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『あ、そう』
――というのが、ジュストからリオネルの言葉を伝えられたときの、ディルクのひと言だった。
ジュストは昨夜の出来事を思い返しながら、アベラール邸の廊下を歩く。
昨夜、リオネルらとの夕飯後、アベラール邸に戻ってすぐにジュストがディルクに伝えたいことがあると説明すると、マチアスは見張りが不在の時間帯にこっそり直接会えるよう計らってくれた。
約半月ぶりに会うディルクは元気そうだった。
『ジュスト、このところ毎日どこへ行っていたんだ?』
挨拶代りに尋ねてくるディルクへ、ジュストはリオネルのところだと正直に告げた。そして、リオネルがディルクの現状を案じ、居場所を明かしてもかまわないと伝えてほしいと言っていたことを話した。
するとディルクは、「あ、そう」と、軽い調子で言ったのだ。
『おれの現状を話してしまったら、そりゃ、リオネルならそう言うだろうね。駄目じゃないか、ちゃんと黙っていないと』
『お戻りになっていただくきっかけになると思ったのは事実です。申しわけございませんでした』
『それで? 毎日リオネルのところへ行って、戻るように説得していたってことか?』
『いいえ、リオネル様が安心してお仕事へ行けるよう、アベルの身辺を守っていました』
『戻ってほしいんじゃなかったのか?』
『……お二人を見ていると、そんな気持ちになれませんでした』
それからアベルの身に起きたことや、現況、リオネルの思いなど、あれこれと話をしたが、結局ディルクは最後にこう言った。
『見てのとおり、おれは元気だし、部屋に閉じこめられる生活にも慣れた。もう少しすれば、父上もおれがいないことで不都合が増えて、なにもしなくともおれを部屋から出すはずだ。リオネルには心配いらないと伝えてくれ』
……それが昨夜のできごとで、今朝ジュストはいつものように街へ行き、リオネルにディルクのこの言葉を伝えれば、「そうか」というつぶやきだけが返ってきた。
リオネルとディルクの友情の固さは揺るぎないものだ。
そして、リオネルとアベルが想い合う気持ちも。
なぜ、ディルクは軟禁されなければならないのか。
なぜ、リオネルとアベルは苦しまなければならないのか。
だれが悪いわけでもないのに、大きな運命の歯車が噛み合わず、耳障りな音をたてて軋んでいる気がした。
明日は、リオネルの仕事が休みの日。
二人が心穏やかに、ゆっくり過ごすことができればいいと思う。逃れられぬ過酷な運命のなかにいる二人だからこそ。
考えごとをしながら回廊を曲がったところで、ジュストは館内が騒がしくなったことに気づいた。
使用人らがばたばたと慌てた様子で廊下を走っている。
ひとりを捕まえてジュストは尋ねた。
「いったい何事だ」
「ああ、これはベルリオーズ家の騎士様、ちょうどよいところに。侯爵様が貴方様を探しておいででした」
「私を?」
「ベルリオーズ公爵様が、お供の方と共に館にご到着なされたのです」
「まさか、公爵様が」
ジュストは目を見開く。
「騎士様におかれましては、玄関のほうへ向かってくだされば、侯爵様やベルリオーズ公爵様にお会いできるかと存じます」
言われたとおりに玄関へ走れば、ジュストは我が目を疑う。
たしかにそこにはクレティアンの姿があったからだ。
「公爵様」
慌ててひざまずけば、クレティアンがうなずいた。
「ジュスト、いろいろとご苦労だった」
「公爵様におかれましては、なぜこのような……」
クレティアンの供をしてきたらしき者は、一見するかぎり執事のオリヴィエしかいない。どうなっているのだ。
「事情はあとでアベラール侯爵に話す。そなたも同席してかまわない」
外套を脱いだクレティアンは、アベラール侯爵と共に館の奥へ入っていった。
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そばに控えていることを許されたジュストは、クレティアンに従いアベラール侯爵の私室へ入ると、オリヴィエと共に壁際に立ち、二人の会話に全神経を集中させた。
「驚きました、クレティアン様。まさか自らお越しになるとは」
メイドが酒を用意し終えると、アベラール侯爵はおもむろに口を開く。
「突然押し掛けてすまなかった」
「そのようなことはかまいませんが、たったお二人で旅をするのは危険なことです」
「ここまで馬を駆ければ半日だ。旅とも呼べない」
クレティアンはちらとオリヴィエを見やった。
「それに、ベルトランがリオネルの最強の用心棒ならば、彼もまた三十人の騎士にも匹敵する。案じることはない」
そうはいってもアベラール侯爵は浮かない表情だ。
「これからは事前にご連絡ください。ベルリオーズ家のご家臣を動かせないなら、我が館より迎えを遣わせますので」
曖昧にうなずいてから、クレティアンは葡萄酒を口にした。
「お越しになったのは、リオネル様のことですね」
「そのとおりだ」
グラスを小卓に置いて、クレティアンはアベラール侯爵を見やる。
「アベラール家には迷惑をかけてすまなく思っている」
「けっして迷惑など」
「実のところ、今回ここへ来たのはリオネルのことだけではないのだ。まずは、ご子息を部屋から出してもらえるよう、貴殿に頼みたい」
アベラール侯爵は表情を曇らせた。
「……そうおっしゃることは、わかっていました。けれど、ディルクは間違いなくリオネル様の居場所を知っています。強情に口を開かないのは、事態の深刻さをわかっていないからでしょう」
「ディルク殿が居場所を明かさないことは、もとより承知している。部屋に閉じこめて半月以上になるはず。ディルク殿には申し訳ないことをした。もう充分だ」
「いえ、愚息は次期アベラール家当主としての自覚が足りないのです。リオネル様が不在であることがどれほど深刻な状況であるか、あるいはこのままでは、リオネル様のお命さえ危険にさらされることになると理解できておらぬようで」
「リオネルとディルク殿の絆は揺るがない。閉じこめたところで、居場所は判明しないだろう」
「だからといって、このままでいいというわけにはいきません」
クレティアンはうなずいた。
「このままではいけない。そのとおりだ。だから、ディルク殿を部屋から出してさしあげてほしい」
厳しい表情で沈黙したアベラール侯爵に、クレティアンは静かに尋ねる。
「話をさせてもらえないか」
侯爵は顔を上げた。
「……話とは、ディルクとですか?」
「直接、ディルク殿と話がしたい」
なにか思い至る面持ちになって、アベラール侯爵はうなずく。
「たしかに、クレティアン様が直接お尋ねになれば、なにか話すかもしれません」
それはどうだろうか、と小さくつぶやいてから、クレティアンは言葉を続けた。
「居場所を聞き出すことが本来の目的ではない」
「とおっしゃいますと」
「これからどうするべきか、心の整理をつけたい」
アベラール侯爵はクレティアンへ視線を投げかけた。
「私も正直なところ、どうしていいかわからない。居場所が不明なままでは、連れ戻すことはおろか、リオネルが無事であるかどうかもわからない。しかし、居場所がわかったところで、兵を率いてリオネルを力ずくで連れ戻すことが、本当に正しいことなのか……ディルク殿と話せば、現状を変える手掛かりが掴めるのではないかと思ったのだ」
「なるほど」
アベラール侯爵の口調は重い。
「ですが、謹慎を解くのは、クレティアン様がディルクとお話しなさったあとにいたします」
「結果次第で、ということか」
「クレティアン様にも明かさぬようでは、部屋から出すわけにはまいりません」
浅く息を吐いて、クレティアンはうなずいた。
「できるだけ早くベルリオーズ邸に戻ろうと思っている。時間があまりない。できれば今夜のうちにディルク殿に会いたいのだが」
「かしこまりました、今すぐディルクをここへ連れてまいりましょう」
アベラール侯爵が配下の者に命じれば、ほどなくディルクは部屋に姿を現した。マチアスもいっしょだ。
クレティアンの姿をみとめて、ディルクは深々と一礼した。
「お久しぶりです、公爵様」
「ディルク殿には長いこと部屋で過ごさせることになり、実に申し訳なかった。身体の不調はないか」
「政務の処理が順調にはかどり、むしろ助かりました。身体も問題ありません。お気遣いいただき感謝いたします」
そうか、とうなずいてからクレティアンはディルクに腰掛けるようすすめた。素直に正面の肘かけ椅子に座ったディルクは、クレティアンがなにか言うより先に口を開く。
「リオネルの居場所なら、父にも伝えたとおり存じあげません」
「ディルク」
厳しい口調で諌めたのはアベラール侯爵だ。するとすぐにディルクは謝罪する。
「申しわけありません、公爵様がここへいらした理由がそれ以外に思いつかなかったので。リオネルの居場所以外のことなら、お答えすることができます」
つけいる余地のないディルクの態度に、クレティアンはふと苦笑をもらした。
クレティアンが笑ったので、アベラール侯爵もディルクもやや虚を突かれる面持ちになる。苦笑を負の感情と受け取ったのか、アベラール侯爵が謝罪した。
「……愚息の無礼をお許しください、クレティアン様」
「いや、気分を害したわけではない。リオネルは実によい友人を持った」
「愚か者でございます」
アベラール侯爵のぼやきを聞き流して、クレティアンはディルクへ視線を向ける。
「居場所を知らないのであれば、ディルク殿は、リオネルがどこへ行ったと考えている?」
思わぬ質問を受けたディルクが、軽く首をかしげた。
「我々が探すこともできない場所ではないかと思いますが」
「リオネルはさほど所持金もなかったはず。どうやってアベルとベルトランの三人で生活できるだろう」
少し考える面持ちになってから、ディルクは答える。
「さあ……」
「心配ではないか」
「それは心配ですが、リオネルならきっとうまくやっていると思います」
「貴族だった者が市井で生活することは容易ではない」
「私に言われましても」
「いや、心配ではないか聞きたいだけだ」
「それはもちろん心配ですが」
先程から、不毛にも思えるやりとりが繰り返される。
「私は、リオネルのことが心配でならないのだ」
「私も心配です。とても」
付け加えるようにディルクが言うと、マチアスがひとつ咳払いした。
「そうか、安心した」
なにを安心したのだろうか。傍らで二人の会話を聞いていたジュストらにも、クレティアンの意図を測りかねる。
「あらためてディルク殿に尋ねたい」
「はい」
やや身構える様子でディルクは答えたが、クレティアンは先程から変わらぬ落ちついた調子だ。
「この先、リオネルとアベルはどうなると思う」
「どうなるとおっしゃられますと……」
「二人が一生、市井で暮らすという筋書きは、ディルク殿の考えのなかにあるのか」
こちらも、クレティアンの意図を測りあぐねる様子で、ディルクは軽く目を細めた。
「……いつか戻ると信じています。けれど、アベルを犠牲にしてそれが実現するのであってはならないと思います」
「なるほど。それでは仮にリオネルとアベルが共にベルリオーズ邸に戻ったとしたら、ディルク殿はどのような未来を描く」
「いつまでも二人がそばにいられたら、それ以上のことはありません」
「領主と家臣としてか、あるいは婚姻関係を結んだ二人としてか」
ディルクはクレティアンの顔を見つめ、ややあってから答える。
「可能ならば、婚姻関係を結ぶのがよいと思います」
「可能だと思うか」
とても無理だと言うことを、だれもが知っている。ディルクは押し黙った。ディルクの沈黙が物語る結論を、クレティアンはあらためて確認したようだった。
クレティアンが確証を得たかったことは、そこのところだったのだろうか。
「これまでの数々の問い、シャンティ殿の婚約者であったディルク殿に尋ねるのは浅慮だった。許してほしい」
「いいえ、公爵様」
ディルクは首を横に振る。
「私にとってアベルは、婚約者であったのと同じくらい、大切な友人でもあります。リオネルと彼女の幸福を心から願っています」
クレティアンはわずかにうつむいた。
「――そして、先程の質問ですが」
続くディルクの言葉に、クレティアンは再び視線を上げる。
「リオネルとアベルが結婚できるかどうかということですが、形式上は無理でも、実質的にはなれると思います。ベルリオーズ公爵夫人として表に立つことが、リオネルの妻となることの本来の目的ではありません」
「リオネルの妻となる者は、その役目を負わなければならない」
貴族にとって、妻を迎えることは大切な役目のひとつである。社交界での体裁もしかり、嫡男をもうけることもしかり。
貴族に嫁ぐということには、重い意味あいがある。
「それに、国王派と王弟派の関係。アベルがベルリオーズ家にいると知られれば、ブレーズ家が動くだろう。これまでぎりぎりのところで均衡を保ってきたのだ。エストラダの脅威があるこのときに、両家が緊張状態に陥ればシャルムの団結は失われる」
クレティアンが口にしたのは、避けて通れぬ現実問題だった。
だれにも反論の余地はない。けれど、ディルクは息を吐くように、ほんのかすかに笑ったようだった。
「公爵様は、このあいだまでのリオネルによく似ておられます」
クレティアンが首をわずかに捻る。
「このあいだまで、とは」
「リオネルは自らの置かれた立場にがんじがらめになって、動けませんでした。深くアベルを愛しているのに、ベルリオーズ家嫡男としての立場や責任が、一歩も二歩も行動を抑制させ、信じる道を突き進むことができない。そうやって、なにか大切なことを諦めていました」
「大切なこととは?」
「自分がどうしたいかということです」
「…………」
「アベルはデュノア家で殺されかけ、身体もさることながら、心にも傷を負いました。おそらくあの事件をきっかけに、リオネルは気づいたのだと思います。――自分がどうしたいかということに」
クレティアンは考え込む顔つきで、視線を下ろした。
「リオネルが本当にやりたかったこと。それは、ベルリオーズ家の嫡男としてでも、王弟派の頂点に立つ者としてでもなく、ひとりの人間として生きることだったのではないでしょうか」
黙ってクレティアンはディルクの言葉を聞いている。
「ひとりの人間として、リオネルは今、全身全霊でアベルを愛しているのだと思います」
ディルクが言葉を切ると、広い室内に沈黙が降り落ちた。
静かな声音が響く。
「立場をわきまえずに申しあげれば、もしなにか迷いがおありなら、クレティアン様もまた、どうあるべきかではなく、ご自身がどうしたいかということを考えてみられてはいかがでしょう。それに従うかどうかは別の話ですが、なにか別の考えを見つけるきっかけにはなるかもしれません」
押し黙っていたクレティアンが、ややあって重いため息をついた。
「……ディルク殿の話が聞けてよかった。アベラール侯爵には、どうかディルク殿の謹慎を解いてあげてほしい」
苦い表情でディルクを見やってから、アベラール侯爵は視線を伏せる。
「クレティアン様のおおせなら」
「頼む」
こうして半月以上にのぼる、ディルクの謹慎が解かれたのだった。
アベラール侯爵の部屋を出て、賓客室へ向かう途中のこと。クレティアンは独り言のように言った。
「……私は、間違いなくリオネルの幸福を願っている」
こちらへむけて話しているのだろうかと、ジュストは戸惑った。オリヴィエは先に部屋を整えに行っており、この場にはクレティアン以外には自分ひとりしかいない。
なにか答えるべきなのか逡巡していると、クレティアンが言葉を続けた。
「ディルク殿の言うとおりだ。私がここにきた理由――、それは、心の整理などと言っていたが、蓋を開けてみれば、私はなによりリオネルの無事を知りたかった。そのような自分の気持ちにさえ、私は気づいていなかった」
ようやくジュストは合点が入った。
先程の、不毛とも思えるディルクとのやりとり。
ディルクに心配ではないかと度々尋ねたのは、彼の反応を確かめるためだったのだ。心配する様子のないディルクに、クレティアンはリオネルがおそらく元気でやっていることを悟った。だから、最後に「安心した」と言ったのだろう。
「リオネルの幸福を願っている。けれど、どうするかはすぐに決められない」
そうだろうと思う。
アベルを館で住まわす許可を出すためには、相当な覚悟が必要だ。
これから先、ベルリオーズ公爵夫人がずっと不在になる可能性だけではない。ブレーズ家との関係で、国王派と王弟派の対立構造を決定的にする可能性もある。
クレティアンは言った。
「だから、とりあえず今はリオネルの無事を願い、リオネルが幸福に過ごしていると信じるしかない」
ジュストはクレティアンの後ろ姿を見やる。
普段は王家の直系として、そして、ベルリオーズ家の当主としての後ろ姿が、今は父親としての――ひとりの人間としての後ろ姿として映る。
今ならば、とジュストは思った。
「私をどうかお許しください」
足を止めてジュストが頭を下げれば、クレティアンもまた歩みを止め振り返る。
「私はリオネル様の居場所を存じあげています」
クレティアンは驚いた様子もなく、静かにジュストを見つめていた。
「リオネル様とアベルは、ようやく穏やかな時間を手に入れました。……力ずくで二人を連れ戻さないと約束くださるなら、居場所をお教えいたしたいと思います」
「そなたが知っているだろうことは、館の玄関で顔を見たときから察していた」
ジュストは大きく目を見開く。それから、あらためて頭を下げた。
「申しわけございませんでした」
「立場の弱いそなたを問い詰める気はない。……なぜ私に教える気になったのだ」
「リオネル様とアベルの様子を、公爵様ご自身の目でご覧になっていただきたいと思ったからです」
「私の目で?」
「お二人の姿に、これまでと異なる思いを抱かれるのではないかと思います」
「…………」
クレティアンは重く沈黙していた。