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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第二部 ~男装の伯爵令嬢は、元婚約者の親友の用心棒になる~
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 ――最悪だと思った。


 身体を動かそうとすると、眩暈がして足元がおぼつかない。

 いったん咳が出はじめると、なかなか止まらなかった。

 思考はぼんやりと漂い、馬車が揺れるたびに、頭のなかのなにかが鳴り響いた。座っていることさえも苦痛である。


 昨日までは軽い風邪という程度で、これほどひどくなかった。

 けれどこんな状態になった今もアベルは、リオネルの意見に従っておけばよかったとは思わない。



「宿に留まって、風邪が治るのを待とう」


 と言い張るリオネルに、


「これ以上、到着が遅れれば本邸の方々に心配をかけます」


 と、風邪を引いているようには見えない勢いで、アベルはつけいる隙をあたえず馬車に乗りこんだ。

 刺客に襲われた影響で、すでに半日ほどは旅程が伸びている。それが、いつ治るかわからない風邪のためにさらに遅れれば、ベルリオーズ家本邸の者はリオネルの身に何かあったのではないかと気を揉むだろう。


 ディルクやマチアスとは二日前――つまり刺客に襲われた日の翌日、ベルリオーズ領に入ると同時に別れている。



 アベルは朦朧とした意識のなかで、ディルクの言葉を思い出していた。

 ベルリオーズ領に入ると、ディルクはアベルにこう言ったのだ。


「アベル、これがリオネルの家が治める領地だよ。大きな町だけではなく、小さな集落や農村にも憲兵が巡回するから、領内はどこでもわりと安全だし、地下水路、交通路の整備も進んでいる。ベルリオーズ領の中心都市シャサーヌは、王都サン・オーヴァンに次ぐ大きな街で、活気があふれて賑やかな商業都市だよ。領内の各種税は他領のように高くないし、賦役の負担も少ない。それなのに、ベルリオーズ領は本国一の豊かな財政を誇っている。なぜだと思う?」


「広大な領地と、領内の繁栄があるから、でしょうか」


「うん、それもあるけどね、領民の生活環境を整え、彼らの労働の負担を減らし、生活の安定をはかることで、皆やる気を出し、全体が活気づくんだよ。それが、商業や産業、農業も発達させ、領内の繁栄に結びつき、膨大な富を生む。リオネルの父上であるクレティアン様が、このシャルム王国を治めれば、この国全体がベルリオーズのようになったと、おれは思うんだけどね。クレティアン様の代で無理でも、将来的にはリオネルが治めることを、おれは望むよ。ジェルヴェーズ王子の治める国なんて目も当てられないからね。ローブルグにでも移住したほうがよっぽどましだ」


 ジェルヴェーズ王子と言えば、シャルム王国の第一王子であり、リオネルの従騎士仲間レオンの兄のことだ。この国の王になるだろう者に対する辛辣な台詞に、アベルはどう返答してよいかわからず曖昧にうなずいた。


「ディルク、余計なことを言うな」

「余計? 最後の部分は、余計だったかな」


 ディルクは悪びれもなく笑う。


「でも、リオネルはちゃんとアベルに、自分の領地のことを教えてあげたの?」

「…………」

「混乱しないように気を使っているつもりかもしれないけど、いろいろ教えておいてあげないと、あとで困るのはアベルだよ」

「そうだね」


 リオネルは素直に頷いた。

 ベルリオーズ領に近づくにつれて徐々に緊張しはじめた様子のアベルを気遣い、必要以上の心配をさせまいと、ややこしい話はしていなかった。けれどディルクの言うとおり、知らなければ困るのはアベルだ。


「おれはもうすぐお別れだから、リオネルから話してあげなよ」

「ああ」

「皆と離れるのは寂しいな。年明けにベルリオーズ邸に行くから、そのときにまた会おうね、アベル」


 いつも調子の良いディルクの社交辞令だとは思いつつ、このように言われると、アベルはなんとなくどぎまぎした。


「……はい、いろいろとお世話になりました」

「リオネルと仲良くね」

「…………」


 ディルクは、それぞれの事情から無言になった二人を見て、おかしそうに笑った。


 こうしてディルクとマチアスは馬でアベラール領に向かったので、現在は御者が繰る二頭の馬に引かせた馬車に、リオネル、ベルトラン、そしてアベルの三人が乗っているだけだった。ベルリオーズ領内であるため、馬車外での護衛はしていない。

 風邪の症状が出始めたのは、ディルクたちと別れた日の夜のこと。

 二人には隠し通すつもりだったが、翌日の昼ごろになると、抑えきれない咳がたまに出るようになり、リオネルとベルトランの双方にすぐに悟られてしまった。


「やっぱり、一昨日の雨で体調を崩したのか」


 リオネルが真剣な面持ちで呟く。


 肺炎を患ってから、体質的にどうしても高熱が出やすくなったということもあったが、それでもアベルだけが風邪を引いたのは、当然というところもあった。

 雨の日、刺客たちと対峙したあと、近くの町の宿で場所を借り全員が服を着替えたが、アベルが雨に濡れた服を脱ぐことができたのは、他の若者たちが着替え終わり、アベルを残して宿の食堂に向かった後だった。

 だれもいないところで着替えられるようにというリオネルの配慮だったが、彼らが着替えているあいだにも、冷たい衣服は徐々にアベルの体温を奪っていた。


 アベルは自分の力で座っていることができず、馬車の壁に頭と体をもたせかける。

 車輪が小石を踏むたびに、振動が脳内を強打するようだった。

 なにが最悪かというと、熱が出たことや、横になれないことではない。

 身体を襲う痛みはたしかに辛いものではあったけれど、アベルにとっては大きな問題ではない。自分がリオネルを守る立場の者だと思えば、どんな苦痛にも耐えられる。


 最悪なこと――それは、もうすぐベルリオーズ家本邸に着くということだった。

 リオネルの父であるベルリオーズ公爵はじめ、はじめて会う館の者に、このようなみっともない自分の状況を知られたくなかった。

 ベルトランつきの従騎士であり、リオネルの警護の役目も担っているはずの者が、熱を出して館に到着するだなんて。


 ――本当に、最悪……。


 そんなことを考えていると、熱は余計に上がってくるようだった。

 高熱のせいで、猛烈な眠気に意識が飛びそうになるのを、眉を寄せながらなんとか耐える。


 目をつむり、ぐったりしているアベルを、隣に座るリオネルは見つめていた。


「アベル、横になりなよ」



 アベルの体調が回復するまで、多少強引にでも宿に留まればよかったと、リオネルは思っていた。アベルの「大丈夫」という言葉を鵜呑みにするべきではなかったのだ。


 リオネルもまた、このような状態のアベルを、ベルリオーズ家本邸に連れていきたくなかった。

 館には多くの使用人や兵士がいる。彼らは全員、アベルのことを知らない。そのようななかでは、アベルの心も身体も休まらないだろう。しかもアベルのことだから、熱があるというのに、リオネルの父であるベルリオーズ公爵のもとへ挨拶に行くなどと言い出しかねない。


 けれど、さして暖かくもない馬車の座席に座らせたままの状態が、さらにアベルの体力を消耗させるということも事実だった。館に向かい、早々に寝台で休ませるのが最善の道である。


「大丈夫……です、リオネル様」


 アベルはうわごとのように小声で返事をした。


「そうか」


 リオネルはそう答えたが、その手はアベルの身体をそっと引き寄せ、彼女の上半身を横たわらせ、その頭を自分の膝の上に乗せた。

 なにが起こっているのかアベルは把握できずにいたが、身体が少しらくになるのを感じていた。自分がリオネルの膝を枕にしていることに、かなり遅ればせながら気がつく。

 なにが、「そうか」なのか……。

 アベルの発言はまったく無視されたようだった。けれど言い返す気力も、起き上がる体力もなかったので、アベルはそのまま目を閉じただけだった。――それに。

 頬に感じるリオネルの感触に、アベルは安堵を覚える。


 ――温かい。それに、この香り……。


 透明感のある香りだった。

 ベルリオーズ家本邸に行くことの不安も、熱で気弱になった心も、そっと溶けていくような気がした。

 かつて感じたことのない安らぎのなかで、アベルは浅い眠りについた。



 自分の膝の上で眠った少女の淡い金色の髪を、リオネルはそっと指先で撫でる。


「寝たのか?」


 ベルトランが短く問う。


「そうみたい」

「長旅の疲れも出たのかもしれないな」

「……二年間、別邸の個室で生活していたのに、急におれたちと馬車の旅なんて、アベルには負担だったかもしれないね」

「しかたない、それがアベルの選んだ道だ」


 それも、長い、長い道程の、ほんの第一歩だった。

 ベルトランの言葉に、リオネルは返事をしない。

 あどけない少女の寝顔と、それを見つめる青年の、穏やかで、優しいが、どこか憂いをふくんだ顔とを、ベルトランは交互に見やり、無言で視線を窓の外に向けた。


 窓の外では、分厚い雲から、その重苦しさからは想像もできないほど軽やかな白い雪が舞い降りていた。






 それほど長く意識を失っていたような気はしなかった。

 アベルは、宙に浮くような感覚を覚えて、朦朧とした意識をかすかに回復させた。

 だれかが、自分の身体を抱き上げている。


 夢……?


 強く、あたたかい腕。

 瞼を通した世界が、暗がりから光のなかへ移る。

 意識ははっきりせず、まだ夢と現実のあいだを彷徨っている。

 歩く振動が全身を伝う。

 同時に、透明感のある香りが、鼻をくすぐる。


 この香りは、だれの……?


 思い出せないなかでも、そのとき、自分はこの香りが好きなのだということに、アベルは気がついた。

 どうして今まで気づかなかったのだろう。そして、どうして今なのだろう。


 ――わたしは、この香りが好きだ。


 朦朧とした意識のなかにいるにもかかわらず、いや、朦朧としていたからこそ、そんなことを素直に思った。

 目を開けようとするが、現実に戻ることが惜しく、まだしばらくこの心地よく曖昧な世界に漂っていたいと思った。


 いや、起きなければ――。


 せめぎ合う気持ちに、アベルはうっすらと目を開けた。

 刺繍がほどこされた濃い緑色の生地が目に入る。

 力をふりしぼって顔を上げると、美しい紫色の瞳がこちらをとらえた。


「まだ寝ていていいよ」


 心地よい声が、鼓膜を打つ。


「リオネル様……」


 アベルはかすれた声で呟いた。

 自分がリオネルの両腕に抱えられているという現実に、ようやく気がつく。


「大丈夫です……自分で、歩きます……」

「わかった」


 リオネルはそう言ったものの、アベルを降ろそうとしない。


「リオネル様……歩けます」


 アベルは少し語調を強くして、繰り返した。


「うん、わかった」


 けれどリオネルは優しくほほえみ、同様の返答をするだけだった。アベルは疲れたような心地で目を閉じ、言い返す。


「……あなたは、わかっていません……」

「わかったよ」

「……うそです」

「うそじゃない。……きみが言う『大丈夫』という言葉は、『大丈夫じゃない』という意味だということが、よくわかった」

「…………」


 アベルは、言葉を失って、代わりに再び少しだけ瞳を開いた。

 リオネルの服の胸元以外、なにも見えない。

 聞きなれない男の声が聞こえる。

 リオネルがだれかと話している。

 ああ、ベルトランの声も聞こえる。

 けれどアベルに見えるのは、リオネルの緑色の服の胸元だけ。


 この人は、わたしを、まわりのなにものからも守ってくれている――。


 アベルはそんなことを感じて目を閉じ、自分が最後になにを思ったのかもわからないほど、深い眠りの世界へ再び落ちていった。







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