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部屋へ入り調理場の脇に木桶を置くと、クレティアンは室内を見回す。ベルリオーズ家の嫡男が暮らすには、あまりに狭すぎる部屋だ。
アベルはというと緊張と動揺で混乱しきり、桶を運んでもらった礼だけ述べると、固まったままうつむいていた。
なぜ、どうして、クレティアンがここに。
混乱したなかで、用事があると言ってここを出ていったジュストのことが脳裏に浮かび、ふとアベルは思い至る。
――そうか。
ジュストが告げたのか。
まさに夢から覚めようとしている感覚のなかにあって、けれどジュストを責める気持ちは起きなかった。いつかはこのときがくるような気がしていた。
けれど、手足の震えだけは止められない。
細かく震えているのが、クレティアンの怒りを恐れてのことか、それとも他の理由なのか、アベルにはわからなかった。
「久しぶりだな」
部屋の様子を見ていたクレティアンが、アベルへ視線を向ける。
アベルは深々と頭を下げた。
「……申しわけございませんでした」
しっかりと声を出したつもりが、かすれている。アベルの謝罪に対し、なにも答えることなく、代わりに姿勢をもとに戻したアベルをクレティアンはじっと見つめた。
「そのような格好でいるとは思わなかった」
「……お見苦しい姿をお見せしました」
ベルリオーズ邸では従騎士の少年だったアベルが、ここではひとりの少女として立っているのだ。クレティアンの戸惑いも当然のことだと思った。
「手のひらは平気か」
釣瓶の縄で手のひらを擦ったことに、クレティアンは気づいていたらしい。
「平気です、お気遣いありがとうございます」
地味に痛むが、なんてことはない。
それより、クレティアンの視線のほうが痛い。あいかわらずクレティアンは、まるで答えを探すかのように、緊張しきったアベルのうえに視線を注いでいた。
「ここにいるのは、従騎士のアベルか? それとも、シャンティ・デュノア殿か?」
突如向けられた質問の答えを見つけられずに、アベルは視線をうつむける。
重い沈黙が横たわり、通りの喧騒だけが二人の空白を埋める。しばらくしてようやくクレティアンが再び声を発した。
「そなたは、リオネルを愛しているのか」
単刀直入な問いに、アベルの心臓は跳ねる。クレティアンがどのような思いでこの問いを口にしたのか、アベルにはわからなかった。
けれど、彼がどんな思いであったとしても、真実は変わらない。
「……身の程知らずにも、わたしはリオネル様を愛しています」
答えた声は震えている。
特に驚いた様子もなく、クレティアンは息を吐くように、そうか、とつぶやいただけだ。
責めも怒りもしないクレティアンの態度は、アベルには余計に辛く、恐ろしかった。
「リオネル様をこのような生活に巻きこんだこと、深くお詫び申し上げます」
耐えきれずにアベルは二度目の謝罪を口にすると、クレティアンが重い口調でようやく核心に触れる。
「巻き込んだと言うが、この生活を考えついたのはリオネルのほうだ。違うか」
「リオネル様に非はありません。すべてはわたしを助けるため……わたしのせいで、このようなことになりました」
アベルがいなければ、このようなことにならなかった。
「デュノア邸では辛い目に遭ったそうだな」
夢を砕きにきたはずの相手は、けれど、気遣う声音で言った。
大切なひとり息子をたぶらかした、どこの馬の骨ともわからぬ娘に対し、そんなふうに言うことのできるクレティアンの心の広さを、アベルはあらためて思い知る。
「リオネル様をはじめ、皆様には大変なご迷惑をおかけしました」
「病を患ったと聞いたが、身体はもう平気なのか」
「はい」
「愛する相手が身も心も辛い目に遭ったのなら、守りたいと思うのは当然のことだ。そのことは理解している」
クレティアンがどうするつもりなのか、アベルにはわからなかった。
アベルは罰せられて、いや、殺されても当然の立場だ。
もはや素直に彼の言うことに従うほかはないだろう。
――けれど。
けれど。
すべてを投げ打ってアベルのためにこの生活を選んでくれたリオネルの思いを、たやすく手放すことはできなかった。
どうしたらよいのかまったくわからないまま、クレティアンの次の言葉を待つ。
「だが、リオネルは私のたったひとりの息子だ。アンリエットが私に遺してくれた唯一の宝」
ベルリオーズ家だとか、王弟派だとかは、ひとことも言わなかった。
ただリオネルが肉親として大事な存在であるとだけ、クレティアンは言う。
「リオネルがそなたを失っては生きていけないように、私もリオネルを失っては生きていけぬ」
泣き出したいような心地は、リオネルを想うからこそ、クレティアンの痛みが理解できるからだ。彼の、身を刺すような痛みが。
赦してほしいとは言えなかった。
このままリオネルといっしょにいさせてほしいとは、言えなかった。
「……リオネルには、私のもとに戻ってきてほしいと思っている」
胸に走る痛み。
クレティアンとしては当然の思いだ。
けれど、その言葉はアベルにとっては、どこまでも残酷だった。
「そなたもいっしょではないと、リオネルは納得しないだろう。だが、シャンティ・デュノア殿であるそなたを――この状況にあるそなたを、リオネルの恋人として館に住まわすことはできない。私が許すとか許さないとか、そういう問題ではなく、もはや貴族の禁忌を侵すことになる。それはすなわち、リオネルの立場を危うくすることになる」
アベルは拳を握りしめる。
胸に突き刺さるクレティアンの言葉は、すべて真実だった。反論の余地もないほどに。
ならば、自分はどうしたらいいのだろう。
答えはわかりきっている。
……彼の前からいなくなること、それ以外にない。
クレティアンの言葉が自ずと導き出す結論に、アベルは心のなかでうなだれた。
わかりきっていたことだったのに。
いつかこうなることはわかっていた。
笑ってしまいたくなるくらいに、アベルは知っていた。
ここまでしてくれたリオネルの想いに応えたい。けれど、逃れられない運命がある。
それでも、と思う。
きっと、これまでのことは無駄ではなかった。
リオネルからは、両手で抱えきれないほどのものをもらった。充分すぎるほどの愛と、思い出を。
共に過ごした時間には、たしかな意味がある。
「すべて公爵様の仰せのとおりに、いたします」
小さな声でアベルは言えば、クレティアンが視線を上げた。じっとアベルを見つめながらクレティアンは静かに尋ねる。
「私の言うことに従うと?」
「はい」
「そうか――ならばシャンティ・デュノア殿には、この場で死んでもらいたい」
目を見開いてアベルはクレティアンを見返した。
「リオネルのために、それができるか」
呆然とするアベルに、クレティアンはゆったりとした仕種で短剣を差し出す。
凛と輝く濃いサファイアの飾られた、美しい短剣だった。
アベルは夢見心地でそれを受けとる。
両手で受け止めた短剣の重さに、アベルは胸に込み上げてくるなにかを感じた。短剣を握りしめ、けれど、鞘ごとそれをアベルは胸に抱く。
リオネルのため――。
死ぬことが、リオネルのためになるなら、喜んで命を絶つ。けれど。
……本当にそうなのか。
たしかにここでアベルが命を絶てば、リオネルはベルリオーズ家に戻り、ベルリオーズ家の嫡男として普通に生きていくことができる。
でも、もし、リオネルがこの部屋に戻ってきたときに、自分が死んでいたら……?
いつも「おかえり」と駆け寄って出迎え、「ただいま」と言いながら彼が抱きしめてくれるこの身体が、血まみれで息絶えていたら――。
どれほどの苦痛を彼は味わうことになるだろう。
それが、リオネルのためだと……。
それが本当に、リオネルのためなのか。
アベルは短剣を抱きしめ、目をつむり、ゆっくりと首を横に振った。
それから、双眸を開き、視線を上げてクレティアンを正面から見すえる。
「できません」
クレティアンの視線がアベルを捉えている。
はっきりとアベルは告げた。
「今は、死ぬことではなく、どんな形でも生きることが、リオネル様を愛することだと信じています」
――自分で命を絶たないならば、クレティアンが腰の剣を抜くだろうか。
身構えるアベルに反して、クレティアンはかすかに笑ったようだった。
そして、ひとつうなずく。
「そうか、死なないか」
ふうっと息を吐き出し、クレティアンは言った。
「その言葉が聞けてよかった」
アベルは拍子抜けしてクレティアンを見返す。
よかった、とはどういうことだろうか。
「そなたがリオネルのために簡単に死を選ぶようなら、あれも苦労することだろう。たやすく命を投げ捨てることは、愛することとは違う」
クレティアンはアベルの目前まで歩み寄った。
「リオネルを愛し、愛される覚悟とは、すなわちそなた自身を――命を大切にすること。なにがあっても、どんなに苦しくとも、どれほど絶望することがあっても、けっして死んではならない」
クレティアンの言葉が、重くアベルの心に響く。
アベルが胸に抱いていた短剣に、クレティアンは手を添える。
「私が言ったのは、〝シャンティ殿〟には死んでいただくということだ」
間近に来た背の高いクレティアンを、アベルは見上げる。ベルリオーズ公爵であり、王の直系でもある彼とこんなに接近したのは、初めてのことかもしれない。
「いまこの瞬間に、私のまえだけでいい。その短剣で、そなたのうちにあるシャンティ・デュノア殿を殺しなさい」
「…………」
「そして、新たな者として生きなさい。ベルリオーズ家の従騎士として――アベルとして生まれ変わり、リオネルに仕えなさい。運命は残酷だが、二人がそばにいることくらいは、神がお許しなるだろう」
アベルは口を押さえた。
それは、つまり。
――リオネルのそばで生きていくことを、許されたということなのか。
「短剣はそなたのものだ。新たな命を得た証しだと思いなさい」
クレティアンのまえだというのに、視界が歪んでいく。
溢れる涙を、止めることができない。
「このような姿でいると、そなたがどれほど華奢な娘だったかがわかる。剣など撃ち合えば、肩も腕もたやすく折れそうなほどだ。だが、これからは再び男として過酷な生活を生き抜くことになるのだ。それでもいいのか」
アベルは歪む視界のまま、大きくうなずいた。
もとよりその覚悟だ。
ひとりの娘として街でリオネルと暮らした時間は、きっと夢だったのだ。
取り出したハンカチを、クレティアンはアベルに手渡す。
「……ベルリオーズ家の騎士として生きるならば、もう、このようなドレスを着て、髪を美しく結うこともない」
アベルは受けとったハンカチではなく、手の甲で涙をぬぐいながらうなずいた。
「リオネルから贈られた髪飾りを、身につける機会もないだろう」
本当にそれでもいいのかと確認してくるクレティアンの真意は、わかる。
生涯、家臣という立場でリオネルに仕えること――それがなにを意味するのか。
「承知しています」
アベルは答えた。
どんな形でもいい。リオネルのそばにいられるなら。
「ならば、髪飾りを外しなさい。そして、外にオリヴィエがいる。彼と共に仕立屋に向かい、従騎士だったころの服に着替えて戻ってくるのだ」
クレティアンの厳しい言葉は、アベルがベルリオーズ邸に戻ることの覚悟を試しているようだった。
「承知しました。すべて公爵様のおおせのとおりにいたします。――けれど、この剣はお返しさせていただけませんか」
「なぜだ」
「わたしにはもったいないものです」
「一度与えたものを、返されて私が受けとると思うか」
「…………」
「そなたの趣向に合わないなら、将来イシャスに与えればいい。あれは、実に筋がいい。立派な剣士になるだろう」
細工の美しい柄に、果てしない夜空の色を映したサファイア。
混じりけのない、どこまでもまっすぐな青色。
クレティアンに引き下がる気がないことを知ると、アベルは身分不相応な短剣をもう一度胸に抱きしめ、深々と一礼した。
こんばんは。
前話で500話目だったようで、読者様からお祝いのメッセージをいただき、とても嬉しかったです。
作者も意識していなかったことでしたが、こんなふうに500話目をお祝いしてくださる読者様がいてくださることに、ほっこりとした気持ちになりました。
長いあいだお付き合いくださり、本当にありがとうございます。
お会いしたことはありませんが、この小説のなかで何年もアベルやリオネルたちとの時間を共有してくださっている読者様を、とても近くに感じます。
まだお話は続きますので、もしよろしければ引き続きアベルたちの冒険をご一緒いただけますと、とても嬉しいです。
たくさんの感謝を込めて。yuuHi