようやく産み落とした跡取りだと。たかが辺境の伯爵家の跡取りが、それほど大事か?」
喉元に凶器を突きつけられているとは思えぬほどの落ち着きで、フィデールは答えた。
「叔母は、殊のほかカミーユをかわいがっております。カミーユになにかあれば、叔母は平静な心を失うでしょう」
「なるほど、すべて公爵の妹御のためということか」
「加えて父は、純粋に甥であるカミーユがかわいいというのもあるでしょう」
「そなた自身はどうなのだ。なぜカミーユの母親を、それほど気遣う」
「私にとって叔母ベアトリスは、亡くなった母の代わりであり、心を通わせることのできなかった父の代わりであり、そして、私が私であることの恩人でもあります」
ふんとジェルヴェーズは鼻で笑った。
「唯一の肉親というわけか。ブレーズ公爵が泣くぞ」
「もうひとり、叔母の産んだカミーユも、私の肉親です」
今度は声を立てて笑ったジェルヴェーズに、娼婦らは唖然としている。娼婦らの様子など気にも止めず、ジェルヴェーズは先程の様子からは一転して愉快げだ。
「あくまで公爵を肉親と認めないか」
「私は、人として扱われませんでしたから」
「笑顔の鉄面皮を張りつけているわりに、我が子には厳しかったようだな」
ジェルヴェーズはフィデールの喉元につきつけていたグラスを、興味が失せたように投げ捨てる。グラスは暖炉の脇にあたり、さらに砕けて粉々に割れた。
空気が和らいだところで召使いらが数名現れ、割れたグラスや皿をさっと片づける。
ジェルヴェーズはフィデールの首を伝った血を見やって、皮肉めいた表情になる。
「聞かせろ、そなたがどのような幼少時代を過ごしたのか」
「以前少しお話ししたかと思いますが」
「忘れた」
ジェルヴェーズを見やったフィデールは、ややあってから口を開いた。
「物心つくまえから、ブレーズ家領主になるため、あらゆることを叩きこまれました。子供らしい遊びなどなにひとつ許されず、朝起きてから眠るまで学問と武芸をやらされ、父が満足しなければ、使用人用の仕置き部屋に閉じこめられ、漆黒の闇のなかで私は何時間もひとりで過ごしました」
「そなたは兄弟もなく、母親は早くに死んだのだったな」
「実母は私を生んですぐに亡くなりました。私を育てた乳母は、私を仕置き部屋から出したことで父に解雇され、今も行方はわかりません」
「仕置き部屋の闇のなかで、肉親の愛情もなく、そなたは人の心を失ったのか?」
「そうかもしれません」
ジェルヴェーズが愉快げに笑う。
「それで? 叔母のベアトリス殿はそなたになにをしたのだ」
「私の母となってくれました」
「母、か」
ジェルヴェーズの薄い唇から笑みが消える。おそらくジェルヴェーズにとっても、母親は特別な存在なのだ。
グレースだけが、おそらくジェルヴェーズを真に理解し、受け止め、いついかなるときもその胸にひとりの人間としてのジェルヴェーズを抱いている。
「叔母は、私を――」
「もういい」
ジェルヴェーズは投げやりに言い捨てた。
「つまらぬ話をお耳に入れました」
〝母〟というひとことで、ジェルヴェーズは理解したようだ。けれど、砂色の瞳には剣呑な光が宿ったまま。
「そなたの思いはわかったが、それとこれとは話が別だ。カミーユ・デュノアは生意気だ。いつか血まみれにしてやりたい」
フィデールは冷めた青灰色の瞳をジェルヴェーズへ向ける。
「私からよく言い聞かせておきますので、どうかお許しください」
ジェルヴェーズはなにも答えない。代わりに口端を吊り上げると、近くにいた赤毛の娼婦の腕を掴み、長椅子に押し倒した。
退室の意を汲み取り、フィデールは席を立って一礼する。ジェルヴェーズはどこまでフィデールの言葉を聞き入れたのか、娼婦の服を脱がせにかかる彼の後ろ姿からはなにも汲み取れなかった。