5
広々とした芝生が広がっている。王宮の庭園から東の木立の裏手。
二人の青年が同時に斬りかかる相手は、肩に届かないほどの濃い茶の髪を振り乱すことなく、悠々と切っ先をはじき返していた。その息に乱れはない。
涼しい顔で剣をひるがえせば、青年たちは身体ごと跳ね返され、あるいは握っていたはずの剣を持っていかれそうになった。
「疲れたか? そろそろ休憩するか」
そう言った男の面影は、どこかリオネルに似ている。
休憩、との言葉に、青年二人は、最後の力をふりしぼって一礼し、その場に転げるようにして腰を下ろした。
青年の一人は、しばらくは声も出ない。ひたすらに流れ出る汗と、荒い呼吸を、どうにか落ち着かせなければ、指先ひとつ動かせそうになかった。
一方、淡い茶髪の青年は、先ほどまでの疲れた様子に比べ、平然とした顔をしている。
「おまえ……ディルク……だましていたのか」
まだ整わない息で、真に疲れた様子の青年、レオンがようやく言った。
「だましたとは聞こえが悪いな。おれだけ元気だったら、おれだけまだ練習をさせられるじゃないか。いっしょに休憩した方が楽しいだろう?」
笑顔でディルクは答える。休憩してさぼりたいのはディルクのはずだが、レオンのため、とでも言うような口ぶりだ。
レオンは大きく息を吐いた。
「おまえと話していると、なんだか……」
「なんだか?」
「あー、なんだろう……」
レオンは考えるのも面倒になって、目をつむった。
ディルクはいつもこの調子だ。シュザンの稽古も、どこまで本気を出しているのかよくわからないところがある。リオネルほどではないにしても、実はかなりの剣の使い手なのではないかと思うことさえある。
貴族とはいえ、血縁関係もない、シャルム王国の王子たるレオンにくだけた口調で話しはじめたのも、出会ってから間もなくのことだった。同期として従騎士になったことや、リオネルと幼馴染みだったせいもあるのかもしれない、とレオンは思うが、兄のジェルヴェーズのように気位が高いわけでもなかったので、特段気にならなかった。
「リオネルがいないと一人あたりの練習量、きついなあ」
ディルクは、レオンと一緒に草の上に寝転がりつつ、ぼんやりと空を見て言った。
「そうか? そんなに疲れているようにも見えないが」
そう言ったのは、レオンではなく、正騎士隊の鍛錬の様子を見にいっていたはずのシュザンだった。
「シュザン」
驚くふうでもなく、ディルクは上体をあげた。それに続いてレオンも身体を起こして立ち上がろうとする。
従騎士のあいだは、お互いの立場がどうであろうと、仕える騎士には敬意を払わなければならない。シュザンより立場が上のレオンも例外ではなかった。
しかし、シュザンは二人が起き上がるのを手で制した。
「休憩中は休んでいてくれていい」
そう言って微笑するシュザンは、やはりリオネルの面影を思わせた。
シュザンは多くの騎士見習いや従騎士を従えているが、一日中訓練についているわけではなかった。正騎士隊の隊長としての仕事が優先されるので、その任務の合間に剣の稽古をつけ、シュザンが不在の間にやるべきことを指示しているのである。
「ディルクには、それほど長い休憩は必要ないか?」
問われて、ディルクは少し苦い表情で言った。
「私なりに疲れています」
シュザンは、それを聞いておかしそうに笑った。
「そうか、おまえなりに疲れたのか。人それぞれ疲労の感じ方は違うというわけだな」
「……そうです」
「さっきは、くたくたになっているように見えたが、まあいい。休憩が終わったら、またしっかりやれ」
そう言われて、ディルクは頭をかいた。
「しかし、リオネルはおまえ以上に顔に出ないから、疲れているかどうかさっぱり分からない」
シュザンは、ここにはいないもう一人の生徒を思い浮かべて言った。リオネルは今、母親の死後十年という区切りに、魂を弔う鎮魂式に参加するため実家に戻っている。
「あいつは不死身らしいので、疲れというのも、ないのかもしれません」
「不死身?」
シュザンは首をかしげた。
先日のひとりごとを再びディルクに茶化され、居心地が悪いレオンは、やや強引に話題を変えた。
「それはいいとして、シュザンは行かないのか」
リオネルの母は、シュザンの姉である。二人は、ベルリオーズ家と並ぶ、シャルム有数の貴族、トゥーヴィーユ公爵家の出身だった。
竜の形をしたシャルム王国の東翼の中心部分を治める領主家である。
長女はベルリオーズ家へ嫁ぎ、長男はトゥーヴィーユ家の跡取りに、次男のシュザンは王宮に仕える騎士となった。こういったいきさつなので、母親似のリオネルと、シュザンが似ているのも無理からぬことだ。
「そうだな、行きたい気持ちは山々だが、おまえたちをここに置いて行くわけにはいかないしな」
本当は、正騎士隊の隊長として長く王宮を離れるわけにはいなかったからなのだが、青年二人には少し意地悪くそう言ってみた。
「ではわれわれも一緒に行きます。訓練ならあいつの家の庭でしましょう」
そう言ってのけたのは、ディルクだった。からかったのを知っていたのかどうか、ディルクも親切を装って意地悪い提案を返した。呆れてシュザンはため息をつく。
「従騎士はきみたち二人だけじゃないからな。去年ついた者もベルリオール領に連れていくのか? 大所帯で押しかけて迷惑なだけだ」
ディルクは、返事のかわりにため息をついた。
その様子に笑ったのはレオンだ。シュザンがレオンを見ると、彼はからかうような目でディルクを見ていた。
「こいつ、もうすぐ婚約者に会えるんだよ。ベルリオーズまで行けば自分の家までこっそり戻って、一足先に様子でも見に行くつもりだったんじゃないか?」
ディルクは渋い表情でレオンを見返す。
「会いたくないわけじゃないけど……会えない」
「ん……? やっぱり会いたかったんだな!」
「そうじゃなくて」
「?」
ディルクは否定したが、めんどうくさそうな顔をしてそれ以上は言葉をつむがなかった。
「そうじゃなくて、どうしたの」
「こっちの話」
「ふうん」
レオンは食い下がってみたものの、ディルクは、はっきりしなかった。そんな彼に、シュザンが聞く。
「お相手はどちらの姫君だ?」
「…………」
ディルクは少し間をおいてから答えた。
「デュノア伯爵家の長女です」
「デュノア家……」
シュザンとレオンは少し考えるが、首をかしげた。公爵家はむろん、侯爵家までならほとんど知っている二人だが、数ある伯爵家となると、いちいち全て覚えてはいなかった。
「辺境の伯爵家だからお二人とも知らないでしょうね。うちとは隣接している領主家です」
「領地が隣り合っているのに、会ったことがないのか?」
「ええ……まあ」
シュザンの質問に、ディルクは歯切れ悪く答えた。このあたりに、ディルクの態度がはっきりしない理由があるようだった。
「どうして?」
と聞いたのはレオンである。ディルクの様子に、それ以上の質問をひかえたシュザンの気遣いは、あっさりと無になった。レオンは、いつもいいようにやられている仕返しを楽しんでいるようであった。
ディルクが答えないでいると、レオンは空気を読まずにもう一度、どうしてなのだと聞いた。
いつもはあっけらかんとした態度のディルクも、このときばかりは眉間にしわを寄せる。
そして少し投げやりに答えた。遅かれ早かれ、いつかは話すことになるだろうことだったし、また、ディルクにとっては大きい問題だが、この二人にとってはさして重要なことでもなかったからだ。
「デュノア伯爵は、ブレーズ公爵家の末娘を妻に迎えている」
その言葉に、二人は瞬時に事情を呑み込んだ。
「国王派か……」
ブレーズ公爵家は、国王派の貴族だ。その娘が、身分違いともいえる伯爵家に嫁いだのであれば、伯爵家はブレーズ家に取り込まれたようなものだった。
一方、ベルリオーズ公爵家と親交が深いディルクのアベラール家は、筋金入りの王弟派である。
「どうしてそんなことになったんだ?」
そんなこと、とはもちろん、王弟派の家系の嫡男であるディルクと、国王派の家系の娘が婚約することである。
レオンのその質問に答えたのは、ディルクではなく、シュザンだった。
「周囲の脅威を取り除くためか」
ディルクは小さくうなずいた。
「それもあると思います……デュノア家は、うちの領地を挟んで王弟派の本拠地のようなベルリオーズ家があることを脅威に感じているはずですから」
そして、デュノア家の西隣りは、もはやシャルム王国ですらない国境地帯だった。
「いざ、国王派と王弟派の争いになったときに、周囲に味方がいないのを恐れたのでしょうね」
「だとしても、よくおまえの親父殿は国王派の貴族の姫君を嫁にすることを承諾したね」
「それはおれにもよく分からないけど、いろいろあったみたいだよ。とくにデュノア伯は熱心に説得してきたみたいだけどね」
「奥方のことといい、娘のことといい、デュノア伯爵はなかなかのやり手だな」
と評したのはレオンである。奥方のことというのは、身分違いの公爵令嬢を迎えたことであろう。そして、
「で、ディルクはどうしたいのだ?」
と、質問した。
「おれは、なにがどうあってもリオネルの味方につく」
「……そうだろうな」
国王派の中心人物であるようなレオンの前で、ディルクはそんなことはお構いなしに、王弟派に味方すると断言した。分かっていたことだったが、レオンは複雑な心境でもある。
そんなレオンの気持をよそに、ディルクは続ける。
「デュノア家が敵になれば、容赦なく伯爵家の者を切るつもりだ」
「…………」
ディルクの言葉を聞いていた二人は押し黙った。立場だけから考えれば、そのときは容赦なく、王子であるレオンも、正騎士隊の隊長であるシュザンも、ディルクの敵となるのだった。それは当然、リオネルとも敵味方になることだ。
しかし、友人や師弟ではあるが、血縁関係のない彼らとは違って、婚姻関係を結んで嫁ぐ娘にとっては、それよりも深い葛藤が生じるに違いなかった。
「かわいそうな娘だな……」
しばらくして、レオンは同情の気持ちをこめてつぶやいた。そのレオンをディルクは強いまなざしで見返した。
「……だから、直接会う前に、この話を断ろうと思っている」
レオンはさすがに驚いた。先ほどディルクが、「会えない」と言っていた意味が、ようやく分かった。
「そうなのか。……しかし、婚約はずっと前から決まっていたんだろう? いまさら断れるのか?」
「決まっていたのに、これまで直接会ったことがなかったということは、父さんと伯爵の間でもいろいろ思惑があってのことだと思う。まだ破談にする余地はあるはず……」
「ふぅん」
レオンはどこか釈然としないような思いで聞いた。
「本当にそれでいいのか?」
そのとき、強めの風に、傍らの木立がざわめいたものの、質問はディルクの耳に確かに届いていた。しかし、ディルクは返事をしなかった。
ディルクにも、十歳のときから名を聞かされてきた、まだ見ぬ婚約者への想いがあったはずだ。
シュザンは見守るような視線で、まだ十六歳の青年のうつむく横顔を眺めやった。
その日、いつもよりも厳しい練習を終えたディルクは、騎士館の自室に戻ると、迷いを断ち切るように筆を手に取った。
宛先は、父、アベラール侯爵のもとだった。