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環境が大きく変わると、これまでのことが夢だったような気がするものだ。
けれどアベルは、今の生活こそが夢のように感じる。
こんなふうに、好きな相手と街で暮らすなど、夢にも思わなかった。
そう、きっと、〝好きな人と暮らす〟ということそれ自体が夢のようなのだ。
デュノア邸を追い出され、あちこちの街を転々としていた苦しい日々のほうが、アベルにはよほど現実的に思えた。
夢はいつか覚める。
そのことをアベルは知っているから、幸福な日々は切ない。
待ち構えている現実は、ベアトリスの子ではなかったということ、地下牢で向けられた憎悪と殺意、ベルリオーズ邸に戻れぬ状況や、クレティアンの思い、自分たちのせいでディルクが謹慎処分を受けていること、許されぬリオネルとの仲……。
ふと、それらを思い出せばアベルは心臓が痛くなるような息苦しさを覚えた。
すべてをかけてアベルを守ってくれるリオネルに、そんな不安を悟らせたくない。だからアベルはリオネルのまえでは、いつも笑っているようにした。
リオネルは優しい。
だからこそ、心配をかけたくないと思う。
あいかわらずアベルとリオネルとベルトランは毎晩、寝台を譲り合い、結局は全員が床に毛布を敷いて眠っていた。けれど、目覚めればいつもアベルだけが寝台にいて、二人の姿はない。
なんてことはない、些細な日常。
この生活を、いつまで続けられるのだろう。
「……アベル、アベル?」
名を呼ばれてアベルは我に返る。
「え、あっ、はい」
「そろそろ次の野菜を入れるころじゃないか?」
「そ、そうでした」
ジュストに言われて、蕪を鍋に投入する。
「そう、それで蓋をして、しばらく煮込めばいい」
指示し終えるとジュストは暖炉の火で炙っていた鴨を、くるりと回して火の当たる位置を変える。
肉の焼ける香ばしい匂いがした。
「……なにを考えこんでいるのか知らないが、今はすべてリオネル様に委ねていればいいんじゃないか?」
ジュストの背中へアベルは視線を向ける。と、こちらを振り返ることなくジュストが言った。
「辛い思いをしてきたぶん、今はリオネル様に甘えていいときだ」
「……もう充分に甘えています」
「ある意味では、そうかもしれないな。けれどそう、肝心なところでアベルはリオネル様を頼らない」
アベルはうつむく。
「完全に甘えきってしまえば、すべて失うような気がします」
ジュストがこちらを振り返ったとき、玄関の扉が開いた。外の冷気と共に扉の隙間から入ってきたのはリオネルとベルトランだ。
彼らの肩には、細かな雪の粒がついていた。
「おかえりなさい」
笑顔でアベルは二人を出迎える。
「ああ、ただいま」
アベルの顔を見たリオネルは、ほっとした様子でアベルの身体を軽く抱き寄せる。そしてすぐに手を離すと、
「ごめん、冷たい手で」
とすまなそうに言った。アベルは首を横に振る。
「外は雪が?」
「少し降りはじめた。最近降っていなかったのにね。ああ……これ、お土産」
リオネルは紙の包みをアベルに渡す。それを受けとりながらアベルは礼を言った。
「なんでしょう?」
ほんのり甘い香りがする。
「ドラジェだ。評判のお店のものらしいよ。ラロック家の奥方から、アベルにって」
ラロック家とは、リオネルが家庭教師を務めている裕福な商家のことだ。
「わたしに?」
驚いてリオネルを見上げれば、外套を暖炉のそばにかけながら説明してくれた。
「一家の夕飯に誘われたのだけど、恋人が待っているから帰ると断ったら、夕飯のあとに食べる予定だったというドラジェを持たせてくれた。恋人といっしょに食べてほしいと。今度はアベルも連れて、皆で夕飯を取ろうと言っていたよ」
「とても親切な方なんですね」
アベルはドラジェの包みを見下ろす。
とても嬉しい。
けれど、ラロック家での食事となると、アベルはすこしばかり緊張する。
実のところアベルはあまりそういう場が得意ではない。食事会が苦手など、貴族令嬢らしくないのだろうが。綺麗に着飾り、笑顔で気の利いたことなど言えそうにない。
「気が向いたら参加すればいいし、そうでなければ無理することはないよ」
アベルの性格を理解しているリオネルは、なんでもないように言ってくれた。
外套と上着を脱ぎ、くつろいだ格好になると、リオネルはアベルのそばへ寄る。
「明後日、休みをもらったんだけど、いっしょに街へ出かけないか」
「お休み? 本当に?」
この生活になってからリオネルは早い段階で働きはじめてしまったので、思いのほか二人でゆっくり過ごす時間が持てていなかった。
一日、共に過ごせるのだと思えば嬉しい。
「もう半月以上毎日来てもらっているから、たまには休むようにと言ってくれた。セレイアックの街をゆっくり散策する時間もなかったし、明後日はのんびり過ごそう」
「嬉しいです」
素直な気持ちで笑顔を見せれば、リオネルが目を細める。
「どこへ行こうか」
「考えておきますね」
するとジュストが控えめに確認する。
「では、リオネル様がおそばにおられるということであれば、私は、明後日はここへ参らないということでよろしいでしょうか」
「ジュストもいっしょに街を歩こう」
気さくに誘うリオネルをまえに、ジュストは慌てて一歩後ろへ下がる。
「いえ、とんでもありません。リオネル様とアベルがゆっくり過ごすところに、私などがつきまとっては……とにかく明後日は、レオン殿下と共にアベラール邸で本でも読んで過ごしますので、どうかお気遣いなく」
なぜレオンなのかはわからないが、ジュストの意志は固いようだった。どのみち影のようにベルトランは二人についてくるのだし、たくさんいたほうが賑やかで楽しいとアベルは思うのだが。
そうか、とジュストへうなずいてから、リオネルはおもむろに尋ねた。
「レオンはあいかわらず読書か?」
「ええ、アベラール邸の哲学書をすべて読みつくす勢いです」
「ディルクはまだ部屋に?」
「はい、謹慎を解かれていません」
リオネルは真顔になって考え込む。それからしばらくして口を開いた。
「ジュスト、マチアス経由でかまわないから、ディルクに伝えてほしい」
「はい」
答えるジュストは、けれどなにを言われるのか検討のつかぬ様子だ。
「――おれたちの居場所を明かしてもかまわないと、伝えてくれないか」
思いも寄らぬ言葉に、ジュストのみならず、アベルとベルトランも驚いてリオネルを見やった。
「それは……」
ジュストが困惑の声をもらす。
「これ以上ディルクに迷惑をかけるわけにはいかない」
「けれど、居場所を知られたらどうなるか」
ジュストは気がかりげにアベルへちらと視線をやる。
「逃げ切る自信はある」
「けれど――」
「ここは色々なことがあった。別の場所へ越してもいいと考えている」
「そうなれば、ディルク様も私も、リオネル様の居場所がわからなくなってしまいます」
「それが、ディルクのためでもジュストのためでもある」
ジュストは押し黙り、しばらくして静かな口調で言った。
「ディルク様にお伝えすることはできます。けれど、ディルク様はけっして居場所を明かさないでしょう。お住まいの場所がわからなくなるほうが、ディルク様はお困りになるのではないでしょうか」
リオネルは考え込む面持ちで、なにも答えなかった。
+
皆で夕飯後にドラジェを食べ、ジュストがアベラール邸へ戻ったあと。
就寝の準備をしながら、アベルはリオネルの横顔を盗み見る。
あれからしばらく自分で考えていたが、居場所を明かしてもかまわないと言ったリオネルの思いは、アベルにも理解できた。
そしてアベルも今は同じ考えである。
これまでディルクの誠実さと優しさに甘えてきたが、このままではいけない。
そのことに今更ながら思い至る。ディルクが部屋に閉じこめられているのに、自分はリオネルとのんびり暮らしていたのだ。
人の犠牲のうえに、本当の幸福はない。
――終わらせなければ。
これ以上は迷惑をかけてはならないのだ。
いや、ディルクだけではない。
ジュストとて毎日ここへ来てもらい、手間と時間を取らせている。クレティアンやアベラール侯爵は心配しているだろうし、ベルリオーズ家の騎士らもそろそろ不安に思うころだ。
幸せと隣り合わせにある、暗い予感。
夢は必ず覚める。
そろそろそのときが近づいてきているのではないか。
「リオネル様」
準備を終えて寝台に腰かけながら、リオネルに声をかける。
濡れた顔を拭いていたリオネルが、ん、とこちらを振り返った。
「今日、ジュストさんに言ったこと――」
そのひと言だけで、リオネルはアベルがこれから口にしようとしていることを察したようだった。
「ディルクのことは気になっているけれど、おれは館に戻るつもりはないよ」
即座に告げられる。
彼の口調ははっきりしていた。
「……けれど、もう皆様に迷惑はかけられません」
「本当にここを出ようと思う」
アベルが見つめれば、リオネルはこちらへ歩んできて、目線を合わせるように寝台のまえでしゃがんだ。
「そうすれば、ディルクとジュストをこれ以上巻き込まずにすむ」
「…………」
「それにここでは色々なことがあった。アベルが心穏やかに過ごせるところへ、引っ越したい」
「……ここ、気に入っています。リオネル様が探してくださった部屋」
「色々とすまなかった」
「どうしてですか? 素敵な場所です」
アベルが素直にそういえば、リオネルがなんともいえぬ表情になる。けれど、アベルは口を開かなくてはならなかった。
「けれど……、もう、リオネル様を皆様にお返ししないと」
「アベル」
少し怒ったような、諭すような、リオネルの声音だ。
「おれがジュストに告げた言葉を気にしているのか」
「わたしは、充分すぎるほどに大切にしていただきました。そして、充分すぎるほど幸せでした」
「まだ終わっていない」
「リオネル様は、わたしだけのものではないのです」
「アベルのためだけに、生きたい」
「……もう、充分にそのお気持ちはいただきました。わたしは世界一幸せです」
リオネルが眉を寄せる。
「どうして終わりにさせようとする?」
おそらく、あらゆることにおいてリオネルはアベルよりも大人だ。けれど……、この件についてだけは、アベルは自分のほうが現実を受け止めているような気がしている。
「リオネル様が、ジュストさんにあのように言ったのは、このままではいけないとご承知だからでしょう?」
「だから、引っ越せばディルクをこれ以上縛らずにすむ」
「理屈ではなく、わたしたちはきっと大きな運命の渦のなかにいます。リオネル様は王家の血を継ぐベルリオーズ家のご嫡男様で、わたしはオラス・デュノアとローブルグ人のあいだに生まれた〝いわく〟のある娘です。街に身を隠しても、その事実は変わりません」
だからこそ、数々の不都合が生じる。ディルクの軟禁も、クレティアンや騎士らの不安も、すべてアベルとリオネルの行動が招いたものだ。
いや、きっとリオネルもわかっているはず。
それでも――わかっていても、なお、そばにいることを決意してくれている。
彼の覚悟にあらためて気づかされれば、アベルは胸が震えた。
もう、それだけで……充分だった。
リオネルの手が伸びて、アベルの頬に触れる。
「アベルは、アベルだよ。いわくつきの娘なんかじゃない。デュノア家の令嬢でも、おれの家臣でもない。おれが生まれてはじめて愛した、世界でたったひとりの女の子だ」
リオネルの言葉にアベルは泣きたくなる。
なんの肩書きも、生まれも、過去もない、ただの〝アベル〟をリオネルは受け入れてくれている。
そのことが、どれほどアベルの救いになるか。
「アベルの気持ちはわかった。ディルクのことや、ベルリオーズ家のことを案じてくれているのだろう?」
アベルはひとつうなずいた。
本当はアベルだって、ずっとここでリオネルと生活したい。
なにもかも忘れて、なんの過去も背負わない、ひとりの少女として。
けれど。
――忘れてはならない人たちがいる。
リオネルの両手がアベルの頬を包みこんだ。
「アベルが気に入ってくれたこの部屋に、留まろう」
少し潤んだ視界に、リオネルが映りこむ。
かすかに寄せられた眉は、苦しげだった。
「……これは、願掛けだ。居場所が知られたら、おそらく連れ戻されることになるだろう。けれどもしこのまま知られなければ、いっしょ暮らそう。もし連れ戻されたとしても、アベルのことは必ず守る。けれどせめて、居場所が知られるまではこのままでいたい」
リオネルの肩にひたいを寄せ、アベルは涙をこらえる。
そうして、もう一度うなずいた。
ずっと、ずっと、居場所が知られなければいいのにと思った。
けれどそれは、きっとたくさんの犠牲を意味することだ。
「おれは、アベルとこのままいっしょに暮らせるような気がしている」
アベルはうなずく。
そうだったら、どんなにいいだろう。
「おれの我儘につきあってくれて、ありがとう」
そっと肩を抱いてくれるリオネルの手に、アベルは心を委ねた。