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暖かい布団からどうにか這い出て、居間に続く扉を開けば、リオネルが今朝も食事を作ってくれている。
「おはよう、アベル」
リオネルは笑って挨拶してくれるが、表情にはどこか曇りがある。
「おはようございます、リオネル様」
アベルも挨拶を返したものの、最後のほうはすでに視線を外していた。
普段どおりだ。
別に喧嘩をしているわけじゃない。
互いに挨拶もするし、普通に話す。
けれど、意見が合わずに頑固対決をした日から、アベルとリオネルはどことなく気まずいままだった。
リオネルは怒っているわけではないし、アベルも意地を張っているつもりはないのだが、リオネルがアベルを抱きしめようとしなくなったので、アベルも少し距離を置いていた。
あるいはアベルが距離を置いていると感じて、リオネルは触れてこないのだろうか。
どちらが先かわからないが、とにかくもやもやとした状態だ。
「今朝も寒いね」
「本当ですね」
ぎこちない会話が交わされる。
窓の外を見やり、監獄に繋がれているジャックとマリナのことをアベルは思った。
監獄は寒いだろう。
デュノア邸の地下牢とは違って、セレイアックの監獄にはおそらく毛布や寝る場所があって、食事もきちんと出される。
けれど、希望がなくては生きている心地もしないはずだ。
……リオネルの言うことはわかる。
もしリオネルが殺されかけたなら、アベルも犯人に極刑を望んだだろう。リオネルを殺そうとした者が、この世界のどこかに生きていること自体が不安の種だ。
けれど、本当にそれでいいのだろうか。
立場が違うからそう思うのかもしれないが、それでも相手は職業的な兵士や暗殺者でもなければ、強盗でも殺人鬼でもない。
これまでは普通の、少しくらい意地悪や悪いことはしても、犯罪にまで手を染めたことのなかった人たちだ。
ならば、アベルは助かったのだし、彼らの命まで奪う必要はないのではないか。
そんなことを考えていると、やはりリオネルとの隔たりを作っているのは自分なのではないかという気がした。
結局のところアベルは、二人が絞首刑になることが嫌なのだ。
二人がもう一度生きて人生をやりなす機会を、与えてあげたい。
マリナの顔に残るあどけなさ。
ジャックは死んで償ってもらうよりも、一発この手で殴りつけてやったほうが、よほどすっきりするというのに。
配膳を手伝い、言葉数少なに朝食をとる。
ここのところ、こんな感じが続いている二人をまえに、ベルトランは別の意味で存在感を消していた。
食事を終え、食器を洗う。
いつもは朝食が終わるころに顔を出すジュストが、今日はなかなか来なかった。
「すぐにいらっしゃると思うので、リオネル様はどうぞお仕事へ行かれてください」
気遣って言えば、リオネルはやんわりと答えた。
「いや、待つよ。ジュストが来てから行く」
「ほんの少しのあいだですから平気です」
「ほんの少しくらいなら、おれにも待つ時間の余裕はあるよ」
けっして強い口調ではないのに、リオネルには有無を言わさぬ響きがある。互いの意見がぶつかれば、結局いつもリオネルの主張が通るのだ。
アベルのためを思っていてくれていることはわかっている。わかっていて納得できなかったり甘えられなかったりする自分は、子供っぽいのか、あるいはベルトランの言うとおり頑固なのだろうか。
大事にされること。
人から大事にされることも、自分で自分を大事にすることも、まだ慣れなかった。
当然のようにジュストが来るまでいっしょにいてもらい、ジャックとマリナの刑を受け入れ、リオネルが大切にしてくれることに甘んじることができれば、よかったのかもしれない。……けれど。
それはアベルの生き方ではない気がした。
自分はやはり幸せにはなれないように造られているような、そんな気がした。
しばらくするとジュストが玄関に現れる。
入れ替わるようにリオネルが仕事へ向かうと、アベルは無性に切ない気持ちになった。
もっとリオネルと自然な形でいっしょにいたい。
――だったら、もっと素直になればいいのに。
自分自身に呆れる。二人きりになると、このところのリオネルとアベルの雰囲気を当然察しているジュストが尋ねてきた。
「まだ意地を張っているのか」
アベルは瞼を伏せる。
「そういうつもりはないのですが」
「きっとアベルが落ち込んでいる以上に、リオネル様は気にされている」
無言でアベルはジュストを見上げた。
「見ていればわかる。リオネル様がどれほど心を痛めておられるか」
「……心を痛めて?」
ぎこちないというだけで、アベルの目には、そんなふうに見えなかった。
「なんでもないような顔をしているのは、周囲に感情を悟らせないリオネル様のご性格のため、そして、リオネル様にもけっして譲れぬものがおありだからだろう」
「譲れないもの……」
「譲れぬものとは、すべてアベルに関することだ。赦して差し上げたらどうだ」
「赦すもなにも、はじめから――」
「怒っていない? けれど、ジャックとマリナという者の処分に納得がいっていないのだろう?」
「納得……は、たしかにできませんが、怒っているわけではありません」
「その納得できないというところが、アベルは思いきり態度に出ている」
「人の命がかかっているので、簡単に納得できないでしょう?」
「だが、そもそも刑の軽減を求めたところで、それが聞き入れられるとはかぎらない」
「わかっています」
それでも、できることをしたかった。
「最終的な判決が出るのは今朝だったな」
「……はい」
判決を聞くことは怖い。
このあいだまで普通にこの街で、この建物で生活していた二人が、絞首刑になってしまったら――。
それなのにジュストはあっさり言った。
「では今から判決の結果を聞きにいこう」
「えっ」
「判決の結果を自分で確かめるんだ」
「確かめてどうするのですか……絞首刑だったら?」
「では、アベルはこのまま判決を知らないままでいるつもりか」
アベルは押し黙る。もちろん自分が関わっているのだから、二人の処罰を聞くことは義務でもあると思っている。
ただ覚悟ができていなかったのだ。
ジュストに確認されて、アベルは腹をくくろうと思った。
「――行きます。判決を聞きに」
「決まりだ」
ジュストは言った。
「いいか、アベル。判決が下されるためには、すべて必ず領主の許可が必要だ。今回だってアベラール侯爵様か、あるいはディルク様が目を通され、ご署名されてはじめて最終的な判決が下る」
アベルはうなずいた。
シャサーヌにおいても、リオネルが日々忙しそうに政務をこなしていたことは知っている。
「領主は最終的にその判決が妥当かどうか判断するんだ。そのための領主だ。どんな結果であれ、今朝下されたものが、アベラール侯爵様やディルク様もご同意なされた、妥当な判決ということになる」
ジュストの言いたいことは、わかった。
つまり、アベラール侯爵とディルクを信頼するならば、どのような結果であったとしても、それはアベルのせいでもリオネルのせいでもなく、最も望ましい処罰だということだ。
最後は領主の手に委ねられた判断なのだから、絞首刑であったとしても、それを受け入れるべきだと――そのようなジュストの考えは、アベルにも理解できた。
「裁判所へ行きます」
「では、外套を羽織って出かけよう。ついでに夕飯の食材も買いにいける」
薄い雲の広がるセレイアックの街へ、二人は出かけた。
+++
裁判所は人でごった返していた。
訴えに来る者、判決を聞きにくる者、長引く訴訟を見物に来る者、ただの野次馬……。
周囲からアベルを守るようにかばってくれるジュストに導かれ、裁判所の奥へと進む。
どこを歩くときも、ジュストが不機嫌そうな顔でそばにいてくれるだけで、男性から声をかけられることはなくなった。
判決結果の公示されている大回廊へ辿りつき、マリナとジャックの案件を探す。
「あった、これだ」
背の高いジュストが、壁の上部に張られていた紙を見つけた。緊張しながらアベルは視線を上げる。
「見えるか」
「どれですか?」
「これだ」
ジュストが指差した紙にアベルは目を凝らす。
「……ジャックとマリナ、共に、四年の禁固の後、領外追放……」
大きく書かれた文字だけをなんとかして読み上げてから、アベルは、え、と目を見開いた。
「禁錮刑に、領外追放……本当に?」
隣に立つジュストを見やれば、彼は涼しい表情で、細かく書かれた説明個所に目を通している。
「ご存じだったのですか?」
「いや、まったく」
「……どうして」
はっとしてアベルはジュストを再び見上げる。
「すみません、ジュストさん。説明個所を、わたしにも読んでくださいませんか」
「今読んでいるところだ。ジャックとマリナの身勝手な犯行について厳しく批判されている」
「そのほかは? 判決についてはなにか触れられていませんか?」
ちょっと待て、とジュストが目を細めて判決文を読み進める。と、しばらくしてジュストは声に出して読みはじめた。
「……〝犯行の内容から鑑みれば、ジャックとマリナには極刑が下されるべきである。ゆえに裁判所は、被害者側から刑の軽減を求める訴えがあったものの、絞首刑という判決を下した。しかしこのたびはご領主様のご判断で、被害者側の訴えを重んじ、四年の禁固刑の後、領外追放と定まった〟とある」
「被害者側の訴えって――」
自分は裁判所へは赴いていない。これまでリオネルがけっして近づけようとしなかったからだ。
ならば、刑の軽減を求めたのは……。
「リオネル様は、しっかりとアベルの考えを受け止めてくださっていたということだ」
「わたしが知らないあいだに、裁判所へ行って……」
「ベルトラン様が、リオネル様のご了承なしに行動するはずがない。減刑を訴えてくださったのはリオネル様だろう」
そのようなことをリオネルは、ひと言も言っていなかったし、二人の刑が軽くなることを望んでいるようには見えなかった。
「リオネル様はいつだってアベルの幸せを望んでおられる。アベルもそうじゃないのか? 逆の立場だったら同じことをしたのではないのか」
……きっとそのとおりだ。
「もしかして、すべてわかっていてわたしを裁判所へ?」
「ふと思いついただけだ」
「リオネル様は、どうして教えてくださらなかったのでしょうか」
考え込むアベルに、ジュストは淡々と言った。
「これは推測だが、刑の軽減を訴えても、その訴えが通らなかったときのことを考えておられたのかもしれない」
アベルは軽く眉を寄せてジュストを見やる。
「つまり、刑の軽減を訴えたと伝えれば、アベルが喜ぶことは明らかだ。それなのに結果が絞首刑だったら逆にひどく落ちこむだろう。アベルを落胆させないために、話さなかったのではないか」
目をこすって、アベルはうつむき唇を引き結んだ。
「わたしは本当に子供です。なにも知らず、なにも気づかないで」
「アベルが子供だということくらい、リオネル様はちゃんとご存知だ」
「…………」
「お会いしたときに、お礼を申し上げたらいいだろう。気持ちは伝わる」
アベルはこくんとうなずいた。
+
リオネルが戻ってきたのは、いつもより少し早い時間。
玄関の扉を開けたリオネルを見るや否や、アベルは駆け寄って出迎えた。
「ただい、ま……?」
リオネルのまえでアベルは立ちすくみ、うつむく。
「ごめんなさい」
「――どうしたの?」
リオネルが優しく聞いてくれる。
この人はこんなにも優しい。
いつだって、変わらぬ優しさでアベルに接してくれている。
それなのに自分はどこまでも子供で。
「なにも知らなくて……ずっとひとり、わだかまっていて、ごめんなさい」
アベルの言葉で、なんの件か察したらしいリオネルが、ふっと表情を緩める。
「判決を聞いたのか」
「裁判所まで確認しに行きました」
ちらとジュストを見やってから、リオネルはうなずく。
「そうか、よかった。おれもちょうどさっき知ったところなんだ。真っ先にアベルに伝えようと思っていたけど、もう知っていたんだね」
「ごめんなさい、リオネル様が刑の軽減を求めてくださっていたこと、少しも気づいていなくて、わたしは……」
「いいんだ」
リオネルはほほえみ、アベルの髪にそっと触れた。
「さっき、階下でブリスさんとすれ違った」
アベルは視線を上げる。
「ブリスさんと?」
むろんブリスとはこの部屋の大家であり、ジャックの父親である。
「お礼を言われたよ。刑の軽減を求めてくれて、心から感謝していると。どうしようもない息子で、極刑でもしかたのないことをしたのに、命を助けてくれてありがとう――と、そう言われた。禁錮の四年で心を入れ替え、そのあとは真面目に生きてほしいと思っていると、ブリスさんは祈るように頭を下げたよ」
ブリスの気持ちを思い、アベルは小さく息を吐き出す。
「おれが救ったんじゃない。アベルが救ったんだ」
「――わたしは、なにも」
ただ、二人が死んで終わるような結末が受け入れられなかった、それだけだ。
「あんなことをされて、刑の軽減なんて甘いと思っていた。それでも、裁判所に言いにいったのは、二人のためでもブリスさんのためでもなく、ただアベルのためだけだ」
「…………」
「けれど、気づかされたよ。アベルの思いがブリスさんを救った。あの二人も、それで新たな人生を生きなおすことができればいい。……それによって、おれも救われたんだ」
そのような、だいそれたことをしたわけではない。だからそんなふうに言われると戸惑ってしまう。
「おれはそんなに心が広くない。再び同じことが起きれば、おれはまた極刑を求めるだろう。けれど、今回は――これでよかったのだと思う」
「すみません、その……強情で」
「いや、あらためて思ったよ。二人の死を望まないアベルだから――極刑を望むおれの考えにけっして屈せず二人のためを思うアベルだから、……だから、好きなんだ」
恥ずかしさに瞼を伏せれば、手が背中にまわり、軽く抱き寄せられる。
リオネルを見上げた瞬間、もう片方のリオネルの手がアベルの後頭部を支え、そして目前に影が差した。
近づいたのはリオネルの顔。
唇に触れたのは、柔らかい熱。
やはり唇が重ねられるだけの、けれど優しく情熱的な口づけ。
アベルはどう応えていいかわからず、ただリオネルの唇の温度を感じている。
いつもより長く感じられる口づけのあと、リオネルの唇がゆっくり離れていく。すぐにリオネルは瞼を伏せ、言葉を地面に落とすように言った。
「……ずっとアベルとのあいだに距離があって、寂しかった」
頼りなく響く、かすれた声。
アベルは胸が締め付けられた。
けっして弱音を吐かないリオネルが――普段は感情を表に出さないリオネルが、口づけのあと、このような切なげな表情と声で言ったのだから、どうやったって自分が悪かったとしか思えないではないか。
リオネルの胸に、自分から抱きつく。
「アベル?」
「――ありがとうございます、リオネル様」
ごめんなさいと言えば、きっとリオネルはアベルを庇うだろう。だから、感謝の言葉を口にする。
それから。
「リオネル様のことが、大好きです」
言ってから、かたく目をつむり、リオネルに抱きつく腕に力を込めた。
……ようやく言えた。
リオネルの吐息が髪にかかる。
「よかったな、リオネル。アベルから、最高のお返しだ」
ベルトランの柔らかな声音。
無言で抱きしめ返してくれるリオネルの優しさと力強さに包まれながら、ベルトランの声がどこか遠い場所から響いてくるように、アベルは感じていた。