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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第八部 ~永久の誓いは、ひなげしの花咲く丘で~
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「あの……アベルは元気ですか?」


 敏いジュストである。リオネルとベルトランが裁判所から出てきたことで、なにか察したようだ。


「いや、いろいろあって」


 答えれば、ジュストの表情が曇った。


「アベルになにか……」

「今は無事だ」


 聞かせてくださいとジュストが言う。リオネルは逡巡してから、おもむろに口を開いた。


「昨日、事件に巻き込まれた」

「事件とは」


 リオネルが視線を裁判所へ向ける。


「川へ突き落とされたんだ。体温が下がって危ない状態だったが、なんとか今朝は回復した」

「今はどこに?」

「部屋だ」


 ジュストが眉をひそめた。


「ひとりで大丈夫でしょうか」

「弱ったアベルをここへ連れてくることはできなかった」

「普段リオネル様はアベルといっしょに?」

「いや、仕事がある。今日は休んだが、明日からはまたいくつもりだ」

「そのあいだアベルは?」


 リオネルはベルトランと顔を見合わせる。すると、ベルトランが短く説明した。


「ちょうどそのことを話していたところだ」


 ジュストは苦い表情だ。


「アベルを川へ突き落としたのは、どんな人物だったのですか」

「大家の息子で、ジャックという男だ。まだ理由ははっきりしていないが、どうも彼はアベルを誘って幾度も断られていたようだ」


 川に突き落とされたあとのことも含め、リオネルはざっとジュストに説明する。考え込む様子で沈黙するジュストへ、リオネルは告げた。


「心配をかけてすまない。父上には、こちらが無事だと知らせる手紙をしたためるから、それを伝書鳩で届けておいてくれないか。セレイアック大聖堂に届いたのだといえば、ジュストがあやしまれることはない」

「あの、リオネル様」


 呼ばれてリオネルはジュストを見返す。ジュストは躊躇いがちに口を開いた。


「もしお許しいただけるなら、リオネル様がいらっしゃらない日中は、私にアベルを守らせてもらえませんか」


 リオネルは軽く目を見開く。


「リオネル様がお住まいの場所を探るために申しているわけではございません。その……私自身、アベルのことを守りたいからです」

「居場所を探るためとは思っていない。だが、住む場所を知って報告しなかったとなれば、ジュストは父上を裏切ることになる」

「……アベルになにかあったときこそ、クレティアン様がお困りになるときだと、私は考えています」


 最終的には裏切ることにはならないとジュストは言う。


「なぜ」


 尋ねれば、ジュストは簡潔に答えた。


「アベルは、リオネル様にとって、なくてはならない存在だからです」

「…………」

「クレティアン様にとっても、ベルリオーズ家の家臣にとっても、領民にとってもリオネル様は大切な存在です。そのリオネル様が希望を失われるようなことがあっては、絶対にならないと存じます」


 話を聞いていたリオネルは、ベルトランと視線だけで確認し合う。


「もちろん、ジュストがアベルを守ってくれるのならば、それ以上心強いことはない。けれど、本当にいいのか」

「私はセレイアックに留まっていても、やることがないのです。けれどベルリオーズ邸に戻るわけにもまいりません。ディルク様やレオン殿下には監視がついていますが、幸い私にはつくはずもないでしょう」

「……ありがたい」


 しみじみとリオネルは言った。


「黙っていたことを、あとから父上に責められることがあれば、おれの命令に逆らえなかったと言ってくれ。必ずジュストを守るから」

「そのようなこと、お気になさらないでください」


 ありがとうとリオネルはジュストに礼を述べ、三人はアベルの待つ部屋へと向かった。



 ジュストの顔を見てアベルが驚いたのは当然のこと、リオネルがいないあいだそばにいてくれると聞いてさらに驚いたことは、言うまでもない。






+++






 同じ鍋で煮込む野菜はなるべく同じ大きさに切るのが、味を均一に沁みこませるコツだ。

 塩や香辛料はいっきに入れるのではなく、すこしずつ入れて味をみる。

 同じ野菜でも、芯のある硬いところは先に鍋で火を通す。

 はじめに炒めない場合は、鍋の水が冷たい段階で野菜を入れておくと、甘みが出る。


 ……ジュストは料理について、様々なことを教えてくれた。


 ジュストが作る料理は美味しい。彼は頭も切れ、腕も立ち、そのうえ器用だ。リオネルもそうだが、なにか苦手なことなどあるのだろうか。


 料理をする横顔を感心しながら見つめていると、ジュストは居心地悪そうに眉をひそめる。


「ちゃんと聞いているのか?」

「え、あっ、はい」


 昨日、リオネルが裁判所から戻ってくると、ジュストがいっしょだった。

 リオネルから事情を聞き、アベルは信じられない心地がした。リオネル不在のあいだ、ジュストがアベルと一緒にいてくれるなんて。


 約束通りこの日も部屋へ来てくれたジュストは、あれこれとアベルを助けてくれる。

 要領の悪いアベルに嫌味も言わずに手を貸してくれるジュストからは、以前のいじわるだったころの面影を見つけることが難しい。


 剣を握るのは得意なのに、ナイフで野菜を切るのが苦手なアベルがうっかり指先を傷つければ、すぐに酒で消毒して布を巻きつけてくれる。


「沁みるから、もう野菜は切らなくていい」


 ややぶっきらぼうながらも、ジュストは優しかった。


「ごめんなさい、料理が下手で」


 しょんぼりと謝るアベルを、ジュストはやや気まずそうに振り返る。そう、ここへ来てからジュストはなかなか視線を合わそうとしなかった。

 アベルがあまりに家事ができないので、呆れているのだろう。それなのに、彼は次のように言ってくれた。


「料理ができないのは、おれがちゃんと教えてこなかったからだ。アベルだけが悪いというわけじゃない」


 ジュストの言葉に涙が出そうになる。

 本当に、あのいじわるだったジュストはどこへ消えてしまったのだろう。


「ジュストさん」


 視線を合わせてくれないジュストのそばへ行き、アベルはやや強引に顔をのぞきこむ。

 出会ったころよりずっと身長の伸びたジュストは、目が合うと、ふわりと顔を赤くした。


「な、なんだ」

「ありがとうございます、ジュストさん」


 叱られて当然だったアベルを、今はこうして親切に面倒見てくれる。従騎士の先輩として、同じベルリオーズ家の騎士として、世話になりっぱなしだったが、ここに至ってもなお気にかけてくれているのだ。


 ジュストがいてくれるおかげで、今朝リオネルは安心して仕事へ行くことができた。

 リオネルとベルトランがいなくなった部屋も、今日はジュストがいてくれるから寂しくない。


 心から感謝の気持ちを伝えれば、ジュストはますます顔を赤くした。


「わかった。気持ちは伝わったから、ちょっと離れていてくれないか」

「す、すみません」


 慌ててアベルは身を引く。


「もう邪魔しませんから」


 野菜は切れないので掃除でもしようとすれば、ジュストがすかさず声をかけてくる。


「アベルはまだ一昨日のことがあるんだから、休んでいろ。動き回れることのほうが不思議なくらいだ」


 ジュストの声はやはりどこか不機嫌に響く。


「あの、邪魔しないようにやるので」

「そうじゃない。邪魔とかじゃなくて、おれはおまえの身体を気遣っているんだ」

「でも、ジュストさんに全部やっていただくわけにはいきません」

「いいから」

「これ以上、呆れることはしませんから」

「呆れる?」


 あらためて問い返されて戸惑っていると、ジュストのほうが困惑の表情になった。


「そういうことか」

「え?」

「……おれは呆れているんじゃない」

「でも」


 優しいが、やはりどこか苛立っているようだ。


「あのな」


 ジュストはしかたなさそうに言う。


「おれはずっとアベルの従騎士姿しか見てこなかったんだ。いきなり女性らしい格好をしたアベルが出てくるとは思わなかったから、まだ心の準備ができていない」

「女性らしい格好……心の準備……」

「勘違いしないでほしいが、リオネル様の大事な相手に惹かれるとか、そういうことじゃない。ただ、二人きりのときにアベルがそんな格好でいると、おれだって緊張する。わかったな?」


 わかったな、と言われても。


「……わたしなどに緊張しなくても」


 ぽつりとアベルはつぶやく。

 ジュストは、よほど女性と二人きりになった経験がないのだろうか。いや、ベルリオーズ家きっての秀才従騎士のうえに、顔立ちもいいジュストなら、きっと若い婦人らにもてるだろう。


「わたしなど?」


 ジュストは眉を寄せて聞き返してきた。


「緊張するくらいには綺麗だ」


 思わず言ってしまったという顔だったが、顔を赤くしたままジュストは再び野菜を切りはじめる。


「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」


 顔を赤くしてまでお世辞を言ってくれたジュストが、アベルはなんだか無性に愛おしかった。

 ジュストはこちらを振り返らずに言う。


「とにかく身体が回復するまでおれがやるから、アベルはよくおれのやることを見て覚えるんだ」

「わかりました」


 アベルは素直に食卓の椅子に腰かけ、ジュストの仕事を見つめる。すると、しばらくしてジュストが不機嫌そうにこちらを振り返った。


「あまり見られると緊張すると言っただろう」

「ですが、仕事を見て覚えるようにと言ったのはジュストさんです」

「服だけじゃない、髪型も似合いすぎているんだ」


 不機嫌そうに言う台詞じゃないのでは、とアベルは少しおかしく思う。


「朝、リオネル様が結ってくださったのです。毎朝やってくださるので」


 沈黙してから、ややあってジュストは咳払いした。


「そういうことなら、しかたがない」


 なんだかジュストがかわいく見えてきたのは気のせいだろうか。

 そのあとは黙々と料理を作り、そして用意が終わると今度はジュストのほうがアベルを振り返った。


「アベル」


 真剣な様子なので、アベルも姿勢を正す。


「はい」

「……リオネル様は、心からおまえを愛しておられる」


 なにを言いだすかと思えば――。

 突然の言葉になんと返していいのかも、どんな顔をすればいいのかもわからない。


 照れくさい以上に、責任を感じさせるジュストの言葉だった。


「先のことはおれにもわからない。だが、アベルなしではリオネル様が幸福になられることはないだろう。それだけは、おれにもわかる」

「…………」

「アベル、リオネル様をよろしく頼む」


 アベルは戸惑った。

 自分にはリオネルを支えるような、そんな力はない。


「ずっとリオネル様のそばにいてほしい。ただそれだけでいい。身体を大事にして、自分を大事にして、そしてリオネル様にこれまでどおり忠誠を誓い、どんなときでもそばにいる――それだけでいいから」


 アベルはジュストの真剣な眼差しを見返した。


「リオネル様に必要なものは、ベルリオーズ家にとって必要なものだ。そしてベルリオーズ家に必要なものは、おれにとっても必要なものだ」


 アベルは視線を外して少しだけうつむく。

 するとジュストがさらに言った。


「でもそれだけじゃない」


 軽く顔を上げると、ジュストの眼差しがこちらへ向けられている。


「アベルはおれの大切な後輩であり、仲間でもある」

「……ジュストさん」

「だから」


 言葉を探すようにしてから、ジュストは不意に照れたふうに視線を逸らした。


「……そういうことだ」


 最後の言葉は小さかったが、気持ちは伝わっている。料理を終えたジュストに近づき、アベルはその手を両手で握った。


「これからもよろしくお願いします」

「だからおまえは――」


 顔を赤くしたジュストが不機嫌そうに振り返る。けれどばっちり目が合うと、なにか諦めたようにため息をついた。


「――かなわないな」

「いっしょに掃除でもしましょうか」


 アベルが笑いかけると、おれがやるから見ていろと、ジュストはぶっきらぼうに言った。





+++






 玄関の扉が開く。

 リオネルが戻ってきたのは、まだ完全に空が暗くなりきらぬころ。


「おかえりなさい」


 アベルはジュストから、戦場において従騎士のやるべきことなどを教わっていたところだったが、すぐに玄関のほうへ駆け寄った。


「ただいま」


 安堵の表情を浮かべたリオネルに、ぎゅっと抱きしめられる。リオネルの大きな手で頭からすっぽり包まれた。


「会いたかった」


 素直に気持ちを伝えてくれるので、アベルはくすぐったい。毎回「わたしも」と返せるほど、アベルはこの甘い関係に順応しきれていなかった。


 相手の腕から力が抜けていくので、身体を少し離せば、そっとひたいに口づけを落とされる。


 口づけをされるのはむろん嬉しいが、ジュストが見ていることが気になり、いつもより余計に気恥かしく感じられた。


「あ、あの、今日はジュストさんにいろいろ教えていただいて――」


 誤魔化すように背後を振り返れば、ジュストがぎこちなく咳払いした。


「お帰りなさいませ、リオネル様」


 さっきまでアベルのひたいに口づけしていたとは思えぬほど落ちついた声音で、リオネルが告げる。


「ありがとう、ジュスト。心から感謝している」

「とんでもございません」


 主人から礼を述べられたジュストは、恐縮する様子だった。


「いっしょにご飯を食べていくだろう?」

「リオネル様と同じ食卓を囲むなど、そのような身分不相応なことはできません。私はアベラール邸に戻って食事をとります」

「ここでは、おれはベルリオーズ家の嫡男でも、貴族でもない。ベルリオーズ邸にいたときのように振る舞わなくてもいいし、いっしょに食事をとることを遠慮しなくともいい」

「ですが……」


 ジュストは困ったように沈黙した。


「そうは言っても、難しいだろう」


 助け船を出したのはベルトランだ。

 ベルリオーズ家の騎士らがどれほどリオネルを尊敬し、崇拝にも近い感情を抱いているかベルトランはよくわかっていた。


 せめてご飯くらいいっしょに食べられたら嬉しいのだけど、とリオネルは諦めきれぬ様子だ。


 アベルはジュストの腕をつんつんとつついて、小声でささやく。


「いっしょに食べたら、きっとリオネル様は喜ばれますよ」

「…………」

「わたしを見てください。最初から気にせずいっしょに食べています」


 悪い模範を示さされれば、ジュストは小さく笑った。それから、なにか気が抜けたように尋ねる。


「本当によろしいのでしょうか」

「もちろん」


 リオネルが笑顔で即答すると、ジュストはようやく首を縦に振った。







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