62
賑やかな市場に、人々がせわしなく行き交う大通り。
セレイアック大聖堂の鐘楼が、澄んだ音を響かせる。
いつもの街も、リオネルといっしょだと違って見えた。リオネルが隣にいるだけで、見慣れた風景が鮮やかな色彩をまとう。
人ごみではぐれそうになれば、リオネルがアベルの手を握ってくれる。すれ違う娘たちがリオネルを振り返ることが気になりながらも、アベルは幸せだった。
「この街は、小さいころよくディルクといっしょに遊びにきたんだ」
「シャサーヌの街へ遊びに行ったのと同じですね」
「そう、館のなかも楽しいけれど、街はどこも刺激に溢れていて魅力的だった。シャサーヌでも、セレイアックでも、しょっちゅう抜けだしては街の子供たちと遊んでいたよ」
「その子たちは、リオネル様とディルク様がご領主様だと知っていたのですか?」
「知らなかった。子供というのは、互いの生まれとか、容姿とか、立場とか、すべてを超えていっしょに遊べるからいい」
それは、イシャスがクレティアンに懐いているところを見れば、アベルもしみじみ思う。立場など関係なく、とても純粋に人間どうしの関係を築けるのが子供たちだ。
それに比べ、大人はなんと窮屈な世界に身を置いていることだろう。
「そのときの子供たちも、今はもう大人ですね」
「そうだね、互いにもう会ってもわからないだろう」
「かつてリオネル様と遊んだ子供たちは、今、なにをしているのでしょうか?」
「無事に育っていれば、きっと実家の仕事を継いだり、働きに出たり、いろいろだろうな」
「会いにいってみませんか?」
明るく提案するアベルをまえに、え、とリオネルが瞳を大きくする。
「どこのお店の子たちか、覚えていませんか?」
リオネルが少し困ったようにアベルを見やる。
「アベルはおもしろいことを考えつくね」
「嫌ですか?」
「いや、やってみたい」
そう言うリオネルは、含み笑いだ。
「決まりです、行ってみましょう」
二人は手を繋いだまま、かつてリオネルやディルクの友達だった人たちの店を覗きに行った。
「理髪店の息子ピエールは乱暴者でね、よくディルクと取っ組み合いの喧嘩をしていた」
アベルは笑う。
「どちらが勝ったんですか?」
「彼は身体が大きかったけれど、ディルクも強かったから、五分五分くらいかな」
「負けたら?」
「容赦なく殴られるよ」
笑いながら言うリオネルを、アベルは驚いて見上げる。
「ディルク様も?」
「さすがにおれが止めに入った」
「止めに入るって、リオネル様がピエールさんを止めたということですか?」
「うん」
「でも、相手は身体の大きい乱暴者でしょう?」
「そうだね」
「…………」
物腰柔らかだが、いざとなれば一番怖いのはリオネルかもしれないとアベルはふと思う。
なにも言わずについてくるベルトランと三人でピエールを探しに行ったが、すでに理髪店はなくなり、花屋になっていた。
そのことについて、リオネルはひと言も語らず、他の友達について説明してくれた。
ディルクに片思いをしていたが、ついには告白できなかった仕立屋の娘アメリー。
アメリーの親友で、ピエールでさえ一目置いていた靴屋のお転婆娘ポーラ。
ピエールの配下のように、いつも従っていた痩せっぽちの双子の兄弟。
真面目で、将来は学者になりたいと語っていた御者の息子ヤニク。
ピエールやディルクといつもいっしょに喧嘩をしていた、居酒屋の末っ子トム。
市場で土産物屋の両親の手伝いをしていた、しっかり者のジャン。
ひととおり彼らの両親が働いていた店を見て回ったが、本人らしき者を見かけることはできなかった。
「家を継ぐのはひとりだから、皆働きに出ているのかもしれない。彼らが元気でいることを、おれは信じているよ」
少し寂しげなリオネルの横顔をアベルはちらと見やる。
言いだしたのはアベルだ。哀しい気持ちにさせてしまったかもしれないと、少し焦る。どうにかして、ひとりでもいいから会わせてあげたかった。
「まだあと一カ所、見にいっていないではありませんか」
リオネルが首をかしげてアベルへ視線を向ける。
「ジャンさんのお店です」
「でも、彼の店は市場にあった。市場は広すぎて、どこだったかわからないよ」
「では片っぱしから一軒ずつ見ましょう!」
驚く様子のリオネルの手を引き、アベルは市場へ向かう。
いつもは自分の手をしっかりと握ってくれるリオネルの手を、今はアベルが力を込めて握って引き寄せれば、なんとも言えない心地になった。
大きくて、しなやかで、それでいて力強いリオネルの手。
それを、今自分が握っているのだと思えば、不思議と胸が高鳴る。
この人を幸せにしたい。
叶うなら、このままずっとこの手を離したくないと思った。
野菜に、果物、パンに肉、生きたまま売られている羊や豚、それに食べ物だけではなく、衣類や靴、宝飾品、飾り物に、食器も市場に並ぶ。
アベルはジャンを探して、土産屋を何件もめぐった。
「ここは?」
「違うようだ」
リオネルの回答を聞くと、すぐにアベルは次の店に移る。無我夢中で探していると、何軒目かでリオネルに背中から抱きとめられた。
「アベル」
リオネルの胸に包まれ、長い腕にぎゅっと抱き込められる。不意打ちを食らい、アベルは驚いて振り返った。
「ありがとう、もういいよ」
「でも」
「いいんだ、本当に。きっと皆元気でいるに違いないから」
アベルは抱きしめられたまま少しうつむいた。
髪にそっと頬を寄せられる。
「アベルは小さくて、頼りなくて、柔らかくて、子供みたいだ」
「――――」
子供みたい、とは……。
自分でわかっていたが、地味に落ち込む。
「とても頼りなくて……けれど、小さな身体に強い輝きを秘めている」
それはアベルのことだろうか、それとも子供たちのことか。
アベルは身動きできずに、リオネルの温度に包まれている。
「アベルが……」
リオネルの声がすぐ耳元。
かすれた声は切なげだった。
「……アベルが、彼らのように、知らぬうちにいなくなってしまいそうで、怖い」
アベルは瞼を伏せる。
そして、リオネルの腕に手を添えた。その指先に力を加えたとき――。
脇から声がした。
「かわいい恋人にぴったりなものがありますよ」
若い男の声だった。
アベルとリオネルが振り返れば、近くの店から出てきたらしく、背の高い若者が硝子の髪飾りを差し出す。
飴細工のように艶やかな硝子細工で、真っ赤な雛罌粟をかたどった髪飾り。
「月明りのような金色の髪に、ひなげしの紅がよく映えると思います」
当然アベルは謝絶しようとしたが、リオネルは思いも寄らずそれを受けとった。リオネルの視線はすぐに髪飾りから若者へと移される。
「本当に綺麗な髪飾りだね」
「そうでしょう? はるかシャルム東方に位置するサンティニ領で、腕のいい職人の手によって作られたものなんですよ。なかなか入手できない逸品です。そのぶん少しお値段も張りますけど」
サンティニ領とは、あの正騎士隊の将軍フランソワ・サンティニの一族が治める領地である。
二人の会話を聞いていたアベルの髪に、リオネルは飾りをあてる。じっと見られるとなんだが恥ずかしい。
「とても似合っている」
このような髪飾りが似合うなど、本当だろうか。
――いやいや、そういう話ではなくて……。
「そんな、いいです」
声をかけられるたびに買っていてはきりがない。
「いや、本当に目が覚めるくらい綺麗だ」
髪飾りが、だろう。
「お嬢さん以上に、この髪飾りの似合う方はいませんよ」
髪飾りを差し出した若者が言った。
「ああ、おれもそう思う」
そんなお世辞につきあっている場合ではないと、アベルは軽く眉を寄せる。
「それにしても、きみは売り方が上手だね」
アベルは大きくうなずく。重要なのは、そこだ。売り方がうまい。ほいほいと乗せられて、リオネルが働いた大切なお金を無駄遣いするわけにはいかない。
褒め言葉だったのかどうかアベルにはわからないが、若者は照れたように頭をかいた。
「いやあ、そう言われると照れますね」
愛嬌のある反応に、ついアベルも気が緩みそうになる。けれど。
「いくらだ?」
え、とアベルはリオネルを見た。どうもリオネルは買う気らしい。
「リオネル様」
小声で名を呼べば、「リュシアンだよ」と訂正される。
こちらのやりとりには気づいていない若者が、なにやら指で計算してから、髪飾りの金額を口にする。その額を聞いてアベルはたじろいだ。
それなりにするだろうとは思ったが、予想以上に高い。
「もう少し安くならないか?」
リオネルが値切っている……!
アベルは実に珍しい光景に見入った。いや、ここは見入っている場合ではない。
「リオネ……リュシアン!」
止めに入るが、若者は新たな金額を提示した。
「じゃあ、これくらいで」
若者が指を立てる。少し考えてから、リオネルが一本減らして指を立てた。
すると若者が笑う。
「わかりました、いいですよ」
そう言ってから、彼はリオネルをあらためて見やった。
「あなたは私の幼いころの友人に似ているので、おまけしておきます」
はっとしてアベルはリオネルへ視線を向ける。リオネルは穏やかな表情でほほえんでいただけだった。
アベルは視線を若者へ戻して、尋ねる。
「幼いころの友人って?」
「ええ、とびきり綺麗な顔をした男の子で。はじめは女の子と勘違いして、えらく緊張したものですが、仲良くなってみると仲間のうちで一番強かったんです。見た目によらなくて驚きましたよ。彼は、ピエールとよく喧嘩していた男の子と仲がよくて……懐かしいなあ」
「…………」
アベルがリオネルを見上げると、含み笑いが返ってきた。
代金を支払うと、リオネルが若者に言う。
「ありがとう、きみに会えてよかった」
不思議そうな面持ちになって見返す若者に笑いかけてから、リオネルはアベルを促して踵を返す。
歩きながらアベルはリオネルへ視線を向けた。
「あの人は……」
「土産物屋のジャンだ」
アベルは思わず手を口にあてる。やはりそうだったのだ。
「本当に?」
「しっかり者は変わらないね」
「だから髪飾りを?」
「いや、それも少しはあるけど、本当に似合っていて、アベルのために作られたかのように思えたからだよ」
大袈裟な、とは思ったけれど口にはしなかった。
「よかったですね、昔のご友人に会えて」
「ああ、とても嬉しかった。アベルのおかげだ」
「わたしはなにもしていません」
「昔の友達を探しに行こうと言い出したのも、最後まであきらめずに探してくれたのもアベルだ」
アベルが勝手に好きでやっただけだ。あらためて礼を言われると、どうしていいかわからなくなる。
「ありがとう、アベル」
道の片隅で立ちどまったリオネルが、まっすぐにアベルを見つめた。
「これは、お礼――」
そう言って、ひなげしの髪飾りを、ひとつに結わえてあるアベルの髪に添える。
「――というのは口実で、実はちょうど、自分で稼いだお金でアベルになにか買いたいと思っていたんだ。無駄遣いだと怒られるのではないか心配だけど」
そんなふうに言われてしまえば、無駄遣いだと言うわけにもいかなくなる。
「いいのでしょうか、こんな素敵な髪飾り」
「もらってくれたら、おれはセレイアックで一番幸せな男になれる」
リオネルの言い方がおかしくてアベルは笑ってしまう。
「おれは真剣なんだけど」
そう言うリオネルは確信犯だ。絶対にアベルを笑わせようとしている。アベルはそっとひなげしの髪飾りに触れた。
「……ありがとうございます、大切にします」
リオネルから贈り物をもらうのは二度目だ。
「アベル」
名を呼ばれて視線を上げれば、身をかがめたリオネルに、頬に軽く口づけされる。こんなときに頬に口づけなど、本当に扱いが子供みたいだ。
「いつまでも子供扱いなんですね」
リオネルが困った顔になった。
「ときに子供だと思えないから、困っているんだ」
「え?」
見上げれば、リオネルの真剣な眼差しがこちらを見つめていた。
「ほら、なにもわかっていない」
つぶやいたリオネルの手が、アベルの頬にかかる。
そっと上向かされて、今度は唇へリオネルの口づけを受けた。
啄ばむような、軽い口づけ。
……と思いきや、やんわりと口を開かされて、リオネルの舌の柔らかさを感じた。
絡めとられて不思議な感覚にとらわれた。ジェルヴェーズの強引な口受けとは違う。息苦しさを覚えない……優しい口づけ。
わずかな戸惑いは、安心感にも似た心地よさによって、隅へ追いやられていく。
その心地よさに身を任せていれば、ここが人の行き交う通りの一角であることさえ忘れ去っていた。
しばらくして、リオネルの唇がゆっくりと離れていく。ふうっとアベルは息を吐き出し、唇を離したリオネルを、ぼんやりしたまま見上げた。
リオネルがわずかに呆れた面持ちになる。
「そんな目で、男を見つめるものではないよ」
どういうことだろう。アベルはどんな目をしていたというのか。
「どうしたらいいかわからなくなる」
そう言いながらリオネルは、アベルの身体を抱きしめた。
「子供だなどと思っていない。だから気をつけて」
気を、つける……。その意味は。
「たしかに、子供みたいなところもあるけど」
ごまかすように付け加えられた声は、いたずらっぽい笑いを含んでいる。アベルはなぜだか急に安堵した。
「……やっぱり子供だと思っているのではありませんか」
「どうしようか。喜劇でも観にいく?」
「急に話を逸らさないでください」
「この話を突き詰めると、おれは後戻りできなくなる」
先程からリオネルの言葉の意味が、わかるような、わからないような。
……わかりたいような、わかるのが怖いような。
「さあ、今日はまだまだ終わらない。ひなげしの髪飾りがよく似合うアベルといっしょに、色々なところへ行きたい」
からかったかと思えば、ときに真剣で、そして今度は素直に褒めてくるリオネルに、アベルはほのかに頬を染める。まったくリオネルに振りまわされっぱなしだ。
結局、負けを認めたような気持ちでアベルは言う。
「……今は、リオネル様とこうして街を歩いているのが、それだけで嬉しくて、そして幸せです」
歌劇や喜劇を見にいかなくても、リオネルといっしょにいる――ただそれだけでいい。それだけが、この世界を彩るすべてだ。
こちらへ向けられているのは、リオネルの、そっとほほえむような、けれどとても切なげな表情。
強く――優しく手を握られる。
言葉にならない思いが、繋いだ手から伝わってくるような気がした。
それはアベルも同じだからだ。
先の見えない二人だから。
すべてを言葉にすることはせず、互いを思いやるようにそっとほほえみあった。
「ぶらぶらしようか」
リオネルの台詞にアベルは笑顔でうなずく。
「はい」
……リオネルを感じていたい。
他にはなにもいらない。
厚い雲の割れ目からは、光の梯子。
リオネルとアベルは、しっかりと手を繋ぎ合い、歩き出した。
+++
二人が歩きだすと、クレティアンはそれ以上、彼らのあとをつけようとはしなかった。
「よろしいのですか」
ジュストが遠慮がちに尋ねれば、クレティアンは浅く息を吐き出しながら軽く首を振る。
「もういい」
充分だとクレティアンの顔には書いてあった。
セレイアックの街を散策するリオネルとアベルは、実に仲がよく、幸福そうで、けれど哀しさに満ちていた。繋ぐ手と手も、重ねる唇も、もろく崩れてしまいそうな儚さのなかにある。
クレティアンは無言で二人の去ったほうへ背を向けた。
声をかける気はないようだ。
その気にさえなれば、今すぐリオネルの腕をとらえ、館へ戻るように説得することも、父親として叱りつけることもできたのに。
クレティアンはなにも言わずに踵を返し、アベラール邸のほうへ足を向ける。
ジュストは黙ってクレティアンのあとに従った。
街へクレティアンを連れてきて、二人の姿を見せたのは、クレティアン自身に確かめてほしかったからだ。
二人の様子を目にすれば、クレティアンならきっと感じとってくれるのではないかと思った。
リオネルとアベルが、どれほど惹かれあっているか。
どれほど互いを思いやっているか。
どれほど幸福そうで、けれど、どれほど哀しげか。
クレティアンの目で直接見て、そして、知ってほしかった。
そのうえで今後、どのような結論が導き出されるのか――これは一種の賭けでもある。
二人の様子を見てもなおクレティアンが二人を引き離すと判断すれば、ジュストの狙いは完全に外れたことになる。
けれど、もしかしたら心動かされてくれるのではないか。
もしかしたら、二人の仲を認める余地がクレティアンのうちに生じるのではないか。
そのことをジュストは願っていた。
たしかに、リオネルとアベルを取り巻く環境は厳しい。
けれど先のことはわからない。
このシャルムとていずれエストラダに侵略され、壮絶な戦場になるかもしれない。王家の血筋であるリオネルの身にも危険が及ぶかもしれない。
この時代に、政治的に結びあわされた婚姻がなんの役に立つというだろう。
なにがあるかわからないからこそ、今は大切なものを見失ってはならないような気がした。
無言で歩むクレティアンの背中には、葛藤が垣間見える。
父親としての愛と、領主としての責任の狭間で、彼は揺れ動いているように見えた。
いつもお読みくださっている読者様へ
このような長い長いお話に、いつもお付き合いくださり、ありがとうございます。
「いいね」や拍手ボタンをポチっとしてくださる読者様もいらっしゃり、心より感謝です。とても励みになります。
(誤字脱字報告もありがとうございます。大変助かっております)
また、拍手ボタンからいただくメッセージ、いつもとても嬉しく拝読しています。
こんなふうに感じて読んでくださっているのだなあと、新鮮な気づきもたくさんあり、またこのような拙い作品にコメントいただけることに感謝の気持ちでいっぱいです。
お返事できていないことが心苦しいのですが、お気軽にメッセージいただければとても幸いです。
暑い日が続いていますが(まだ7月初頭なのに)、どうぞ皆様お体に気を付けてお過ごしください。
たくさんの感謝の気持ちを込めて。yuuHi
※追記※
次週は予定があり、土曜日の更新ができません。申し訳ありません<(_ _)>